祭具箱の欠けた紋
自分の村の歌を、人前で歌えなくなってから長かった。
女は番小屋の火を見つめたまま、指先を膝に押しつけていた。
山裾の古い見張り小屋は半ば傾いていたが、雨を避けて夜を越すには足りる。壁際にはジンが吊るした鍋が揺れ、細く刻まれた香草の匂いが湯気と一緒に上がっていた。外で風が鳴るたび、戸板の隙間から冷気が差し込む。
村の見えるところまでは来られた。
だが草の海を越えて、あの窪地の中へ足を入れることだけができなかった。何もないと言われ続けた場所へ、自分の足で帰るのは、思っていたよりずっと怖い。
「温まるうちに食べろ」
木椀を差し出したのはジンだった。湯の表面には刻んだ青葉と、砕いた干し穀物が浮いている。女は礼を言いかけて、椀を鼻先で止めた。
違う、と喉の奥が先に知った。
「惜しいか」
ジンは笑わないまま聞いた。
女はゆっくり頷く。
「悪い意味じゃなくて……祭りの日の鍋とは、少し違います」
リラが顔を上げる。
「分かるの」
「はい。もっと……煙の匂いが薄くて、代わりに酸い実を使ってました。山葡萄を干したみたいな」
言ってから、女は口を閉じた。
こんなふうに言い切れるのは久しぶりだった。流民宿で口にするのは、腹を満たすための味の話ばかりだ。どこの祭りで、誰がどんな順番で鍋を回したかなんて、言ったところで困らせるだけだと思っていた。
ジンは面倒そうに見える手つきで、すぐ鍋へ干し果実を放った。
「先に言え」
「今、思い出したんです」
「思い出したなら十分だ」
彼は匙で鍋をひと混ぜし、今度は塩ではなく砕いた木の実を足した。香りが少しだけ丸くなる。女の胸の奥で、冬の終わりの広場がかすかに灯った。
向かいではナギが、布の上へ昼に拾った破片を並べている。炭化した箱板、割れた金具、帰村と削られた木札。その脇でエルネが小さな灯り石を寄せ、欠けた紋様を覗き込んでいた。
「見えました」
彼女がそう言うと、四人の視線が一斉に集まる。
「円の内側に三本線。祭礼具に多い構図ですけど、地方ごとに線の入り方が違います。これは運び入れる印です。奉納じゃなく、迎え入れる側の紋」
女は思わず立ち上がっていた。
「迎え灯の箱……」
言葉がこぼれた瞬間、ナギがそっと破片を持ち上げる。
「知ってるんですか」
女は頷いた。だが次の言葉が出ない。喉の奥に、長く使っていなかった名が引っかかっている。
リラが急かさず、静かに椀を机代わりの板へ置いた。
「思い出した順でいいわ」
その一言に背中を押されて、女は戸口の暗がりを見た。外には見えない村がある。けれど今夜だけは、誰も「そんな村はない」と言わない。
「祭りの夜、山道の下で灯を分けるんです。帰ってくる荷の列に。塩車にも、人にも」
自分の声が震えているのが分かった。
「広場の火とは別に、道の入口に灯を並べて……その灯を入れておく箱がありました。子どもの頃は、迎え灯の箱って呼んでました」
ナギは破片の欠けを指先でなぞる。
「村へ入る前の灯」
「はい。帰ってきた人が、道を見失わないように」
その言葉を口にした途端、女はようやく理解した。消されたのは家だけじゃない。帰るための灯そのものだったのだ。
エルネが布の端を押さえたまま言う。
「この割れ方、落としたんじゃありません。踏みつけて、箱の正面から壊してます」
ジンが鍋を止める気配がした。
誰もすぐには喋らない。
迎えるための箱を壊す。それは物を壊したというより、帰ってくる権利を砕いたに近かった。
女は膝の上で握っていた指を、一本ずつ開いた。
「歌も、入口で歌うんです」
ナギが顔を上げる。
「祭り歌?」
「ええ。迎え灯に火を移す時だけの短い歌です。広場で歌うものとは別で……でも、もう誰の前でも歌ってませんでした」
「ここで歌える?」
訊いたのはナギだった。優しい声ではない。ただ、記録する時の、逃がさないための声だった。
女は少し迷ってから、首もとの紐へ手をやった。服の内側から、小さな古い木札を引き出す。削れかけた祭印が残るそれを見た途端、胸の奥に押し込んでいた名前が、ようやく形を持った。
「……セツナは、宿で使っていた名です」
火のそばがしんと静まる。
「村では、マリベルって呼ばれていました。マリベル・シオン」
誰も驚いた顔をしなかった。
それがかえって、女にはありがたかった。名乗り直すことを、大げさな出来事にされたくなかったのだ。そこにあるものを、ただそこに戻すみたいに受け止めてほしかった。
リラが最初に頷いた。
「じゃあ、そう呼ぶわ」
エルネも小さく視線を下げる。
「記録、直しておきます」
ナギは何も言わず、依頼書の写しの余白へ短く書き足した。仮名セツナ、本人申告名マリベル・シオン。紙に走るその音だけで、マリベルの肩の力が少し抜ける。
彼女は木札を両手で包み、低く歌い始めた。
高くない。よく通るわけでもない。けれど細い火を風からかばうみたいな節だった。帰る者の足を、まだここに灯があると迎えるための短い歌。広場へ入る前、箱の蓋を開け、灯を分ける時だけ歌う声。
ジンは途中で何も足さず、鍋の湯気が収まるのを待っていた。リラは目を閉じずに聴いた。エルネは歌詞より拍を数えるみたいに指先を動かしている。ナギだけが、歌の終わり際に小さく息を呑んだ。
「どうしたの」
リラに問われ、彼はすぐには答えなかった。
代わりに懐からギルド証を出し、火のそばへ寄せる。くすんだ金属板の裏面、その端にある欠け印を親指で押さえた。
「この欠け方」
マリベルは身を乗り出した。
ギルド証の裏面には、摩耗した小さな円と、その内側へ沈む三本の線があった。完全な紋ではない。何かの印を削った跡みたいに半端な残り方だ。だが祭具箱の破片に残る線の角度と、奇妙なくらい似ていた。
「同じ、とは言えません」
エルネがすぐ釘を刺す。
「でも無関係とも言い切れないです。こっちは打刻、あっちは彩色の残り。由来まではまだ」
ナギは頷いたが、視線は外さなかった。
マリベルの村の迎え灯の箱にあった欠け紋が、どうして自分のギルド証の裏に残っているのか。
答えはどこにもない。けれど、ないはずの村の歌を今聞いた耳には、その沈黙のほうが不自然だった。
ジンが木椀をひとつずつ配る。
今度の汁は、干し果実の酸味が少し立ち、火の匂いがやわらいでいた。マリベルはひと口すすり、何も言えずに頷いた。村の祭りの味そのものではない。だが、誰かと同じ火を囲んで食べ直せる味だった。
番小屋の外で、山風がまた鳴る。
名を取り戻したばかりの女の歌と、欠けた紋を持つ記録官の沈黙と、迎え灯に似せた小さな鍋。
その夜、消された村はまだ地図へ戻っていない。
それでも火のそばには、帰ってきていい者の席が、ひとつ確かに空いていた。




