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単性花

作者: 日笠京太郎

大学からの帰り道には、雑多な街並みが広がっていた。スーパーマーケット、定食屋、不動産業者。俺の前にはそういう無彩色な建物が、ぎゅうぎゅうに敷き詰められて、並んでいる。お世辞にも美しいとは言い難い街並みだ。機能面を重視した建物たちが、ただただ放射状に広がっている。趣があるといえば聞こえは良いが、そう思えるほど俺の感受性は、上等なものではなかった。

そういう街並みにうんざりしながら大学からの帰路を急いでいると、足元に、萎んだ赤い風船があるのに気がついた。俺は屈んでそれを拾い、付いていたビニールのポチ袋を開けてみる。その動機は一つ。「なぜこんなところにこんなものが」という好奇心だ。

ポチ袋の中には植物のタネと、小さく折りたたまれた紙が入っていた。俺は園芸の知識に疎いから、そのタネからどのような植物が萌芽するのかは判断しかねた。形状が白く細長いため、米粒のように見える。もしかしたら、本当に米粒かもしれない。だとすれば、なぜこんな所に風船と米粒が落ちていたのだろうか。俺の好奇心はさらに掻き立てられ、小さく折りたたまれた紙を開いた。

紙には、綺麗な手書きの字が綴られていた。女性の字だろうか。とめはねが徹底された、お手本のような字だった。

『農業関係の仕事をしている父から貰ったきゅうりの種です。拾った人は育ててみてください。

あと、これは良ければでかまわないのですが、私と文通しませんか?

今の時代は携帯で簡単に連絡が取れますが、私は、手紙を通じて思いを伝え合う文通というものに憧れています。あなたも、文通をやってみませんか?

それじゃあ連絡お待ちしています。これを読んだ人は、お手紙をくれると嬉しいです。』

そんな文面と一緒に、送り主のものと思しき住所と名前が書かれていた。送り主は、大阪在住の訓覇紗耶香という人物らしい。

手紙の内容を信じれば、訓覇紗耶香氏は大阪からポチ袋と風船を飛ばし、その風船は偏西風に乗って、関東へやって来たということになる。だとすればその意図、目的は何だろうか。単に文通がしたいだけか、あるいは他の理由か。いずれにせよ、不特定多数の人物が拾い得る手紙に住所を書くとは、危機管理能力が思いやられる。俺だったらこんなことはしない。

それにしても、送り主が自分と同じ名字だというのは驚きだ。俺は、名を訓覇(くるべ)栄という。珍しい名字であるという自覚はある。当然、今までこの名字が被ったことも、一発で読まれたこともない。そういう経験をしていたからこそ、自分以外の「訓覇」にこんな形で出会うとは考えもなかった。

珍しい同姓の人物が飛ばした、謎多き風船と手紙。それで俺の好奇心は、存分に掻き立てられた。

俺は手紙ときゅうりのタネをポケットにねじ込む。そして視線奥の交差点を目指し、歩いていく。



自宅アパートのドアノブに鍵を挿し、開ける。下宿先のアパートは大学からほど近いところに借りた。俺は朝に弱いので、大学までの距離は下宿先を決めるうえで最も重視した点だ。

鞄を置き、部屋の中央にある丸テーブルの前にあぐらをかく。そしてポケットから、先ほど拾った手紙を取り出した。まだ見ぬ訓覇紗耶香という人物に、手紙をしたためようと思ったのだ。動機は例のごとく好奇心。好奇心は猫を殺すというが、俺は猫ではないので問題ないだろう。鞄から便箋を取り出し、文面を考える。文面は思いの外、スムーズに浮かんだ。

『お手紙ときゅうりのタネ、拾いました。文面からは、なぜきゅうりのタネを送ったのかなど不明な点が多く、好奇心が掻き立てられました。好奇心は猫を殺すと言いますが、あなたは私を殺さないと信じています。字は人を表すと言います。この手紙は、あれだけ美しい字を書くような人が、私のような善良な市民を殺すことはありえないという信頼のもとにしたためています。そこは理解してください。

それでは返事お待ちしています。訓覇栄』

俺はこう記した便箋を折りたたみ、茶封筒に入れた。それに、訓覇紗耶香氏と自分の住所を書く。なるべく丁寧に、かつ大胆に、俺は書き慣れた「訓覇」という名字を、二回書いた。

書き終えると、自分が思いの外高い集中力で手紙をしたためていたことに気がついた。顔も年齢も身分もわからない人物への手紙に、無駄な労力を払ったなとは思う。しかし不思議と、悪い気はしなかった。むしろ、少しばかり高揚している自分がいる。

同じ名字の人間からの摩訶不思議な手紙。その経験したこともないシチュエーションが、俺を高揚させているのだろう。不本意ではあるが、少し楽しくなってきていた。

俺はその夕手紙をポストへ投函し、ホームセンターで土と鉢植えを購入した。そして、窓枠にきゅうりのタネを植えた鉢を置く。薄暗いアパートの一室で植物が萌芽するとも思えなかったが、物は試しだ。俺はそう考えながら、窓際の鉢を眺める。

さて、俺は一体何をしているのだろうか。



数日後、大学の講義を終えてアパートへ帰ると、郵便受けに二通の手紙が届いていた。それを手に取り、部屋へ入る。そして例のごとく、丸テーブルの前にあぐらをかいて、二通の手紙に目を通した。

一通目は、実家の母からであった。女手一つで俺を育ててくれた彼女は、月に一度くらいのペースで手紙を送ってくる。わざわざ手紙というアナログな手段を取るのは、彼女が極度の機械音痴であるからだ。

『久しぶりです。お節介ばばあです。最近はいかがお過ごしですか?

こちらは元気です。さみしいと思う時もありますが、大丈夫です。夫と離婚してからそういうのは慣れっこだから、心配せず勉学に励みなさい。

そちらはどうですか?

あなたは昔から、ぼーっとしながらもなんだかんだどうにかやる子だったから、実のところそんなに心配していません。でもできればで良いので、近況を教えてください。私は人の親。あなたは人の子。私は心配だし、あなたは心配されるのです。

それでは、連絡待っています。

PS そろそろ本場の粉もんを食べたくなる頃でしょうから、今度冷凍のたこ焼きを送ります。食べてね。訓覇明子』

母からの手紙は、前回と概ね同じ内容だった。稀に、同僚の女性と駆け落ちした元夫の愚痴を書いた手紙が送られてくることもあるが、今回はそうではないようだ。一安心である。俺は父に会ったことがないし、何より人の愚痴は反応に困るのだ。農業関係の仕事をしていて稼ぎが少なかったなどと言われても、こちらは「ご愁傷様です」としか言いようがない。

しかし他方で、愚痴を言いながらも元夫の「訓覇」という姓を名乗っているあたり、内心ではさほど悪く思っていないのかもしれない。小学生の男子は好きな女の子をいじめる傾向にあるが、それに近い心理だろう。

俺はそう思いながら、適当に近況を書き連ねた。

『生真面目に授業に出席し、週数回アルバイトをして家に帰る平坦な日々。前回送った手紙から特に状況的な変化なし。食事に関しては、米を炊くのが億劫になったため、食パンを食べる日々。こちらも、前回送った手紙から特に状況的な変化なし。金銭面も特に問題なし。訓覇栄』

二通目は、例の訓覇紗耶香さんからであった。相も変わらず美しい字で書かれたその手紙に、目を通す。

『手紙読みました。訓覇栄さん、あなたなかなか骨のある人ですね。私の斜め上を行く返事を書いてくれたので、なかなか楽しんで読むことができました。ありがとうございます。

なんできゅうりのタネを送ったのかという質問をしてくれたので、答えます。理由は簡単、無償で文通してもらうのが忍びなかったからです。文通には、ある程度の労力が必要です。だからせめてもの代償として、きゅうりのタネを特典としてつけました。きゅうりは浅漬けにしてもおいしいですし、良いお野菜ですから。

栄くんが私に質問してくれたので、私も栄くんに質問します。良ければ答えてください。

・栄くんは何歳で、何をしている人ですか?

・彼女はいますか?(笑)

・栄くんの趣味はなんですか?

この三つの質問、答えてくれるとうれしいです。それじゃあまた! 訓覇紗耶香』

美しい字からは想像もできない、なんとも突っ込みどころの多い内容であった。

まず彼女は、きゅうりのタネを文通の代償として捉えているようだが、そこには実がなるまで育てる手間が全く考慮されていない。育てる手間を考えれば、きゅうりのタネは彼女の言う「代償」や「特典」にはなっていないだろう。むしろ罰ゲームだ。

また、俺はきゅうりのタネを送った理由を聞いた覚えはない。ただ単に、「好奇心が掻き立てられた」と書いただけである。それにもかかわらず、彼女はしてもいない質問に答え、等価交換だと言わんばかりにこちらに質問をしてきた。これを不条理だと言うほど俺の心は狭くないが、筋は通っていないなとは思う。

俺は少し呆れつつもペンを取り、先日買った便箋に走らせた。

『手紙読みました。きゅうりの件、了解です。文通をさほど負担には感じていませんが、ありがたく育てさせてもらいます。私は結構、きゅうりが好きだったりしますから。

さて、三つ質問をいただいたので、順にお答えします。

・二一歳で、東京の大学に通っている大学生です。

・いません(笑)

・きゅうりを育てることです。それでは失敬。訓覇栄』

彼女に俺の込めた皮肉が伝われば良いが、生憎俺は優れた文筆家ではないから、文章に皮肉を匂わせられるほどの技術はない。今回は満足のいく手紙を書くことはできなかったが、俺はこの手紙を投函することにした。書き直すのも面倒だ。



数日後、例のごとく講義を終えて郵便受けを確認すると、一通の手紙が届いていた。茶封筒にお手本のような文字。奇天烈ガールからのありがたきお手紙だ。

部屋へ入り、丸テーブルの前であぐらをかく。今回はどのような内容で攻めてくるかあれこれ考えながら、俺は茶封筒を開封した。

『栄くん(えいくんかな?)質問に答えてくれてありがとう!

今回も、いろいろと予想外な回答をしてくれたから、楽しんで読めたよ!

じゃあ、質問の答えに答えるね。


・東京に住んでるんだね!

うちは、大阪の大学に通う大学生だよ。でも、うちは一九歳の大学二年生だから、栄くんが年上だね。

・いないんだ(笑)。いのち短し恋せよ少年だよー(笑)。

まあ、そう言ううちも彼氏いないんだけどね……

・趣味がきゅうりを育てることって変わってるね(ちょっと疑ってる笑)。

そういう人にきゅうりのタネを渡せて、送り主冥利につきるよ(笑)

それはそうと、そろそろきゅうりの芽が出るころかな?

うちもあんまりきゅうりに詳しくないからよくわかんないけど、美味しいきゅうりを育ててね。

それじゃあ、連絡待ってるよ! 訓覇紗耶香』

前回よりも口調が軽くなっていることに、俺は憤慨を禁じえなかった。彼女は自身が年下であることを知りながら、このような口調で手紙をしたためたのだ。しかも、いつの間に一人称が「うち」に変わっている。彼女には、年上を尊敬するという発想はないのだろうか。俺は「やさしい男」だから、このような不満を文面に表さないが、彼女は目上の人物への言動にもっと気を使うべきだろう。

俺はペンを回してから、便箋に走らせる。

『手紙読みました。紗耶香さんは私の回答に沿って自身の身分も明かしてくれたようですが、驚きました。

あなたが私よりも年下とは思わなかったので、意外でした。

さて、手紙の中で言及されていた恋人についてですが、別に恋人がいるからえらいということはないので、お互いさほど気にすることはないように思います。もし恋人ができて結婚したとしても、淫情が拭えず、同僚の女性と駆け落ちし、妻と子供を置いて離婚していった欲深い男もいます。そういった欲深い人々よりも、文通にささやかな楽しみを見出している私たちの方が、はるかに上質な精神の持ち主だと思います。気に病むことはありません。

最後にきゅうりについてですが、残念ながら萌芽の兆しは未だみられません。

あなたの送ったタネは、どうやらなかなかの曲者のようです。萌芽したらまた連絡します。それでは。訓覇栄』

そこまで書き終えたところで、俺は窓際の鉢植えを見た。ホームセンターで適当に購入したその鉢植えは、夕日に照らされ、静かに黒土を孕んでいる。その様子にまったくもって生命の気配は感じられず、一体いつになれば萌芽するだろうと不安に思った。

そんなことを考えてから、視線をテーブルに戻し、便箋を折りたたんだ。そしていつもの茶封筒に、もはや書き慣れた住所を記入し、便箋を入れる。そこまでして、投函しに行こうと立ち上がると、ちょうどインターホンが鳴った。訪問者は誰だろうかと考えながら、玄関口で部屋のドアを開けると、配達業者を名乗る男性が大きめ段ボールを持ち、サインを求めてきた。サインをして、段ボールを受け取り、丸テーブルで中身を確認する。

実家の母が、冷凍のたこ焼きを送ってくれたようだ。



ポストに手紙を投函した後、その帰り道にある小さなスーパーに寄るのが、最近の慣例になっていた。

母が冷凍のたこ焼きを送ってくれた今日とて、それは変わらない。牛丼屋の横、大学へ続く横断歩道の近くでひっそり佇むそのスーパーに、俺は入店していた。

店内には、あまり客の姿が見られなかった。夕飯時に学生街の小さなスーパーへ買い物に行く人間は、さほど多くはないようである。俺は構わず店内を周り、商品を買い物カゴへ入れていく。

肉や野菜など一通り入れたところで、俺はふと、店の中央、瓶の立ち並ぶ酒の陳列棚で足を止めた。俺は特段酒に興味があるわけではない。棚の上に装飾されていたポップに興味を持ったのだ。

『父の日にはおいしいお酒を』

黄色い厚紙にかわいらしい丸文字で綴られた、なんの変哲もない一節。その一節を見て俺は、家族を必死に養う勇猛な世の父親たちに思いを馳せた。愛する家族のため、自らのため、毎朝満員電車に揺られる彼らこそ、最も賛辞を受けるべき人間だと俺は思う。

自らの父も、あるいはそうであって欲しかったとは思う。しかし彼にも、彼なりの事情があったのかもしれない。俺は自分にそう言い聞かせ、会計を済ませてから、店を出た。



ここ数日の関東は、完膚なきまでの豪雨だった。

先日スーパーから帰る時にはまだ降っていなかったが、帰宅してしばらくすると、さながらバケツをひっくり返したような雨が降り出した。その勢いは日が変わってもなお収まらず、容赦なく関東を襲った。その雨粒が窓に当たる勢いが凄まじいので、雨漏りしないか心配になるほどだった。

そんな豪雨が降り始めて三日目の土曜日、俺は束の間の休日を過ごしていた。土曜日の講義は履修しておらず、アルバイト先からも客足が遠のいているので来なくて良いと連絡があった。つまり今日は、特段予定のない、退屈な日なのである。

そんな日に俺は、昼食がてら母のくれたたこ焼きをつまみながら、面白くもないワイドショー番組を眺めていた。芸能人が破局しただの、結婚しただの、そういった内容を報道している。そんなことは正直どうでも良い。俺には関係ない。

コメンテーターが偉そうに語るのをぼんやり眺めていると、それを遮るかのように、インターホンが鳴った。こんな雨の中わざわざうちにやって来るのは誰かと思いながら、俺は部屋のドアをゆっくりと開ける。

ドアを開けると、俺は一瞬、何かを間違えてしまったのかと思った。部屋の前にはびしょ濡れの女性が、壊れたビニール傘を手に立っていたのだ。パーカーにジーンズというカジュアルな服装で、こちらを見ながら立ちすくんでいる。その表情はにこやかで、また、幼げにも見えた。

「自分、訓覇栄えいくん、やね?」

「はは、なんの冗談だよ」

俺は、その女性に対して初対面であるという感覚を抱かなかった。顎のあたりで切り揃えた黒髪も、澄んだ栗色の瞳も、俺はきっと、一度も見たことはないだろう。ただしかし、俺は彼女と「話し」たことがあるような気がするのだ。そのことが、彼女と初対面であるという感覚を麻痺させたのだろう。

俺はふうと、一つ息を吐いた。

「名前を間違えられるなんて、ショックだな。俺の名前はえいじゃない。訓覇栄さかえだよ」 

胸の奥で、何かがぽんと弾むような感覚がした。

「はは、読み間違うとったんか。ごめんな、さかえくん」

彼女は躊躇のない関西弁でそう言ってから、ふわりと笑う。そこで俺は、彼女が大阪在住であったことを思い出す。

「俺からも聞くけど、君は訓覇紗耶香さんでいいんだね?」

「そうやね、よおわかったやん」

長い黒髪とグレーのパーカーを濡らした彼女は、そう言って俺の肩を叩く。

「だいぶ濡れてるね。とりあえず部屋入る? 寒いでしょ」

「ありがとう。こんな雨やから、だいぶ濡れてもうたわ」

彼女は言いながら、両腕を交差する格好で自分の肩を持った。その手は依然、ぶるぶる震えている。

なぜ急にやって来たのか、なぜこんな雨の日を選んだのか、聞きたいことは、ある。しかし今は、濡れて寒がっている訓覇紗耶香という女性に暖をとらせてやることが、最優先であるように思えた。

「じゃあ、入って良いよ」

「ありがとう。面目ないわ」

俺が部屋へ促すと、彼女はゆっくりと中へ入って行った。



「ねえ、ホンマにこんな服しかないん?」

布を敷いた床に荷物を置き、タオルで頭を拭きながら、彼女は不満気に眉を下げた。とりあえず着替えろと手渡した寝巻き用のTシャツが、どうやら気に食わなかったようである。

「いいじゃん。似合ってるよ」

「嘘はよしぃや。自分、この服絶対外に着て行かれへんやろ? なんやねん、このよくわからへんアンコウ」

Tシャツにプリントされたグロテスクなアンコウを指差しながら、彼女は俺をじっと睨む。

「これ着たらコンビニにも行けないよ。せいぜい寝巻き」

「やっぱ外に着て行かれへんやん。無責任なやっちゃな、自分」

彼女は言ってからタオルで頭を拭き、ふんと息を鳴らす。すると彼女は、じっと黙りこくってしまった。俺もまた、無言でドライヤーをかけ続けるので黙りこくってしまう。そうして部屋に、ゆったりと静寂が訪れる。静寂を破ったのは、彼女だった。

「なあ、今日急にうちが来て、迷惑やったかな?」

彼女はこちらを伺うような調子で、そう尋ねた。

「迷惑でもないよ。今日は暇だったし」

「ホンマ? それならええんやけど」

「暇だからやることもなかったし」

俺はそう言い、ドライヤーのスイッチを切ってから、丸テーブルの近く、彼女の向かいに座る。すると彼女は、驚いたように俺をちらりと見た。

「俺が気になってるのは、君が急にこっちに来る気になった理由かな」

そう尋ねると、彼女は首にかかっていたタオルを口元に当て、とんとんとテーブルを数回叩いてから、ゆっくりと話し始めた。

「いやあ、ホンマに、特に理由はないねんな。朝起きたら、行こうってなって、それだけや」

「ただ単に、気が向いたってだけ?」

「せや、ホンマにそれだけ」

「本当に?」

「ホンマホンマ」

「君、気分屋なんだね」

「せや。うち、めっちゃ気分屋やねん」

彼女はそう言うと、卓上のリモコンを操作し、テレビを消した。その拍子に部屋はしんと静まり返り、外からの雨音がざっと響く。

俺はそこで、彼女の印象について考えてみる。手紙の様子から、彼女はもう少しご機嫌な人物だと想像していたが、少なくとも今の彼女に対して、そういう印象は抱かなかった。

「そういえば栄くん。きゅうりはどうなったん?」

暗くなったテレビ画面をじっと見つめていた彼女が、ふいに俺の方を見る。

「ああ、きゅうりね。そこにあるよ」

俺は窓辺の鉢植えを指差す。

「あ、まだ芽ぇ出てへんのか」

「そうだね。一応水やりもしてるんだけど、なかなかうまくいかない」

「きゅうり育てるのが趣味なら、そない時どうしたらええんか、わかるんとちゃうん?」

彼女は俺を指差し、悪戯っぽく笑った。俺はそこで、自らが手紙に込めた皮肉が彼女に伝わっていたことを悟り、嬉しいような申し訳ないような、そんな複雑な気分になる。

「そんな俺をもってしても、君の送ったタネは萌芽しない」

「すまんな、曲者のタネを飛ばして」

「類は友を呼ぶんだろうね。君もなかなかの曲者だから」

アスファルトに落ちた有彩色を思い浮かべながら、俺は彼女に笑いかけてやる。

「栄くん、その言い方はひどいで。うちは曲者ちゃうって」

「いや、曲者だ」

「自分、曲者の意味わかっとるか?」

「わかってる。君みたいな人のことだ」

俺がそう指摘すると、彼女はぶうと頬を膨らませた。

「ちゃうわ。うちは曲者やなくて、ロマンチストやで」

彼女はそう言って口を結んでから、少しして窓際の鉢植えに視線をやった。その瞳は少し垂れており、どこか物悲しい空気を感じさせる。

やがて視線をこちらに戻すと、彼女は俺をじっと見つめた。

「なあ、栄くん。単性花って、知っとるか?」

ゆったりと余韻を持たせながら、彼女は俺にそう問いかける。

「タンセイカ? ごめん、わからないや」

「きゅうり育てるのが趣味なら、知っとると思うんやけど?」

「わかった。俺が悪かったよ」

彼女は俺をからかってから、勝ち誇ったように笑う。

「単性花っつうのはな、雄しべか雌しべ、どっちかしかない花のことを言うんや」

「へえ、詳しいんだな」

「両親が農業関係の仕事をしとったから、一応な」

「農業関係、ね」

彼女がそう言うのを聞き、横隔膜のあたりがずんと重くなる感じがした。

「そんでな、うちも単性花やねん」

「どういうこと?」

「うち、オカンがおらんねん」

「お母さんがいない?」

「せや。うちのオトンとオカン、同僚やってん。でも結婚の仕方が強引やさかい、気まずくなってすぐ離婚してもうたらしいんよ」

「それで、お母さんがいないと?」

「せや。離婚したんも随分前やさかい、あんまオカンのこと覚えてへんのやけどな」

彼女は天井の方へ視線をやる。俺はそこで、片親と暮らしていない状態のことを単性花と言うのか疑問に思ったが、今それを指摘するのは少々野暮に思えた。

「なるほど、それで単性花ね」

俺がそう言った時、彼女は口元にタオルを当て、ぼんやりと天井を眺めていた。その姿はどこか物憂げで、思い詰めている風でもある。

しばらくしてから彼女は、俺の方にちらりと一瞬、視線をやった。その目はやはり悲しげで、俺は少し居心地が悪くなってしまう。

「なあ、栄くん。ちょっと変なこと聞いてもええか?」

「変なこと?」

俺がそう返した時にはもう、彼女の視線はこちらに向いていなかった。

「違うならそれでええねんけどな」

彼女はそこで一呼吸置く。

「栄くんはさ、単性花とちゃうよね? ちゃんと、オトンとオカンがおるよね?」

そう言った時、彼女から一滴、雫が落ちるのが見えた。その体はこちらを向いておらず、その雫がなんだったのか、断定することはできなかった。

「なるほど、単性花かどうか、ね」

彼女がその質問をしてきた意図も、いきなり東京へやって来た理由も、俺はそこで、なんとなく察することができた。しかしそれでも、この質問にどう答えるべきか、判断に迷った。しかしやがて、一つ結論を出した。辛い現実はあえて明言する必要はないと、俺はそう思ったのだ。

「俺は、単性花じゃないよ」

そう言うと、彼女は慌てて体をこちらに向けた。そして俺たちは向かい合う。栗色の瞳はじっと俺を見つめ、何か言いたげに、小さく口をぱくつかせていた。

「ホ、ホンマにちゃうん?」

「まあ、そういうことにしておいてよ。あえて俺から言わなくても、今日来た君なら、わかると思うからさ」

俺のその言葉に彼女は、一瞬戸惑った様子を見せた。しかししばらくすると俺の意図を理解したのか、彼女は笑顔になる。それにつられて俺も、自然と口角が上がっていくのを感じた。

「わかった。そういうことにしとくわ」

「そうしな、赤の他人の家族事情なんて、聞きたくもないでしょ」

「赤の他人、か。それもそうかもしれんね」

彼女は小さく笑い声を上げてから、また視線を外してしまった。そうして、暗くなっているテレビ画面に向き直った拍子に、ゆっくりと一滴、雫が落ちた。

「なあ、栄くん」

「何?」

「うちら赤の他人かもしれんけど、なんか少し、似とるよね」



雲間から控えめに、太陽が覗いていた。三日三晩降り続いた雨はすっかり止み、さながら嵐が過ぎて行ったような清々しさがあった。

俺はそんな梅雨空の下、彼女と向かい合っていた。彼女が大阪に帰るのを、見送るのだ。

「そんじゃ、うちはもう行くな。今日はありがとう」

「うん、ありがとうね」

彼女とは、他愛もないことを語り合った。お互いの大学にいる面白い教授や友人を挙げたり、おすすめの漫画を勧めあったりと、本当に他愛もないことを語り合った。

「次は、栄くんが大阪に来てな。うち乗り物酔いが激しくて、新幹線はもうこりごりやわ」

「了解、ちゃんとバイトして、新幹線代を稼ぐよ」

「よろしく頼むで」

彼女は言い、親指を立てた。その表情に迷いや憂いは感じられず、栗色の瞳は真っ直ぐ俺を見つめている。

「ほな、さいなら。お手紙も待っとるで」

「じゃあね、また今度」

手を振る俺を背に、彼女はアパートの階段を下って行った。その背中は徐々に小さくなっていき、やがて、見えなくなってしまう。俺はそれを見送ってから、扉を閉めて部屋へ戻った。戻り、丸テーブルにて母への手紙をしたためる。

『たこ焼き、届きました。やはり本場の味は違います。また機会があれば送ってもらえると嬉しいです。あなたの送ってくれたたこ焼きがあれば、私は元気な日々を過ごせるでしょう。

さて、そちらはいかがお過ごしでしょうか。私は人の子。あなたは人の親。私は心配だし、あなたは心配されるのです。先日もらった手紙にはあまり近況らしい近況がなかったので、報告してくれると安心です。

もしあなたがしたいのならば、碌でもない元夫のことを嘆いてもらってもかまいません。

それでは、連絡お待ちしています。

訓覇栄』

手紙の最後になんとなく署名を入れたところで、俺は手首につけられたミサンガに目がいった。俺の部屋から出て行く間際、彼女がつけてくれたものだ。初めは訳がわからなかったが、彼女はミサンガ作りに凝っているらしく、それで俺にもおすそ分けということのようだ。彼女曰く、ミサンガが千切れた頃に願いが叶うらしい。

はて、俺の願いはなんだろうか。便箋を折りたたんで茶封筒に入れながら、少し考えてみる。

願いは案外、すっきりと思い浮かんだ。彼女と別れてすぐだからかもしれない。俺の思考はすぐに焦点が絞られ、ある一つの願いに思いを馳せていった。

願わくば、訓覇家に幸あらんことを。

濡れた床が、陽光を受けてきらりと光る。その光が部屋に乱反射して、卓上で冷え切ったたこ焼きを脆く照らし出した。

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