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『午後8時、あのガゼボで』 ~ムカつく第二王子に婚約破棄を言い渡されるたびに時間が巻き戻されて鬱陶しいので、100回目の記念に殴ったら、それを見ていた第一王子に求婚されてしまいました~

作者: 文月ナオ

 

 午後7時55分。


 私の人生が終わり、そしてまた始まる時間が近づいてくる。


 手元の懐中時計を見なくても分かる。


 あと5分もしないうちに、砂利を踏みしめる足音が聞こえてくるはずだ。


 ムカつく、()()()の足音が。


「……飽きたなぁ」


 ぽつりと漏れた言葉は、誰に聞かれることもなく夜闇に溶けた。


 何度目だろう。


 彼に裏切られ、断罪され、目の前が真っ暗になって、気づけば一年前の朝に戻っているのは。


 99回。


 そう、今日で99回目だ。


 前世の記憶――日本で働いていた頃の記憶があるせいか、私はこの状況をどこか客観的に見てしまう癖がある。


 まるで出来の悪い物語のようだ、と。



 でも、感じる痛みは本物だ。


 裏切られる悲しみも、絶望の味も、全部私の心が覚えている。


 最初は戸惑った。


 次は足掻いた。


 3回目は泣き叫び、4回目は冤罪を晴らそうと奔走し、5回目は逃亡を試みた。


 10回目あたりで、どうあがいても「午後8時の婚約破棄」というイベントが発生することに気づき、20回目には開き直って勉強に励んだ。


 宮廷マナー、歴史、経済、周辺国の言語。


 前世の効率重視の思考をフル活用し、最短ルートでスキルを習得していった。


 30回目には護身術を習い始め、50回目には暗殺術を極めた。


 60回目には古代魔法研究もした。


 80回目からは、もう習い事にも飽きて、暇つぶしに陶芸をしたり、新種の野菜を育てたりしていたけれど。


 結局、何をやっても戻される。


 この世界には強制力という名の見えない壁が存在した。


 どんなに能力を上げても、どれだけ根回しをしても、この「午後8時のガゼボ」で婚約破棄を突きつけられた瞬間、あるいは衛兵に取り押さえられた瞬間に、視界がプツリと途切れてしまう。


 そして目が覚めると、またあの婚約発表の朝に戻される。


 正直もう疲れた。


 どうせ戻るなら、いっそ何も感じない心になりたかったけれど、残念ながら私はまだ人間らしい感情を捨てきれていないらしい。


 カツ、カツ、カツ。


 足音が聞こえた。


 来たわね。


 私はゆっくりと顔を上げた。


 ガゼボの入り口に現れたのは、見慣れた金髪の美青年。


 第二王子ヘクトル。


 そしてその腕に寄り添う、金髪の侯爵令嬢エルマ。


 二人とも、まるで絵画のように美しいけれど、私にとっては時間を巻き戻す死神にしか見えない。


「時間通りだな」


 ヘクトルの声。


 かつては優しく名前を呼んでくれたその声は、今は氷のように冷たい。


「ええ、お待ちしておりましたわ」


 私は立ち上がり、淑女の礼をとる。


 震える指先をドレスのひだに隠して。


「クラリス・ルナ・ノクターン! 貴様との婚約を、この場を持って破棄する!」


 いつもの。


 一言一句、同じセリフ。


「理由は……分かっているな?」


「……エルマ様への、嫌がらせでしょうか?」


「そうだ! 貴様がエルマのドレスを切り裂き、社交会で恥をかかせたことは明白!」


「とても悲しかったです……ヘクトル様ぁ」


 エルマが芝居がかった仕草でヘクトルの胸に顔を埋める。


 その隙間から覗く瞳が、嘲るように私を見ていた。


 知ってます。


 全部、貴女がやったことだって。


 でも、それを証明する時間は、もう私には残されていない。


「衛兵! この女を捕らえよ!」


 いつも通り、用意された衛兵たちが現れる気配がする。


 ああ、捕まる。


 私の意識が、恐怖と絶望で塗りつぶされそうになる。


 ……でも。


 ふと、自分の中で何かが切れる音がした。


 プツン、と。


 99回分の我慢と、諦めと、悲しみが、限界を超えて溢れ出したのだ。


 どうせ終わるし。


 どうせ、またあの朝に戻されるだけだし。


 だったら。


 最後に一度くらい、私の本当の気持ちをぶつけてもいいんじゃないか?


 淑女らしく?


 王族に敬意を?



 はっ。笑える。



 そんなもの、知ったことじゃない。


「……ねえ、ヘクトル様」


 私は一歩、前に踏み出した。


 意識が途切れるまでの、ほんの数秒。


 それが私の最後の自由時間だ。


「なんだ、往生際の悪い」


「ずっと、言いたかったことがあるんです」


 私は右手を握りしめた。


 爪が掌に食い込むほど強く。


 固く。


「貴方は、私の話なんて一度も聞いてくれなかった」


「何?」


「私の言葉よりも、その子の嘘を信じた。99回も、ずっと!」


「何を訳の分からないことを……」


「うるさいっ! 今、私のターンでしょうが!」


 私は叫んだ。


 そして、ドレスの裾を蹴り上げ、大理石の床を踏み切った。


 これは、ただの暴力だ。


 ただの、一人の女の怒りだ。


「なっ、貴様!?」


 驚愕に目を見開くヘクトルの懐へ、私は飛び込んだ。


 狙うは一点。


 その綺麗な顔の、顎の先端。


「私の青春(時間)を、返せぇぇぇぇっ!!」


 ゴッ!!


 鈍く、重い音が響いた。


 私の拳が、ヘクトルの顎を完璧に捉えた音だ。


「がっ……!?」


 ヘクトルが白目を向き、身体がくの字に折れ曲がる。


 脳を揺らされた彼は、そのまま為す術もなく後方へと吹き飛んだ。


 ガシャン!!


 背後のテーブルをなぎ倒し、ティーセットを粉々に砕きながら、彼は地面に転がった。


 そして、ピクリとも動かなくなる。


「ひっ……!?」


 エルマが悲鳴を上げて飛び退いた。


 拳がジンジンと痺れている。


 痛い。


 人を殴るって、こんなに痛いんだ。


 でも、それ以上に。


「……はぁ、はぁ」


 胸のつかえが、ほんの少しだけ取れた気がした。


 やってしまった。


 王族に手を上げた。


 これでもう、おしまいだ。


 ま。どうせ戻るし。別にいっか。


 さあ、戻りなさいよ。


 私は目を閉じて、その時を待った。


 世界の崩壊を。


 時間の逆行を。


 あの、忌々しくも懐かしい目覚めの朝を。




 …………。






 ……………………。






「……あれ?」




 いつまで経っても、視界が暗転しない。


 目を開ける。


 そこには、白目を剥いて倒れているヘクトルと、腰を抜かして震えているエルマ。戸惑う衛兵。


 そして、ざわめく風の音。


 時間が、進んでいる?


「ど、どうして……?」


 いつもなら、婚約破棄が決定的になった瞬間に戻されるのに。


 私が呆然と自分の拳を見つめていると。


「……ふっ」


 背後から、誰かの笑う声が聞こえた。


「くくっ、あはははは!」


 低く、けれど楽しげな笑い声。


 振り返ると、ガゼボの入り口の影に、一人の男が立っていた。


 夜闇よりも深い黒髪。


 夕焼けのような深紅の赤い瞳。


「オ、オスカー様……?」


 第一王子、オスカー・フランツ・バーンスタイン。


 ヘクトルのお兄様であり、この国で最も恐ろしいとされる方。『氷の王子』。


 彼が、お腹を抱えて笑っている。


「素晴らしい! 実に見事な一撃だった! あんなに綺麗に弟の顎を打ち抜くなんて、騎士団長でもそうそうできないぞ」


「え、あ、あの……」


「君、名は?」


 オスカー様が、涙を拭いながら私に近づいてくる。


 その瞳は、獲物を見つけた肉食獣のように鋭く、それでいて熱を帯びていた。


「ク、クラリスです。クラリス・ルナ・ノクターン」


「クラリス嬢か。覚えた」


 彼は私の目の前まで来ると、スッと手を伸ばしてきた。


 殴られる、と思った。


 けれど、彼の手は私の赤くなった右拳に触れ、優しく包み込んだのだ。


「痛かっただろう? 人を殴るというのは、自分も傷つくということだからな」


「え……?」


 予想外の言葉に、思考が追いつかない。


 彼は私の手を愛おしげに撫でると、ニヤリと唇を吊り上げた。


「気に入った」


「はい?」


「その度胸、その激情。そして何より、馬鹿な弟に見切りをつけたその判断力。……俺が貰い受けよう」


「も、貰い受けるって……逮捕、ですか?」


「いや」


 オスカー様は、私の手を引いて強引に抱き寄せた。


 甘い、香水の匂いが鼻をくすぐる。


 耳元で、悪魔の囁きのような低音が響いた。


「俺の婚約者になれ、と言っているんだ」


「……はぁぁぁぁ!?」


 私の素っ頓狂な声が、夜の庭園に響き渡る。


 腰を抜かしているエルマも、衛兵たちも、全員が口をあんぐりと開けていた。


 でも、オスカー様だけは、まるで宝物を見つけた子供のように、楽しそうに笑っていたのだ。


「拒否権はないぞ。何しろ君は、現行犯だからな」


「そ、そんな無茶な!」


「無茶? いい響きだ」


 彼は私の腰に手を回すと、軽々と持ち上げた。


 いわゆる、お姫様抱っこだ。


「ちょ、降ろしてください!」


「暴れるな。……それとも、俺にもアレをお見舞いしてくれるのか?」


 挑発するような視線に、私は言葉を失う。


 心臓が、先ほどとは違うリズムで激しく跳ねていた。


 恐怖じゃない。


 これは、何?


「さあ、行こうか」


 こうして。


 私の記念すべき100回目の人生は、処刑エンドでもループでもなく、この国で一番危険な男による拉致という、全く予想外のルートへと分岐したのだった。





 ◇◆◇





 連れてこられたのは、王宮の奥にあるオスカー様の私室だった。


 豪奢な調度品に囲まれた部屋で、私はソファに座らされ、温かいハーブティーを出された。


「落ち着いたか?」


 向かいのソファに座ったオスカー様が、優雅に脚を組みながら問いかけてくる。


「……いえ、全く」


 私は正直に答えた。落ち着けるわけない。状況が飲み込めない。


 なぜ、私はここにいるのか。

 なぜ、まだ生きているのか。


「君は、不思議な目をしているな」


 オスカー様が、探るような視線を向けてくる。


「まるで、世の中の全てを諦めているような、それでいて何かに抗おうとしているような……老成した老人のような目だ」


 ドキリとした。


 前世の記憶と、99回のループ。


 それが私の瞳に影を落としていることを見抜かれたのだろうか。


「……私は、ただの公爵令嬢です」


「ただの令嬢が、王族の顎をあんな風に砕いたりはしないと思うが?」


 彼は楽しそうに笑う。


「俺はずっと探していたんだ。この退屈で腐敗した王宮で、俺と同じように『何か』を変えたいと願っている人間を」


「変える……?」


「ああ。俺は、この国を変えるつもりだ。弟のような無能がのさばり、エルマのような狐が幅を利かせる、このふざけた現状をね」


 彼の瞳に宿る光は、冷たく鋭い。


 けれど、そこには確かな熱があった。


「クラリス。君のその『強さ』が必要だ。俺の隣で、俺と共にこの国をひっくり返してみないか?」


 それは、プロポーズというにはあまりにも物騒で。


 けれど、私の荒んだ心には、どんな甘い言葉よりも響いた。


 国を変える。


 もしそれが本当にできるなら。


 私が囚われているこのループの原因も、何か分かるかもしれない。


「……もし、お断りしたら?」


「君は弟への不敬罪で牢屋行きだろうな」


「そ……それは……ずるいです」


 ループすると思って殴っちゃったから、後先なんて全く考えてなかったし……。


「王族とはそういうものだ」


 彼は悪戯っぽくウインクをした。


 その仕草があまりにも様になっていて、私は思わず顔が熱くなるのを感じた。


 悔しいけれど、格好いいと思ってしまったのだ。


「……条件があります」


「何でも言ってみろ」


「私の家族には手を出さないこと。そして……」


 私は彼を真っ直ぐに見つめた。


「私がまた『飽きた』と思ったら、その時は遠慮なく貴方も殴ります」


 一瞬の沈黙。でも、私だって良いようにされるだけはごめんだ。私にも意地がある。


 まあ……ただの、ハッタリだけど。


 オスカー様は声を上げて笑った。


「ハハハ! いいだろう! その時は甘んじて受け入れよう」


 彼は立ち上がり、私の手を取った。


 そして、今度は手の甲ではなく、指先に口付けた。


「契約成立だ。……よろしく頼むよ、婚約者殿」


 指先に触れた唇の熱さが、身体中に広がっていく。


 ああ、どうしよう。


 まだドキドキしている。


 これが吊り橋効果というやつなのか、それとも。


「……お手柔らかにお願いします。殿下」


 私は赤くなる顔を隠すように俯いた。





 ◇◆◇




 チュン、チュン。


 小鳥のさえずりが聞こえる。


 カーテンの隙間から差し込む朝日で、私は目を覚ました。


「……ん」


 重たい瞼を持ち上げる。


 見慣れた天蓋付きのベッド。


 肌触りの良いシルクのシーツ。


 いつもと同じ風景だ。


 けれど、決定的に違うことが一つだけあった。


「……時計」


 私はサイドテーブルに置いてある魔道具の時計に手を伸ばした。


 時刻ではなく、表示されている日付を確認する。


 いつもなら、「婚約発表の日」の日付に戻っているはずだけど、しっかりと「翌日」を示している。


「進んでる……」


 声が震えた。


 進んでいる。


 時間が、未来が、明日が来ている。


 たったそれだけのことが、こんなにも嬉しいなんて。


 私はベッドの上でガッツポーズをした。


「やった……やったわ! ループ脱出ー!」


 99回。


 長かった。


 本当に長かった。


 あの忌々しいガゼボの夜を越えて、私はついに新しい朝を迎えたんだ!


「お嬢様? 失礼いたします」


 コンコン、とノックの音がして、専属メイドのマリーが入ってきた。


 彼女は私の顔を見るなり、驚いたように目を丸くした。


「あら、お嬢様。今日はずいぶんとご機嫌麗しゅうございますね」


「ええ、最高の気分よ、マリー」


「それは良かったです。……ですが、その、昨夜の件で、旦那様がお話があるそうです」


 マリーの言葉に、私は現実に引き戻された。


 そうだった。


 私は昨夜、第二王子ヘクトルの顎を砕き、第一王子オスカー様に拉致され、あまつさえプロポーズ(仮)されたのだった。


 ループが終わった喜びで忘れかけていたけれど、私の立場は今、崖っぷちどころか空中に浮いているような状態だ。


「……お父様が?」


「はい。食堂でお待ちです」


 私は覚悟を決めて着替えた。


 いつもより少し背筋を伸ばして、食堂へと向かう。


 父であるノクターン公爵は、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。


 その表情は険しい。


「お、おはようございます、お父様」


「……ああ、クラリスか。座りなさい」


 父は新聞を畳んで、私をじっと見つめた。


 怒鳴られるだろうか。

 それとも、勘当だろうか。


 どちらにせよ、甘んじて受け入れるつもりだった。


「クラリス。お前、昨夜……」


 父が重々しく口を開く。


「ヘクトル殿下を殴り飛ばしたそうだな?」


「は、はい。顎を……砕きました」


「……そうか」


 父は深いため息をついた。

 そして、眉間を揉みながら言った。


「よくやった」


「……はい?」


 予想外の言葉に、私は首を傾げた。


「よ、よくやった、ですか?」


「うむ。実はな、今朝一番でオスカー殿下から使いが来たのだ」


 父は手元にある封蝋のされた手紙を指差した。


「『クラリス嬢の行動は、全て私の指示によるものである。よって、ノクターン公爵家への問責は一切無用』とな」


「えっ……」


「さらに、『愚弟がクラリス嬢に対して行っていた数々の不誠実な行為についても、現在調査中である』とも書かれている。……つまりだ、お前は第一王子の名代として、あの愚か者に鉄槌を下したという体裁になっているのだ」


 オスカー様。


 あの人、本当に根回しが早すぎる。


 昨夜別れたばかりなのに、もうそんな手を打っていたなんて。


「それにしても、顎を砕くとはな……。お前、いつの間にそんなに強くなったんだ?」


「……淑女の嗜みですわ」


 時間だけはあったんです……。お父様……。


「ノクターン家の淑女の定義を見直さねばならんな」


 父は苦笑いをして、コーヒーを啜った。


「まあいい。オスカー殿下が後ろ盾になってくださるなら、我が家としても悪い話ではない。……ただし、あの方は『氷の王子』と呼ばれるほどのお方だ。くれぐれも気分を害さぬように。……粗相のないようにな」


「はい、肝に銘じます」


 私は胸を撫で下ろした。


 どうやら、家族への被害は回避できたらしい。


 約束を守ってくれたオスカー様に、少しだけ感謝の気持ちが湧いてきた。


 少しだけ、だけど。





 ◇◆◇





 朝食を済ませた私は、馬車に揺られて王立学園へと向かった。


 99回も通った学園。


 教科書の内容なんて全部暗記しているし、先生の雑談のオチまで知っている。


 正直、退屈極まりない場所だった。


 でも、今日は違う。


 校門をくぐった瞬間、突き刺さる視線の種類が変わっていたのだ。


 いつもなら、「婚約破棄されそうな悪役令嬢」を見る嘲笑の目。

 ま、それも全てあのエルマの根回しによる根も葉もない噂によって作り上げられた偽物の私だけど。


 けれど今は。


「見ろよ、あれが……」


「ヘクトル殿下を殴ったって本当か?」


「まさか、そんなことまでするなんて……」


「でも、殿下は今日、欠席だそうだぞ」


「す……すごい……そこまで悪の道を極めてると、むしろ尊敬の念すら……」


 驚愕、恐怖、そして好奇心。


 ヒソヒソという話し声が、波のように広がっていく。


 私は扇で口元を隠し、優雅に廊下を歩いた。


 背筋はピンと伸ばす。


 何があっても堂々としているのが、悪役令嬢――じゃなくて、公爵令嬢の務めだ。


 教室に入ると、空気が一瞬で凍りついた。


 クラスメイトたちが、一斉に私を見る。


 その視線の中を、私は自分の席へと向かった。


 私の席は、窓際の一番後ろ。


 隣の席は空席だ。


 いつもならヘクトルが座っている場所だが、今日はもちろんいない。


 顎が砕けていては、登校できるはずもないだろう。


「……おはようございます」


 私が挨拶をすると、数人がぎこちなく「お、おはよう」と返してきた。


 その時だ。


 バァン! と教室の扉が乱暴に開かれた。


 入ってきたのは、金髪の巻き髪を揺らした少女。


 エルマだ。


 彼女は肩で息をしながら、私の方へと一直線に向かってきた。


「クラリス様っ!!」


 甲高い声が教室に響く。


 彼女は私の机の前で立ち止まり、バンと両手を机に叩きつけた。


「よくも……よくも、ヘクトル様をあんな目に!!」


 彼女の目は赤く腫れていた。


 昨夜の恐怖から立ち直り、怒りに変換して乗り込んできたらしい。


 その胆力だけは認めてあげてもいい。


「ごきげんよう、エルマ様。朝から騒々しいですわね」


 私は座ったまま、冷ややかに彼女を見上げた。


「ごきげんよう、じゃありませんわ! ヘクトル様は今、王宮医の治療を受けていらっしゃいますのよ! 全治3ヶ月の重傷ですわ! 顎の骨が複雑骨折していて、流動食しか食べられないんですって!」


「あら、それはお気の毒に。ダイエットになって丁度よろしいのではなくて?」


「なっ……! なんて酷いことを!」


 エルマはわなわなと震え、周囲の生徒たちに助けを求めるように振り返った。


「皆さん、聞いてください! この女は悪魔ですわ! 未来の国王になられる殿下に暴力を振るい、あまつさえ反省の色も見せないなんて!」


 教室がざわつく。


 確かに、常識で考えれば私は大罪人だ。


 エルマの言い分の方が正しいように聞こえるだろう。


「私、怖くて……昨日の夜も眠れませんでしたの。こんな野蛮な方が、同じ教室にいるなんて……」


 エルマが嘘泣きを始める。


 その目からポロポロと涙がこぼれる演技力は、99回見ても見事なものだ。


 何人かの男子生徒が、正義感に駆られたような顔で立ち上がりかけた。


「おい、いくらなんでも言い過ぎじゃないか?」


「謝れよ、クラリス」


 ああ、面倒くさ。


 いつもなら、ここで私が孤立して終わるパターンだ。


 でも、今の私は、あの頃の私とは違う。


 私は立ち上がった。


 ゆっくりと、エルマに顔を近づける。


「……野蛮、とおっしゃいました?」


「そ、そうですわ! 殿下を殴るなんて、野蛮人のすることです!」


「ではお聞きしますが、エルマ様」


 私は声を潜め、彼女にだけ聞こえる音量で囁いた。


「貴女が裏で横流ししている生徒会の予算と、実家の侯爵家が関わっている違法薬物の密売ルートについては、なんと弁明なさるおつもり?」


 ピタリ。


 エルマの涙が止まった。


 顔色が、みるみるうちに青ざめていく。


「な、何を……」


「証拠は全部揃っていますわ。帳簿の隠し場所も、取引の日時も、協力者の名前も。……暇でしたもので、ついうっかり、90回以上も調べ上げてしまいまして、暗唱だってできますのよ?」


「き、きゅうじゅう……?」


「私がその気になれば、貴女を社会的に抹殺することなんて造作もないことですの。……ねえ、どちらが本当の『野蛮』かしら?」


 私はにっこりと微笑んだ。


 エルマは喉をヒューヒューと鳴らし、後ずさりをした。


「ひ、ひぃ……」


 彼女は完全に怯えていた。


 私の言葉がハッタリではないと、本能で悟ったのだろう。


「分かったら、私の視界に入らないでいただけます? 目障りですの」


 私が冷たく言い放った、その時だった。


「――そこまでだ」


 凛とした、よく通る声が教室の入り口から聞こえた。


 空気が変わる。


 先ほどまでのざわめきとは違う、絶対的な支配者が現れた時の静寂。


 全員が入り口を見る。


 そこに立っていたのは、漆黒の制服を着崩すことなく纏った、オスカー様。


「オ、オスカー殿下……?」


 誰かが震える声で呟いた。


 学生でもない彼が。王太子の執務で忙しい彼が。


 こんなところに来るはずがない。


 オスカー様は、凍りついた生徒たちの間を悠然と歩き、私の隣までやってきた。


 そして。


「迎えに来たぞ、クラリス」


 当然のように私の腰を引き寄せ、身体を密着させた。


「ひゃいっ!?」


 変な声が出た。


 教室中が息を飲む音が聞こえる。


「で、殿下!? こ、これは一体……」


 エルマが目を白黒させている。


 オスカー様は、氷のような冷たい視線をエルマに向けた。


「何か文句があるのか? 侯爵令嬢」


「い、いえ! ですが、その女はヘクトル殿下を……!」


「ああ、弟が世話になったな」


 オスカー様は鼻で笑った。


「弟が不甲斐ないばかりに、私の婚約者に手を汚させてしまった。その件については、兄として詫びよう」


「こ、婚約者ぁぁぁ!?」


 エルマだけでなく、教室中の全員が叫んだ。


「そ、そんな……嘘ですわ! だって、クラリス様はヘクトル様の……」


「弟との婚約は、昨夜正式に破棄された。そして今朝、国王陛下(父上)の裁可を得て、私とクラリス・ルナ・ノクターンの婚約が成立した」


 オスカー様は、私の肩を抱く手に力を込めた。


 その体温が、シャツ越しに伝わってくる。


「つまり、彼女は未来の王太子妃だ。……彼女に対する侮辱は、私に対する侮辱と受け取るが、それでも構わないか?」


 鋭い眼光。


 それは、教室にいる全員を威圧する覇気そのものだった。


 誰も何も言えない。


 エルマは腰を抜かし、ガタガタと震えてその場にへたり込んだ。


 オスカー様は満足げに頷くと、私を見下ろして甘く微笑んだ。


 その表情のギャップに、私の心臓がドキンと跳ねる。


「さあ、行こうかクラリス。少し話がある」


「は、はい……」


 私は彼にエスコートされ、呆然とするクラスメイトたちを残して教室を出た。


 背後から、悲鳴のようなざわめきが爆発するのを聞きながら。




 ◇◆◇




 連れてこられたのは、学園の中庭にある温室だった。


 ここは普段、鍵がかかっていて生徒は立ち入れない場所だ。


 色とりどりの花が咲き乱れる中、オスカー様は私の手を離した。


「……ふぅ、驚かせてすまなかったな」


 彼は苦笑いをして、先ほどまでの威圧的なオーラを消した。


「い、いえ……助かりましたけれど」


 私はドキドキする胸を押さえた。


「本当に、正式に、婚約が成立したのですか?」


「ああ。親父――いや、陛下には話を通しておいた。『弟を物理的に制裁できるほど気骨のある令嬢は彼女しかいない。彼女を逃せば、王家は終わりだ』と説得してな」


「どんな説得ですか……」


 呆れつつも、彼の手腕には舌を巻く。


 たった一晩で、外堀を埋められてしまった。


「それに、嘘ではないだろう? 俺と君は共犯者だ」


 オスカー様は、私の髪を一房掬い上げ、指先で遊んだ。


 その距離が近い。


 近すぎる。


 甘い薔薇の香りがする。整いすぎた顔立ちが眩しすぎる。


 ルビーより美しい深紅の瞳の引力が強すぎる!


 昨日のガゼボの匂いとは違う、もっと上品で、心地よい香り。


「クラリス。俺は、君が欲しい」


 真っ直ぐな瞳。


 その瞳に、私の顔が映っている。


「君の強さも、賢さも、そして時折見せるその寂しげな表情も。……全部、俺だけのものにしたい」


「……っ」


 言葉が出ない。


 99回の人生で、愛を囁かれたことなんて一度もなかった。


 ヘクトルの言葉はいつも薄っぺらくて、私への言葉は嘘にまみれていた。


 でも、目の前のこの人の言葉は。


 重い。


 そして、熱い。


「……私は、可愛げのない女ですよ?」


 精一杯の強がり。


「知っている。昨日、弟の顎を砕いたのを見たからな」


「夢も希望もない、現実主義者です」


「俺もだ。気が合うな」


「……貴方の思い通りになるつもりはありません」


「それでいい。言いなりになる人形なら、そこらに掃いて捨てるほどいる」


 オスカー様は、私の頬に手を添えた。


 親指が、唇の端をなぞる。


「抗ってみろ、クラリス。運命にも、世界にも、そして俺にも。……俺を飽きさせないでくれ」


 それは、宣戦布告のような、求愛だった。


 私の心臓が、早鐘を打つ。


 怖い。


 この人は危険だ。


 関われば、きっと平穏な人生なんて送れない。


 でも。


「……望むところですわ」


 私は彼の瞳を見つめ返した。


 退屈なループより、刺激的な破滅の方がマシだ。


 それに、この人の隣なら。


 見たことのない景色が見られるかもしれない。


 オスカー様は、満足そうに目を細めると、ゆっくりと顔を近づけてきた。


 唇が触れそうな距離。


 私は思わず目を閉じて――。


「――おっと、邪魔が入ったか」


 不意に、オスカー様が身を引いた。


 目を開けると、彼は温室の入り口の方を見ていた。


 そこには、息を切らした近衛騎士が立っていた。


「で、殿下! ここにいらっしゃいましたか! 緊急の事案が発生しました!」


「チッ……間の悪い」


 オスカー様は露骨に舌打ちをした。


 さっきまでの甘い雰囲気はどこへやら、彼は瞬時に「氷の王子」の顔に戻る。


「クラリス、すまない。公務だ」


「……はい」


 正直、ホッとしたような、残念なような。


「放課後、また迎えに来る。……逃げるなよ?」


 彼は私の耳元でそう囁くと、翻って騎士と共に去っていった。


 残された私は、温室の花々の中で一人、へなへなと座り込んだ。


「……心臓に悪い」


 自分の唇に触れる。


 まだ熱い。


 これが、恋?


 いいえ、まさか。


 これは単なる恐怖と興奮のせいよ。


 そう自分に言い聞かせても、頬の熱はなかなか引いてくれなかった。





 ◇◆◇





 放課後。


 校門の前には、既に黒塗りの豪奢な馬車が停まっていた。


 王家の紋章が入ったその馬車を見て、下校中の生徒たちが遠巻きにざわめいている。


 私はため息を一つつき、逃げ出したい衝動を抑えて馬車へと近づいた。


「お待ちしておりました、クラリス様」


 御者が恭しく扉を開ける。


 中を覗くと、そこには書類に目を通しているオスカー様の姿があった。


「……乗れ」


 彼は視線を書類から外さずに、短く言った。


 私はドレスの裾を持ち上げ、静かに乗り込む。


 扉が閉まると、外の喧騒が嘘のように遮断された。


 馬車が動き出す。


「……公務は、終わられたのですか?」


 沈黙に耐えきれず、私から声をかけた。


 オスカー様は書類を閉じ、ふぅと息を吐いて眉間を揉んだ。


「終わらせてきた。……君との時間を確保するために、3日分の仕事を3時間で片付けたよ」


「3日分……」


 それは過労死ラインなのでは?


 私の心配をよそに、彼は疲れた顔を一瞬で消し、いつもの不敵な笑みを浮かべた。


「それより、顔色が悪いな。……学園で何かあったか?」


「いえ、特には。ただ、皆の視線が少し痛かっただけです」


「慣れろ。俺の隣に立つなら、その程度の視線は日常茶飯事だ」


 彼は自然な動作で、私の隣に移動してきた。


 そして、私の手を握る。


 その手は大きくて、温かい。


「今日はこのまま、寄るところがある」


「寄るところ?」


「『ラ・ベル・フルール』だ。知っているだろう?」


 王室御用達の、超一流ドレス店だ。


「来週の夜会のために、君のドレスを新調する」


「夜会……?」


「ああ。俺たちの婚約披露を兼ねた、王家主催の夜会だ。そこで君を正式に社交界へ紹介する」


 展開が早すぎる!


 私は99回の人生で、社交界には何度も出ているけど、それはあくまで「ヘクトルの付属品(アクセサリー)」としてだった。


 第一王子の婚約者として、主役の座に立つなんて経験はない。


「……お断りする権利は?」


「ない。俺が選んだ女がどれほど美しいか、あの愚か者たちに見せつけてやらねば気が済まない」


 まるで子供のような言い草だ。


 でも、その横顔は楽しそうで、私は文句を言う気力が削がれてしまった。




 ◇◆◇




「さあ、降りようか」


 オスカー様にエスコートされ、店へと入る。


 店内は、目が眩むようなドレスの数々で埋め尽くされていた。


「あらあら! オスカー殿下ではありませんか!」


 奥から、派手な扇子を持った恰幅の良い女性が現れた。


 この店のオーナー、マダム・ローザだ。


「珍しいことですわねぇ。殿下がご自身で女性をお連れになるなんて」


 マダムは興味津々といった様子で、私を値踏みするように見た。


「初めまして、お嬢様。……あら? 貴女は確か、ノクターン公爵家の……」


「クラリスだ。俺の婚約者になる」


 オスカー様が遮るように言った。


 マダムの目が点になる。


「こ、婚約者!? ヘクトル殿下ではなく!?」


「弟との縁は切れた。彼女は俺のものだ。……マダム、彼女に一番似合うドレスを頼む。金に糸目はつけない」


「お、俺のものって……」


 私が小声で抗議しようとすると、マダムの目がキラリと光った。


「承知いたしましたわ! 殿下がそこまで惚れ込んだ女性、私の腕によりをかけて美しく変身させてみせます!」


 マダムに背中を押され、私は試着室へと連行された。


 そこからは、着せ替え人形状態だった。


「これもお似合い!」


「いや、こっちのラインの方が身体の線が綺麗に出るわ!」


「肌の色が白いから、深みのある色が映えるわねぇ」


 マダムと店員たちの熱量に圧倒されながら、次々とドレスを着せ替えられる。


 99回のループで、ドレスなんて着飽きていたはずなのに。


「……綺麗」


 鏡に映った自分を見て、思わず呟いてしまった。


 今、私が着ているのは、深い真紅のドレス。


 シンプルだが、計算し尽くされたカッティングが、私の身体を優雅に包み込んでいる。



 背中は大胆に開いていて、少し恥ずかしいけれど、肌の白さが際立って見える。


「よし、これにしましょう」


 マダムが満足げに頷き、カーテンを開けた。


 ソファで待っていたオスカー様が、顔を上げる。


 彼の目が、少しだけ大きく見開かれた。


 そして、ゆっくりと立ち上がり、私の方へと歩いてくる。


「……どう、ですか?」


 自信なさげに聞くと、彼は私の目の前で立ち止まり、吐息のような声で言った。


「……美しい」


 お世辞ではない、心の底からの言葉のように聞こえた。


 彼は私の手に触れ、その指先にキスを落とす。


「やはり、君には赤が似合う。……俺の瞳と同じ色だ」


「オスカー様の、色……」


「そうだ。これで誰が見ても、君が誰のものか一目瞭然だな」


 独占欲の塊のような言葉。


 でも、不思議と嫌な気はしなかった。


 ヘクトルはいつも、自分が目立つことばかり考えていて、私のドレスなんて見ていなかった。


 だから、こんな風に真っ直ぐに見つめられると、どうしていいか分からなくなる。


「……オスカー様は、お上手ですね」


「本心しか言っていない」


 彼は私の腰に手を回し、鏡越しに並んで立った。


 黒い軍服の彼と、赤いドレスの私。


 その対比は、まるで物語の挿絵のように鮮やかだった。


「このドレスで、夜会の全てを黙らせてやろう。……君を傷つけた連中が、後悔で血の涙を流すくらいにな」


 鏡の中の彼は、獰猛に笑っていた。


 ああ、この人は本気だ。


 本気で、私を守ろうとしてくれている。


 その事実に、私の胸の奥がじんわりと温かくなった。





 ◇◆◇





 そして、夜会当日。


 王宮の大広間は、数百人の貴族たちで埋め尽くされていた。


 シャンデリアの輝き、グラスが触れ合う音、香水の入り混じった甘い匂い。


 99回繰り返した光景だが、今日の空気は明らかに違っていた。


 全員の視線が、私たちの方へ向けられている。


「……緊張しているか?」


 扉の前で、オスカー様が私の顔を覗き込んだ。


 今日の彼は、勲章をつけた正装の軍服姿。


 その凛々しさは、間違いなくこの会場の誰よりも輝いている。


「少しだけ」


 私は正直に答えた。


「大丈夫だ。君は堂々としていればいい。何かあれば俺が斬る」


「斬らないでください。血でドレスが汚れます」


「ハハッ、違いない」


 軽口を叩き合えるくらいには、私たちの距離は縮まっていた。


「……なあ、クラリス」


 ふと、彼が真面目なトーンで言った。


「そろそろ、俺の名前を呼んでくれないか」


「え?」


「『殿下』や『オスカー様』じゃなくて。……ただ、オスカーと」


 彼は少し照れくさそうに視線を逸らした。


「婚約者なのだから、それくらい許されるだろう」


 その不器用な要求が愛おしくて、私は小さく微笑んだ。


「……努力します。オスカー」


 呼び捨てにすると、心臓がトクンと跳ねた。


 彼の顔がパッと明るくなる。


「ああ。……いい響きだ」


 ファンファーレが鳴り響く。


 重厚な扉がゆっくりと開かれた。


「行こうか。クラリス」


「はい。オスカー」


 彼が腕を差し出す。


 私はその腕にしっかりと手を添え、光の中へと足を踏み入れた。


 一歩入った瞬間、会場中の視線が私たちに突き刺さった。


 驚嘆、羨望、そして嫉妬。


「あれが、ヘクトル殿下を殴ったという……」


「なんと美しい。まるで薔薇の精だ」


「隣におられるのはオスカー殿下か? あんなに優しげな顔をされるなんて」


 ざわめきが波のように広がる。


 私は背筋を伸ばし、オスカーの隣に相応しい微笑みを浮かべて歩いた。


 これは戦場だ。


 99回のループで学んだ。


 貴族社会というのは、笑顔で斬り合う戦場なのだと。


 ファーストダンスが始まった。


 曲は、テンポの速いワルツ。


 難易度の高い曲だが、今の私には造作もないことだ。


 オスカーの手が私の腰を導く。


 そのリードは力強く、完璧だった。


「踊れるか?」


「ええ。貴方の足手まといにはなりません」


 私たちは回る。


 真紅のドレスが花のように開き、黒い軍服がそれを支える。


 ステップの一つ一つが、吸い付くように噛み合う。


 まるで、何年も前からパートナーだったかのように。


「……驚いたな」


 回転の最中、オスカーが囁いた。


「ここまで踊れるとは。完璧なステップだ」


「伊達に公爵令嬢をやっていませんから」


 嘘だ。


 本当は、40回目のループで王立舞踊団の元プリマドンナに弟子入りして、血の滲むような特訓をしたからだ。


「いいや、これは教わってできるレベルじゃない。……君の才能か、それとも努力か」


 彼は楽しそうに目を細めた。


 曲が終わる。


 会場中から、割れんばかりの拍手が巻き起こった。


 私たちは優雅に礼をした。


 最高の滑り出しだ。


 そう思った矢先だった。


「素晴らしいダンスでしたね。殿下、そして……ノクターン公爵令嬢」


 ねっとりとした声が割り込んできた。


 振り返ると、そこには異国の衣装を纏った男たちが立っていた。


 褐色の肌に、派手な装飾品。


 南の大国、ガルディア帝国の使節団だ。


 そして、その中心にいる男は、ヘクトルと個人的に親しかったはずの第三皇子、ザイード。


「お久しぶりです、殿下。……まさか、私の友人であるヘクトル殿下を病院送りにした野蛮な女性が、貴方のパートナーだとは」


 ザイード皇子は、侮蔑の色を隠そうともせずに私を見た。


 会場の空気が凍りつく。


 これは、明らかな挑発だ。


 オスカーの眉がピクリと動く。


 彼が口を開きかけた時、私はスッと一歩前に出た。


 そして、流暢なガルディア語で返した。


『お初にお目にかかります、ザイード殿下。野蛮とおっしゃいますが、我が国には“愛の鞭”という言葉がございます。私と言う婚約者がありながら、他の女性と関係を持っていたヘクトル殿下の目を覚まさせるには、少々荒療治が必要だっただけのこと』


 ザイード皇子の目が丸くなった。


 周囲の貴族たちも、私が何を言ったのか分からずざわついている。


 ガルディア語は難解で知られ、通訳なしで話せる者は少ない。


『なっ……貴様、なぜ我が国の言葉を?』


『嗜みですわ』


 私は微笑んだ。


 25回目のループで、ガルディアの文学にハマって原書を読み漁ったおかげだ。


『それに、殿下。先ほど召し上がっていたワイン……あれは今年の新作ですが、ガルディアの方には少々酸味が強すぎるのでは? あちらにご用意してある古酒の方が、貴国の“火酒”に近い味わいかと』


 私は会場の隅にあるワインを指し示した。


 それは、ガルディアの人間が好む、独特のスパイスを含んだ銘柄だ。


 ザイード皇子は驚愕の表情を浮かべた後、ふっと苦笑した。


『……ふん。言葉だけでなく、我が国の酒の好みまで知っているとは』


 彼は私を睨みつけるのをやめ、興味深そうに観察した。


『ヘクトルから聞いていたのとは違うな。「教養のない飾り人形」だと聞いていたが』


『殿下の目は、少々節穴だったようですわね』


『ハハハ! 違いない!』


 ザイード皇子は声を上げて笑った。


「気に入った。オスカー殿下、貴国には面白い花が咲いているようだ」


「……ああ。俺の自慢の花だ。頼まれてもやらんぞ。俺のものだ」


 オスカーが私の腰を引き寄せ、誇らしげに答える。


 危機は去った。


 いや、むしろ好機に変わった。


 その後も、私の「戦い」は続いた。


 わざとドレスの裾を踏もうとした令嬢の足を、ダンスのステップで華麗にかわし(30回目の護身術)。


 歴史論争をふっかけてきた老伯爵を、最新の学説と古代語の文献を引用して論破し(60回目の古代魔法研究)。


 次々と降りかかる「悪意」を、私は99回の人生で培ったスキルでなぎ倒していった。


 守られるだけの令嬢?


 いいえ、違う。


 今の私は、この場の誰よりも経験豊富な「強者」なのだ。


 私は、オスカーと肩を並べられる立派な女性になりたいんだ。




 ◇◆◇




 一通り挨拶を終え、私たちはバルコニーへと出た。


 夜風が火照った頬に心地いい。


「……完敗だ」


 隣で、オスカーが呟いた。


「え?」


「君を守るつもりでいたが、その必要はなかったな。……ガルディア語に、古代史、それにあの身のこなし。君は一体、いくつの引き出しを持っているんだ?」


 彼は手すりに寄りかかり、私をじっと見つめた。


 その瞳には、今まで以上の熱が宿っている。


「ただの公爵令嬢には、到底不可能な芸当だ。……なぁ、クラリス」


 彼は一歩、私に近づいた。


「君は、何者なんだ?」


 核心を突く問い。


 でも、そこには疑念はない。


 あるのは、底知れない私への純粋な興味と、敬意。


 この人になら、話してもいいかもしれない。


 私の、長くて孤独だった99回の旅の話を。


「……信じて、いただけますか? オスカー」


 名前を呼ぶと、彼は嬉しそうに目を細めた。


「ああ。君の言葉なら、たとえ『月が四角い』と言われても信じよう」


 その言葉があまりにもキザで、でも温かくて。


 私は小さく笑ってから、ゆっくりと口を開いた。


「……私、実は100歳を超えているおばあちゃんなんです」


「ほう?」


「正確には、99回、人生をやり直してきました」


 夜空の下。


 私は彼に、私の秘密を語り始めた。


 誰にも言えなかった、終わらない悪夢と、そこで足掻いてきた日々のことを。




 ◇◆◇




 私はゆっくりと時間をかけて語った。


 誰にも言えなかった、99回の死と再生の物語を。


 最初の絶望を、中盤の虚無を、そして後半の殺意を。


 全てを話し終えた時、私の声は枯れ、掌は冷たくなっていた。


 夜風だけが、ヒュウと音を立てて吹き抜けていく。


 オスカーは、黙っていた。


 手すりを掴んだまま、背中を向けて動かない。


 やはり、信じてもらえなかっただろうか。


 あるいは、気味が悪いと軽蔑されただろうか。


 不安が胸をよぎり、私が何か言い訳をしようと口を開きかけた時だった。


「……99回」


 彼が、絞り出すような声で言った。


「99回も、君は……たった一人で、その地獄の中にいたのか?」


 彼が振り返る。


 その顔を見て、私は息を飲んだ。


 怒っていた。


 けれど、それは私に向けられたものではない。


 その赤い瞳は、涙が溢れるのを堪えるように潤み、そして世界そのものを呪うかのように激しく燃えていたのだ。


「すまなかった」


 彼が私を抱きしめた。


 痛いほどに強く。


「俺がもっと早く気づいていれば。俺がもっと早く、あの愚かな弟を排除し、正していれば……君をそんな目に合わせずに済んだのに!」


 彼は震えていた。


 私のために、本気で悔やみ、怒ってくれている。


 その体温が、凍りついていた私の心の芯を溶かしていく。


 ああ、私は。


 99回の人生を経て、ようやく「見つけて」もらえたんだ。


「……オスカー」


「もう一人にはしない。過去の99回分を取り戻すくらい、これからの未来で君を愛し抜く。……約束する」


 彼の言葉は、どんな魔法よりも力強く私の魂に響いた。


 私は彼の背中に手を回し、涙で濡れた顔を彼の胸に埋めた。


「……信じます。貴方の言葉なら」


 月明かりの下、私たちは初めて心の底から繋がった気がした。


 共犯者から、唯一無二のパートナーへ。




「さて」



 ひとしきり抱き合った後、オスカーが顔を上げた。


 その瞳からは悲壮感は消え、いつもの不敵で、そして凶悪な光が戻っていた。


「泣かせてすまなかった。……涙を拭いたら、最後の仕上げといこうか」


「仕上げ、ですか?」


「ああ。君を99回も殺した元凶たちに、100回分の利子をつけて返済してもらわねばな」


 彼はニヤリと笑った。


 私も釣られて、涙を拭きながら微笑んだ。


「それ……最高にスカッとしそうですわ」


「そうだろう?」


 私たちは腕を組み、再び光溢れるダンスホールへと戻った。


 そこでは、招かれざる客が最後の悪足掻きをしようとしていた。


「皆様! 騙されてはいけませんわ!」


 ホールの中央で、エルマが叫んでいた。


 彼女はオスカーの威圧に屈したはずだったが、どうやらヘクトル派の貴族たちに焚きつけられ、一発逆転を狙って乗り込んできたらしい。


「あの女は魔女です! 妖術を使ってヘクトル殿下を惑わせ、暴力を振るったのです! オスカー殿下も、きっと何らかの術にかけられているに違いありません!」


 必死の形相で訴えるエルマ。


 周囲の貴族たちが、困惑したようにざわめいている。


 オスカーが冷ややかな視線を向けて一歩踏み出そうとしたが、私はそれを手で制した。


「……ここは、私が」


「いいのか?」


「ええ。私に売られた喧嘩ですもの」


 私はオスカーの腕を離れ、優雅な足取りでエルマの前へと進み出た。


 真紅のドレスが翻る。


「ごきげんよう、エルマ様。相変わらず想像力が豊かでいらっしゃいますこと」


「ふん! 出ましたわね、魔女!」


 エルマが私を指差す。


 その目は血走っており、明らかに尋常な精神状態ではない。


「証拠はあるんですのよ! 貴女がヘクトル殿下に『巻き戻る』だの『ループ』だの、訳の分からないことを口走っていたという証言が!」


 ドキリとした。


 会場がざわめく。


「ループ?」


「何を言っているんだ、あの娘は」


 私は冷静を装いながらも、頭の中で高速で思考を巡らせた。


 確かに、何度目かのループの時に、私は錯乱して「ループしているんです! 信じてください!」とヘクトルに縋り付いたことがあった。


 それを、エルマも横で聞いていた。バレてる?



 ……でも、待って。



 それは「過去のループ」での話だ。


 今回の100回目の人生で、私は一度もヘクトルに対して「ループ」という単語を口にしていない。


 オスカーに話したのは、ついさっきのバルコニーでのこと。


 ここで喚いてたエルマがそれを聞いているはずがない。


 なのになぜ、彼女は今、その単語を知っている?


(あっ……もしかして)


 違和感が、確信へと変わる。


 私は鋭い視線をエルマに向けた。


「……変ですね、エルマ様」


「な、何よ!」


「確かに、私はそのようなことを口にしたかもしれません。……ですが、それは『今回』ではありませんわ」


「は? 何を言って……」


「今回の私は、ガゼボで即座に殿下を殴りましたから、そんな戯言を言う暇なんてありませんでした。……ねえ、エルマ様」


 私は一歩、彼女に近づいた。


「なぜ、貴女がそれを知っているのですか?」


 私の言葉に、エルマが固まった。


「あ……」


 彼女の顔から、血の気が引いていく。


「え、いえ、それは……き、聞いたのよ! 誰かから! 殿下とか!」


 錯乱して、支離滅裂。こんなに綺麗な自爆も珍しい。むしろ芸術点が高い。


「誰から? 私は誰にも話していません。……それとも」


 私は彼女の目の前で立ち止まり、覗き込むように言った。


「貴女も、覚えているのですか? 繰り返された99回の記憶を」


 決定的な一言。


 エルマの瞳が、恐怖で見開かれた。


「ひっ……!」


 図星だ。


 彼女は知っている。彼女もループしてる。


 いや、ただ知っているだけじゃない。


 彼女のその反応は、被害者のそれではない。


「……まさか」


 私の中で、一つの仮説が浮かび上がった。


 私がループしていたのではない。


 誰かが、意図的に時間を巻き戻していた?


 そして、その「誰か」が、目の前の彼女だとしたら?


「……まさか、貴女が時間を戻していたの?」


 私の問いかけに、エルマはガタガタと震え出した。


 そして、糸が切れたように叫んだ。


「そ、そうよ! 私が戻したのよ! 悪い!?」


 会場中が静まり返る。


 自白した。公衆の面前で。


「だって……だって上手くいかないんだもの! 何度やっても、何度ヘクトル様を落としても、貴女を処刑しても! 私が王妃になった途端に国が傾いたり、ヘクトル様が浮気したり、革命が起きたり! 全然『ハッピーエンド』にならないんだもの!」


 エルマは髪を振り乱して喚き散らした。


「だからやり直したのよ! 貴女がいなくなっても国が回るように、貴女に仕事を押し付けてから追放したり、色々試したのに!」


 その言葉を聞いて、私は呆れを通り越して憐れみを覚えた。


「……つまり、貴女自身の無能さが招いた破滅を、私のせいにして……99回も私の人生をリセットしていたと?」


「う、うるさい! 私はヒロインなのよ! 幸せになる権利があるのよ!」


「権利はあっても、実力が伴っていなければ意味がありませんわ」


 私は冷たく言い放った。


 彼女は、自分の理想通りにならない世界を拒絶し、逃げ続けていただけだ。


 その幼稚なエゴのために、私は99回も殺されたのか。


「……でも、不思議ですね。そんな力があるなら、なぜ今回は戻さなかったのですか? ヘクトル殿下の顎が砕けた時点で、貴女にとっては想定外のバッドエンドでしょう?」


「そ、それは……」


 エルマが視線を泳がせる。


「いつもと違う展開だったから……もしかしたら……今回は違うかもって……」


 そして、追い詰められた獣のような目をして、ドレスの懐に手を突っ込んだ。


「でも……こんな事になるなら……!」


 彼女が取り出したのは、掌サイズの美しい砂時計だった。


 ガラスの中には、怪しく光る金色の砂が入っている。


「あれは……!」


 直感が告げている。


 あれが元凶だ。


「戻れ! 戻りなさいよぉぉ!!」


 エルマが砂時計をひっくり返す。


「もう手遅れよ! この砂が全部落ちたら、あなたはまた元通り! あははは! さようなら!!」


 その瞬間、私はドレスの裾を翻して走り出した。


 させない。


 もう二度と、繰り返させてなるものか!


 やっと手にした幸せを、オスカーとの時間を無かったことになんかさせない!


「衛兵! 出てきなさい! あの女を殺した者には追加で金貨1000枚よ!」


 エルマの絶叫に呼応するように、会場の影から武装した男たちが躍り出た。


 王宮の衛兵ではない。彼女が金で雇っていた私兵たちだ。


 その数、およそ10人。彼らが抜剣し、殺気立って私に襲いかかってくる。


「死ねぇぇ!」


 先頭の男が剣を振り下ろした。


 普通の令嬢なら、悲鳴を上げて竦み上がるところだろう。


 でも。


「……遅い」


 私は静かに呟いた。


 50回目の人生で習得した暗殺術。それを護身術と組み合わせて殺さないように戦う。


 ドレス姿で、しかもヒール。


 激しい動きは制限されるけれど、相手の力を利用することならできる。


 私は半歩だけ身をずらし、振り下ろされた剣を紙一重でかわした。


 そのまま、男の踏み込んだ足の甲をヒールの踵で思い切り踏み抜く。


「ぎゃっ!?」


 男が体勢を崩した一瞬の隙に、私はその手首を掴んで捻り上げた。


 自分より遥かに重い巨体だが、関節の理屈さえ分かっていれば、小さな力で制御できる。


「邪魔よ!」


 男を盾にするようにして突き飛ばし、後続の二人と激突させる。


 よし、まずは三人。


 しかし――。


「チッ、小賢しい女だ! 囲め!」


 残りの男たちが散開し、私を取り囲んだ。


 多勢に無勢。


 正面の敵を牽制すれば、背後が空く。


(……っ、さすがにドレスで10人は厳しい、か)


 背後から、殺気。


 二人の男が同時に剣を突き出してきた。


 かわせない。


 私は覚悟を決めて、急所だけは外そうと身を捩った。


 その時だ。


「――俺の婚約者に、その汚い剣を向けるな」


 低く、冷たい声が響いた。


 同時に、私の視界が黒い軍服に覆われる。


 ドゴォッ!!


 空気が震えるような衝撃音。


 私を斬ろうとした二人の男が、まるで砲弾にでも撃たれたかのように後方へ吹き飛んでいた。


 壁に激突し、ピクリとも動かなくなる。


「オ、オスカー……?」


「遅くなってすまない。……怪我はないか?」


 私の前に立ち塞がったオスカーが、背中越しに問いかける。


 その手には剣すら握られていない。


 ただの拳一つ。


 背は高いが、細く、怪力には見えない。


 けれど、その背中から放たれる威圧感だけで、周囲の私兵たちがガタガタと震え上がり、剣を取り落としていた。


「ひぃっ……『氷の王子』……!?」


 男の一人が恐怖に顔を歪める。


 オスカーは、氷河のように冷たく、残酷な瞳で彼らを見下ろした。


「俺がなぜ、『氷の王子』と呼ばれているか知っているか?」


「え……?」


「氷魔法を使うわけじゃない。ただ俺が、氷のように冷たく、何の容赦もなく、敵だと判断した者を徹底的に叩きのめすからだ」


 言葉が終わるより速く、オスカーの姿がブレた。


 刹那。


 残っていた男たちが、次々と床に沈んでいく。


 急所を的確に、しかし死なない程度に打ち抜く神速の拳。


 それは一方的な蹂躙であり、圧倒的な王者の暴力だった。


 瞬く間に、私兵たちは全員、白目を剥いて転がっていた。


「……運動不足にもならんな」


 オスカーは乱れた手袋を整えながら、何事もなかったかのように振り返った。


「……さあ、邪魔者は消えたぞ。クラリス」


 オスカーが道を開ける。


 その先には、腰を抜かして震えるエルマと、その手にある砂時計。


 砂はもう半分ほど落ちている。


「い、嫌ぁ……来ないで……!」


 エルマが後ずさる。


 私は駆け出して彼女との距離を詰めた。


 99回の怒りを、右の拳に込めて。


「もう『それ(ループ)』は卒業したのよ!!」


 私は駆けた勢いのまま、大きく床を踏み込み、思い切り拳を突き出した。


 彼女が思わず盾にするように砂時計を構える。


 ガシャァァァンッ!!


 私の拳が、砂時計を粉砕した。


 ガラスが飛び散り、金色の砂が舞い上がる。


 魔力が暴発し、キラキラとした光の粒子となって消えていく。


「あ……ああ……」


 エルマが絶望の声を漏らす。


 砂時計は完全に破壊され、ただのガラクタと化した。


「……これで、もう戻らない」


 私は切れた拳から流れる血も気にせず、エルマを見下ろした。


「終わったのよ。エルマ」


 エルマはその場に崩れ落ち、わんわんと泣き出した。


「いやだぁぁぁ……! わだじは……! ヒロインでいだい!! いやだぁぁぁぁぁ!!」


「そんなものに頼るから、あなたはいつまで経ってもヒロインになれないのよ」


 今度こそ、本当の終わりだ。


 会場からは、割れんばかりの拍手が湧き起こった。


 彼らは目の前で繰り広げられた大立ち回りを、演劇か何かだと思っているのかもしれない。


 人の悲劇も、日常のスパイス程度にしか捉えられない。腐ってて、狂ってる。


 オスカーが私に歩み寄り、血の滲む私の拳をハンカチで包んだ。


「……見事だった」


「貴方も、なかなかの暴れっぷりでしたわよ」


「君に華を持たせるために、まだ暴れ足りないが?」


 私たちは顔を見合わせ、笑い合ってから、「いいショーだった!」と笑いかける貴族たちを見た。


「趣味が悪いですわね。虫酸が走ります」


「こんな奴らばかりだから、ヘクトルのような愚物がのさばるんだ。だから俺は、君を選んだ」


「えっ?」


「誰もが恐れる王子を迷いなく殴る胆力。あの時の君は、この国の腐敗を正す象徴のように見えた。……君となら、正せる。そう思ったんだ。それと……」


「それと、何です?」


 オスカーは少し照れくさそうに私から視線を逸らして言った。


「……単純に、一目惚れした」



「……ぷっ……なんです? それ」



「い、いいだろ別に!」


 照れながらもオスカーが私の腰に手を回し、そう言った。


「……共に、行こう」


「ええ。もちろんです」


 私たちは向かい合って、しばらく見つめあったあと、情熱的なキスを交わした。





 ◇◆◇





 それから数日後。


 エルマへの厳しい取調べと私の提供した調査資料により、これまでの悪事が露呈し、ヘクトルは王位継承権を剥奪され、地方の修道院へ幽閉されることになった。


 エルマは国家転覆罪および禁忌魔道具使用の罪で、国外追放――という名目の極寒の地への死よりも辛い流刑が決まった。




 そして、とある日の夜。


 オスカーから一通の手紙が届いた。


『午後8時、あのガゼボで待つ』


 それだけが書かれた、シンプルなメッセージ。


 私は心臓が高鳴るのを抑えながら、庭園へと向かった。


 見慣れた白亜のガゼボ。


 月明かりの下、薔薇の香りが漂うその場所。


 かつては絶望の始まりであり、そして運命が変わった場所。


 そこに、オスカーは立っていた。


「……クラリス」


 彼は振り返り、柔らかく微笑んだ。


「お待たせしてしまいましたか?」


「いや、俺が早く来すぎただけだ」


 彼は私の手を取り、ガゼボの中へと招き入れた。


 そして、懐中時計を取り出した。


「……午後7時59分」


 かつて、私が断罪されるのを待っていた時間。


 秒針がチクタクと進む。


「クラリス。俺は、君の記憶を上書きしたい」


「上書き?」


「ああ。この場所を、君が傷つけられた場所ではなく、君が世界で一番幸せになった場所に変えたいんだ」


 彼はそう言うと、私の前で片膝をついた。


 そして、ポケットから小箱を取り出して開けた。


 中には、大粒のダイヤモンドが嵌め込まれた指輪が輝いていた。


「午後8時だ」


 時計の針が重なる。


「クラリス・ルナ・ノクターン。……俺と結婚してくれ。俺の人生の全てを賭けて、君を幸せにする」


 涙が、溢れてきた。


 99回のループの中で、一度も聞けなかった言葉。


 一度も望めなかった未来。



 私にとって別れと終わりの象徴だったこの場所が、愛が始まる場所へと塗り替えられていく。



 私は何度も頷いた。



「……はい。喜んで、喜んで……!」


 彼は立ち上がり、私の左手の薬指に指輪を嵌めた。


 そして、私の涙を親指で拭い、優しく口付けた。


 甘くて、熱いキス。


 薔薇の香りよりも芳醇な、愛の味がした。


 ガゼボの柱の向こうで、満月が私たちを祝福するように輝いている。


 ああ、ざまぁみろ、運命。


 私の人生は今、ここから始まるんだ。





 ◇◆◇





 ――それから、二年後。


 王都の大広場には、王太子と王太子妃の結婚を祝うために、数万の国民が集まっていた。


 大聖堂のバルコニー。


 私とオスカーは並んで立ち、歓声に応えて手を振った。


「……凄い人だ」


「ええ。皆、貴方を祝福していますよ」


「いや、半分は君のファンだろう『殿下殺しの聖女様』」


「その呼び名は止めてくださいと申し上げたはずですが?」


 私がジロリと睨むと、オスカーは楽しそうに笑った。


 この二年の間、私たちは共に国政改革に取り組み、腐敗した貴族たちを一掃してきた。


 私の99回分の知識と、オスカーの実行力。


 二つが合わさることで、この国はかつてないほどの繁栄を迎えていた。


 何より、私たちは対等だった。


 彼が迷えば私が導き、私が傷つけば彼が癒やす。


 背中を預けられる、最高のパートナー。


「……クラリス」


 歓声の中、オスカーが私の腰を引き寄せた。


「愛してる」


「私も愛しています、オスカー」


 私たちは衆目の中、躊躇うことなく唇を重ねた。


 割れんばかりの歓声と、空に放たれた白い鳩たち。


 長い口付けの後、オスカーが耳元で悪戯っぽく囁く。


「……ところで、今夜の予定は?」


「え?」


「……今度は、二人きりで結婚の祝杯をあげよう。時間と場所は、分かってるな?」


 彼の言葉に、私は今日一番の笑顔で答えた。


「ふふ、もちろんです。あなたこそ……遅刻しないでくださいね?」


「ああ、1秒たりとも遅れないさ」


 私たちは腕を組み、光溢れる未来へと歩き出した。


 もう、時計の針を気にする必要はない。


 砕けた砂時計の代わりに、私たちが刻む新しい時間が、これからもずっと続いていくのだから。



 そして、いつしか、『それ』は私たちの魔法の合言葉になっていた。




『午後8時、あのガゼボで』。


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― 新着の感想 ―
努力する方向を間違えているヒロインさん。
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