第1話 伯爵の恋人
僕が初めて恋した相手は、伯爵である僕の兄さんの恋人だった。
彼女は金色の髪の綺麗な人で、譬えるなら芍薬の花。
勿論、僕は遠くから眺めているだけでよかったんだ。気持ちだって誰にも打ち明けなかったよ。
僕と兄さんは十二歳も年が離れていて、僕が子供の頃には兄さんはもうアディンセル伯爵家の若い当主だった。聡明で優秀で優しくて、皆に尊敬されていて、僕にとっても兄さんは本当に憧れの存在だったから、兄さんの大切な人を奪ってしまいたいだなんて、そんなことは想像することさえ憚られたんだ。
ときどき彼女と話をしたり、一緒に遊んだりできるだけで、僕はとても嬉しかった。
でもあるときから、彼女の姿を城で見かけることがなくなった。
不思議に思った少年の僕は、ある日庭園の花の庵でお茶を楽しんでいた兄さんにこうたずねた。
「兄さん、最近シェアを見かけませんね」
すると兄さんは答えた。
「シェア? ああ…、あのあばずれか」
清廉であるはずの兄さんの唇から、あばずれなんていう不穏な言葉が返ってくるとは思わなかった子供の僕は、身じろぎもできずに息を飲んだ。
するとそのことに気がついた兄さんは、僕を安心させるために少し笑ってこう続けた。
「彼女なら、この城を去ったよ。何と言うか、まあ、別れたんだ」
だけど本当は、あのとき兄さんは彼女を始末したのだと、随分後になってから兄さんの側近が漏らしていた。
それは年末に恒例の連夜のパーティー行脚の最中、酒が抜けきらないうちに翌日の誰かのパーティーに出かけるという若い貴族たちにありがちな強行軍の合間に、あたかも何でもないことのように打ち明けられた話だった。
兄さんはそれまでにもシェアをはじめとする複数の女性と交際を重ねていたが、どの女性とも意外と長続きしないことは僕も知っていた。
兄さんの側近が言うには、兄さんは後腐れのない関係を好む割には、情が深く、丁寧で清楚で真面目な女性を好むために、女性たちは当然兄さんとの交際の先に未来を求めたがる。けれども兄さんはそうした女性たちの希望を面倒だと感じ、ある程度関係を楽しんでしまうと決まって彼女たちを捨てるのだそうだ。
僕にはあの優しい兄さんが、そんなことをするなんて、とても信じられなかったけど……。
「勿論、金を支払って解決した場合も多かったですよ。それも通常の手切れ金としては考えられない額の小切手をね。
でも彼女はそれでは納得しなかったんです。ですから、極めて後味の悪い顛末と相成った次第で」
その晩、同じ馬車に乗り合わせた兄さんの側近は、そう言ってうんざりだといったふうに肩を竦めてみせた。
「そうだったのか……」
爛れた大人の社会に足を踏み入れたばかりだった僕は、その残酷な話の内容に、正直言ってとても戸惑っていた。
そんな僕を気遣うような調子で、側近は続けた。
「だったら娼婦を買えばいいだろうとアレックス様は思われるでしょう。私もどちらかと言えばそう思うんですが、しかしギルバート様はそうじゃないんです。あの方はどうにも、そうした女性たちを嫌っておいででしてね。潔癖と言うんでしょうか。
それはまあ、あの方がお選びになる女性にもこよなく反映されるほどで。大抵、ギルバート様がお選びになるのは色も手垢もついていない純情な女性ばかりでしょう。世の中のことも、男のことも何も知らないようなタイプですよ」
「うん、シェアもそんな感じだったね。年上なのに素直で可愛かった」
「しかしそういうのは一度男を知ると、それ以外には何も見えなくなってしまう。
彼女らはこちらの予想に違わず従順に、ギルバート様のことを白馬の王子か何かだと思い込んでしまうわけです。ギルバート様はそれがいいんだと仰せですがね。結局はそれが重くなって逃げ出すくせに……。
ときには、その後始末をさせられるこちらの身にもなって欲しいものですよ。
貴方の母親のときだって、貴方を出産されたすぐ後にギルバート様が、と……、ああ、いやいや、これは。弟君にお話しするべきことでもありませんでしたな……」
そして側近は、殊更に酔いがまわっているような素振りをしてみせたが、僕はその言葉を聞き逃さなかった。
そのとき僕は、十九歳だった。兄さんは三十一歳。
この側近は、いったい何を言っているんだ?
この僕は兄さんが、十歳かそこらの頃の子供だって言いたいのか?
わざとらしく酔いつぶれているような演技をする側近が、心底から酔っ払っていることを信じて、僕は馬車の外の夜景に目を移した。目的のパーティー会場はもう程近いようだ。雪が宵闇にちらちらと舞い、ライトアップされた古城が夜の中に浮かび上がって、幻想的な冬の情景が窓の外に広がっている。
「そんな馬鹿なこと、あるはずがないだろう」
世間には少なくとも温厚なことで通っている僕は、冗談めかしてそう呟いた。
この側近は名前をジェシカと言い、兄さんが幼少の頃から彼に仕えている昔からの腹心だった。
堅実にして忠実、滅私奉公という言葉が彼女ほど似合う人間を僕は知らなかったが、本当は彼女こそが誰よりも兄さんを愛しているということを、僕は知っていた。
彼女が兄さんが恋人だと言って時折連れて来る、すべての女を憎んでいることも。
瞼の裏に、今でも甦るシェアの姿……。
シェアはもう、彼女が言うように、本当に死んでしまっているのだろうか。
もしそうなら、果たしてあの美しいシェアを殺したのは、僕の知らない兄さんの非情さか、それとも浮名を流し続ける兄さんをそれでも想い続ける、ジェシカの哀しみのどちらだったんだろう。
僕は冷えた窓ガラスの向こう側に舞い落ちる雪の姿に、あまりにも世界が清らかだった少年時代の象徴である、恋しいシェアを重ねてため息を吐いた。