第101話 冷酷なる伯爵(2)
「アレックス」
兄さんはまた僕に鋭い視線を向けた。
身長だけなら僕とそう違うわけではないのに、ただそこに存在しているというだけでどうしてこれほどまでに相手を威圧し恐怖を与えることができるのか、その場にいる全員に、彼には敵わないと速やかに確信させるものが何なのか、僕にはまだ分析することができずにいた。
「申し開きをせずそうやって突っ立っているのは、もはや言い訳ができんほどに、自分のしでかしたことに罪の意識を感じているということなのか。それとも、小賢しいおまえのことだ、私の叱責や事態の紛糾を回避するべく、今まさに計算の最中なのか。
だが無駄なことはするな。私にはすべて分かっている。おまえがこのあばずれとどういう関係を持ち、今まさに何が起こっているかということも。
事態に窮したおまえが、馬鹿の一つ覚えのようにまたしても結婚を思いついたことも」
「兄さん、僕は……」
「まったく私が手をつけた女に手をつけるなどとは、おまえも浅はかなことをする。
アレックス、私はおまえというのはもう少し思慮分別のある子供だと思っていたのだがね。
目立った反抗期もなく大した悪戯もしないおとなしい子供だと私はときに不満に思っていたが、これはいきなり大きな問題を起こしてくれたものだ。アレックス、おまえも雄だったということなのかね? だがこれはあまりに不快だ」
兄さんはこめかみに指先を置いて、僕を見た。
「不快だな。そうだろう」
兄さんの態度が強いので、僕は同意させられた。
「そう、不快だ。不愉快ではなく、不快。
私はこの種の汚らわしいことが嫌いでね。どうにも。虫唾が走るほどに」
兄さんはほとんど独り言のように、しかし心底嫌そうに言った。
「この間までおとなしく人形遊びをしていたかと思えば、これはやらかしてくれたものだね……、これはお仕置きものだなアレックス。私はおまえと女を……」
ふと、上品な兄さんともあろう方が舌打ちをしたのを、僕は聞き逃さなかった。何ということか、彼は苛立っていて、本気でこれを不快だと思っていたのだ。舌打ちのとき、兄さんがその綺麗な顔を、非常に憎々しげに歪めたのも僕は見逃さなかった。そう言えば兄さんが以前、乱交は汚らわしいとか何とか語っていたことを思い出した。あれは紛れもなく彼の本心だったのだ。
となればもしかすると、これは兄さんの踏み込んではいけない領域だったのではないか、そう思った僕は不安に駆られ、もはや怯えを隠さない子供の上目遣いで兄さんをみつめた。
それがカイトですら胸倉を掴みたくなるようなことなら、気性の激しい兄さんであれば何をするだろうと思ったのだ。
すると、どうやら僕が単純にお仕置きという言葉にでも反応したと思ったらしい兄さんが、多少僕に保護者のような目を向けてこう続けた。
「……とにかくだ、不本意な結婚をすることはない。よもやおまえと女を共有するはめになるとは思わなかったが。まったく汚らわしくてならん。であるならばなおさら結婚などとんでもない」
「でも兄さん、僕は……」
「駄目だ」
「でも、でも僕には責任が」
「アレックス。私が駄目だと言っているのだよ。だからこの結婚はなしだ。そうだな」
兄さんは僕が言う前に、また僕に対して強力に念を押した。
それで僕は更に戸惑って、とにかくエステルが僕の子供を妊娠していること、だからどうしても結婚の必要があることを順を追って兄さんに説明しようとした。
しかし兄さんはそれよりも先に、僕の側にいるカイトに視線を移した。それはまるで僕の話など、所詮子供の戯言とでも言うような素振りだった。
「カイト」
「はっ」
突然名前を呼ばれて、カイトは全身に緊張を走らせ素早く恭順の姿勢を兄さんに示した。
兄さんはこれまでの経緯を弟の僕にではなくカイトに訊ね、カイトは概ね客観的にこの午後の出来事を兄さんに報告した。
兄さんの僕に対する子供扱いは、しばしば見られるものではあるのだが、僕を目の前にしていながら僕よりカイトを信用する気なのかと、これにはかなり面白くないものを感じた。でもきっと当事者外の意見を知りたいのだろうと自分に言い聞かせた。
「ルイーズの報告以上に酷いな。ルイーズはアレックスに甘いということを勘案してもだ。反論のひとつもできんとは……」
カイトから話を聞いた兄さんは、やがて苦い顔で僕を一瞥した。
カイトは僕が謝罪を口にしたことや泣きかけたことは言わなかったが、執務机について終始うつむき加減であったことや、臨機の処置が取れず、カイトに何等建設的な指示命令ができなかったこと、毅然とした態度を保てなかったこと等を兄さんにばらしてしまったのだ。僕は頭に来て、おまえは誰の部下だと言いたかったが、それより先に兄さんが僕を見て言った。
「アレックス。教えられたことしかできんというのは、そろそろ卒業しなければな。いつでも自分の頭で考えろと言ったろう」
「カイトが任せろって言ったんだ……」
「本当に全部任せてどうするのだ。話の内容から、これはカイトには裁定できん問題だということが分からなかったか。おまえの命令がなくてはどうにもならんということが。
それともアレックス、おまえは生涯保護を要する姫君なのかね。馬鹿者」
兄さんの言い分はまるでカイトを庇ってさえいるようで、僕はもう少しでカイトのほうが可愛いのかという言葉が出そうになったが、さすがにそれは飲み込んだ。
「僕は馬鹿じゃないんだ……」
兄さんは僕の呟きを目の前で無視した。
「カイト、おまえもアレックスに強く進言するという形をとるべきだったな」
次に兄さんはカイトにも鋭く目を向けた。
「これには問題の荷が重いと判断した時点で……、おまえのことだ、どうせすぐにそう判断していたのであろう。であるならば、アレックスにおまえの意見を全面的に採用させるその努力をするべきであった。
この汚らわしい問題をどう対処するが最善か――、私はおまえにそうした献策行為を認めているはずだな。
第一、この程度のことをいちいち持ち込んで来られては、私を煩わせることになると思わなかったかね。その甘さが、おまえの生命取りになることを自覚せよ」
兄さんが言うと、カイトは恐縮して頭を下げた。
「申し訳ありません、閣下。しかしながら平民出である私の判断では問題があまりに重大……」
「私は有能な人間の出自を問わない」
兄さんははっきり言った。
「それは資源の浪費というものだ。私は合理的でないことが嫌いなのであって、階級制度によって虐げられている者たちの味方というわけでは断じてないがね。
おまえが裁くには重大すぎる問題であるからこそ、アレックスにそれを促せと言っているのが分からんか。私はおまえの判断を信用すると言っているのだ」
カイトはいっそう深々と頭を下げた。
それを見て兄さんは短く息を吐いた。
「おまえの貴族階級への帰属意識のなさは課題だな。謙虚さが美徳とは限らんぞ。特におまえのような出自の者は、何をしても叩かれる。まして同年代の中では出世株だ、不当な誹謗中傷に神経を擦り減らしていることも知っている。
だが所詮連中はおまえ以下ということだ。この私が選抜した以上、おまえには己の能力に自信を持って貰わなくては困る」
そしてまた兄さんは僕に注意を向けた。
「アレックス。聞いていたか。おまえは親友の言葉に耳を貸さなかったようだが、これは勉強しかできないおまえにとって諮問役となる男だ。お調子者だからとて、只の協賛機関だと思ったら大間違いだぞ。
おまえの得意な綺麗事だけでは物事が通らないとき、カイトの意見は役に立つ。おまえの精神面の脆弱さについても同様だ。学ぶべきところは学ぶのだ。彼は何も腕が立つだけのボディガードじゃない」
「兄さん、でもエステルは妊娠しているんだ。僕が……させたんだ……」
「そうか。だったらどうなんだ? そんなことはまったく大したことではない。
平民女が妊娠したところで何故おまえが思い悩む必要があるのだ。豚が妊娠したのと変わらんよ。おまえが深刻になる理由が、私には皆目分からんのだがね」
僕は、改めて兄さんのこうした価値観についていけないと思った。女性を妊娠させたことが大したことじゃないという兄さんの価値観をどうやったら覆せるのか、そんなふうに考えている兄さんにどうすればこの重大な問題を理解させられるのか、何も分からなくなって僕は黙り込んだ。




