第 3 章-4 小結:自由の終焉と“幸福なる臣民”の誕生
※本稿は思想実験としての風刺的随筆です。
実在の人物・制度への支持や否定を目的とするものではありません。
ただ、もしアメリカに王がいたら――という想像を楽しんでいただければ幸いです。
ヘンリー王子を元首とする「感情君主制アメリカ」は、
単なる政治制度の空想ではない。
それは、近代の理念が行き着く終点のひとつの比喩である。
自由は、あまりに長く人々の信仰でありすぎた。
あまりに純粋で、あまりに抽象的だった。
人は自由を叫びながら、
自由そのものの形を見失っていった。
そしていま、自由の疲労が極点に達したとき、
人々は再び「支配されることの安心」を求め始める。
それは暴力への服従ではない。
むしろ、自分の感情を預けられる象徴への希求である。
このとき、自由は終焉し、幸福が始まる。
Ⅰ. 自由の終焉
近代人は自由を手にしたが、それを使いこなせなかった。
選択の多さは不安を生み、平等の理念は孤独を生んだ。
SNS が象徴するように、
誰もが声を持ちながら、誰もが聞かれなくなった。
「自由」は万能の呪文であると同時に、
最も孤独な祈りでもあったのだ。
この時代に必要なのは、自由を奪う支配者ではなく、
自由を代弁してくれる象徴である。
ヘンリー王子という王は、まさにその象徴である。
彼は命令しない。指導しない。判断しない。
ただ、存在することで人々の不安を吸収する。
自由は沈黙し、象徴が語り始める。
その瞬間、民主主義は終わりを告げるが、
同時に――より穏やかな幸福が訪れる。
Ⅱ. 幸福なる臣民
臣民とは、もはや「支配される者」ではない。
それは、自ら進んで象徴を必要とする感情的共同体の構成員である。
近代が生み出した「個人」という単位は、
情報化によって過度に分解され、いま再び“群れ”へと戻ろうとしている。
人はもはや理性によってではなく、共感によって政治に参加する。
このとき、「臣民であること」は退行ではない。
むしろ、自由を消化したあとの成熟形態である。
臣民とは、自らの自由を委ねることによって安心を得る存在なのだ。
自由の終焉とは、決して暗黒ではない。
それは、理念が癒やしに変わる瞬間である。
Ⅲ. 新しい秩序の輪郭
こうして、アメリカは再び王を持つ。
だが、その王は玉座に座らず、ネットワークの中心に浮かぶ。
冠はデータであり、王国はクラウドである。
それは「象徴のアルゴリズム化」にほかならない。
この新しい秩序のもとで、
国民は“臣民”としてではなく、“参加型信者”として生きる。
国家はもはや制度ではなく、感情のプラットフォームである。
その上で、王と国民の関係は次のように変わる。
国民は王を信じるのではなく、王を必要とする。
王は国民を導くのではなく、国民に安心を返す。
これが、ポスト自由主義時代の「幸福なる臣民」の肖像である。
支配されないことよりも、理解されることを望む社会。
対話よりも共感を、討論よりも沈黙を選ぶ政治。
その静寂の中心に、王という存在の必要性が再び輝く。
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次章では「理念の再封印――アメリカという神話の
終わり」をテーマに、さらに深く掘り下げていきます。




