(第15話)隊長さまに出会うまでのシエナのこと
「シエナ。貴女には、他の人間にはない奇跡を起こす力があるの。その力は、貴女の周りの人間を狂わせるかもしれない。貴女のその力を知った誰かが、その恩恵を搾取しようと貴女を酷い目に遭わせるかもしれないわ。だから今はまだお母さんと二人だけの秘密にしましょう」
まだ幼かった私にはお母さんの言っている言葉の意味はよく分からなかったけれど、お母さんがとても一生懸命な顔をしていたから、その通りにしようと思ったの。
「わかったー。でも何を秘密にすれば良いの?」
「そうよね。そこからよね。あのね、普通の人が笑っても花は咲かないの」
「えっ? 笑うと自然に花は咲くんじゃないの? お母さん以外の人も皆そうなのー?」
「このラナー村はとても小さいしお年寄りしかいないから、まだ幼いシエナが村人と関わることはあまりないものね。……あのね、シエナ。とても過酷なことだけど、お母さんの前以外で笑わないことは出来るかしら?」
「出来るよー。だって私の世界には、お母さんしかいないもん」
私にとっての当たり前を伝えたら、お母さんは泣きながら私の手を握りしめた。
「シエナ。ごめんなさいね。お母さんが不甲斐ないせいで寂しい思いをさせて、本当にごめんなさい。いつか、いつかこの村を出て、シエナと同じ年の子がいるもっと大きい村で暮らせるように、お母さん頑張って働くからね」
「お母さん、どうして泣いてるの? 寂しくなんかないよー。お母さんが働いている時には、お母さんが作ってくれた熊さんのぬいぐるみがいつも一緒にいてくれるもん」
そうだよ。寂しくなんかなかったの。お母さんはいつだって私のことを大切にしてくれたもん。
ご飯だって、そりゃ量はちょっぴり足りなくてお腹は空いたけど、お母さんの手料理には愛情が一杯こもってるって知ってたもん。
だから幸せだったの。私はきっと幸せだった。
アランという男に見つかったあの時までは、きっと。
それは本当に偶然で、今まで誰にも私の力を知られていなかったという油断もあったのだと思う。
小さい村だしおじいちゃん・おばあちゃんばっかりだったから誰がどの時間にどこを通るか大体決まっていて、その時間は誰も私の家の前を通りかかることのないはずの時間だった。
「お母さん! なんと今日は私がスープを作ったよー!」
初めてこっそり作ったスープを早くお母さんに飲んで欲しくて、私は家の前までお母さんを迎えに行って、笑った。……笑ってしまった。
花が咲いたの。それは私にとっては当たり前だったけれど、そう本当は、当たり前じゃないことだった。
「なんだ!? これは!?」
知らない男の声が聞こえて、震えた。
お母さんは慌てて駆け寄って来て私を抱きしめた。その男が何かを言う前にお母さんは私を抱っこして家に入った。
「大丈夫。大丈夫よ。大丈夫」
玄関でお母さんは私を抱きしめながら呪文のように呟いて、震えていた。
「ごめっ、ごめんなさい。わたっ、私がうっかり外で笑っちゃったから、お母さん、ごめんなさい……」
怖くて、怖くて、私も震えながら泣いた。
「大丈夫。大丈夫よ。きっと貴女の力だなんて気づかないわ。……大丈夫。……村長から、他国から旅人が迷い込んだので今日は村長の家に泊めると聞いているから、きっとすぐに旅立つはずよ……。大丈夫。きっと何も起こらないわ。……大丈夫……」
怖くて怖くてその夜は、お母さんと同じ布団で手を繋いで寝た。
お母さんはきっと一晩中寝れなかったんだと、次の日の朝に目の下の隈を見て思った。
アランという名のその旅人が早朝には旅立ったと聞いて、お母さんと二人でほっと息を吐いた。
良かった。何も起こらなかった。これからもお母さんと熊さんのぬいぐるみと過ごす穏やかな時間が続いていくんだ! そう安堵した。
……だけど、それから十日後に悪夢が起きた。
ううん。夢じゃない。最悪の現実が起きた。
「やめて!! シエナをどこに連れていくの!! シエナを返して!! 私ならどうなっていいから、シエナには手を出さないで!!」
夜中に突然数人の男達が我が家に押し入って、私を連れ去ろうとした。
お母さんは、今まで見たこともないような必死の顔で、聞いたこともないような大声を出していた。
「騒ぐな! 老人ばかりだから大丈夫だろうが、他の住民に見つかると面倒だ。始末するか」
知らない男に押さえつけられて身動きのとれない私の耳に聞こえたのは、残酷な言葉だった。
「いやー!! やめて! お母さんに何をする気なの!?」
叫んだ私の口は、男の腕で押さえつけられた。
「シエナ!! シエナに乱暴しないで!! シエナ!! どうか、どうか、逃げ……」
男にお腹を殴られて気を失う直前に私の耳に聞こえたのはお母さんの悲痛な叫びで、私の瞳に映ったのはあの時の旅人に頭を殴られて血を流すお母さんの姿だった。
目が覚めると、私は今まで見たこともないような豪華な部屋に寝かされていた。
そこから無理やり綺麗な服に着替えさせられて、王様という人に会わせられた。
「これからはわしのためにすべての力を使うのだ」
王様は、訳の分からないことを言っていた。
それから婚約者だという王子様にも会わされた。
『きゅるるるるる』という私のお腹の音を聞いた王子様は、心の底から軽蔑したように怒鳴った。
「なんだ!? 腹なんか鳴らして見苦しい!」
そうなの? お腹が鳴るのは見苦しいことなの?
お母さんは私のお腹が鳴ると自分のご飯を分けてくれて『それでもお腹が減っても笑っていられるのは幸せなことよ』って言っていたのに。
そうか。王子様にとってお腹が減るのは、怒鳴るような恥ずかしいことなんだ。
だったらそんな恥ずかしい私なんていらないよね? だからきっと王子様にお願いすれば、私をお母さんのところに返してくれる。
「……王子様……どうか……私を村に返して。……ください……」
お母さんが『目上の人には敬語というのを使うのよ』って教えてくれたことがあったから、王子様に伝わるように必死で言葉を絞り出したけれど、王子様は訳の分からないことを一方的に捲し立てたままいなくなってしまった。
そこからの毎日は、現実から薄皮一枚挟まっているかのようなぼんやりとした世界になっていた気がする。
「なんて汚い平民なのかしら! お前みたいな者がセドリック様の婚約者だなんて信じられないわ! 恥を知りなさい!」
公爵令嬢だという少女は、私の部屋まで入って来て私を罵った。
「ほら。シエナの餌だよ」
使用人だという女性は、いつも馬鹿にしたようにそう言ってご飯を部屋に置いた。
その食事内容自体は、村で私がお母さんと食べていたものと同じような物だった。
ただ、お母さんは必死で働いて手に入れた野菜を少しでも美味しくするためにスープを長時間煮込んでほかほかで出してくれたし、黒パンだって一生懸命働いて手に入れてくれたものだった。
材料は同じでも王宮で出された物は、嫌がらせの為に使用人達の食事の更にその残りくずで作られた冷めたスープと、わざわざ貧民街から取り寄せた王宮では使用人さえも口にしない固い黒パンだっただけだ。
「王太子妃として必要なことなので確り学びなさい」
教育係だという講師達は、私に一気にいろんなことを覚えさせようとして、私が少しでも失敗すると『これだから平民は』と言って、私の手を鞭で打った。
「自習でもしていろ」
カリキュラムがないはずの日は、そう言われて図書室に閉じ込められた。
「どうして何の奇跡も起こさないんだ!?」
「お前は聖女ではないのか!? 早くこの国の為に力を使え!」
「平民の偽聖女め!!」
国王も王妃も公爵令嬢も使用人も講師達も、誰もかれもが私を責めた。
私が笑えばきっと花が咲く。そしたらこの人達は満足するかもしれない。
だけど、私は笑わなかった。
だって、私が笑ったせいでお母さんは殺されたから。
だから、私は笑わなかった。
「シエナ。君は生まれ育ったラナン村では花を咲かせていたんだろ? それを再現するだけなのになぜ出来ないんだ?」
久しぶりに現れたセドリック殿下は、私の顔を見ることもなく責めるような口調で言った。
「私が生まれたのは、ラナー村です」
ただ事実を伝えただけなのに、セドリック殿下は初対面の時と同じように訳のわからないことを一方的に捲し立てて、私の話を少しも聞かずにいなくなった。
だけどその中で一点だけ、強く心に残った言葉がある。
『ラナーなんて村はスカイ王国には存在しない』
どういうこと? 間違えているはずなんてない。お母さんと私が暮らしていたのは確かにラナー村だった。
国名は? 国名は分からない。私の小さい世界には国名なんて必要なかった。
……あの日、お母さんはなんて言っていた?
『他国から旅人が迷い込んだので今日は村長の家に泊める』
他国から? お母さんを殺した旅人のアランは、他国の人間? 私は、私は、スカイ王国の人間ではないの?
それから私は、閉じ込められた図書室で色々な国の地図を引っ張り出して必死で探した。
まずは帝国……ないわ。次に大きな国は……やっぱりないわ……。
クラウド王国に辿り着いたのは、何か国目だっただろうか。
長い長い時間を費やして、私はやっと見つけた。
クラウド王国の地図の中でも小さな小さな『ラナー』という名前の村を。
目の前の薄皮が剝がれた気がした。
そもそもここは、私の生まれた国ですらないんだ。
ここにいるのは、お母さんを殺して私を誘拐した奴らなんだ。
こんな国の為に一度だって祈らなくて良かった。
絶対に使うもんか。
私に起こすことの出来る奇跡のそのたった一つさえも、決してこんな国の為に使うもんか。
絶対に、絶対に、使うもんか。
それから私は、閉じ込められた図書室で今度は聖女について調べた。
スカイ王国の文献には聖女に関する記載はなかったけれど、帝国の書物の中に少しだけ記載があった。
『聖女は存在するだけで自然災害を退けるが、幸福であればあるほどその力を発揮するだろう。幸福の聖女は、聖花を咲かせ、穢れを浄化して、その国を豊かにするだろう』
いつも偉そうに聖女の力を使えと言ってくるけれど、きっとスカイ王国の誰一人としてこのことを知らないんだ。
この国に連れてこられてから笑わなくて良かったと思った。
決して笑うもんか。この国で決して笑うもんか。
私はそう決意した。
だけどそんな決意なんかしなくても、スカイ王国で笑いたいと思えたことは、過ごした数年でたったの一度もなかった。
「おいっ! 俺は確かに見たんだ! お前が奇跡を起こすのを!! どうして奇跡を起こさないんだ! お前が奇跡を起こさないせいで、俺は虚偽の報告をしたと責められているんだ! このままだと俺は処罰されそうなんだぞ!!」
きっと生涯忘れることのない顔の男が、ある日突然私の部屋に怒鳴り込んできた。
「どうしてお母さんを殺した貴方のために私が奇跡を起こさなければいけないの?」
震える心を必死で抑えた私の言葉は、その男、アランには酷く冷静に響いたらしい。
「違う! あれは国王からの命令だ! だから俺のせいじゃない! 俺への復讐のつもりか? 俺はただ命令通りに動いただけだ!」
国王からの命令? やっと、辿り着いた。やっと、真相に辿り着いた。
震える心を今度も必死で押さえつけて、私は冷たくアランを見た。
「奇跡を起こさないだけで私は貴方に復讐出来るということを、教えてくれてありがとう」
「なっ!?」
アランは膝から崩れ落ちた。
いつの間にか現れた影達に連れられていき、それからアランが私の前に現れたことは一度だってなかった。
それからは、どうやったらスカイ王国から脱出してクラウド王国に行けるのか、その方法だけを考えていた。
公爵令嬢や使用人・講師達から向けられる侮蔑や悪意も、王家の者達からの無関心も耐えられた。
ここは私のいる場所ではないから。
決して笑わずに、いつか逃げ出せる日がくることだけを信じて、私はその日々を耐えていた。
「シエナ! 君は何の奇跡も起こさない偽聖女だ! 僕は偽聖女との婚約を破棄して、公爵令嬢であるアイリスと婚約をする!」
だから夜会でセドリック殿下がそう言って、『偽聖女をクラウド王国に追放する』と宣言した時には心の底から歓喜した。
それは、スカイ王国で過ごした数年の中で一番嬉しい出来事だった。
ありがとうございます。セドリック殿下。その判断は正しいですよ。
だって、私は間違いなくスカイ王国にとっては、偽聖女ですから!
だって、セドリック殿下のその判断は、私がずっとずっと待ち望んでいた希望でしたから!
衛兵に無理やり馬車に乗せられ、私は乱暴にクラウド王国との国境に捨てられた。
「偽聖女の追放先には、格下のクラウド王国がぴったりだとよ!」
信じられないことに粗雑な衛兵は、クラウド王国の国境警備隊員を前にしてクラウド王国を侮蔑するような発言をした。
クラウド王国の警備隊員はスカイ王国からの挑発には慣れているのか無視をしていたが、『聖女が国境に捨てられた』という事実には戸惑っていた。
私は、祖国であるはずのクラウド王国では自分の力を精一杯に使いたいと考えていたけれど、たとえばクラウド王国の人達もスカイ王国民みたいな最低の人達ばかりだったらどうしよう、と不安になった。
お願いします。どうか、どうか、クラウド王国の人達が私に優しくしてくれますように……。
笑い方も忘れているかもしれないけれど、それでもこの人達のためなら笑いたいと思えるような人達でありますように……。
「聖女様? よく分からないけど、あんなやつらに連れてこられて大変だっただろう。すぐに隊長に連絡するから待ってな。大丈夫! うちの隊長は体も心も熊みたいにでっかいから、きっとなんとかしてくれるよ!」
だから、目の前の若い隊員がそう言ってニカッと笑った時には、涙が出るくらいに嬉しかった。
それから出会った隊長さまは、本当に熊さんみたいに大きくて、『きゅるるるるー』とお腹の鳴った私を怒鳴ることなんてもちろんしなくて、尋問よりも何よりもまずはご飯を食べさせてくれた。
食べさせてくれたスープはお母さんが作ってくれたみたいに心がこもっていて温かくって、パンは今まで食べたこともないほどに信じられないくらいに柔らかかった。
スカイ王国での日々の中でもう笑うことは出来なくなっているかもしれないと、本当は心の底で怯えていたけれど、私は自然に笑ってた。
隊長さまの優しい瞳と大きい体は、お母さんが作ってくれた熊さんのぬいぐるみみたいで安心出来た。
眼鏡セバス様は、花を咲かせる前から不審な私にも礼儀を尽くして丁寧に接してくれた。
食堂のおばちゃんリリー様の料理と明るい笑顔は、私の心を満たしてくれた。
だから、私はもう一度笑えたの。
もう笑顔を我慢する必要なんてない。私は、私が笑いたい時にどこでだって笑っていいんだ。
良いよね? お母さん? 私はもう笑っていいよね?
だって、私の力の恩恵を搾取しようと私を酷い目に遭わせることなんて絶対にないって信じられる人達に出会えたから。
だからね? お母さん。私はこれからまた笑ってもいいよね?