恋の履歴、残ってるよ? 〜嘘告から始まった、本当の恋〜
1.
「実は……あなたのこと、ちょっと良いなって思ってて。
ねえ、付き合わない?」
放課後の校庭。運動場へと続くコンクリートの階段の手前で、彼女はそう切り出した。 唐突すぎる呼び出し、どこか整いすぎたシチュエーション。
けれど、その言葉を受けた少年は、すぐに飛び上がるような反応を返さなかった。ただわずかに目を瞬かせ、困ったような、気まずそうな笑みを浮かべるばかりだ。
けれど、その間の抜けたような、だがどこかはにかんだような少年の表情を見ているうちに、口をついて出かけていたはずの言葉が、喉の奥で引っかかった。
「……何よ」
気まずさを誤魔化すように、少女は少しだけきつく眉を寄せる。
「ううん、……いや、ちょっと驚いて声が出なかっただけだよ。
君みたいな人から、そんなこと言ってもらえるなんて思わないからさ」
少年の控えめな返答に、少女は小さく首を傾げた。その瞳の奥には、小さな動揺が走っている。
緊張に耐えかねたのか、彼女は視線を外し、少年の肩越し、背後の木陰へと向けられる。
「で、どうなの?」
「えーと……じゃあ、とりあえず、この後ファミレスでも行く?」
「……何だ、ちゃんと出来るじゃん。
まあ良いか。うん、いいよ。いこっか」
その返答を聞いた瞬間、少女の顔に浮かんだのは、どこか肩の荷を下ろしたような、柔らかな笑みだった。
緊張が溶けた、本心からの笑みに、少年は見惚れた。
だから少年は気付かない。
背後の茂みの奥で、コトンと、小石でも蹴飛ばしたような音がした。
夕日が落ちていく中、少年はただ真っ直ぐに、少し照れくさそうに彼女を見つめ返しているだけだった。
◇ ▲ ◇ ▲ ◇
某SNSのチャットルーム
[イヤー、ネタバレ伸ばして正解だったね]
[反応薄くて失敗って思ったけど]
[ファミレス行く? は受けた]
[咄嗟にあんな反し出来るなら、一発ネタには惜しいし]
[でも、あんたも、良く気づけたね]
[合図なんてないから、咄嗟に、ね]
[気づかないかと思って、ヒヤヒヤしたよ]
[で、いつネタバレする?]
[うーん、案外ファミレスでも反応良かったし、もう少し続けよか?]
[良いんじゃない? 一発は弱いけど、案外見てて面白いし]
2.
階段を下りて校門を抜けるまで、二人の間には微妙な隙間が空いていた。
歩幅二つ分。恋人というには少し遠く、ただのクラスメイトにしては、どことなく意識し合っているようにも見える距離。
「バッグ、持とうか?」
校門の角を曲がったところで、少年がこちらの顔を伺うように覗き込んできた。
少女は一瞬だけ足を止め、手に持っていた通学鞄を見下ろす。教科書が数冊入っているだけの軽めなバッグだ。
断る理由を探すような仕草を見せたものの、結局彼女は少女は「あ、ほんと? ありがと」と、そのまま鞄を少年に手渡した。
「重くない?」
「全然。
……なんか、彼氏っぽいこと出来てるかなと思って」
少年が少し恥ずかしそうに鼻の頭をかきながら、手渡されたバッグを片手で持ち直す。
そのぎこちない手つきを見て、少女は小さく吹き出した。
「何それ。意識しすぎ」
「そりゃ、意識するよ」
少年の控えめな返答に、少女は「ふーん」と気のない相槌を打つ。
歩き出しながら、少女はさりげなくポケットの中でスマートフォンの画面を指先でなぞった。
入ったのは、駅前にあるチェーンのファミレスだった。夕方の時間帯は、近隣の高校生たちでガヤガヤと賑わっている。
案内されたドリンクバー近くのボックス席に座ると、少年はすぐにメニューを開き、少女の方へ寄せて見せてきた。
「何か飲みたいものある?
僕、取ってくるよ」
「じゃあ、ドリンクバーのメロンソーダ。あ、氷多めで」
「了解。少々お待ちを」
少年が少し大げさに背筋を伸ばして席を立つ。その背中を見送りながら、少女は背もたれに深く体重を預けた。
横に座られたら少し気恥ずかしいが、対面に座ってニコニコと世話を焼いてくれる分には、居心地が悪くない。
少女にとっての少年は、クラスに一人くらいいる「頼めば嫌と言わずにノートを貸してくれそうな男子」の延長線上にいた。
胸が鳴るような高揚感もなければ、緊張で喉が詰まるような感覚もない。
少年がトレイにグラスをふたつ乗せて戻ってきた。
「はい、メロンソーダ。あと、なんか期間限定のアイスパフェあったから、一緒に頼まない? 半分こしよ」
「え、いいの? 奢り?」
「今月ちょっと厳しいけど……今日は僕が誘ったようなもんだし、いいよ」
「やった。じゃあいただく」
少女は屈託のない笑みを浮かべ、運ばれてきたパフェに迷わずスプーンを伸ばした。
スプーンの先をパフェに差し込みながら、ふと少年の顔を見る。少年はこちらが美味しそうに食べる姿を、どこか満足そうに、けれど少し照れたように眺めていた。
「なに? 食べないの?」
「あ、いや、食べる。……なんか、本当にこうやって二人で放課後遊んでるの、夢みたいだなと思って」
「大げさだなあ」
少女はそう言って笑い、一口大きめにパフェを口に運んだ。
どこからどう見ても、できたての初々しい高校生カップルそのものだった。少女自身もまた、その「彼氏」が差し出してくる親切さを、何の疑いもなくごく自然に受け入れ始めていた。
3.
放課後のカフェ。休日のショッピングモール。
二人が並んで歩く姿から、いつの間にか「初々しい気まずさ」は消えていた。
代わりにそこにあるのは、どこにでもいる「仲の良いカップル」のテンプレのような空気感。
「ねえ、ちょっとこっち向いて」
少女がスマホを高く掲げ、インカメラを向ける。
少年は言われるがままに顔を寄せ、少しだけぎこちなく、しかしカメラのレンズに向けて柔らかい笑みを浮かべた。
カシャ
電子的なシャッター音が響く。
数分後、SNSのストーリーには、その写真がアップされていた。
おしゃれなフォントで添えられた『#date』の文字と、ハートの絵文字。画面の中の二人は、お似合いの恋人同士そのものだった。
数分も経たないうちに、フォロワーたちから「え、めっちゃお似合いじゃん!」「いつの間に?」と次々にリアクションやハートのスタンプが届く。
少女はそれに「ありがとう」と軽やかに返信していく。
だが、その表向きの華やかな画面の裏で、スマホのもう一つのタブが小刻みに震えていた。
友人グループで作っている鍵付きの裏アカウント(限定公開のチャットルーム)だ。
――『今日のパンケーキ、一口であ〜んてさせられたんだけど(笑)』
――『無理、想像しただけで草』
――『ガチであの人、役に入り込みすぎてて逆に怖いんだが』
――『でもこれで完全に周り騙せてるし、ウケる』
グループチャットには、友人たちが面白がるスタンプや、笑い泣きの絵文字が飛び交っている。
少女はその画面を見つめながら、片手でタピオカストローをくるくると回した。
「……どうかした?」
向かいの席に座る少年が、心配そうに声をかけてくる。
目の前の彼は、今さっきSNSで「世界一優しい彼氏」としてタグ付けした本人だ。カフェの注文を取りまとめてくれ、荷物が重そうにしていると「持つよ」と自然に引き受けてくれる。その気遣いは、投稿用のポーズではなく、いつだって本物だった。
「ううん、なんでもない。ちょっと友達からLINEが来てさ」
少女はスマホを伏せ、何事もなかったように微笑んで見せる。
友人たちのチャットでは、今も少年を「いい感じのダシに使われているピエロ」として笑い、消費し続けている。その輪に加わって、自分も一緒になって文字を打ち込んでいるはずなのに――なぜか、目の前の少年のまっすぐな目を真っ直ぐ見返すと、指先がかすかに重たく感じられた。
「そっか。……あ、ほら、口元にクリームついてる」
少年が何の迷いもなく、ごく自然に、テーブルの上のペーパーナプキンを一枚取って差し出す。
その指先が少し触れそうになり、少女は反射的に体を引いた。
「っ……自分で拭けるし」
少しだけトゲのある声を返してしまった自分に少女自身が驚き、慌てて「ごめん、ちょっとびっくりして」と咄嗟に誤魔化す。
少年は「こっちこそ、ごめん」と困ったように目を細め、気まずそうに自分のカップに視線を落とした。
――ただの「嘘の交際」だ。
――周りを欺くための、ただの暇つぶしだったはずなのに。
SNSの中では、今日も仲睦まじいカップルの動画が自動再生でループし続けていた。画面の向こうの「理想の彼女」と、裏アカウントで冷めた笑いを共有する「現実の自分」。
そのギャップが、少しずつ、音もなく広がっていくのを、少女はまだ認めたくなかった。
4.
最初は、一つひとつの行動に「これは彼氏役だから」「罰ゲームの延長だから」と言い訳を用意していた。
重い教材の入ったバッグを「半分持つよ」と言われたときも。
急な雨の日に、自分の肩を濡らしながら少女の側に傘を寄せてくれたときも。
「彼氏としてちゃんとやってくれてるだけ」と、自分に言い聞かせていた。
けれど、いつからだろう。
それが「特別」ではなく、「当たり前」の日常として少女の中に馴染んでしまったのは。
放課後の部活終わり、あるいは塾に向かう前の夕暮れ。
少女は無意識にスマホを開き、メッセージアプリの画面を表示させる。画面の一番上にピン留めされているのは、少年のトークルームだ。
『今、部活終わった。そっちは?』
『そろそろ駅着くよ。アイス買って待ってる』
他愛もない短い文面。スタンプ一つだけの返信。
かつては「SNS用の設定を維持するための連絡」だったはずのものが、今では少女の日常の足場になっていた。
ある日の放課後、友人グループで集まっていたときのことだった。
誰かがふざけて少年の名前を挙げ、「あいつ、真面目すぎてたまに面白くないよね」「まあ、でも都合いい彼氏役としては最高じゃん」と軽く笑い飛ばした。
いつもなら、少女も一緒に薄く笑い、「ほんとそれ」と同意していたはずだった。
だが、そのときは違った。
「……別に、普通でしょ」
口から出た自分の声が、思いのほか低く冷ややかだったことに、少女自身が驚いた。
友人たちが「え?」と一瞬顔を見合わせる。少女は慌てて「あ、いや、普通に良いやつだからさ」と取り繕ったが、胸の奥にはドロリとした不快感が残った。
(なんで……私がイライラしてんの……?)
彼を馬鹿にされるのが、嫌だった?
彼が「都合のいい彼氏役」として消費されることに、腹が立った?
自分自身が一番彼を「道具」として扱っていたはずなのに……
その日の帰り道。
改札の前で待っていた少年の姿を見つけた瞬間、胸の奥のモヤモヤがすっと引いていくのを少女は感じた。
「お疲れ。はい、温かいの」
少年が差し出してきた缶ミルクティー。少女の手のひらに触れる缶の温もりと、少年の少しカサついた指先。
少女はその温かさを包み込むようにギュッと握りしめ、小さく息を吐いた。
「……遅い」
「ごめん、ちょっと信号引っかかっちゃって」
笑いながらの少女の言葉に、すまなそうに眉を八の字にする少年。
少女は何も言わず、少年の歩幅に合わせて歩き出す。
連絡が数時間途絶えるだけで、どこかそわそわしてしまうこと。
他の女子と彼が楽しそうに話しているのを見かけると、視線を逸らしたくなること。
少女はまだ、それを「恋」とは呼ばない。
ただの慣れ。罪悪感の裏返し。
そう自分に言い張りながらも、少女の右手は、うっかり触れそうになる少年の袖口から、どうしても離れられなくなっていた。
5.
放課後の教室。窓際の席で、友人たちがスマホを囲んで盛り上がっていた。
「ねえ、聞いてよ。この前さ、あいつに『今度、高いとこのカフェ行きたいな』って冗談で言ったら、本当に調べて予約画面スクショして送ってきたの。すごくない? マジで使い勝手良すぎなんだけど」
スマホの画面を見せ合いながら、クラスメイトの女子たちがケラケラと笑う。
以前の少女であれば、一緒になって「それな」「ちょろすぎてウケる」と茶化し、裏のグループチャットでもさらに面白おかしくエピソードを書き立てていたはずだった。
しかし、今の少女は、自分のデスクの上でノートの端を指先で無意識に丸めながら、ただ黙って黒板のほうを見つめていた。
(……別に、嬉しがって予約したわけじゃないし。ただ、私が言ったから……)
頭の中で、必死に言い訳を組み立てる。
これは罰ゲームの延長だ。彼氏役を演じさせているだけで、自分たちはただの「嘘のカップル」なのだと。
だが、その言い訳は、日を追うごとに薄っぺらいものになっていっていた。
いつの間にか、友人たちが少年のことを面白半分にイジったり、影で「都合のいいおもちゃ」のように扱ったりする声が、耳障りに感じられるようになっていたのだ。
「ねえ、いつネタばらすの?」
そう振られたときも、少女は曖昧に笑うだけで、気の利いた相槌を返すことができなかった。
(……もう、いいでしょ、そんなの)
喉まで出かかったその言葉を、少女はぎりぎりで飲み込む。
その日の夜、自室のベッドの上で、少女はスマホの画面を開いた。
かつては毎日のように、少年の面白エピソードや「今日の愚痴(という名のネタ)」が書き込まれていた限定公開の鍵垢(裏アカウント)。その通知アイコンが、最近やけに静かだった。
タイムラインには、友人たちの投稿が流れてくる。
――『次の週末もデートらしいよ、まじ草』
――『貢がせスキル高くない?w』
――『いつネタバレ?w』
画面をスクロールする指が、ぴたりと止まる。
以前なら、そこに乗っかって何か一言書き込んでいたはずのテキストボックスに、一文字も打つことができない。少年が自分に向けてくれる穏やかな笑顔や、買い物の途中で荷物をさりげなく持ち直してくれた手の温もりが、脳裏によみがえる。
「……っ、違う」
少女は小さく首を振り、乱暴にスマホの画面を伏せた。
好きになんて、なっていない。絶対に。
だが……
少女はベッドの隅で、少年のトークルームの画面だけを、どうしても消すことができずに見つめ続けていた。
6.
夕暮れ時の駅前交差点。
通りを埋め尽くす帰宅ラッシュの雑踏の中で、二人はいつものように並んで歩いていた。
少女の手元には、さっき少年が「寒そうだから」と買いに走ってくれた温かいカフェラテのカップがある。
「ねえ、来週のテストさ――」
少女が何気なく振り返り、少年に声をかけようとした、その瞬間だった。
甲高いクラクションの音。
つんざくようなタイヤの摩耗音《スキール音》が、アスファルトを削って響き渡る。
歩道へ向かって猛スピードで突っ込んできたのは、信号無視の暴走車だった。
車体の影が視界を覆い、少女の思考が完全に凍りつく。死の恐怖すら認識できないほどの、一瞬の真空状態。
――どん
強い衝撃が、少女の身体を真横から弾き飛ばした。
視界が激しく回転し、膝と肘が冷たいコンクリートの上を滑る。手に持っていた紙カップが手元から離れ、温かい液体が歩道に大きく散らばった。
「……っ痛……え……?」
何が起きたのか分からないまま、少女は手をついて顔を上げた。
すぐ脇の街路樹に突っ込んで止まった車から、もうもうと煙が立ち上っている。周囲から悲鳴と狂騒が巻き起こっていた。
そして、少女の目に入ったのは――数メートル先の道路上に横たわる少年の姿だった。
「……嘘……でしょ……?」
自分が弾き飛ばされたのは……
少女は気付いた。
少年が全身の力で少女を突き飛ばしたのだ、と。
「ちょっと……ねえ……!?」
立ち上がろうとした足がガタガタと震え、うまく力が入らない。少女は半ば這うようにして少年へと駆け寄った。
アスファルトの上に倒れた少年は、ピクリとも動かない。
制服のブレザーが黒く汚れ、その頭元から、鮮やかな赤がじわじわと路面へ広がっていく。
少女が震える手で彼の肩に触れると、指先に刺さるような冷たさと、ねっとりとした生温かい感触が同時に伝わってきた。
「待って……嫌……起きてよ……ねえ……!」
少年の顔は幽霊のように白く、薄く開かれた目はどこも焦結んでいない。
彼が少女を庇ったからだ。もし彼が庇わなければ、あの重い衝撃を受けていたのは自分だった。
「誰か……助けて!! 救急車!! 早く!!!」
喉がちぎれそうなほどの叫び声が、自分の口から飛び出す。
集まってくる通行人たちの無遠慮な視線や撮影するスマホのレンズ。そんなものはどうでもよかった。
少女は少年の冷たくなりつつある手を、両手で血みどろになりながら必死に握りしめた。
その手は、さっきまで少女の歩幅に合わせ、温かい缶ミルクティーを差し出してくれていた手だった。
(なんで……? なんで私なんか庇うの……!?)
自分は……彼を騙している。
それなのに、少年は迷うことなく自分を助けた。
遠くから近づいてくる救急車のサイレンの音が、少女の激しい動揺と後悔の渦の中に、虚しく響き渡っていた。
7.
消毒液の匂いしか感じなかった。
無機質な蛍光灯で照らされたICUの待合室で、少女は病院のパイプ椅子に小さく丸まっていた。
スカートの裾と手の甲にこびりついた乾いた赤黒い汚れから、どうしても目を逸らすことができない。
廊下の奥から、慌ただしい足音が近づいてきた。
駆け込んできたのは、少年の両親だった。父親の引きつった表情と、母親の今にも泣き崩れそうな様子を見た瞬間、少女の背筋に冷たいものが走る。
「……あ、あの」
少女が立ち上がる。
母親が少女の、血の滲んだ制服に目を留めた。そして、ハッとしたように目を見開く。
「あなた……もしかして、卓士の……『彼女さん』?」
その一言が、静まり返った待合室に重く響いた。
少女の息が止まる。
母親は震える手で自身のスマホを取り出し、画面を少女に見せた。そこに映っていたのは、少年が家族に送っていたメッセージの画面だった。
『今日の放課後、彼女とカフェ行ってきた』
『これ、彼女が撮ってくれた写真』
画面の中で笑う少年の写真。それは、少女が「映え」のために、SNSに投稿させるために撮らせた写真だった。
彼が家族に自分のことを嬉しそうに話していたこと。SNSに残してきた数々の「恋人としての記録」。
自分たちが悪ふざけと罰ゲームで塗り固めてきた嘘の証しが、今や逃げ場のない現実として少女に突きつけられる。
(違う、私……そんなんじゃない……)
喉の奥が引きつり、激しい吐き気がこみ上げる。
「本当は嘘なんです」と叫んで逃げ出したい。
けれど、集中治療室の中で人工呼吸器につながれている少年の姿と笑っている彼の姿が、交互に脳裏をよぎる。
自ら仕掛けた「嘘の記録」が、目えない鎖となって少女の全身を縛り上げていた。
「……あの子、家でもあなたのこと、すごく嬉しそうに話してくれていてね……付き添ってくれて、ありがとうね……」
母親の涙ぐんだ感謝の言葉が、鋭い刃のように少女の胸を深く抉る。
「彼女を守った、男の勲章だ」
父親の温かい言葉が、かえって心をえぐる。
少女は震える唇を噛み締め、爪が肉に食い込むほど拳を強く握りしめた。
逃 げることすら許されない罪悪感の底で、少女はゆっくりと頭を下げる。
「…………はい」
掠れた声が、喉の奥から漏れ出た。
「……私、……彼女、で、良かったです……」
その瞬間、少女の中で何かが決定的に壊れ、そして繋がった。
偽りから始まった関係が、最も逃れられない「本当の事実」として、少女の人生に深く刻み込まれた瞬間だった。
◇ ▲ ◇ ▲ ◇
放課後のファミレス。いつものボックス席に集まった友人たちの顔からは、いつもの悪ノリや軽快な笑いが完全に消え去っていた。
テーブルの中央に置かれたスマホには、ICUの前から送られてきた少女からの短文と、少年の病状についての伝聞が映し出されている。
「……ねえ、これ、結構まずくない?」
一人がひそひそ声で呟いた。
少年が意識不明の重傷を負ったこと。そして少女が病院で少年の両親と面会し、「彼女」として挨拶したこと。
「だってさ……元はといえば、うち達が罰ゲームで告白させたじゃん?
もしあいつの親とか学校に『嘘告でした』なんてバレたら……」
「やめてよ! うちらはノリで言っただけだし、断らなかったのはあいつじゃん!」
恐怖から、声が一瞬高くなる。
加害の当事者になる恐怖。集団としての罪悪感。そこから逃れるために、一人が必死に過去のチャット履歴を上へと遡り始めた。
「待って……よく見返してみてよ」
画面をスクロールしていた指が止まる。
「これ、事故の前のやつ……ほら。途中から、彼女側の書き込み激減してない? うちらが『あいつマジウケる』って言っても、全然乗ってこなくなってたじゃん」
「あ……本当だ。『別に普通でしょ』とか書いてる……」
救いの一手を見つけたかのように、友人たちの目が一斉に輝きを帯び始めた。
「なんだ……やっぱりそうじゃん」
一人が安堵したように胸を撫でおろす。
「うちらの罰ゲームは、ただのきっかけだったんだよ。
途中からあいつら、普通に両想いだったんじゃん。
照れ隠しで裏でグチってただけでさ」
「そうだよ!
ツンデレだったんだよ。だから事故の時も庇ったんだし、病院でも『彼女です』って言えたんでしょ?
嘘だったら言えるわけないじゃん」
『最初から本物だった』
『だから自分たちは何も悪いことをしていない』
その歪んだ結論に、誰も異論を唱えなかった。
「じゃあ……そういうこと」
「うん。うちらは二人の背中を押してあげただけ。
むしろキューピッドだよ」
誰かの安易な一言に、全員が引きつった笑顔で頷き合う。
画面に並ぶ過去の「嘘告」の記録は、「甘酸っぱい馴れ初め」へとすり替えられていった。
8.
学校での友人たちの態度は、驚くほど軽やかだった。
「大変だったね」「でも付き添えてよかったじゃん」と、気遣うフリをした慰めの言葉が投げかけられる。
放課後になると、少女は誰とも約束を交わさず、一人で病院へと向かうのが日課になっていた。
白を基調とした静かな病室。
呼吸器や心拍数モニターの機械音が一定の周期で鳴り響く中で、少女はパイプ椅子に座り、ベッドに横たわる少年の顔を見つめていた。
頭に巻かれた痛々しい包帯。いくつもの管につながれた手首。かつて自分と並んで歩き、缶ミルクティーを差し出してくれたあの温かな指先は、今や驚くほど細く、冷たくなっている。
少女はカバンから濡れたタオルを取り出し、少年の乾いた指先を一つひとつ、拭っていった。
(これは……罪悪感)
タオルを動かす手に力を込めながら、少女は心の中で何度も同じ言葉を反復する。
(私が彼をこんな目に遭わせたから。嘘をついて利用していたバチが当たったから。
その罪滅ぼし)
そう思わなければ、胸が押し潰されそうだった。
嘘から始まった関係の果てに、彼を死の淵に追いやった挙句、自分だけが都合よく「彼女」として救われようとしているような気がして、激しい自己嫌悪に苛まれるからだ。
「……ねえ」
届かないと知りながら、少女は微かに声を漏らした。
「早く起きなよ。……起きて、私を責めなよ」
だが、少年は答えず、規則的な機械音だけが虚しく室内に響く。
ふと、視線が少年の制服のカバンへと向けられた。
病院の隅に置かれたそのカバンのサイドポケットには、二人で出かけた際に行ったカフェのショップカードや、少女が冗談半分で買って渡した小さなキーホルダーが、大事そうに付けられたままになっていた。
事故に遭う前から、自分は彼との放課後を楽しみにしていた。
通知が鳴るたびに跳ねていた心臓。彼が他の女子と話しているのを見たときのモヤモヤとした不快感。
事故が起きる前から、特別な存在として見つめていたのだという事実。
(違う……違う。これは……罪悪感なの)
少女は震える指先で自分の顔を覆い、溢れそうになる涙を必死にこらえた。
目の前の少年がどれほど優しく自分を守ってくれたとしても、自分自身の内側にある「嘘」と「本物」の境界線を見失った少女は、自分自身を赦す術を持たないまま、冷たい病室でただ彼の手を握り続けることしかできなかった。
9.
季節がひとつ移り変わり、病室を包む光に少しずつ温もりが戻っていた。
ICUから一般病棟へと移り、自分で体を起こせるまでに回復した少年は、ベッドの上に腰かけて、窓の外の青空を眺めていた。
「顔色、だいぶ良くなったね」
少女はパイプ椅子を引き寄せ、林檎の皮をむく手を動かす。
カサカサと削れる音と、甘い香りが薄い消毒液の匂いに混じっていく。
「うん。お医者さんも、もうすぐリハビリのペース上げられるって言ってた。
……いつも来てくれて、ありがとうね」
少年がこちらを向いて、柔らかく目を細める。
事故の前と何ひとつ変わらない、穏やかで優しい笑顔。自分の命を危険に晒してまで自分を守ってくれた彼が、今こうして目の前で生きて、自分に向かって微笑んでいる。
それだけで救われるはずだった。
けれど、彼が優しく接してくれればくれるほど、少女の胸の奥には冷たい重りが溜まっていく。
(この人は……私のことを『本当の彼女』だと思ってるから、こんな顔をするんだ)
(私が看病しているのも、健気な恋人だからだと思ってる)
手元のナイフが、微かに震える。
彼が意識を取り戻してからというもの、彼の家族や看護師から「本当にいい彼女さんね」と言われるたび、少女の心は自責の念で切り刻まれていた。
これ以上、この優しい笑顔に向けられて「彼女」のフリをし続けることは、彼に対する何よりの冒涜なのではないか。
自分の保身のために抱え込んできた「嘘」が、もう胸の内に収まりきらなくなっていた。
「……ねえ」
少女はナイフを置き、小さな皿に盛った林檎をテーブルへ滑らせた。
その手は、自分でも抑えきれないほど激しく震えている。
「ん? どうかした?」
少年は不思議そうに首を傾げ、少女の顔を覗き込もうとした。
少女はそのまっすぐな視線から逃げるように、深くうつむく。膝の上で握りしめた制服のスカートが、シワだらけになっていく。
「……ずっと、言わなきゃいけないことがあって」
声が震え、掠れる。喉の奥がカラカラに乾いていた。
「あの日……放課後の校庭で、あなたに付き合おうって言ったときのこと」
病室の空気が、ふっと凍りついたように静まり返る。
規則的な遠くの生活音だけが、どこか他人事のように耳に届く。少女は一度固く目を閉じ、血が滲むほど唇を噛み締めてから、喉の奥から絞り出すように言葉を吐き出した。
「……嘘だったの」
少女の肩が、小さく揺れる。
「友人たちとの悪ふざけ……罰ゲームだった。最初は、すぐにネタバレして笑って終わるつもりだったの。……あなたのこと、本気で好きで告白したわけじゃなかった」
言ってしまった。
言ってしまった瞬間に、自分と彼を繋いでいた最後の命綱を、自らの手で叩き切ったような感覚が襲う。
静寂。
恐ろしいほどの沈黙が、二人を包み込む。
少女は少年の顔を見ることができない。彼がどんなにショックを受け、どんなに傷つき、あるいは蔑んだ目で自分を見るのか。その恐怖に耐えかねて、少女はただただ、自分の膝元を見つめたまま固まっていた。
10.
病室を支配する、重苦しい沈黙。
静寂の中で、少女はうつむいたまま、何かを待っていた。
指先は冷たく凍りつき、膝の上のスカートを強く握りしめたままピクリとも動けない。
だが、頭上から降ってきたのは、怒声でも責め立てる声でもなかった。
「……そっか」
ぽつりと落とされたのは、拍子抜けするほど静かで、温かな声だった。
少女が弾かれたように顔を上げると、ベッドの上の少年は、いつもの穏やかな目を少女に向けていた。動揺した様子も、裏切られたことに傷ついたような影もない。ただ、どこか遠くを見るような、優しい目をしている。
「え……? 怒らないの……?」
掠れた声で問い質す少女に対し、少年は困ったように小さく苦笑し、浅く息を吐いた。
「怒るわけないよ。……だって知ってたから」
少女の思考が完全に停止する。
「……どういうこと……?」
「そのままの意味だよ」
少年は手持ち無沙汰そうに、ベッドのシワを細い指先で撫でた。
「あ、これ罰ゲームか何かだな、って。
ネット小説とかで読んだことあったし。
でも、即バレじゃなかったんだよね」
その口調があまりにも自然で、少女の頭は混乱を極めていた。
少年は静かに語り続ける。
それは完璧な語り口だった。
「だからさ、君が罪悪感を持つ必要なんて、どこにもないんだよ」
少年はまっすぐに少女の目を見つめ、諭すように言葉を重ねる。
「君が気に病むことなんて何もない。事故だって運転手の責任だ。
『彼女』のフリをしてくれるのが嬉しくて、ね」
そう言って微笑む少年の表情は、どこまでも優しく、温かかった。
けれど――その少年の「嘘」こそが違和感だった。
11.
少年の言葉を聞いた瞬間、少女の胸はふっと軽くなった――はずだった。
彼の言う通りなら、自分は悪質な仕掛け人ではなく、ただ彼の優しさに甘えていただけの共犯者。罪悪感という重荷から、綺麗に解放される。
けれど、少女の脳裏に、記憶がフラッシュバックする。
あの放課後、彼に「付き合ってほしい」と告げたとき、どこか戸惑ったような、測りかねているような曖昧な笑みを浮かべて固まっていた事。
ショッピングで何も言わずに荷物を持ってくれた事。
SNSにあげた写真についた「お似合いだ」のコメントに照れていたこと。
(違う……)
少女の胸の内で、ざわめきが広がっていく。
彼があの時戸惑っていたのは……本気で――自分からの告白を真面目に受け止めようと悩み、考えてくれていたのだ。
「……ねえ」
少女は震える声を抑えながら、じっと少年の瞳を見つめた。
「それなら教えて。
いつ気付いたの?」
「え……それは、その……」
さっきまでの流暢で完璧な「言い訳」はどこへやら、彼は慌てて目を泳がせ、口をパクパクと開閉させたまま言葉に詰まった。
「……嘘つき」
少女は小さく息を吐いた。涙が溢れそうになるのを、必死に歯を食いしばってこらえる。
「以前から思ってたけどさぁ……
嘘をつくの本当に下手なんだから」
少年の顔から、作り物の余裕が完全に消え去った。
観念したように肩の力が抜け、彼は困ったような、泣きそうな、どうしようもなく優しい顔で目を伏せる。
「……バレた?」
「バレバレだよ」
少女の声が、ほんの少しだけ震えた。
少年は何も言い返さない。ただ、気まずそうに自分の前髪を指先でいじるだけだ。
その沈黙が、すべての答えだった。
「……本当に、馬鹿だな」
少女は両手で顔を覆い、あふれ出た涙を手のひらでぬぐった。
笑いながら言ったその声は、泣き笑いのように歪んでいた。
「――この、大嘘吐き」
その言葉は、世界で一番優しくて、一番不器用な少年に対する、少女の初めての告白だった。




