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無名
名前が、思い出せない。
子どもの問いに答えようとして、口を開いた瞬間、
自分が何者だったのかが、すべて抜け落ちた。
会社の同僚の顔。
家族の声。
昔、誰かに呼ばれた記憶。
——ない。
子どもは安心したように頷いた。
「やっぱりね」
「声を取ったとき、だいたい一緒に落ちるんだ」
天井からぶら下がっていた影たちが、
一斉に床へ降りてきた。
全員、同じ顔。
全員、同じ声。
俺だったもの。
「これで外、行けるよ」
インターホンの画面が切り替わる。
今度は廊下の映像。
ドアの前に立っているのは、
——ちゃんと名前を持った俺だった。
その「俺」が、鍵を開けて外へ出る。
子どもが振り返り、言った。
「ありがとう」
「きみは、ここに残る人」
床が、ゆっくりと沈み始める。
アパートの形が歪み、部屋の境界が消えていく。
声は出ない。
名前もない。
呼ばれることも、もうない。
最後に聞こえたのは、
外から聞こえる自分の声だった。
「ただいま」
そして世界は、
誰にも認識されない部屋として、静かに閉じた。
エピローグ
翌日。
そのアパートには、最初から空室だったという記録しか残っていなかった。
ただ一つだけ。
天井裏に、子どもの字で書かれた紙が見つかる。
「つぎは だれのこえ?」




