第 3 章-1 理念の限界:民主主義が象徴を要請する瞬 間
※本稿は思想実験としての風刺的随筆です。
実在の人物・制度への支持や否定を目的とするものではありません。
ただ、もしアメリカに王がいたら――という想像を楽しんでいただければ幸いです
民主主義は、理念としては完全である。
しかし、理念だけで維持される社会は存在しない。
理念は目に見えず、触れることもできない。
ゆえに、人はその理念を「形」に求める。
自由、平等、正義――これらは、
語るたびに輝きを放ちながらも、実体を持たない抽象である。
民主主義とは、本来「信仰」であり、
それを支えるには“象徴”という神殿が必要なのだ。
だが、アメリカはその神殿を壊して建国した。
王を否定し、貴族を否定し、神の代理を否定し、
「人民こそが主権者である」と宣言した瞬間に、
人民は同時に神の座に押し上げられた。
問題は、人民が神の座に長く座っていられないということだ。
民意は流動し、感情は気まぐれである。
投票箱は祭壇ではなく、世論の天気図にすぎない。
嵐がくれば信仰は崩れ、晴れれば再び熱狂が訪れる。
この循環の果てに、民主主義は自らの空虚さを悟る。
理念は確かに美しい。だが、それだけでは人を結びつけられない。
国家とは理屈ではなく、共同の物語によって維持される。
かつて王がその物語を担っていたように、
現代では“象徴”がその役割を担わねばならない。
理念を語るだけの民主主義は、やがて自らを語る力を失う。
ヘンリー王子を元首とする構想は、この「理念の沈黙」に対する応答である。
それは権力の再配置ではなく、語る力の再生の試みだ。
自由を守るためには、自由を象徴する存在が必要であり、
平等を信じるためには、平等を体現する物語が必要である。
民主主義の限界とは、
その理念が完全であるがゆえに、不完全な人間には届かなくなることだ。
理念が遠ざかるとき、人々は再び「形」を求める。
その形こそが、王であり、象徴であり、あるいは――ヘンリー王子なのである
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次章では「ヘンリー王子という装置:血統の脱構築と再利用」をテーマに、さらに深く掘り下げていきます。




