廃駅
ローカル線への乗り換え駅。
閑散とした構内を歩いていると、今日の目的地の温泉地のポスターが貼ってあった。
海に臨む温泉の写真。どこから撮ったのだろう。泊まる宿と日帰り入浴予定の中に入っているといいな。
改札の上にある時計を確認し、予定通りの時間で安心する。日帰り入浴の受付、一件くらいは間に合う。
――それに何よりも、次に乗る電車が終電なのだ。
売店で飲み物を買い、次のホームへの通路を歩く。
ガラス越しの残照。
階段には、小学校の名前が記されたマナー向上ポスター。描かれているのは高架橋の上を走る電車と、落ちてきた空き缶に当たって泣いている子ども。あぶない、の文字。
駅の周りに高い建物はなく、広い空がよく見える。
葉を揺らす風を起こしながら、一両きりの電車が入ってきた。
中にはボックス席が並んでいて、旅行気分が高まってくる。誰もいないから写真を撮ってみた。
(暗くなっちゃったな)
窓の外がうまく写らない。
「あ……、すみません」
入口近くで立ち止まっていたから、後から乗ってきた乗客を邪魔してしまった。
「…………」
男の人で、関心の無さそうな表情。だがこちらが構えていたスマートフォンを見て、少し眉間を寄せた。
脇によると、男は先頭の方へ。離れた位置に行ってしまった。荷物が少ない。地元の人だろう。
待ち時間はまだある。先頭からの景色も見たかったけれど、これ以上嫌な顔をされたくなくて、大人しく近くの席に座った。
電車が動き出す。あっけないほど短いホームを後にすると単線になった。
後は終点まで乗っていくだけ。肩の力を抜いた。直立した硬い背もたれも、一時間足らずならば味になる。
街灯の少ない田園風景は、日没とともに見えなくなってしまった。ちょっと味気ない。
(人少ないな)
目的の温泉地に行くには、こことは別の海側のルートの方が定番だ。 本数の少ないこの山側の路線は利用しにくい。今回たまたま乗り換えがスムーズだったので、滅多に乗らない路線を選んだのだ。
辺りは山深くなっていく。両側を斜面に挟まれて、止まる駅の中さえも単線になる。降りる人はいるが、乗る人はいない。少なかった乗客はさらに減っていく。
(あとはあの人か)
最初に嫌な顔をされた男だけが残った。
自分が座る席と対角線上、進行方向右側のボックス席にいる。背筋を伸ばせば、頭の天辺だけ見えた。窓に顔を向けているようだ。
自分も左の窓の外に視線を戻して、
(……右側の方が眺めがいいのかな)
とふと思った。地元の人で、この電車に乗りなれているはずだから。たんに興味がない可能性もあるが。
すぐ右のボックス席に目をやるが、室内の灯りを反射して外が見えない。向こうの窓にべたっと顔をつけたいけれど、落ち着きのない行動を見つかるとまた嫌な顔をされそうだ。しかたなくそのまま静かに座っていた。
居心地の悪さが薄れてきた頃、大きな谷に入ったのか森が開けた。
(綺麗だ)
暗闇の中遠くに見える街の灯り。こちら側に座っていて良かった。温泉町への気分が上がる。走行音はかなりうるさいけれど。鉄骨の橋の上だろうか。
電車はまたすぐに森の闇へと飲み込まれる。満足して背もたれに寄りかかった。
電車が速度を落としていく。
……どうしたのだろう。
辺りは変わらず鬱蒼とした森だ。駅らしい灯りなど見えないのに。
「――ッ」
窓枠に掛かった黒い影。スピードが落ちて、背の高い草が車窓を擦っていると分かった。一瞬……、人の指に見えた。
電車が止まる。車内から漏れる光で、辺りの様子がやっと見える。そこは灯りが一つもついていない駅だった。反対のホームにある改札は、縄か何かで封鎖されている。
異様な雰囲気に緊張した。震えながら首を伸ばして、もう一人の乗客の存在を確認しようとした。
その時、スピーカーから割れた声が聞こえた。
「列車交換のため停車します。この駅では降車できません。しばらくお待ちください」
走行音が止まっていても聞き取りにくい。年季の入った音質だ。
(列車交換……。すれ違いのことでいいのかな)
降車できない駅……。もう一度周りを見渡す。
(廃駅か)
取り囲む森は暗く、駅舎と線路以外の人工物は見えない。利用客は確かに少なそうだ。複線を持っている大きい駅なのに。いや、もしかしたら大きいからこそ維持を放棄されたのかもしれない。
物珍しさに窓に張りついて見回したが、やはり視界が悪い。シートに背を預け直し、頭だけ窓に寄りかかった。
待ち時間がどのくらいか、というアナウンスもなく、やけに時間が長く感じる。
こんこん、と音がした。
車体に枝でも当たっているのだろう。
一呼吸置いて、また同じ音がした。
……同じ音。風のせいにしては規則的な間隔だ。
そう思っている間に、また鳴った。
なんだろう。音が近づいたような――
人がいる。
ホームに人の高さの影がある。窓から車内を覗き、時折ノックしている。長いスカートのシルエット。
(……道に迷って……)
廃駅にたどり着いて、どうにか乗せてほしいとか……。そういう雰囲気ではない。
ゆっくりと、中を探るように覗きこんでいる。こちらに向きを変えて、次の窓の前へと移動してきた。長い黒髪をその顔の手前に垂らして。
そしてまた、こんこん、と叩いている。
窓から体を引く。息を潜めて、耳をそばだてた。
一つ手前の窓にいるのが視界の端に見える。
もうそこに……。
――立ち上がりさえすれば、もう一人の乗客の姿が見えるはず。先頭には運転士もいる。
だが体が動かせない。声も出ない。
……きた。
目を合わせないように、明るい車内だけを見る。
窓が、叩かれた。
鼓動が痛いほど飛び跳ねる。軽いノックの音が、がんがんと胸に響く。
(早く……行け……)
音は、間隔を置かず繰り返す。いままでと違い執拗に。次の窓に移動せず、ひたすらこの窓を叩き続けている。
この席の後ろはドアしかない。そのせいなのか。それとも自分がここにいるから……。
逃げたい。動けない。眼球だけが反応する。目の端に、窓に掛けられた手が見える。人の血色には見えない青白さ。
「――っ」
叩く音が激しくなった。振動が頬に響いている気がする。
その音に重なって、何かの高い音が大きくなってくる。
辺りの光が、目に痛いほど眩しくなる。車両全体の窓が激しく光った。
――猛烈な音を立てて、反対方向を電車が走り抜けていった。
轟音が過ぎ去った後、窓を叩く音はまだ止まない。
「発車します……」
割れた音のアナウンスがあった。
電車が動き出す。それでも叩き続けていて、やがて走行音に掻き消された。
(……まだ、いるかな……)
山中の線路は暗い。地下鉄と変わらない密室。視線を動かす勇気はない。
割れた大きな音がして身をすくめた。
次の駅が告げられただけだった。先程まで淡白な声だった運転士だが、上擦った声を張り上げ気味にしている。それが音割れをひどくしていた。
長い時間。一つずつ駅名を聞いて、知っている駅名に気づいた時、そこは終点だった。
電車はすでに止まっている。
もう一人の乗客が立ったのが見えた。彼を追いたいのに、冷や汗をかいたまま立てない。
そうしていると、男が振り向いて近づいてきた。
このボックス席の前に立って、こちらを見下ろしている。向かいの席に置いたリュックにも目をやった。
「……あれの動画でも撮りにきたんじゃなかったんだ」
リュックのポケットには、きちんとスマートフォンが収まって、頭だけ覗かせている。
男は少し申し訳なさそうな声になった。
「言えばよかったね。この電車、夜はあまり乗らない方がいいよ」
しゃがんで目線を合わせて、
「……見た?」
と訊いてきた。
ゆっくりと唇に力を入れると、顎が震えだした。ようやく動かせた頭をゆるく、縦に振った。