他領の領主に売られた彼女が自由になった日の話
「メイリー。あなたはもう自由よ」
その日、雇用主である領主夫妻に呼び出されたメイリーは突然の言葉に青褪めて立ち尽くす。
彼女にとってその言葉は解放ではない。
放逐だった。
両親に売られてここへ来た自分には、もう帰る場所などないというのに―――。
―――六年前。
花屋の娘のメイリーは、街中で不安そうな顔で辺りを見回す少女と出会った。
派手ではないが小綺麗すぎるその格好から、裕福な家の子だろうとわかった。領主邸のある街ではあるが、ここは下町。お金持ちの子どもがひとりフラフラしていて安全というわけではない。
彼女を品定めするような視線に気付き、メイリーは小走りで駆け寄った。
「ほら、こっちよ」
「えっ?」
急に声をかけられて驚く少女の腕を取り、小声で早くと呟く。一瞬目を瞠った少女は何も言わずに足を早めた。
人通りの多い道を選んで抜け、顔見知りの多い商店の並ぶ筋までやってきてから、ようやくメイリーは足を止めて少女に向き合った。
「ごめんね、急に」
柔らかそうな金の髪を淡い青のリボンで結い上げ、質のいい同色のワンピースに身を包んだ少女は、いいえと小さく首を振って上品な笑みを見せる。
「助けていただいてありがとうございます」
自分とさほど年の変わらない少女の口から飛び出した言葉遣いに驚きながら、メイリーは掴んでいた腕を慌てて放した。
「迷子なの?」
「そうなのです。連れとはぐれてしまいまして…」
言葉遣いといい、様子といい、同年代の子どものそれではなく。
どこか距離を置くようなその態度のせいで、彼女自身が人形のように思えた。
居心地悪そうにもじもじしたあと、メイリーは顔を上げる。
「ねぇ、それはあなた自身?」
「…え?」
「あなた自身がその話し方なら仕方ないけど、そうじゃないなら普通にして?」
少し呆けたように見返すその顔は、先程までより幼く見えるが人らしく。やはり造っていたのだと知る。
「私はメイリー。あなたは?」
にこりと笑って手を差し出すと、少女はその手とメイリーを順に見て。
嬉しそうに碧い瞳を細めて、年相応の笑顔を見せた。
「アリエスよ。助けてくれてありがとう、メイリー」
その後すぐアリエスを探していた男と出会い、束の間の友好は幕を閉じた。
遠い街から来たというアリエス。楽しそうだったその様子に、メイリーも嬉しく思いながら店へと戻る。
清潔さはあるが少々くたびれた店内には、鉢植えばかりが置かれていた。需要はあるものの数日しか持たない切り花はほとんどない。
「ただいま。届けてきたよ」
「おかえり、メイリー。ご苦労さま」
店頭で母が迎える。
「…奥、手伝ってくるね」
少し寂しそうに店内を見てから、メイリーは店の裏手にいる父の下へと向かった。
色とりどりの季節の花で溢れるこの店が大好きだった。しかしいつの頃からか、店で扱う花の数が減り、世話さえ怠らなければ枯れることのない鉢植えの植物ばかりが並べられるようになった。
目に見えて必死に働くようになった両親に、メイリーも自分にできる手伝いをするようになったのだが、幼い自分にできることはさほどなく。
休む姿を見なくなった父と、時折泣きそうに瞳を伏せて謝る母の姿に、己の置かれている現状が決して甘いものではないことを知る。
両親に心配をかけないですむよう笑って過ごすこと。
我儘を言わず、役立つ子でいること。
十歳のメイリーにできる、彼女なりの親孝行だった。
翌日の昼過ぎ、メイリーが裏手で父親を手伝っていると、慌てた様子で母親が呼びに来た。
「メイリー!」
連れられて店に戻ると、満面の笑みのアリエスが立っている。隣にはアリエス同様いいものだとわかる、落ち着いた深い青のスカートと上着の女性と、昨日の男がいた。
「あなたがメイリー?」
問われ頷くと、女性はメイリーと視線を合わせるように屈んだ。
「私はミラレス。娘を助けてくれてどうもありがとう」
「助けるなんて…」
恐縮するメイリーにもう一度礼を言ってから立ち上がったミラレスは、今度は三人に向け深々と頭を下げる。
「ご息女が声をかけてくださらなければ、娘は危ないところであったと聞きました。心より感謝いたします」
慌てて頭を上げるよう請う両親に、姿勢を戻したミラレスはニコリと微笑む。
「メイリー嬢にお礼がしたいのです。娘ももっと話したいと言っていることですし、うちのフィードを付けますので。メイリー、アリエスと一緒にお茶でもどうかしら?」
「いいでしょう、メイリー? 私、もっとあなたと話したいの」
微笑むアリエスに手を取られ、メイリーは困惑して両親を見やる。両親も戸惑いミラレスとふたりの少女を見比べていたが、やがて頷いた。
街では普段立ち入ることのない領主邸周りの高級店の並ぶ一画に連れていかれ、菓子店の奥の個室で驚くほど香りのいいお茶と見るだけで顔が綻ぶようなかわいらしい菓子を出された。
あまりに場違いな己を少し恥じながら、それでもアリエスとの時間は楽しかった。
この先二度と踏み入ることのない世界を大切に胸に刻み、日常に戻るべく店に戻ったメイリーに。
両親は目も合わさず、ミラレス達と一緒に行くように告げた。
何を言われたのかわからずメイリーは両親を見上げるが、荷造りをしてこいと部屋に放り込まれて扉を閉められる。
「お父さん? お母さん? 何言ってるの??」
開けられないよう押さえられた扉を叩きながら必死に問うが、応えはなく。止まらぬ涙にうずくまるメイリーに。
暫しの沈黙のあと、父親が低く呟いた。
「…あの方に、お前を売ったんだ」
突き放すようなその声に、涙が止まった。
雪降る日の朝のように、静かに、しかし鋭く胸を刺す冷たさ。
自分にできる最後の親孝行が何であるのか。
メイリーにはわかっていた。
そうしてメイリーは、故郷バーラセン領から馬車で六日のエヴァレット領へと連れてこられた。
メイリーを『買った』ミラレスはここの領主夫人。領主である夫と、ふたりの子どもと暮らしていた。
領主の屋敷で使用人の見習いとして働くことになったメイリーだが、仕事はどちらかというとふたりの子どもたちの相手だった。
姉のアリエスは、ひとりでは嫌だと言って度々メイリーとともに家庭教師の授業を受けた。一般常識に基本的な教養、マナー、果てはダンスまで。アリエスと変わらぬ知識と所作を身につけることになったメイリーは、何度もアリエスに何故と問う。
「アリエス様、私はこのような場に出ることはありませんので…」
今日はお茶のマナーだと言われ、アリエスと向き合いお茶を飲むことになったメイリー。記憶の底をくすぐるような甘いお茶の香りと、ひとり分ずつ取り分けられた菓子を前に、うなだれ呟く。
「何を言ってるの。そのうち給仕として出るかもしれないでしょう? そのとき私がおかしなことをしていないか気付くためには、メイリーもちゃんと知らないと」
非の付けどころなどひとつもない優雅な所作でお茶を飲み、微笑むアリエス。
「明日はダンスの先生が来てくださるから、またラーシェルのお相手をお願いするわね」
「……私ではなく、アリエス様が…」
「嫌よ。同じくらいの背格好だもの。あの子に私のお相手役は務まらないわ」
女性にしては背の高いこともあるだろうが、ひとつ違いの弟ラーシェルとはさほど身長が変わらないアリエス。アリエスとはふたつ、ラーシェルとはひとつ年下のメイリーは、小柄なせいもあり、ラーシェルの肩までの高さだった。
「それに、メイリーがいてくれれば同時に踊れるもの」
「アリエス様……」
本来着せる側であるのに、アリエスとともにドレスを着せられるのは心苦しく。何度経験しても慣れない。
きれいなドレスを着られることに心弾まぬわけではない。しかし同時に、鏡に映った己の姿に自分はこれを着られる立場ではないと突きつけられるようでいたたまれず。
しかし拒めぬこともわかっていた。
自分は売られてここへ来た。
ここにしか居場所はないのだから。
幼い頃は身体が弱く、ミラレスとアリエスがバーラセン領へ来たときも留守番だったラーシェル。成長とともに丈夫になり、今では領地の視察にも行くようになっていた。
遠方へは泊まりがけの視察も、領主邸周りの街なら徒歩でも行ける。時折フィードと買い出しに出るメイリーに、いつの間にかついてくるようになっていた。
「メイリー!」
今日もいつの間に聞きつけたのだろうか、門前には既にラーシェルの姿があった。
アリエスと同じ金髪に碧い瞳。街に出るときはいつもよりも落ち着いた装いで、少し上等すぎるものの、それなりに紛れられる格好になっている。尤も住人たちの大半はラーシェルが領主の息子であることも、メイリーたちがそこの使用人であることも知っているのだが。
「ラーシェル様」
「今日は一緒に行けるから。何を買いに行くの?」
「アリエス様より頼まれたものを。あと、裏庭の一画を任せていただけましたので、植える植物を探そうかと」
「姉さん、またお菓子だろう?」
笑いながらのラーシェルの言葉に、メイリーも少しだけ表情を和らげ頷いた。
街にお気に入りの菓子店がいくつかあるアリエスは、こうしてメイリーをお使いに行かせることも少なくなかった。
「参りましょうか」
メイリーのあとからやってきたフィードがふたりを促す。
街へは高台にある領主邸から少し下ればいいだけ。荷はあとで届けてもらえるので手ぶらでの往復だ。とはいっても帰りは登り坂、ラーシェルが来るなら馬車を出してもいいのだが、ラーシェルは必要ないと首を振るばかり。
「僕だって昔とは違うんだから」
そう言い微笑むラーシェルは、あまり部屋から出なかった少年の頃の面影を残しつつも、ここ数年で顔つきも身体も大人のそれへと変わっていって。それでも昔と変わらず優しいその眼差しから、メイリーは逃れるように前を向く。
「確かに仰る通りですね」
自分はただの使用人。
見惚れるようなその笑顔が自分に向けられたものだなどと、うぬぼれてはいけないとわかっていた。
ラーシェルは色が白くて線の細い、儚い印象の少年だった。
初めのうちは何も話してくれず、紹介された日も、そう、とだけ返された。
自分はお留守番だったから拗ねてるのよ、とアリエスに言われたが、無表情で外を眺めるその姿が、甘えてはいけないと笑う自分と重なった。
跡継ぎであるラーシェル。その重責が自分の比ではないことなど、考えるまでもない。
自分にその重責をどうにかすることなどできないが、少しでも日々を支えることならできるかもしれない。
気持ちがわかるなどとは口が裂けても言えないが、もし自分と同じように、何もできないもどかしさを感じているのなら。
そう思い、話しかけ続けた。
やがて少しずつ応えてくれるようになり、自分の存在を認めてくれる頃には身体も丈夫になっていた。
動けるようになったラーシェルは今までの遅れを取り戻すかのような成長振りを見せ、今では身体もその資質も後継者としてなんの憂慮もないほどに成長した。
アリエスほどではないが、それでも何かと自分を呼ぶラーシェル。書斎で本を探したり、気分転換に庭を散策したり。ふたり並んでの作業はどうにも気恥ずかしく、しかし同時に楽しくて。時折こちらを見ていたラーシェルと目が合い微笑まれることに、うろたえながらも嬉しく思う自分に気がついた。
誰にも優しく、分け隔てなく。己の役目に真摯に向き合い、日々努力を怠らないラーシェル。
ずっと、その姿を見てきたから―――。
想いを呑み込み、メイリーは笑う。
両親に甘えることができなかった、あのときのように。
「いらっしゃ……、ラーシェル様」
菓子店の店主がラーシェルに頭を下げる。気にしなくていいと止めるラーシェルにもう一度頭を下げ、店主はフィードとメイリーに用向きを尋ねた。
バタバタと奥から慌てた足音が聞こえる。
「メイリー! っと、すみませんラーシェル様、お越しいただいてありがとうございます」
飛び出してきた店主の息子がペコリと頭を下げる。ラーシェルがもういいからと言わんばかりに少し手を上げるのを待ってから、青年はにこりとメイリーに笑いかけた。
「アリエス様のお使い?」
「ええ、そうなの」
アリエスのお気に入りのこの店。何度も訪れるうちに、店主とも息子の青年とも親しく話すようになった。
「もうすぐ新作できるから、完成したらメイリーも味見してみて」
「いいの?」
「だって、アリエス様の好みはメイリーが一番知ってるだろ?」
意見を聞かせてと言われ、メイリーはもちろんと頷いた。
前回何を買ったのか覚えてくれていて、いつもこれはどうかと薦めてくれる青年。今日も薦められたものの中から選び、フィードに確認を取る。
また、と手を振る青年に会釈し、メイリーたちは店を出た。
「ラーシェル様?」
途中で黙り込んで以来、菓子店を出てからも一言も話さないラーシェルに気付き、メイリーは足を止めて振り返った。
「ご気分でも悪いのですか?」
かけられた声にはっとした様子で顔を上げたラーシェルは、暫くメイリーを見たあと、視線を落として首を振る。
「いいや。大丈夫」
「…ご無理なさってませんか?」
メイリーがここへ来た頃は、何かと寝込むことも多かったラーシェル。その姿を知っているからこそ、メイリーは重ねて尋ねた。
顔を上げたラーシェルは、自嘲と困惑の混ざる眼差しを向ける。
「……僕はもうそんなに子どもでもないよ」
子ども扱いをしたつもりなどなかったメイリーだが、慌ててすみませんと頭を下げた。
「出過ぎたことを―――」
「メイリー」
言葉を遮り、ラーシェルが呟く。
「一緒に街に降りてきてるときは、普通にしててほしいって。言ってあったと思うけど」
呆れたようにというよりは、どこか寂しそうなその声。
「申し訳―――」
「メイリー」
謝るメイリーをもう一度止めて、ラーシェルは息をつき、もういいよ、と言った。
それ以上謝りもできず、メイリーは何も言えずに一歩うしろへ下がる。
寂しそうなラーシェルの声が胸に残っていた。
笑みを浮かべて自分を見る眼差しに、過ぎた望みを抱くべきではないと言い聞かせる日々。
せめてその態度も本当に使用人として相対してくれれば。
これほどつらくはないだろうに―――。
アリエスもラーシェルも。単なる使用人でしかない自分に本当によくしてくれた。
過ぎた待遇を受けているという自覚もあったが、嬉しそうに笑うふたりに駄目だとも言えず、流されるまま六年が経って。
同じく大切にしてくれる領主夫妻とそんな自分を妬む様子もない他の使用人たちに囲まれて、両親に売られたという絶望は次第に薄れ、ここにいられることを嬉しいと思う自分がいた。
最初はここにしか居場所がないからだと思っていた。
しかし今となっては違うとわかる。
自分はここが好きなのだ。
優しい皆が、好きなのだと。
そう、わかってしまっていた。
わかってしまってからは、自分が売られてきたということに安心していた。
自分はここの道具のひとつ。
だからここにいられるのだと、そう思い込んでいた。
なのに―――。
「メイリー?」
喜ぶ様子がないことを不審に思ったのだろうか、名を呼ぶミラレスの声に我に返ったメイリーは、その場に膝をついた。
「お願いします。私をここに―――」
「メイリー。よく聞きなさい」
言葉を遮ったのは領主かつここの主のメルバルト。
呆然と見上げるメイリーにラーシェルそっくりの碧い目を向けながら、前まで進み出たメルバルトは手を差し出す。
「おそらく君は勘違いしたままだと思うが、私たちは君を預かっているだけなのだよ」
屈んでメイリーの手を取り、ゆっくりと立たせる。
「…旦那様?」
「ご両親は君を売ったりなどしていないし、手放したいとも思っていないよ」
メイリーの手を放し、メルバルトはミラレスを見やる。その眼差しを受け、頷いたミラレスが話し始めた。
あの日、アリエスからメイリーのことを聞いたミラレスは、自分からも礼を言いに行くと決めた。しかし、子どもは親切でも親がそうであるとは限らない。ミラレス自身が出向くことで他領とはいえ領主夫人だとばれて無茶を言う輩もいるかもしれない、とフィードに止められ、まずはメイリーの家の様子を調べることにした。
結果として両親の為人に一切の問題はなかったのだが、同時にある疑問が浮かんだ。
領主邸周りに住む上流階級の者たちの中に生花市場の責任者がいることを知って話を聞きに行ったのだが、明らかに動揺して言葉を濁されたのだ。
一方でメイリー一家の周りに住む下町の町人たちには彼らを悪く言うものはおらず、急に困窮しだした花屋を不思議がる者が多かった。
花屋はここしかないのに、次第に置かれる切り花が減っていった、と。
この街に直接面識はないが夫の知り合いが住んでいることを知っていたミラレスは、その男との面会を取り付け、領主について話を聞いた。
自分から聞いたと言わないでくれと念を押されたその内容は、同じ領主として苛立ちを覚えるようなものであった。
何かあるのは間違いなかった。
立場を利用し、好き勝手に振る舞うバーラセンの領主。
どうして領主がメイリー家族にちょっかいをかけるのかという疑問は、メイリーたちがお茶に行っている間に両親たちの口から聞いた。
領主の息子がメイリーを気に入り、屋敷へと請われたことがあったという。それを断ってから、切り花の値がありえないほど高騰した。
店を訪れるのは、ほとんどが下町の町人たち。とても手が出る値段ではない。こんな値は長くは続かないはずだから、と、生花市場の責任者が一時的な立替を申し出てくれた。切り花を扱う数を抑え、値上げをなるべくせずに済むよう損失を被るうち、気付けば借金がどうしようもないほど膨らんでいたのだ。
責任者から金は領主に借りたものだと告げられ、領主からは少しでも金を返すために娘を働きに来させろと言われた。
騙されたことに気付いたときには遅かった。
それでもメイリーを領主邸には行かせたくない一心で必死に働いた。
値の戻らぬ生花を諦め鉢植えを扱うことにしたが、やはり生花ほどの売上はない。
爪に火を灯すような生活。
それならばいっそメイリーを領主邸に行かせた方が、娘だけでもましな生活ができるかもしれないと思い始めた頃だった。
「それならばうちで預かると、私が申し出たのよ」
立ち尽くすメイリーに、ミラレスは続ける。
「バーラセンの領主のことはすぐには追求できない。でもご両親に待つ余裕はなかった。同じ領主の私たちにはあちらも無理は言えないもの。匿うには最適でしょう?」
微笑むその顔には人の上に立つ者の誇りが垣間見え。
それでも優しく自分を見る瞳に、メイリーは戸惑いを隠せずにいた。
「ですが奥様、私などにどうしてそんな…」
「メイリーは見ず知らずのアリエスを助けてくれたでしょう?」
言葉を遮る強い声に、続けられずに息を呑む。
「何も見返りを求めずに、ただあの子を助けてくれたでしょう? だから私も助けたいと、そう思っただけなのよ」
そこまでは強く言い切ったミラレスが、でも、と表情を曇らせた。
「結果として、あなたにずっと誤解をさせたままだった」
手を伸ばし、メイリーを引き寄せる。
「あなたが家を恋しがってはいけないからと、ご両親は仕方なくあなたを売っただなんて言ったのよ。止められなかった私を恨んでいいわ」
「奥様、そんな…」
頭を振るメイリーを抱きしめて、ミラレスは静かに続ける。
「だからご両親の気持ちをわかってあげて。どんな思いであなたを手放したのか。どんな思いで心にもないことを言ったのか。あなただけは、わかってあげてね」
自室へと戻っては来たものの、メイリーは未だ己の状況を理解しきれていなかった。
あのあとミラレスから、バーラセンの領主と生花市場の責任者など、うしろ暗いことをしていた者たちは一掃されたと聞いた。今は国から臨時の管理者が置かれているらしい。
両親の借金はなかったこととされ、今までの不当な支払い分はわかる限り戻るという。
六年前、ミラレスからの肩代わりしようかとの提案を断り、自力で工面をし続けると言い張った両親。しかしそれではメイリーを『売った』ことにはならず、借金も減らない。メイリーを売ったと信じさせるためにも、借金先をバーラセンの領主から自分たちへと変えるようにと説得したそうだ。
メイリーがいなくなったことと、一度に大金が手に入ったことで、ちょっかいをかける理由がなくなった領主も手を引いた。切り花の値も緩やかに下がり、一年でほぼ元の値になったという。
領主といっても国に対してそこまで力があるわけではない。国に動いてもらうのと、街の人々の生活を壊さぬよう根回しするのに時間がかかり、結局はバーラセンの領主の不正を暴くまでに六年がかかったと、メルバルトにも謝られた。
両親の借金はあと僅かだという。
自分が今まで働いた分の給与もきちんと仕事に見合った額を貯めおいてあると言われ、全額借金の返済に充ててほしいと伝えた。
どうすればいいのかわからなかった。
メルバルトたちは、望むならこれからもここで働いてくれればいいと言ってくれた。しかしその前に、一度バーラセンに戻り両親に会ってくるよう勧められる。
両親たちは、合わせる顔がないから本当のことは告げなくていいと言っていたそうだ。
ここでの生活が幸せなら、それはメイリー自身が己の手で手に入れた幸せ。
邪魔することはできない、と。
しかし本当は会いたいのだとミラレスは言い切る。
「メイリーにもご両親に思うところはあると思うわ。でも、お互い会って話さなければ、伝わらないことだってあるのよ」
ミラレスの言葉が、いつまでも胸に残っていた。
扉が叩かれ、メイリーは我に返った。
「メイリー!」
「アリエス様?」
慌てて扉を開けると、満面の笑みのアリエスが立っていた。
「アリエス様、ご用事でしたら私が伺いますのに…」
「いいのよ! だって、私がメイリーに用事があるのだもの」
入るわね、と止める間もなく部屋に入ったアリエスは、戸惑う様子のメイリーにまっすぐ向き合う。
「あの日の話は聞いてきた?」
知っているのかと身動いだメイリーだが、あの日はアリエスもあの場にいた。知らぬはずがない。
「はい」
頷くメイリーに、アリエスも小さく頷いてその両手を取った。
「ア、アリエス様っ?」
「私からも言わせて? 黙っていてごめんね、メイリー」
「アリエス様、おやめください」
ぎゅっと手を握られてうろたえるメイリー。それでも放さないアリエスが、聞いて、と続ける。
「でもこれでようやく言える。ねぇ、メイリー。私とお友達になってくれない?」
投げかけられた言葉に、メイリーが動きを止めた。
「アリエス様…?」
「あの日あなたに助けてもらって。次に会えたら言おうと思っていたのに言えなくなってしまったの」
『売られて』ここへ来た自分。仕える相手と友達にはなれない。
それがわかっていたからこそ、アリエスも今まで何も言わなかったのだろう。
見返すだけのメイリーに微笑むアリエスの瞳は、今まで自分へと向けられていたものと何ら変わらず。
口にはしなかったが、アリエスはずっと自分のことを友達と思ってくれていたのだと、メイリーはようやく知る。
「あなたと私は今は対等でしょう? だからお願い、お友達になって」
「アリエス様…しかし、私は…」
握られた手を振りほどけないまま、ふるふると首を振る。
ここで働いていなくても、アリエスとは決して対等ではない。
領主の娘と下町の花屋の娘。元から身分は違うのだ。
「そのようなことを仰っていただけるような身分では…」
「メイリー」
ぎゅっと、握る手に力が込められる。
「それは、あなた自身?」
六年前、メイリーがアリエスに投げかけた問いを、今度はアリエスが返した。
瞠目したメイリーに、お願い、と距離を詰める。
「あなた自身の言葉で。あなた自身の気持ちを聞かせて?」
碧い瞳に映るのは紛れもなく自分の姿。
真摯なその姿に、メイリーは堪えるように唇を引き結ぶ。
お互い何も知らなかったあの日。ほんの短い時間ではあったが、本当に楽しく。
全てを知った今からでも、あの日に還れるのだろうか。
ただ手を繋ぎ、街を歩いたあの日に―――。
まっすぐアリエスを見返すメイリーの瞳から涙が溢れた。
「……私で………いいの……?」
「あなたがいいのよ、メイリー」
手を伸ばし、ぎゅっと抱きしめて。
涙声でアリエスが返した。
嬉しそうにアリエスが戻った。
再びひとりになった部屋でメイリーはアリエスの言葉を噛みしめる。
ここに『売られて』きて、本当によかった。
両親のことは、正直どう思っていいかわからない。
最初は少し恨んだこともあった。
どうして、と、そう思っていた。
六年は、決して短くはない。
『売った』のではないと聞いても、六年の間抱えていた思いがすぐに消えるわけではない。
それでも、ミラレスたちの言葉に背を押され、アリエスの言葉に帰る場所をもらった。
六年振りの故郷。両親に会うのは怖いが、自分にはもう戻ることのできる場所があるとわかっている。
だから大丈夫と言い聞かせる。
優しいメルバルト、気にかけてくれるミラレス、友達になろうと言ってくれたアリエス。そして―――。
浮かんだ顔に瞳を伏せる。
ラーシェルはここの跡継ぎ。いずれは伴侶をもらいここを治めていく。
それならばいっそ、同じくいずれ嫁ぐだろうアリエスについていくのもいいかもしれない。
ここに戻らねばならない理由はない。
でも、自分はここが好きだから。
たとえ戻ることで突きつけられる現実があったとしても、ここにいられるほうが幸せだと思えるから。
そんな程度の理由しか、自分にはないけれど―――。
再び扉が叩かれた。
アリエスが戻ってきたのかと思い扉を開けると、そこに立っていたのはラーシェルだった。なぜか街に行くときの格好をしている。
「ラーシェル様? 今から街に行かれるのですか?」
ついてこいということだろうかと尋ねるメイリーに、ラーシェルはその場で首を振る。
「…この格好の方が僕自身の言葉だとわかってもらえるかと思って」
なんのことかと首を傾げるメイリーに、ラーシェルは少し瞳を細めた。
「メイリー。よく聞いて」
「はい」
「僕は君が好きだよ」
「は……え?」
あまりにさらりと言われたので頷きかけ、おかしいと気付き固まるメイリー。そのまま頷いてくれてよかったのに、とラーシェルが笑う。
「……あ、の……」
「僕は君が好き。わかってくれた?」
惚けてラーシェルを見上げていたメイリーが二度目の言葉に我に返り、一歩後退る。しかしすぐに手を掴まれ、足を止めた。
「…ラ、ラーシェル様……」
自分を捕らえる碧い瞳に、それ以上動けずにただ見返す。
熱を持つ頬よりも、掴まれた手が熱い。
「ずっとメイリーに励まされてきた。あんな嘘をつかれて連れてこられたのに、メイリーはいつも一生懸命で。僕は甘えてばかりの自分が恥ずかしくなったんだ」
「そんなこと…!」
「少なくとも僕はそう思った。だから君のように強くなろうとしたんだよ」
「あっ」
手を引かれ、ラーシェルのすぐ目の前にまで寄せられる。
ダンスのときよりもさらに近いその距離。まっすぐに自分を見るラーシェルは真剣そのもので。
視線を逸らすことができなかった。
「メイリー。君はこれから故郷に戻るのだろうけど」
顔も背けられず、握られた手も振りほどけず。
何も言えず、メイリーはただラーシェルを見返す。
「…ちゃんとここに……僕のところに、帰ってきてほしい」
息のかかりそうなほどの距離、メイリーを見つめたままのラーシェルが囁きを落とした。
―――今日一日で、どれほどのことがあったのだろう。
ラーシェルを見上げるメイリーの瞳から、見る間に涙が溢れ出す。
両親に売られてここへ来たと、ずっと思っていた。
それでも幸せだったここの生活。
このままで、と思っていた。
でも―――。
「メイリー」
少し不安の色を含む眼差しのまま、ラーシェルがそっと頬の涙を拭う。
優しいその手に瞳を細め、さらに零れる涙の中。
ラーシェルがくれたこの言葉を、自分がここへと帰る理由にしてもいいだろうかと。
そう、思った。
部屋には入らず廊下でのやり取り、ラーシェルはあとでアリエスにからかわれることになりました。
読んでいただいてありがとうございました!