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ご焼香は各自で

作者: Junbi
掲載日:2026/08/11

 父の葬式は、水曜日の午前にやる予定だった。その前日までに、家の座敷には、だいたいのものが揃っていた。棺、祭壇、遺影、花、焼香台、線香、会葬礼状、返礼品、受付用の机。葬儀屋が置いていった白い箱の中には、誰が何をするのかが分かる紙も入っていた。

 あとは当日、坊さんと葬儀屋の人が来ればよかった。

 けれど、その前に楽園の扉が開いた。

 坊さんは来なかった。

 たぶん、楽園の扉をくぐったのだと思う。

 葬儀屋も来なかった。

 たぶん、坊さんと同じ理由だった。

 親戚も来なかった。

 もう、みんな楽園に向かっていた。

 母は電話をかけたが、ほとんど誰ともつながらなかった。つながっても、誰も責める気にはなれなかった。

 その日、その瞬間を境に、生と死の境界が曖昧になった。死んだ人間には向こうで会えるらしい。病気も老いも痛みもなくなるらしい。腹も減らず、会いたい人に会え、失くしたものは元に戻るらしい。そんな話が本当なら、葬式どころではない。

 兄は喪服のまま、座敷の隅に座っていた。

 妹は返礼品の箱を数えていた。

 母は、父の遺影の前に置かれた花を少し直していた。

 誰も「葬式をやめよう」とは言わなかった。

 ただ「やる」とも言わなかった。

「葬式なんかやめて、さっさと楽園に行こう」と、誰かが言ってくれたら楽だった。でも、誰も言わなかった。準備した葬式を途中で投げ出すのは、なんとなく非常識な気がした。非常識を気にするような世界では、もうないのかもしれなかったが、それでも座敷には棺があり、祭壇があり、返礼品の箱があった。

 父の遺体をどうすればいいのか、という問題もあった。

 楽園の扉は開いたのに、父の遺体は生き返らなかった。棺の中で、死んだままだった。顔色は悪く、口は閉じられ、手は胸の上で組まれていた。死がなくなると言われても、死んでしまった父が、こちら側で起き上がるわけではないらしい。

 ただ、座敷の隅に扉があった。

 父の遺影の横だった。

 木でも金属でもない、けれど開ければ向こうへ行けると分かる扉だった。そこから、父の気配がした。気配というものを信じたことはなかったが、その扉の向こうに父がいることだけは分かった。

 母も兄も妹も、その扉を見ていた。

 けれど、誰も近づかなかった。

 父がいると分かるのに、棺の中にも父がいる。

 そのことをどう扱えばいいのか、誰にも分からなかった。

 私が一番最初にしびれを切らした。

 扉に近づいた。

 開けるつもりはなかった。まだ喪服も着ていたし、家には棺もある。葬式をやるのか、やらないのかすら決めていない。そういう状態で扉を開けるのは、どこか順番が違う気がした。

 けれど、少しだけ隙間があった。

 私は覗いた。

 向こう側は、宴会のさなかだった。

 畳の部屋ではなかった。広すぎて、屋内なのか屋外なのかも分からない。ただ、長い卓があり、食べ物があり、酒のようなものがあり、人がたくさんいた。その中に、父がいた。

 棺の中の父ではなかった。

 遺影の中の父でもなかった。

 もっと昔の、私がよく知らないころの父だった。

 髪が黒く、背中がまっすぐで、声が大きかった。棺の中で眠っている父と同じ人間には見えなかったが、父であることは分かった。父は何かを飲み、隣の誰かに笑いながら話していた。

 母も、私の後ろから覗いた。

 兄も覗いた。

 妹も覗いた。

 向こうの父と目が合った。

 父は少し眉を上げた。

「おう」

 そう言って、片手を挙げた。

 母が、小さく息を吐いた。

「もう飲んでる」

 父は、こちらを無視したわけではなかった。私たち家族を見つけた。挨拶もした。それで十分、という顔だった。すぐ隣の誰かに向き直り、久しぶりだな、とか、そっちはどうだった、とか、そんなことを言いながら笑っていた。えらく楽しそうだった。

 私たちは、そっと扉を閉めた。

 座敷には、棺があり、祭壇があり、遺影があり、会葬礼状が百枚あった。

 とりあえず葬式は、やることにした。

 母が「終わったら行こうか」と言った。

 兄も、妹も、私も、うなずいた。

 読経はなかった。

 司会もなかった。

 弔辞もなかった。

 受付に座る人もいなかった。

 母が線香に火をつけた。

 兄が焼香した。

 妹が焼香した。

 私も焼香した。

 父のため、というより、こちら側に残った私たちの手順のためだった。父は、もう向こうで飲んでいる。たぶん、こちらの焼香を待ってはいない。望んでもいない。

 棺の方から、父の声がしたような気がした。

「何やってんだ、ばか。早く来い」

 口の中で転がすような、聞き慣れた声だった。

 母も兄も妹も、少しだけ顔を上げた。

 たぶん、同じものを聞いたのだと思う。

 それでも、私たちは順番に額を下げた。

 ありがとうございました、と言うほど素直ではなかった。さようなら、と言うほど遠くもなかった。またあとで、と言うには、まだ少し腹が立っていた。

 だから誰も、何も言わなかった。

 線香の煙だけが、祭壇の前で細く上がった。

 会葬礼状は、百枚のまま余った。


楽園の扉が開いた世界を、もっとヘンテコな角度から

https://ncode.syosetu.com/n2083mn/

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