第105話 冷酷なる伯爵(6)
「カイト」
兄さんはカイトに目をやると、エステルを視線で示して言った。
「殺せ」
その命令を受けると、カイトはまるでそんな命令が下されることを最初から理解していたとでもいうようにすぐに恭しく一礼をした。彼は主君である兄さんに対して常に絶対服従を旨とするアディンセル伯爵家の騎士だった。
カイトが兄さんに命じられるままにスラリと腰の剣を抜いたので、僕は驚いて僕の背中にエステルを庇い、彼の前に立ち塞がった。
「まっ、待てカイト、何するつもりだ、そんなの駄目だ、今すぐ剣を収めろ!
今の話を聞いていなかったのか? 兄さんの頭のおかしさが分かっただろう!
彼女は単に妊娠したってことを、勘違いしただけのことじゃないか。そうさ、すべては勘違いだったんだ。だからそれで話は終わったはずじゃないか。
それも、エステルをこんな目にあわせたのは僕でもあるんだ。それなのにそんなことで女性を殺すなんて、とんでもない!
おまえは兄さんの言われるままに人殺しをするつもりなのか!?」
「アレックス様……、いえ、貴方のほうこそ、そこを退いて頂けませんか。
この手で貴方を傷つけるわけには、参りませんので」
「カイト駄目だ、剣を収めろ! 僕の命令だ、僕の言うことを優先しろ!
こんなことで殺せなんて、無抵抗な人間を殺せなんて、まともな人間の考えることじゃないよ!
それに考えてみてくれよ、これはデイビッドが君の家族にやったことと、まったくおんなじことだよ!
それなのに君は……、君は彼と同じことをするって言うのかっ!? そのことに、何も感じないって言うのかっ!?」
「……感じません」
「どうしてだよっ…! そんなの、そんなのおかしいよっ……!」
僕の命令のほうがカイトに対して建前上は強制力があるので、カイトは少し戸惑った顔をしていた。しかしカイトがそれ以上の意思表示をする前に、兄さんは言った。
「カイト、どうした。殺せ。アレックスの代わりに泥を被るのがおまえの人生だ。
デイビッドのところからおまえを引き取ってやったとき、私はまずおまえにそう教えたな。それともまたあの地べたを這いずるような人生に戻りたいのなら、それでも私は構わんよ。おまえは薄汚い溝ねずみもさながらだったな。卑屈に這い蹲って、義妹の靴を舐め、尊厳のない人生。哀れなものだった。
そして我が家のアレックスと違い……、おまえ程度の代わりは、幾らでもいる」
兄さんにそう言われ、カイトが表情を引き締めた。それで僕は、彼が覚悟を決めてしまったということが分かった。
これ以上はカイトに言っても無駄だと思った僕は、カイトにエステルを殺すことを指示している兄さんに直接、カイトが行おうとしているこの殺人の罪の重さについて訴えようとした。
ところが兄さんは呆れた顔で僕を見た。
「アレックス。おまえは何を思い違いしているのだ」
「思い違い……?」
兄さんは僕の未熟さを嘲笑うような表情をしていた。
「そうだアレックス、思い違いをするな。
確かに手を汚すのはカイトだが、責任を持つのは主であるおまえなのだ。この殺人をカイトに命じるのはおまえだ。そしてその罪や咎を引き受けるのもカイトではなくおまえだ。おまえがエステルを殺すのだ、カイトではなく、おまえが殺すんだよ。おまえがこの女の不実を断罪するのだ。カイトは只の駒に過ぎない」
「僕が…?」
「そうだ。おまえがだよアレックス。それが人の上に立つ人間というものだからだ。
まさかそんなことも分からずに、おまえは騎士を名乗っているのではあるまいね」
「そんな……、そんなの嫌だ。僕がそんなことを命じるわけがないよ!
僕は兄さんとは違うんだ。僕は兄さんみたいにはならない!」
「嫌じゃないんだ、アレックス」
「嫌だっ、嫌だっ」
「アレックス。男なら、しでかしたことの責任は取れ。おまえはエステルが私の女だったことを知りながら遊んだ。私の不興を買うことを予想できなかったとは言わせんぞ。
私はおまえの優しい兄ではあるが、主君でもあるのだ。主君に不快感を味わわせ、働いた無礼の弁済する必要があることは分かるな」
「だったらどうなんだっ、主君だの兄だの、そうやっていつもいつも勝手を言うなっ!
僕は兄さんの思い通りにはならない。絶対にならないからなっ!」
「アレックス」
「僕は兄さんの思い通りにされる子供じゃない!」
「アレックス、これ以上増長することは許さんぞ」
「それはこっちの台詞だ。これ以上言うなら、僕が死んでやる!」
僕がエステルを庇って兄さんを睨みつけると、兄さんは忌々しそうな顔をして深く息を吐いた。
「まったく、この子供は……。さすがの私も今は甘やかしすぎた自分を責めたい気分だ。
いいだろう。主君の意に逆らえばどうなるか、おまえも一度、しかと思い知る必要がありそうだな」
兄さんはそう言うと、こんな状況であるにも係らず自分の傍らで妖しく微笑んでいるルイーズの頭越しに、少し離れた場所で冷静にしているジェシカに目をやった。
何をするつもりなのか、僕が息を飲んでいると、兄さんはジェシカに対してこんなことを言い出した。
「ジェシカ、あの小娘を殺して来い」




