宮沢賢治「永訣の朝」本文と解説
永訣の朝
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
(*あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
(あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
(あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(*Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(*うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
※「天上のアイスクリーム」は、「兜率の天の食に変つて」とするものもある。 (青空文庫より)
「けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ」
その日の朝、トシは不整脈が止まらず医者を呼ぶが、明日までは持たないだろうと告げられる。
「わたくし」は、最愛の妹の命が、もうあとわずかだと知っている。
「みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ」
「うすあかくいつそう陰惨いんざんな雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる」
みぞれが降るからには、空は雲で覆われている。それなのに、「へん」な「あかる」さがあたりを包む。おまけにその色は「うすあかく」、それが雲の「陰惨」さをいや増す。
とても不気味で不吉な外の様子。それは、愛する妹の死がいよいよ迫っていることを表すようで、「わたくし」は不安でやるせなくなる。
妹が死ぬという「陰惨」なことが、すぐにでも行われようとしている。また、その「陰惨」な亡骸が、「陰惨」な雲に吸い取られようとしている。
空からは水分を多く含んだみぞれが「びちよびちよ」降ってくる。「わたくし」の心にも、悲しみのあめゆきが降っている。
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