第1章-3 「人民」と「神」の二重信仰
※本稿は思想実験としての風刺的随筆です。
実在の人物・制度への支持や否定を目的とするものではありません。
ただ、もしアメリカに王がいたら――という想像を楽しんでいただければ幸いです。
アメリカにおける最大のパラドックスは、神を信じる国家が、神の代理者(王)を拒絶したことにある。
建国期の人々にとって、王の権威は神の意志によって支えられていた。
したがって、王を否定するとは、すなわち神の地上代理を否定することを意味した。
しかし、人間社会は神なき政治を耐えられない。
その結果、アメリカは“二重信仰”という構造を生んだ――
すなわち、「神」と「人民」という二つの絶対者への信仰である。
独立宣言の冒頭にはこう記されている。
「われわれはこれらの真理を自明のものと考える。すべての人間は平等に造られ…」
この“平等”の保証人として、アメリカ人は依然として「神(Creator)」を置いた。
それは宗教的信仰というより、政治的前提としての神である。
つまりアメリカでは、神は国家理念を支える法的概念に変質した。
他方で、憲法は主権の所在を「We the People」と明言する。
ここにおいて、神と人民は並列される。
権力の正当性は神から人民へと移ったが、信仰の構造そのものは残った。
神が語るかわりに、人民が語り、人民の名のもとに国家が行動する。
この転位によって、アメリカは“宗教的民主主義”という独自の形を得た。
しかし、この二重信仰はやがて内部矛盾を起こす。
神は永遠を語り、人民は瞬間を求める。
神は秩序を欲し、人民は変化を望む。
アメリカの政治史は、この二つの“絶対”のせめぎ合いの歴史でもある。
時に宗教右派が「神の国アメリカ」を唱え、
時にリベラルが「人民の国アメリカ」を主張する。
だが、どちらも“王のいない神権政治”という構造の上で対立しているにすぎない。
こうしてアメリカは、神を信じるがゆえに世俗化し、人民を信じるがゆえに分裂した。
彼らは王を持たない自由を得たが、その代わりに、
「誰が最終的に国家を導くのか」という問いに、いまも答えを持たない。
その問いの空白を埋めようとするたびに、
アメリカは新たな「王」を創造してきた――
それが、リンカーンであり、ルーズベルトであり、ケネディであり、
そして時には“アメリカそのもの”という抽象的神話だった。
だが神話は、必ず終焉を迎える。
いま、アメリカは再び「象徴なき国家」の不安を抱えている。
王を否定したまま成熟した国が、いまや王を必要としはじめた。
その皮肉な構造こそが、ヘンリー王子の元首構想を生む思想的土壌である
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次章では「象徴の空白と再王制の必然」をテーマに、さらに深く掘り下げていきます。




