第三章 晩餐のあと
地下の部屋は、仕事が終わると急に静かになる。
先ほどまで響いていた声も、今は石壁に吸われたかのように消えていた。
拘束椅子の男は力なく項垂れている。身体に残るのは疲労だけで、損傷はひとつもない。皮膚は滑らかで、骨も関節も完全に整っている。
まるで何も起きていないかのようだった。
ルミエラ・ヴァレンティスは男の手を軽く持ち上げ、指の動きを確認する。
問題ない。
彼女は小さく頷いた。
「これで大丈夫です。しばらく休めば落ち着きますよ」
気遣うような声だった。
男は返事をしない。ただ虚ろな目で空間を見つめている。彼の呼吸だけが、ここに現実が残っていることを示していた。
記録係が書類をまとめる。
「任務完了です。ありがとうございます」
ルミエラは丁寧に一礼する。
「お役に立てて何よりです」
それだけ言うと、彼女は扉へ向かった。
地下室を出ると、冷えた空気が肌を撫でた。階段を上るごとに湿った匂いが遠ざかり、鉄の気配も薄れていく。
足音が一定の間隔で響く。
来た時と変わらない歩調。
仕事が終わっただけだ。
それ以上の意味はない。
地上へ戻ると、王城の空気は穏やかだった。夜の灯りが廊下をやわらかく照らしている。
侍従が深く頭を下げる。
「今夜もありがとうございました」
「こちらこそ、お世話になりました」
形式通りの礼。
それで全てが完結する。
王城の門を出ると、夜風が頬をなぞった。街は静かで、遠くから酒場の笑い声がかすかに聞こえる。
誰もがそれぞれの夜を過ごしている。
ルミエラもまた、その一人だった。
歩きながら、彼女は外套の内側に触れる。
そこには手紙がある。
白い封筒。整った文字。
――エドモンドより。今夜の晩餐にご招待します。
役目を終えた合図。
街灯の下で封を切る。
中身は空白だった。
文字は最初から存在しない。
ルミエラは静かにそれを眺める。
驚きはない。
この手紙は“連絡”という形式を取った目印に過ぎない。
エドモンドという人物は存在しない。
ただ仕事を示す名前。
それだけだ。
彼女は紙を折り、街灯の火にかざす。
炎がゆっくりと封筒を飲み込み、灰は夜風に溶けた。
それで終わり。
帰路は静かだった。
月光が石畳を照らし、彼女の影を長く伸ばす。
やがて辿り着いたのは、教会から少し離れた小さな家だった。飾り気はなく、整えられた住まい。
扉を開けると、生活の静けさが迎える。
外套を掛け、水で手を清める。
今日一日の痕跡は、もう残っていない。
ルミエラは椅子に腰を下ろし、短く息を吐く。
疲労という感覚は薄い。ただ、“仕事が終わった”という認識だけがある。
それで十分だった。
灯りを落とし、寝台に横になる。
瞳を閉じる。
地下の声も、教会の祈りも、同じ距離で遠ざかる。
夜は静かに流れていく。
やがてまた、光が訪れる。
彼女は目を覚まし、癒すだろう。
今日と同じように。
何の違いもなく。




