耳裏三寸とおりすぎる音
十歳のとき、仲夏、ままごとで
「ピアノと僕とどっちを取るんだい?」
って聞いたら
「お風呂とご飯どっちが先なの?」
と返された。同級生の中でも大人びていて、長い髪や黒い瞳、線の細さはそのまま現代日本女性の、その時点である程度完成された、女のコと言うよりは女性の繊細さを備えていた。ピアノには一日の内に四季の巡りを感じる。朝のレッスン、学校でのエチュード、ピアノ教室、眠り際にノクターン。彼女の割れ物のような手を気にして
「お風呂」
と答え、彼女の家の風船プールに飛び込んだ。日照りに目を細め、煙草を吸う手真似をした。彼女はその間に泥のケーキを作り上げる。呼ぶ声がするので行ってみると右手の中指を砂利で切ってしまったらしい。
慌てて彼女の両親を呼びに行く。更に慌てた親御さんが何故か僕に、劇中でも不外の無い人畜無害な善良な夫に、激しい険険を向けた。酷い剣幕で怒鳴られ、何をどうしていいのか、咄嗟の判断で彼女が泣き喚きだしたので、目はそっちに向いて、一少年が一友人を失くすのを取り留めた。病院に連れて行かれる車の中から、彼女が、くすり、と笑って僕にだけ分かるように手を振っているのが見えた。
とぼとぼ帰り道、何か大変な見落としをしているような、重大な危機に直面しているような焦燥に駆られた。家が近所で、小学校一年生の時からの付き合いになるが、一度も、只の一度も、いつも「この子は」と言って、「うちの子は」と言ったことが無い。しかしその時は頓狂な杞憂で終わった。うちの親もあんまり変わんないかな、って思って。
ある夕方ピアノ教室の前で彼女の演奏に聴き入ると、偶然居合わせた彼女の親御さんが、
「こないだはごめんね。あの子、大袈裟なのよ。もし何かあったら、いえ・・何でもないわ。」
「いえ(何で)。僕には普通に(何で)友達なんで。」
何か馬鹿にされてるみたいな想いが湧き起こり、
「お宅の娘さんは本当はピアノが嫌いらしいですよ。」
とカマを掛けた。その時も襟首をそわそわさせながら、
「えっ。いや、いやね。馬鹿なこと言って。あの子の才能は特別なのよ。」
虚を突かれたような様が面白く、煙草を吸う真似をして咳払い、
「おままごとをしていても永遠に子供が産まれないんです。」
彼女の母親は徐にバッグから財布を取り出し、僕の手に一万円札を固く握らせた。ちょうど彼女の演奏が終わった頃、明日は何をして遊ぼうか、言葉にならない虚しさに闇雲に走って家路に着いた。お金でなくて飴玉の方が価値の在る若草の涙、そのすぐ、夕陽がしんなりと胸を焼いた。
次の日、彼女の部屋でアルバムを眺めた。僕には透けて見えるものがあった。
「似てないね?」
って言ったら
「生まれつき似てないの。そういうことらしいの」
って答えてきた。その日の内に彼女の引越しが決まった。別れ際に車の後部座席で彼女が泣いている様にも見えたが、何が本当で何が嘘なのか、その時分にはまだ意に判然としなかった。十数年後、彼女のピアニスト生涯最期の演奏を耳にするまでは。




