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1day over 

作者: 結城紅

1day over

           結城紅


 高校一年の春、僕は中学から一緒だったクラスの女子、天宮凛子に恋をした。

 人の心とはなんとも言い難いもので、筆舌に尽くしがたい得も言われぬ感情がグルグルと逆巻いていた。時に安定の白、時に落胆の黒。ホッとしたり驚いたり、恋は感情を豊かにしてくれた。

 そして同年の夏。僕は思い切って彼女に告白をした。結果は0K。両者共に互いに恋心を抱いていた。

 それからの一年というものの、楽しいことづくめだった。初めてだらけの世界に迷ったりもしたけど、互いに支えあって難なく乗り越えることが出来た。

 季節は輪廻の如く巡る。秋、冬、春。長いようで短かった時間は幸福に満ちていた。

 温かな日差し、桜が咲き乱れ花弁が空を舞う。予見されていた春の訪れは高校二年になった僕の心を軽やかに弾ませた。

 僕も彼女も浮かれていた。それ故に気づけなかった。悲劇の引き金を。

 春、入学式を終えた僕はバイトが入っていたため凛子と別々に帰った。今思えば、僕は何故彼女についていかなったのだろうか。苦渋の後悔は苦虫を噛み潰したように苦く、心の底に凝りを残した。

 彼女は帰り道、背後から近づく車に気付けずに撥ねられた。幸い命に別状はなく、傷自体も数ヶ月で治るという。

 だが、悲劇は何の前触もれなく幕を開ける。

 僕は慌てて見舞いにいった。命は無事だと聞いても、居ても立ってもいられなかった。

 病院内の白磁のような壁を後方に受け流し、階段を一段飛ばしに跳んで彼女の病室へ駆け込んだ。


「凛子!」


 誰何する声は彼女をこちらに振り向かせ、端正に整った顔が、無垢な瞳が僕を覗く。幾度となく僕のことを『好き』と言った唇が震え、弾かれた銀線のように細く、綺麗な声が紡がれる。

 鋭利な言の葉と共に。



「貴方……誰?」


「え……?」


 時が止まったように思えた。

 彼女は『記憶喪失』を起こしていた。

 脳の記憶を司る海馬というものに重度の衝撃があったようで、彼女は記憶を失ってしまったのだ。恐らく記憶は戻らないという。

 僕は声を上げて泣いた。みっともなく、彼女の目の前で。彼女の友人も、僕の知人も、彼女を知る者は、凛子との関係を一からやり直すことを決意した。

 しかし、悲劇は止まることを知らない。

 翌日の夕刻。高校から凛子の病室へと直行した僕は信じられない光景を目の当たりにした。


「貴方は誰ですか……?」


 扉を開くなり掛けられた声。僕を何者かと誰何する声は、あからさまな警戒心が滲んでいた。凪ぐことのなかった風が心に吹き荒れ、水面が揺れて波紋が広がる。傷心中だった心に放射状の亀裂が入った。

「ほら、僕だよ僕。伊原広司。昨日会ったばかりじゃないか」


「……? 言っていることが分かりません」


 愕然とした。彼女の言葉遣いに。ひとつひとつの言葉に、猜疑心に満ちた表情に。

 まるで昨日会っていなかったような言い草。いや、昨日会ったことを覚えていない言い方。

 そう、彼女は[一日毎に記憶を失くす]。


 その事実が発覚したのが一週間前。僕を含め、皆一様に喫驚した。しかし、現実に疑う余地は一片も見当たらない。僕達は是非もなく現実を受け入れるしかなかった。

 今までの時間も、これからの時間も全て失うという、残酷な選択を。




「いらっしゃいませー」


 隣に屹立する茅野かやの佳子けいこが覇気のない、怠けきった声を上げた。

 すかさず横から糾弾の声が上がる。


「あらん、ダメよぅ、佳子ちゃん。ほら、もっと愛想よく」


 40代のナリをしたおっさんが身体をくねくね捩りながら注意を喚起した。

 注意された当人はハッと、一笑に付した声音で容貌魁偉のおっさんを退ける。


「十分やってます」


「それでももうちょっと頼むわよ~。こっちはお金を払ってるんだ・か・ら♡」


 僕の左隣で食器を洗っていた旭田あさひだ正樹が「うへっ!」と情けない声を漏らした。その気持ちはよく分かる。

 店長であるおっさんの言葉遣いに悪寒を感じつつも僕は皿洗いを続ける。


 ここは僕のバイト先である喫茶店『おなわ』。40のオカマが経営する小さな店だ。店の名前の意味はおなわ、つまりお縄であり一度入った客は縄で縛り上げてでも帰さないということらしい。実際、店長があんな感じなので客足はバイトの僕たちが入るまで皆無に等しかったらしい。

 バイトの僕と茅野佳子、旭田正樹は小さい頃からの馴染み。俗に言う幼馴染というやつだ。僕がここの面接を受けたと話した途端彼らも面接を受けた。昔から三人共行動を同じくする習性がついていた。

 悪癖とも言える因習は小さな店に三人を結集させる足がかりとなった。 


「伊原クゥン? ボ~っとしないでキリキリ働くぅ!」


 反射的にキモッと叫びそうになった。店長の成谷なりやさんのキャラが強烈過ぎる。


「……はい、すいません(二重の意味で)」


「はい、わかったら続けてぇん」


 僕は無言で頷き皿洗いを再開した。


「じゃあ、佳子ちゃんは注文取りに行ってちょーだい♡」


「はい……(ちっ、キモイんだよ!)」


 小声で悪態をつきながら厨房を後にしていく。そのまま店長オカマも消えて旭田と二人取り残される。

 暫く無言で洗い物をしていたが、沈黙の重みに耐え切れなかったのか旭田が口火を切った。


「また考えてたのか?」


「何を……」


「お前の彼女のことだよ」


 彼女……か。果たしてそう言えるのだろうか。凛子は僕と共有した記憶の殆どを失くしているというのに。事実などなかったも同然だ。


「彼女……」


「だってそうだろ。いくら天宮がお前を忘れていても周りの奴らはお前らの関係を覚えてるんだから」


「正樹はリアリストだね」


「事実だからな」


 フンと鼻を鳴らして作業に戻る。僕はそれを横目に手を動かす。

 天宮凛子。僕の彼女……とはもう関係をやり直せない。一から積み上げることも、築いた関係を取り戻すことも。どんなに記憶を積み上げようと直ぐに崩れてしまう。彼女記憶はさながらジェンガのよう。揺蕩う陽炎よりも儚く、脆い。

 彼女と思い出を共有することは、出来ない。同じ時を生きていても、彼女の時間は止まったままだ。

 僕らは毎日すれ違う。


「今日は見舞い、行かないのか?」


「バイトが終わったら行くよ」


 蛇口の栓を閉めて、答える。 

 気が重い。また彼女に、彼女との記憶(思い出)を否定されるのが怖い。彼女はもう僕の知る凛子じゃない。

 だけど……。


「辛いんなら……」


「いや、大丈夫。行くよ」


 僕がまだ凛子の恋人であるのなら、それは最低限のマナーだと思う。そして、もしかすると記憶喪失が治ってるかも……。なんていう淡い期待、ifの可能性が捨てきれない。

 食器の水滴を拭き取ったところで、茅野が注文表を手に戻ってきた。


「あのオカマ、面倒事だけあたしに押し付けやがって……」


「注文なに?」


 茅野愚痴を無視して旭田が尋ねた。茅野の愚痴は長いからスルーするに限る。

 茅野がぶっきらぼうに「三色サンドイッチ」と答え、はいよ、と旭田が食材を持って厨房の奥に引っ込む。

 今注文してきた客以外に客らしい人はいないので、暫しの間暇な時間となる。

 茅野が溜め息をつきながら横の台に座った。


「伊原、あんたまた天宮の見舞いに行くの?」


「……うん」


 自身に潜んでいた底意さえもう欠片もない。あのまま付き合っていれば、もしかすると今からでも。馬鹿みたいな感慨さえ一週間の内に打ち砕かれた。

 人が思う以上に記憶は重要だと、気持ちの問題でどうこうなることではないと、身にしみて痛感した。


「なんで、なんでよ? 天宮はもうあんたのこと覚えてないのよ? 諦めて別の恋を探したっていいじゃない。罪悪感なんて感じる必要ない。だって、不慮の事故だったんだもの」


「そう……かもね」


 僕の力でも、世界最先端の医療技術でも、何にでも彼女を治すことは出来ない。1日毎に記憶を失くすなんて症例は世界初。当然ワクチンなんてあるはずもない。彼女は[治らない]、ずっとこのままなんだ。

 それでも……。


「そうよ。あんたのことを好きなだって他にもいるんだから」


「僕を……?」


 いいのか、そんなので。例えその話が本当でも相手の方に失礼だ。彼女を引きずっている僕には、相手の方は凛子の代わりでしかないのだから。傷心中の一時の慰め。一過性の、恋ですらない鈍い光。凛子の時とは比べるべくもない。


「いい加減気づきなさいよ。あたしは……」


 自分の気持ちには正直でありたい。代わりなんていらない。彼女はまだ死んでない、生きているのだから。土台、彼女の代替なんているはずがないんだ。


「僕は……」


 どうすればいい? 僕個人がどう動いたところで現状は何も変わらない。僕が凛子に出来ることは限られているし、凛子の記憶は戻らない。彼女は、変わらない。でも、[僕は変われる]。

 人の価値観なんて簡単に覆る。僅かなきっかけで、人は変わることができるんだ。


「あたしはあんたのことがす……」


「僕は凛子が好きだ」


 その一言に茅野の表情に翳りが差した。


「彼女の代わりなんていない。いるはずがないんだ」


「でも、天宮はあんたのこと……」


「関係ない。僕が彼女を好きということに変わりはないんだから」


 この気持ちだけは、どんな現実にも砕けない嘘偽りのないものだと、今なら信じることが出来る。

 茅野のおかげで、逃げずに正面から凛子のことを受け止め、考えることが出来た。僕は今まで自分のことしか見えていなかった。それが視野を狭めてしまっていたんだ。

 視野が狭窄した状態でも、正面から問題に取り組むことで己の迷妄を打破することが出来た。

 彼女が一日しか記憶を保てないのなら……。


「僕は何度でも彼女に好きだって言うよ。凛子は忘れていても、僕は覚えている。僕が何度だって凛子に教える。君に恋人がいたことを」


 茅野が押し黙った。顔は完全にそっぽを向いた状態で、伏し目がちだ。


「そう、あんたらしいわ。ほら、じゃあ行ってきなさいよ」


「……え?」


 茅野の声は微かに濡れている気がした。茅野が何を言おうとしたのか、僕には聞き取ることはできなかったけど、きっと重要なことだったはず。


「店長には適当に言っておくから」


「ごめん。ありがとう」


 でも、そうやって応援して僕の背中を押してくれる君には、お礼も感謝もどのような美辞麗句を連ねようとも足りない。だから、短く、でも万感の思いを込めて『ありがとう』と『ごめん』を送る。

 僕は大急ぎでエプロンを解くと荷物を持って駆けるように厨房を出た。入口以外には目もくれず一直線に疾走する。


「あらん、伊原クゥン? 何処にいくのかしら?」


「すいません、1km先で妊婦さんが産気づいているような気がするので上がります!」


「あら、ヤダ。伊原くんエスパー?」


 この人が馬鹿で本当に良かった。

 僕は感激するオカマを背後に飛び出るように店を出た。

 



「もう、あの馬鹿……鈍感なんだから」

 張り詰めた空気は払拭され、空気の抜けた風船のように彼女の涙腺も緩んでいた。

 頬を伝う一滴の涙。それは失恋の少女にとって思いを断ち切るために存在した。

 奥で調理していた筈の旭田が無言で茅野の肩を叩いた。


「なによ……そんなの慰めにならないわよ」


「いや、実際慰めてないから」


「はあ? ……って、あんたの手濡れてるんだけど!? ちょっ、私の制服で拭くのやめなさい!」 


 目を剥いた直後には泡を食ったように、慌てて旭田の手を弾いた。

 その光景を尻目にフッと、旭田が口元を緩めた。


「やっぱりお前は笑ってた方が可愛いわ」





 バスを降りて通い慣れた病院へ。顔パスで面会の許可を得て、急ぎ足で彼女の病室まで上る。

 不安はないとは言い切れないけど、希望の占める割合の方が大きい。もう、昨日までの僕じゃない。

 扉をノックして、返事を聞いてから室内に入った。

 凛子の眉目秀麗な容貌が、夕陽に照らされ一層異彩を放っていた。室内には簡素な物しかなく、それがひとしお彼女を際立たせている。

 疑問符を浮かべた表情と、言外に誰何する視線。昨日となんら変わらない饗応。そして、あの言葉。


「貴方は誰ですか?」


 もう、狼狽えない。何度だって積木(記憶)を積んでいく。崩れても、何度だって積み上げていく。その覚悟がある。


「初めまして。僕は伊原広司。貴方の恋人でした」


 もう一度、やり直そう。1年前の春のように。僕は彼女に恋心を抱く。片思いをする。


「恋人……だった?」


「うん。『だった』んだ。だから、もう一度」


 一から関係を築いていこう。一日毎に。何度だって。


「好きです。僕と付き合って下さい」


 目を丸くする彼女を一心に見つめる。彼女の頬が桜色に染まり、こちらを向いて相好を崩した。


「不思議。なんだか貴方、懐かしい匂いがする」


 そう言って、朗らかに笑う彼女は記憶を失くす以前と寸分違わず美しかった。見た人を落ち着かせるような、そんな、抱擁感のある優しい笑顔。


「私も……」


 一年前と同じ表情を浮かべて彼女は言う。


「貴方のことが好き。一目惚れ……なのかな? なんとなく貴方が好きなの」


 きっと、共有した時間を思い出せなくても、幸せだったということは心に刻まれているはずだから。それさえ分かれば、僕は何度だって頑張れるんだ。


「じゃあ、両想いだね」


「うん」


 互いに微笑みを交わす。去年と同じ光景に感涙してしまう。


「幸せだよ」


「私も」


 二人手を取り合って窓を見遣る。

 春の風物詩は今日も咲き乱れる。満開に咲いて、綺麗に散っていく。

 明日になれば、彼女の記憶は桜の花弁のように散ってしまう。けど、恋は季節に関係なく咲くことが出来る。


「また、明日も来るね」


「うん、待ってる」


 その頃には、きっと君は僕のことを覚えていない。でも、それでいい。今日を君と過ごしたことに変わりはないんだから。

 


 僕らは一日毎に別れ、そして出会いを繰り返す。

 僕らは毎日恋をするんだ。


                            END 

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