第1章-2 “自由の代償”としての象徴喪失
※本稿は思想実験としての風刺的随筆です。
実在の人物・制度への支持や否定を目的とするものではありません。
ただ、もしアメリカに王がいたら――という想像を楽しんでいただければ幸いです。
アメリカが王を拒んだとき、それは単なる権力構造の否定ではなく、象徴そのものの放棄でもあった。
国家とは本来、理念だけで成立するものではない。理念は空気のように遍在しても、触れることはできない。人間は、可視的な「形」を通して共同体を実感する。
ヨーロッパにおいては、王冠がその形であり、日本においては御璽と儀式がその形であった。
だが、アメリカは「形」を持たない理念国家として誕生した。
この「無形の国家」は、時間の経過とともに、理念と現実の乖離を生み出した。
建国期の市民たちは、信仰と共同体が一致する閉じた世界に生きていた。
しかし、産業革命、移民、都市化、南北戦争、そして20世紀の覇権国家化を経て、アメリカは「理念を共有する小共同体」から、「利益で結ばれた巨大市場」へと変貌した。
そこに残されたのは、自由という言葉だけである。
だがその自由は、誰からの自由なのかという根本的問いを常に孕む。
王の不在が「支配からの自由」をもたらした一方で、それは同時に「帰属からの自由」、すなわち孤独の制度化でもあった。
家族・地域・宗教が弱体化した社会では、個人は国家にしか拠りどころを見出せない。
こうして、アメリカでは国家が宗教化し、政治が信仰化するという逆説が生まれた。
「自由の国」という自己像は、もはや理念ではなく信仰である。
だからこそ、星条旗は祈りの対象となり、大統領は説教者のように“正義”を語る。
国家が王を拒んだ代わりに、王の役割を「理念」が引き受けたのだ。
だが理念には顔がない。
顔のない王国は、人々の心に永遠の不安を残す。
その不安が、アメリカにおける強い大統領信仰と敵を必要とする政治を生み出していく。
アメリカ人が外部に敵を求めるのは、自由を守るためではない。
それは、自由という空洞を埋めるための無意識的儀式である。
“自由”はもはや目的ではなく、共同体をつなぎとめるための物語に変質した。
そしてその物語を語る者――すなわち「象徴なき元首」――が、アメリカ大統領である。
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次章では「「人民」と「神」の二重信仰」をテーマに、さらに深く掘り下げていきます。




