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伯爵の恋人  作者: 吉野華
第9章 冷酷なる伯爵
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第104話 冷酷なる伯爵(5)

「ギルバート様、わたし、わたしなら、貴方にどんな問題がつき纏っていようと構いません。たとえ死んだって構いません。貴方のお傍にいられるのなら、わたしはこの生命をすべて貴方に捧げますっ……!

貴方にどんな事情があってもいい、貴方がどんなに冷たくて、残酷だって構わない。わたしだけを愛してくれなくたって構わない、でもわたしは、これからもずっと貴方のお傍にいたいの、貴方を愛しているの……!」


エステルは、先ほど妊娠したと言って僕の前で泣いていた顔とはまた違う、何とも健気で献身的な女の顔で兄さんに訴えていた。


「言い訳をすれば、アレックス様と寝たことだって、本当は貴方の傍にいたかったからなんです!

アレックス様の子供が出来れば、彼ならきっと結婚してくれると思ったから……、アレックス様と結婚できれば、一生貴方のお傍にいられるかもって、貴方の妻にはなれなくても、家族にはして貰えるって、そんなことを思って……、だからいけないと分かっていたけど一晩だけ……。

でも、でも後からすぐに考え直したんです、アレックス様に抱かれても、ちっとも幸せじゃなかったから、それに気持ち悪くて、わたしはギルバート様じゃない人では本当に駄目で、だから一生こんなことは耐えられないって思って……。

でも……、もう貴方のことを忘れなくちゃって思っていたある日、体調の変化に気づきました。正直に言えば、ギルバート様の子供か、アレックス様の子供か、わたしにもよく分からなかったけど、でもわたしはきっと貴方の子供に違いないって思ったら、もう気持ちを抑えることができなかったの。

このことをアレックス様に言ったことは、自分でもずるかったと思うわ。

でもそれは、そんなことを貴方に言ってもきっと取り合って貰えないと思って、だからっ……、だからアレックス様に言ったの、それだけのことなの……。アレックス様を愛しているからじゃないわ、単に話を聞いて貰えると思ったから。

ギルバート様、わたし、貴方を騙すつもりじゃなかったんですっ、ただ貴方のお傍にいたかったんですっ。本当に子供が出来たと思ったんですっ、今だって想像妊娠だなんてそんなことを信じることはできないわ。だって本当にわたし……、貴方を愛しているんですもの……!」


僕との性交渉が、兄さんに劣るどころか、気持ち悪いと断言されて、僕がどれほどショックを受けたかなんてことを、表明できるような場面じゃないことだけは確かだった。

エステルは兄さんをみつめ、いまやこの場所に兄さんと彼女の二人きりであるかのような顔をして、兄さんを見上げていた。

そして兄さんに対して向けられている彼女の言葉は、それこそが彼女の真実の言葉なのだろう。結局は僕のことを何とも思っていないことが端々から窺えたし、今度もやっぱり僕を利用したのかと思うと少し悲しかったが、こんなふうに自分の愛情を誰かに訴えることを恐れないエステルのことを、僕はどう受け止めていいかさえ分からない気持ちで、ただ眺めていた。

あまりにも潔く兄さんだけを愛していることや、そのために僕を利用したことを認めているエステルに対し、確かに腹立たしいものがないと言えば嘘になるが、外見がシェアに似ているからという理由で彼女と寝た僕に、エステルを責める資格なんてあるはずもない。

汚れてしまった自分を自覚しながら、僕は黙ってこの問題の行く末を見守っていた。


「ギルバート様、貴方がときどき寂しそうなお顔をされていたその理由が、そんな悲しい事情のためだったとするなら、正直に話してくださればよかったのよ」


エステルは、勇ましい顔で、笑顔で、不安に瞳を震わせながら、それでも一生懸命になって兄さんに語りかけていた。


「きっと逃げ出す女だってたくさんいたでしょうけど、わたしなら、たとえどんなことがあったって、貴方の傍から離れるようなことはしなかったわ!

ギルバート様、貴方は人間を……女を信じることを恐がっているのよ。だから女を馬鹿にするようなことを言ったり、気持ちを試すようなことをして、すぐに心を閉ざしてしまうの。本当は悩んでいることを打ち明けたり、もっと親しくなったりしたいと思っているのに、どうせ信用できないって諦めて、そして本当の愛情というものから目をそらしているんだわ……。

ねえ、それは、貴方のお母様が幼い頃に死んでしまったことが今でも重く響いているからなんじゃないかしら。誰かに見捨てられるって気持ちが、お強いはずの貴方の心の中に、今でも残っておいでだからじゃないかしら。

でも……、そんなふうに誰にも心を閉ざさなくたっていいのよ!

わたしは貴方にとっては未熟かもしれないけど、誰よりも貴方を信じているし、誰よりも貴方を愛しているわ。

貴方にどんな事情があっても、わたしは貴方の傍を離れない!

だから、どうか心を開いてください、わたしは貴方を愛しているんです……!」


兄さんはそんなエステルの訴えを、まるで意外なお顔をされて見つめていた。

僕は兄さんが強くて完璧な大人だと思いはしても、弱いはずがないと思っていた。だから兄さんもまた母上に見捨てられたような気持ちをお持ちだなんてことを何度聞かされたところで、これはにわかには信じられないことだった。

兄さんが父上よりも、母上のことをずっと愛しているということについては知っていたが、いつでも誇り高く毅然としている兄さんが、僕のように寂しかったり、悲しかったりすることなんて、そんなことは僕は考えてみたことすらなかった。

だけどエステルはそのことをずっと深く知っているようだった。本当に愛していなければ、赤の他人の心の事情なんかをそこまで深く想像し、分かち合おうと働きかける理由なんかないだろう。

だからエステルは、本当に兄さんを愛しているんだろうと思った。

兄さんの心の琴線に触れる言葉であったに違いないエステルの訴えは、しばしの沈黙を兄さんや、執務室にいる僕や他の人間たちの間にもたらした。

だけど、僕はもしかしたら兄さんがエステルの愛情を受け入れるんじゃないかとさえ思っていたために、兄さんの次の反応には本当に言葉を失うことになった。僕の兄さんの血の色は、赤いのかどうかさえ分からなくなるほどだった。

兄さんは愛を訴えるエステルの言い草に噴き出し、それから軽蔑に耐えない目で彼女を見た。


「ああ、そうか」


兄さんは、エステルの嘆願などどうでもいいことのような顔でそう返事をした。


「それはそれは。まるで純愛だ。なるほど運命の恋とでも言うのかね? ロマンチックで甘ったるい恋愛物語のような展開がこの先の未来に潜んでいることに胸を熱くしたくなる感動的なお話だ。そう例えば、私がおまえの手を取り悔悛の涙でも流すストーリーをお望みか? 真実の愛に気づかず心を凍らせた男の人生を、おまえがその手で救うというわけだ。

慈愛の皮を被った吐き気がする自己愛に満ち……、まったく、これだから女は! くだらん自己満足を私に受け入れろとは心底吐き気がする!

エステル、おまえが私のことをどのように勘違いしているか知らんし、そんなことは私の知ったことではない。おまえが何を考えていようと、それはもはや私の問題ではないからな。

只ひとつ言えることは、おまえが相当に無教養な馬鹿女ということだ。私が他人に操られることやそれと感じることが嫌いだとたったいま言ったことを、まるで理解していないのだから呆れ返る」


兄さんは澄まし、部屋の中を少し歩いた。


「おまえと関わりを持ったことは、当初よりアレックスについた悪い虫を、取り除いてやろうと思っただけのこと。

少なくともこの子供に最初にあてがうべきは、何でも従順に言うことを聞く、自我のないような女でもなければ負担になるだろうと思っていた。それなのにおまえのような厚かましい女では、アレックスに悪い影響を与えかねないからな。

だがおまえの金髪は素晴らしかったぞ。魂胆は見え透いていたが、アレックスから引き剥がすついでに、素知らぬ顔で少し相手をしてやろうと思ったほどだ。

しかし悪いが最初からそこに深い意味などない。若い肉体は堪能させて貰ったが……、女の身体などというものは、所詮どれも似たようなもの。

会話を楽しめる知性も、鑑賞に堪える美貌も、尊敬すべき人間性もないおまえのような下品な女には、それ以外には何ひとつ価値などないからな。

よってこのまま立ち去れと、言ってやりたいところなのだが……」


エステルは、顔を歪めて彼女の愛を嘲笑う兄さんのことを、非難するでもなく、涙をためた目でただ見上げていた。

兄さんは、どちらかと言えば兄さんの冷淡さにこそ当惑し、呆然として兄さんを見ている僕の顔をちらと見てから、こう続けた。


「この子供の傷ついた顔を見ろ。可哀想に、我が弟の人生に、この私が大切に育ててきたこの繊細で美しい子供にだ、私の許可もなしに二度も耐え難い苦痛を与えたおまえを、もはや逃がすということはない」


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