第九章 見えない視線
夜の王城は、昼とは別の顔を見せていた。
高い城壁は月明かりを拒むように影を落とし、門の前には静かな緊張が漂っている。
ノエルは通りの影に身を潜め、視線を城門へ向けていた。
昨夜と同じ時間。
外套の襟を握る手に、わずかに力が入る。
来るはずだ。
そう思っている自分がいる。
だが――来ない。
門は静かなまま。
通るのは衛兵と数台の荷車だけ。
時間だけが過ぎていく。
「……来ないか」
小さく息を吐く。
その夜は、それきりだった。
⸻
翌日も。
その次の日も。
ノエルは同じ場所で待った。
夜の冷気が骨に染みる。
門は開き、閉じる。
だが金色の髪は現れない。
四日目の夜、ノエルは肩の力を抜いた。
「……やっぱり、見間違いだったのかな」
そう口に出すと、不思議なほど現実味があった。
熱が冷めるように、胸のざわめきが落ち着いていく。
彼は踵を返した。
気づかないまま。
城壁の高窓から、自分が見下ろされていることに。
⸻
王城内、薄暗い執務室。
官僚が書類から目を上げる。
「……今日も、例の青年が嗅ぎ回っております。」
報告する兵士の声は抑えられている。
官僚は短く答えた。
「そうか」
それだけ。
椅子から立ち、窓辺へ歩く。
夜の街灯に照らされた通りに、青年の姿が見える。
官僚は無表情のままそれを眺める。
やがてカーテンを戻した。
「……引き続き、報告を」
「はっ」
部屋は再び静かになる。
⸻
昼の街は、夜の気配を知らない。
陽光が石畳を照らし、人々の声が重なる。
ルミエラはゆっくりと通りを歩いていた。
今日は教会ではなく、街の見回りだ。
足を痛めた老人の手に光を宿し、
転んだ子どもの擦り傷を癒やし、
困っている人の話に耳を傾ける。
「ありがとうございます、聖女様」
「いえ。どうかお大事に」
柔らかな微笑み。
その時、パン籠を抱えた青年が視界に入った。
「あ、ルミエラさん!」
ノエルが駆け寄ってくる。
「こんにちは、ノエルさん」
彼女は自然に笑った。
「今日は散歩ですか?」
「ええ、少しだけ街を」
「ちょうどいいところで会えました。新作なんです」
籠から小さなパンを差し出す。
「試作なんで、感想聞きたくて」
「まあ、嬉しいです」
受け取り、ひと口。
「……とても美味しいです」
素直な感想に、ノエルの顔が明るくなる。
「よかった!」
他愛ない会話が続く。
二人の間には、何の陰りもない。
周囲の喧騒すら、どこか遠く感じるほど穏やかな時間だった。
やがてノエルは配達を思い出し、慌てて手を振る。
「また!」
「ええ、また」
ルミエラは見送る。
笑顔のまま。
⸻
その夜。
ルミエラの部屋の扉が、静かに叩かれた。
開けると、床に封筒が置かれている。
見慣れた紙。
見慣れた筆跡。
彼女は拾い上げ、目を通す。
小さく頷く。
「承りました」
それだけを呟き、机に封筒を置いた。
月明かりが、静かに部屋を照らしていた。




