第100話 冷酷なる伯爵(1)
そして僕とカイトとエステルは、アディンセル伯爵執務室を訪れた。
楓の紋章の扉をくぐると、アディンセル家当主のための広くて豪華な部屋が視界に開けた。
兄さんはちょうどお出かけになるところだったようで、大柄な身体に黒い外套を羽織り、兄さん専用の一際立派な執務机の前のところで同じように出立の準備を整えてあるジェシカやルイーズと何かを話し合っていた。
それに何か問題が起こったことを思わせるようなとても緊迫した空気が流れていて、僕は気後れした。エステルとのことが、ルイーズの千里眼の魔法によって予めばれている可能性は高かったのだが、しかし三人揃って出かける支度をしているというのが、何か他の理由の存在も示唆している。
いずれにしても、これは報告を後日にしたほうが円滑に事が運ぶのではないかということを、確信できるほどのご機嫌の悪さだったのだ。
それで僕はカイトに引き返すべく目配せをしたが、兄さんが僕の訪問を見逃すつもりはないようだった。
「帰らんでいいぞアレックス」
重々しく、北風のように厳しい調子で兄さんは言った。その兄さんのお言葉に従うように、執務室前に詰めている護衛騎士たちが、僕らの後方の扉を固く閉ざしてしまった。
「おまえが何しに来たのかは分かっている」
兄さんは傍らで微笑みを浮かべているルイーズを示しながら言った。
「が、ここは一応、話を聞く。言い訳をな。
しかし私はこれから急ぎウィシャート公領へ発たねばならん。手短に済ませるぞ」
そして兄さんは目を細めて、僕のやや後方にいるエステルにも視線をやった。
彼の威圧感はいつもにも増していて、兄さんが完全に頭に来ていることは分かっているのだが、何に頭に来ているかなんてことを、考える必要もないほどにすべてに頭に来ているような恐ろしさだった。
僕がジェシカの顔を見ると、すべてを諦めているかのような虚しい視線だけが返って来た。僕のことを、少し軽蔑しているニュアンスが窺えたのは、僕がエステルと何をしたかということについて、ルイーズによって既に知らされているということを如実に表していた。それで真面目な彼女は呆れてしまっているというところなのだろう。
こうして僕は、さっそく兄さんに言い訳をするための大切な味方を一人失ってしまったことを知ることになった。
「ウィシャート公爵様のところにお急ぎなら、僕の話はまた改めてということでいいです。急ぐ話ではありませんから。兄さんの用事を優先させてください」
僕は怖々として言った。
「トバイア様が危篤だ」
兄さんはその強い視線を僕から離さずに、彼のほうに起こっている問題を口にした。
「まだ詳細な事情は分からないが、暗殺未遂と思われる」
言葉の内容とは裏腹に、それはさも何でもないことのような言い方だった。
「暗殺未遂ですって? そんな、いったい誰が……」
僕が言うと、兄さんは艶やかな微笑みを浮かべた。
「多方面から恨みを買っているからな。あの男も。いっそ死ねばよかったのだが」
「えっ…」
僕は兄さんがウィシャート公爵を慕っているものとばかり思っていたのに、兄さんの口ぶりは冷淡で、公爵様の不幸を楽しんでさえいるようであり、そこからは彼に対する同情の欠片さえみつけられなかった。
「犯人は、奥様かしら。それともあの素敵な王子様かしらね」
まるで楽しい旅行の計画でも話しているかのような口ぶりで、ルイーズがしゃしゃり出た。
それを、兄さんが少々わざとらしいような口調で窘めた。
「いかなる理由があろうとも、我らが崇敬するフレデリック殿下を貶めるようなことを言うべきではない。たかだか傍系王族を害したのが、我らが唯一諸手を挙げて推輓する輝けるセリウス三七世、次期国家君主たるフレデリック王子殿下かもしれないなどとそんなことを、軽々しく口にすべきではない」
「承知致しましたわ、伯爵様」
「それに、部外者が約一名混じっている。こうした情報を知る必要もなければ、理解できる頭もない部外者が」
そして兄さんはエステルのことを冷たい、本当に凍るような目で再び見下ろした。エステルは普段の彼女そのものの態度で、可愛らしく僕の背中に隠れたが、それすらも兄さんの神経に障ったようだった。
エステルのここに到着するまでの強気は、完全になりを潜めていた。彼女には彼女なりの何か考えがあったのかもしれなかったが、兄さんがこんなに怒っていたら、下手なことは何も言えなくなってしまったのだろう。僕も似たようなものなのだが、可愛く振る舞う以外には、何も思いつかないに違いない。
「エステル……だったかな?」
兄さんは、白々しい口調で言った。
「そうまでして財産にしがみつきたいのか? この、売女が……」
兄さんの口調に怒りが帯びた。それでもなお音楽的な美しい声であるだけに、それは否が応にも人の心に響きやすかった。
長らく兄さんの側に仕えているジェシカが、危険を察知するレベルだったのだろう。彼女は室内にまだ残っていた文官や召使いたちに対し、速やかに退室するよう人払いを始めた。
その姿を目で追いながら、僕がどれほど逃げ出したかったかについて、語るべくもなかっただろう。