第1章 序論:王なき国家アメリカ 「建国神話」に見るアメリカの王権否定
※本稿は思想実験としての風刺的随筆です。
実在の人物・制度への支持や否定を目的とするものではありません。
ただ、もしアメリカに王がいたら――という想像を楽しんでいただければ幸いです。
アメリカ合衆国は、その成立の瞬間から「王の否定」によって自らを定義した国家である。
1776年の独立宣言は、単なる宗主国からの離脱ではなく、「人は皆、生まれながらにして平等である」という理念を掲げた宗教的宣言文でもあった。そこにおいて敵として描かれたのは、具体的な一個人――イギリス国王ジョージ三世――であり、同時にそれが象徴する“世襲的権威”そのものでもあった。
アメリカは「神のもとでの平等」というキリスト教的普遍主義を、王権否定の言説によって政治化した最初の国である。
この「王の否定」は、近代市民社会の理念としては一見合理的であった。
しかし、同時にそれは「国家の人格」を欠くという重大な宿命を背負うことになった。
イギリスにおいて国王は、宗教的・文化的・法的秩序の“軸”であり続けた。
日本において天皇は、時に象徴として時に儀礼的存在として、権力と民意の間に超越的な緩衝を設けた。
だがアメリカは、そのいずれも持たなかった。
建国期のアメリカ人たちは、「王を持たないこと」こそが自由の証と考えた。
だが、自由とは何を拠り所に成立するのか。
王権を否定した彼らが、その代わりに選んだのは「神」と「人民」であった。
この二つの理念が、のちにアメリカの精神を二重に引き裂く。
一方で神の名において正義を語り、他方で人民の名において戦争を遂行する。
その構造的矛盾は、建国の瞬間からすでに内包されていた。
アメリカは、王を持たない王国である。
その自由は、象徴を欠く不安と表裏一体にある。
ゆえにアメリカは常に「代わりの王」を求め続けてきた。
それはリンカーンであり、ケネディであり、ある時は“自由そのもの”という観念であった。
彼らが暗殺されるたび、国家は一瞬だけ沈黙する。
それは、王を持たない国が、ほんの一瞬だけ「王を喪った」感情を取り戻す瞬間である。
あとがき(毎章共通)
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次章では「自由の代償”としての象徴喪失」をテーマに、さらに深く掘り下げていきます。




