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第六話 伯爵令嬢と学生会長と宰相子息にまつわるエトセトラ

昨晩夜中に後輩と脳トレクイズバトルの結果、後輩が勝ったので、要求に従い最新話更新です。

決してせっかく書き上がった話をさっさと更新したくて後輩を煽ったわけではありません。

「マリアベルさん、ちょっといいか?」


 突然の不躾な言葉に、よろしくありませんと答えても良かったのだけれど、集団での物々しい雰囲気に、一緒のテーブルについていたお友達が困ったような表情をなさっていたので、ひとまず対応してみることにした。


「何かしら? 学生会長。今からわたくしたち、ランチのお時間なの。ご用件でしたら手短にお願いいたしますわ」


 ここ、クリステル王立魔法学園には生徒による自治組織が2つある。

 ひとつは月貴院と呼ばれる貴族の令息が代表を務める機関。実質上の生徒代表機関として学園側とのパイプ役を担っている。もう一つが学生会。こちらは公式の組織ではなく、学園の中でも庶民出身者や、市井に縁の深い者たちが自主的に集まって組織しているグループだ。

 非公式グループとはいえ、それなりの人数を擁しているし、学生同士の諍いが起きた際は仲裁役として代表者が前面に立つこともある。そんな非公式の庶民集団の代表となるのが、目の前の集団の中心となって一番前に立っている男、ジャン=フランク・ミレーなのだ。

 わたくしやミカエル殿下、クローディアより一学年上の彼は学生会長として学園内の平民出身者をまとめ上げ、時折平民の待遇改善を訴えては、月貴院と論争を繰り返している。

 背は平均よりは少し高いものの、普段ミカエル殿下やエドアルドを見慣れている所為か、小柄に見える。短く癖のある髪はくすんだ亜麻色で、日に焼けた肌や節くれだった手などはいかにも労働者階級出身と言った風情だ。わたくしに同席していた男爵令嬢などはあからさまに眉をひそめている。


「昨日、あなたと同学年のクローディア=モーヌがあなたから酷い侮辱と暴力を受けたと訴えてきた。しかも今回は多数の人目もある場所での事だということだ。今までも噂にはなってきたが、証拠が不十分だった。今回は目撃者も多数いる。言い逃れは効かないぞ」


 学生会長は鳶色の瞳で鋭くわたくしを睨み付けてくる。その後ろには数人の学生。いずれも平民出身で、クローディアと最近仲良くなり始めた者たちばかり、更にその後ろに隠れるように、クローディアが大きな瞳を潤ませて震えていた。


「マリアベルさん……私、こんな大事になるなんて思ってなくって……あの、すごく怖くて、悲しかったけど、マリアベルさんがちゃんと謝ってくれるなら……って……」

「その必要はありませんわ」


 わたくしの言葉に、その場が一瞬静かになる。


「……え……っ? 今、なんて……?」

「わたくしが謝る必要はこれっぽっちもありませんと申し上げたのですわ」


 重ねてもう一度言えば、庶民集団は一気に気色ばんだ。まったく、気の短い方々ですこと。

 わたくしは真新しい扇を広げ、口元に浮かべた笑みをほんのり隠す。本来なら庶民の集団など、わざわざ相手にする必要すらないのですけれど、楽しいランチタイムを邪魔されたお礼くらいはしても罰は当たりませんわよね?


「クローディア、あなたは何故学生会長及びこの者たちだけでこちらにいらしたの? いつもならこんな庶民の集団を侍らせたりなさらないでしょう? ……あなたなら」

「そ、そんなことないわ! みんな私の大事なお友達だもの! 私が困っていたから助けてくれたのよ!」

「おおかた、貴族のご令息がたには今回の件の糾弾を断られたのでしょう? 本当は糾弾すること自体止められたのではなくて?」

「……っ!」


 図星を指されたらしいクローディアの頬が朱に染まる。

 彼女の事だから、あのパーティーから学園に帰って、速攻でいつもの取り巻きの男子に訴えたのだろう。

 今度こそ、わたくしがクローディアをいじめたという動かぬ事実として。

 けれど、こと今回の件に関して彼らは動かない、否、動けないだろうことは明白だった。貴族のみに招待状が送られたはずの舞踏会に平民の分際で潜り込んだ挙句、王族に無礼を働き、場を騒がせたのだ。

 あの時も、危うくミカエル殿下に付けられた護衛が彼女を拘束し、連行する一歩手前だったのだ。それが分かっていればこそ、彼らは動くことなどできない。

 できることなら彼女の勘違いを正してくれると手間が省けて助かったのだけれど。

 彼女の信望者たちには常に彼女を甘やかし、肯定し、その所業に否を唱えないという不文律でもあるらしい。彼女を一瞬でも否定することは愛の争奪戦からの脱落を意味するとでもいうかのようだ。


「いつも頼りにしている者たちに味方をしてもらえなかったから、仕方なくいつもなら見下して相手にもしていない平民集団を焚き付けていらしたのでしょう?」

「いい加減にしろ! いくらお貴族様と言えど、それは俺たちに対する侮辱だぞ!」


 学生会長がいきり立ってその手を振り上げるが、振り下ろす前に横合いから掴まれる。掴んだのはもちろん……。


「平民の分際でお嬢様に手を上げないでくださる~?」


 雀斑が浮いた顔に不敵な笑みを浮かべたメイド姿の少年、ラフィだ。口調は軽いが、その目は一切笑ってはいない。

 一方、華奢な子供の腕一つ振りほどけずにいる学生会長の顔が段々と青褪め、その額には脂汗が浮かび始める。とても痛そうだ。このまま放っておいてもいいが、一応ここは学園内なので適当なところで止めておく。


「ラフィ、その辺りでおやめなさい。学内では護衛と言えど学生に傷害を与えては駄目よ」

「はぁ~い。いやぁ、学園内で良かったねぇ、学生会長くん。もっともぉ? 学園の外でお前如きがお嬢様に直接声をかけること自体不可能だけどねぇ?」


 ラフィが手を離すと、学生会長はよろけてたたらを踏んだ。

 どれだけ強い力で締めあげていたのか、その手首にはくっきりと痣になっている。……まあこの程度なら学園側も何も言ってはこないだろう。


「酷いっ! ジャンくんは私を助けようとしてくれただけなのに! 暴力を振るうなんて!」

「先に手を振り上げてきたのはそこの学生くんでしょ? ボクはマリアベルお嬢様の護衛なんだから、こんなのお仕事のうちさ」

「そのマリアベルさんだって! 私の顔を扇子で叩いたわっ!! あれは紛れもない暴行事件よ!! 謝ってくれたら見逃してあげるつもりだったけど、今度こそ学園の倫理委員会に訴えて、マリアベルさんを学園から……」

「……追い出せると……思いますの?」


 激昂するクローディアの言葉をため息交じりに遮る。叩いたというが、軽く口元に扇を突きつけた程度、顔に傷をつけたわけでもないのに暴行事件とはおおげさな。

 扇越しに冷めた視線を寄越せば、クローディアは侮られていることを感じ取ったのか、益々険しい表情になった。とてもミカエル殿下やいつもの取り巻きには見せられない顔だ。


「マリアベルさんが言ったんじゃない! 証拠が充分で、被害者本人が訴えるなら倫理委員会が動くって!」

「確かにわたくしが教えて差し上げましたわ。学園の倫理委員会は、その名の通り、学内で起きた揉め事に適正に対処します。……学内の生徒の揉め事でしたら、身分にかかわらず」

「そうよ! 私もマリアベルさんもこの学園の生徒なんだから、こんどこそ、身分が何だって言い訳は聞かないんだから!」」

「先日のパーティーは学園内ではありません」


 まあそもそも扇子で口の端を軽く叩いた程度で退学に持ち込むのは、学園内の事件だったとしても不可能だろうけれど。

 端的に告げた言葉にクローディアが一瞬唖然として、すぐに真っ赤になって言い返してきた。


「そんなの屁理屈だわ! 学園の中でも外でも、同じ学生なのよ?! そんなことが許されるなら、学園を一歩出たらマリアベルさんが私たちに何をしても許されるって事になっちゃうじゃない!?」

「許されますわよ。だって身分が違うのですもの」


 あっけらかんとしたわたくしの返答に、クローディアが今度こそぽかんと口を開け、目を丸くする。その横や後ろで、学生会長やその他大勢もあんぐりと口を開けている。

 揃いも揃って間の抜けたお顔ですこと。

 クローディアほどの美少女でも、そういう表情をすれば滑稽に見えるのだと改めて知ることができた。


「もちろん、わたくしが意図的に、私怨であなたの殺害でも企てて、それが発覚したとでもいうなら別ですけれど、わたくしのやった事と言えばせいぜいが鼠退治程度の事ですわ」

「鼠退治……?!」


 クローディアが意味が分からないというように首をかしげるので、わたくしはこの無自覚な方に懇切丁寧に説明して差し上げることにした。


「ええ、楽しいパーティーに薄汚いドブネズミが入り込んだら、台無しでしょう? ですから早々にお帰り頂いたのですわ。本来貴族しか入ることが許されない高貴の場に、ハリボテ姿のネズミが潜り込んだのを追い払ったからと言って、咎められる謂れなどありません」

「な……ハリボテって……酷い……あのドレス、ラクロワ子爵はとても似合うって褒めてくれたわ! 


 確かにあのピンクのドレスはクローディアによく似合っていた。黙って立っているだけならとても平民の小娘だとは思われなかったかもしれない。

 しかし、華やかなドレスに身を包んであの場に立つということは相応の振る舞いを要求されるということでもある。

 少なくとも学生同士と同じノリで王族の名を呼び掛けてはならないし、問われたからと言って淑女が前に出て身内でもない殿方を紹介するような真似はしてはならない。

 社交マナーについてはこの学園で貴族身分の子女には特別授業が用意されているが、平民でも希望を出せば学ぶことはできる。

 それを怠り、外見だけ取り繕っても中身が伴っていないのではハリボテ以外の表現のしようがないではないか。

 クローディアが舞踏会で恥をかいた原因は本人の怠慢に他ならない。むしろあれ以上の恥をかくか、ミカエル殿下への不敬罪で投獄される前に止めてあげたのだから感謝の一つもして欲しいくらいだ。


「……確かによくお似合いでしたよ。ピンクの丸々とした子豚のようでテーブルの上にでもお座りでしたら丸焼きと間違えてしまったかもしれませんねぇ」


 真っ赤な顔で睨み付けてくるクローディアに、そろそろ相手をするのも面倒くさいなぁと思い始めた時、艶のある低い声が唐突に割り込んできた。

 テーブルについてハラハラと、その実楽しそうにこちらを見ていた令嬢たちも、自分たちの背後から現れた男に息をのむ。それ以上に、クローディアの大きな黒い瞳が真ん丸に見開かれた。


「オーギュスト=ル・ノワール!? 何でここに??!」


 相変わらず、面識などないであろうオーギュストを平気で呼び捨てにする勇気には敬服するけれど、そろそろ学習してはくれないだろうか。こんな場所に、名門公爵家ノワール家の嫡男がたった一人で現れる筈などないというのに。

 周囲に感じる微かに不穏な気配に気づかぬふりをしながら、扇越しにオーギュストへと微笑みかけた。


「あら、オーギュスト、学園に何かご用ですの?」


 優雅な仕草でテーブルの余っていた椅子に腰かけたオーギュストが、楽しそうに切れ長の目を細める。舞踏会の夜と比べると簡素ではあるが、シルクに細やかな刺繍が施された東方風の上着をしなやかに着こなしている。手にはポケットチーフと色味を揃えた絹地に刺繍の入った扇。

 たった今この場に割り込んできたのに、まるでこのテーブルの主は自分だとでもいう様な堂々たる態度だ。驚きに固まっている庶民グループを軽く一瞥すると、そのまま無視してこちらへと微笑みかけて来た。


「私も一応ここの卒業生ですからねぇ。たまには思い出に浸りつつ後輩たちを激励にでも、と言ったら、信じて頂けますか?」

「あなたは過去に郷愁を覚えるような性質ではございませんでしょう? 後輩に訓戒を授けられるほど人格者でもありませんし……。そもそもあなたを先輩と慕うものが今この学園におりまして?」

「マリアベル様は相変わらず手厳しいですねぇ。実は今日はミカエル殿下に用があって参上した次第です。どうです? 折角ですから3人でお茶でも」

「あなたとのお茶会は安全に口にできる物がいつの間にか無くなるので嫌ですわ。それにわたくしたち今からランチですの」


 最初に声をかけた後はまるでクローディアと学生会長など存在していないかのようにふるまうオーギュスト。学生会長は見知らぬ貴族の登場に戸惑っているし、クローディアはオーギュストの登場への驚きと、先ほどの彼の暴言に青褪めて硬直してしまっている。

 特にやりたくもない弁護をするならば、クローディアは別に太っている訳ではない。小柄で手足も華奢ではあるし、腰はコルセットを使わずともほっそりと括れている。対して胸元はといえば、幼い顔立ちに不相応なほど成長している。……別に羨ましいなどとは思わないけれど。ええ、全く。


「……ミカエル殿下でしたらこの時間はいつも温室の方にいらっしゃいますけど……」


 言いかけて言葉を切ったわたくしに、オーギュストが首をかしげて先を促してくる。仕方なく、扇で口元を隠しつつ、目線でクローディアを示した。


「いつもご一緒なさってる方がこちらにいらしてるので、今日はいらっしゃらないか、お一人でお待ちになってるかもしれません」

「ああ……なるほど。それはお会いするのが気が重いですねぇ。十中八九ご機嫌が傾いていらっしゃるでしょうからねぇ」


 ひそめた声で交わされる会話は同席しているわたくしの友人にも聞こえているらしく、非難めいた視線がクローディアへと向く。それに気づいたクローディアが今度はわたくしとオーギュストを恨めしげに睨んでくる。

 流石に彼女の所へは声は聞こえていない筈なので、陰口を叩かれていると感じているのだろう。まぁ、間違ってはいないのだけれど。


「殿下のごきげんが麗しくないときに訪ねるのはめんどくさ……気が引けますねぇ。マリアベル嬢、ここでお会いしたのも何かの御縁です。私もランチのご相伴に預かってもいいですか?」

「殿下へのご用はよろしいんですの?」

「まあそんなに急ぎと言うわけでもありませんし、折角こちらに麗しの花が咲き誇っているのですから、ひと時の癒しを堪能してからでもよろしいんではないかと」


 もはやクローディアも庶民集団も最初からいなかったかのように振舞うオーギュストに、周りも口をはさめないまま顔を見合わせている。

 そんな中、勇気を振り絞ってか、はたまた無知ゆえの無謀なのか、声を上げたのは学生会長だった。


「おい、アンタ誰だ。いきなり話の腰を折りやがって、俺たちは今そこの女と話をしているんだ。用があるなら後に……」


 学生会長の言葉は最後までは発せられることは無かった。

 オーギュストが鬱陶しそうに扇を軽く振って見せた途端、どこからともなく現れたノワール家の紋の入った軍装の男が二人、学生会長を地面に抑えつけたからだ。

 先ほどから感じていた不穏な気配はもちろん彼等である。


「なっ!? なにをする!!」


 突然のことに暴れて抵抗する学生会長だが、当然抑えつける手は緩まない。それどころか抵抗すればするほど強く抑えつけられる羽目になっている。

 そんな彼をオーギュストは道端の石ころでも見るような目で見下ろした。


「お前如きが私に名を訪ねるなど不敬でしょう? 平民は平民らしくそこで這いつくばっていてください。私はマリアベル嬢とミカエル殿下に用があるのです。お前たちのくだらない言いがかりに付き合っている暇はありません」


 声だけで相手の心臓まで凍りつかせるような冷たい声音で、言い捨てる。その視線に気圧されたのか、学生会長の顔色が青ざめていく。周囲の平民たちも突然の闖入者が、高位の貴族であることにようやく思い至ったようだ。


「いま、オーギュスト=ル・ノワールって言ったよな。それってあの、ノワール公爵……?」

「あの、宰相の……?」


 ひそひそと交わされる声に混じるのは大部分が恐怖。厳格かつ急進的なやり方で国内の制度改革を推し進めているノワール宰相は過去に何人もの政敵を謀略によって牢獄や処刑台送りにしていると民の間では噂されているからだ。

 ちなみにその謀略にはわたくしの父のロートレック伯爵も加担しているのだとか。……政治的な協力体制を築いていると言っていただきたいものだわ。


「おやおや、どうやら私は結構有名人だったみたいですねぇ。では彼がなぜ地面に抑えつけられているかももうお分かりですよねぇ」


 扇を優雅にひらめかせながら問うオーギュストは心底楽しそうに笑っている。彼がこういう顔をしているときはだいたい碌な事がない。

 わたくしはこの場は静観することにした。

 学生会長が引きつれてきた平民集団の一人が恐る恐る口を開く。


「えっと……貴族に逆らった……から……?」

「逆らう? 私は彼に何も命令はしていません。この場合は逆らったとは言わないでしょうねぇ」

「言葉遣いが悪かったから……ですか?」

「それはまぁ、あるかもしれませんねぇ。ですが、平民の言葉は訛りも酷いし、発音が美しくないのは矯正しようがないので今更多少言葉遣いが間違っていたからと言って罰したりはしませんよ。……私はね」


 鷹揚に笑って見せるオーギュストは先ほどまでの冷たさが嘘のように柔らかな微笑みを浮かべてみせている。その様は上品で、物腰の柔らかな彼の雰囲気も相まって、周囲の、特に女生徒の心を解しているようだ。

 ただし、その物腰柔らかな男が、今現在自分たちのグループのリーダーを地べたに押さえつけさせている張本人なのだけれど。


「あの……じゃあどうして……?」

「そこの彼が身元も定かではない平民だからですよ」


 扇をひらひらと揺らめかせながら、極めて穏やかに言ってのけたオーギュストに、答えを返された女生徒が再びぽかんとする。


「身元は……って、ジャンの家は王都で代々の……」

「ああ、そういうのはどうでもいいんです。身元も定かではないというのは、彼が私を害さないという保証がないという意味です」


 そう言ってオーギュストは扇をパチリと音を立てて閉じると、自分の胸に手を当てて見せた。


「私は皆さんご存知の通り宰相を務めるノワール公爵の嫡子で、後継ぎと目されています。つまり平たく言うと、次期宰相です」


 聞くものによっては傲慢ともいえる言葉だが、オーギュストが次期宰相と呼ばれているのは単に宰相の息子だからではない。若くして王宮でその政治的手腕を認められ、人事を司る宮事院の幹部の地位に昇り詰めているからだ。

 そのことを知ってはいたが、彼のこのものの言い方はいつものことなので、放っておく。

 それよりもいい加減ランチが食べたいのだけれど、ロートレック家の令嬢としてそんなはしたない事は言えない。扇の影でこっそりとため息を吐いた。


「この若さでそんな風に言われているものですから、敵も多いんですよねぇ。謀略だったり、暗殺だったり、危険がいっぱいスリル満点日常茶飯事でして。街を歩けば暗殺者に当たり、外で食事を取れば毒やら謎の薬物が混入し、我が家の敷地は撃退された侵入者の残骸で掃除が大変だとメイド長がいつも怒っているくらいです」


 危険を楽しんでいるとしか思えない朗らかな口調でのたまうオーギュスト。本人は面白いジョークのつもりかもしれないが、まったくもって笑えない。


「これが貴族の人間でしたら家同士の力関係で、私に対してそんな真似ができるわけがない家と、そんなことをしても利がない家、そしてやりかねない家の分類で区別ができるんですが、平民となると報酬次第でどうとでも転びますしねぇ」

「そんな……!?」

「例え普段の人柄が大人しく、虫をも殺さない人間だったとしても、貧しい家族の為とか、病気の母がとか、殺される側には全く関係のない理由を振りかざしてナイフを振り上げてきたりするんですから参っちゃいますよね? そういうわけで、私に敵意がないと保証できない輩が近付いて来たら問答無用で一回は取り押さえるようにと護衛には命じてあるんです。いやぁ、難儀な事ですねぇ」

「そんな理由で無実のジャンくんを取り押さえたっていうの?!」

「横暴だ! 俺はあんたに何もしていないのに!!」


 クローディアが青褪めながら言い募れば、学生会長も顔を真っ赤にして叫ぶ。


「何の証拠もないのに疑わしいというだけで地面に押さえつけるなんて野蛮だわ!」

「それあんたが言っちゃう?」


 ラフィがクローディアの言葉にすかさずツッコミを入れる。断罪事件の時に彼女の信望者であるエドアルドに地べたに転がされたわたくしとしても開いた口が塞がらない。

 あの時わたくしを押さえつけたのはエドアルドだけれど、首謀者が彼女と言う点では、今のオーギュストのやった事と何ら変わりはないというのに。

 もっとも、クローディアは何のことだと首をかしげていたので、本気で自覚がないのかもしれないが。

 一方、オーギュストは扇を優雅に振りながら楽しそうに学生会長を見下ろしている。さながら獲物を見定めている蛇と言ったところだろうか。


「何かされてからでは遅いですからねぇ。私は君たちの様な凡百の民と違って敵が多い。いやぁ、逆恨みされる心配もなく、呑気に見知らぬ人間とすれ違ったり近寄ったりできる身分が羨ましい事です」

「アンタが恨まれてるのは身分の所為じゃなくてその性格の所為なんじゃないのか!?」


 庶民集団の一人が中々に的確な事を言ってきたが、そのようなものを気にするようならこの男はオーギュストではない。


「それもあるでしょうねぇ。よく部下にも『仕事ができる上司と言う立場じゃなかったら闇討ちしてるところです』と褒められます」


 満面の笑みで言い切って、発言した学生を唖然とさせている。彼の事はもとより、そんなことを思わず口走ってしまうオーギュストの部下に心から同情した。


「さて、もう離してあげてもいいですよ」


 オーギュストがそういうや否や、彼の部下が学生会長の拘束を解く。よろよろと立ち上がった学生会長はオーギュストを睨み付けるが、流石に掴みかかってくるほど馬鹿ではないようだ。


「いやぁ、すみませんねぇ。貴族というものは用心深いのですよ。でも、由緒ある王立魔法学園の生徒だからこそすぐに離してあげられたのですよ。ここが往来ならそれこそ問答無用で王都警備隊の詰め所で尋問コースです」

「いくら貴族だからってこんなことが許されると思ってるのか!?」

「……先ほどマリアベル嬢も仰っていたでしょう? 身分が違うのだと。我々貴族はその血統と国への貢献度に於いて、君たちより優位と価値づけられています。平民の命よりも我々の命には優先順位が高いとされる。更に我々の命よりも王族の命は更に尊いものとされ、それを守るため、下位のものが犠牲になり、消費され、忘れ去られる……。この世界にはよくある事です」


 オーギュストの言葉に、苦いものが喉の奥にこみ上げてくる。わたくしは平静を装って扇で表情を隠し、そっと息を吐いた。


「そんな世界は間違っている! 俺がそんな世界を変えてやる!!」


 学生会長の叫びに、周囲の平民たちからも賛同の声が上がる。常日頃から学園での平民出身者の待遇改善を訴える運動家でもある彼は、月貴院と衝突しては平民救済を訴えているので、支持者は多い。

 そんな彼の言葉にオーギュストの目が光るのが見えた。


「…………ほう」


 艶のある声が感嘆の響きを持って零れたのを聞いて、わたくしの溜息が深くなった。


「それはたいへん素晴らしい志だと思いますよ。学園生活をきっかけに、民の不遇を訴え、理想の国の為に立ち上がる。素晴らしい事です」

「う……いきなり何だよ」


 学生会長の顔に警戒の色が浮かぶ。そりゃあそうだろう。どう考えても胡散臭い態度のオーギュストに褒められて、警戒しなかったらその者はおそらくどうしようもない愚か者か、幼児だ。


「しかしねぇ、どうやってその理想を実現するつもりなんです?」

「その為に俺はこの学園に入ったんだ。この学園で優秀な成績を修めれば国府への道が開かれる。国府で腐敗した貴族共を一掃して真実民の為の政治を行うんだ!」

「なるほど。その自信からするとあなたは学業成績はさぞ優秀なのでしょうねぇ」


 学生会長の成績は確かに優秀だ。同学年ではないので聞いた話でしかないが、学年でも3位以内の筈だ。国府への推薦を受けるには充分だろう。


「今の財務大臣のレンブラント卿は清廉で厳格な方だ。あの方の元でなら貴族のしがらみも関係なく実力で判断してもらえる筈だ」

「財務志望なのですね。あそこは国府の中でも特に厳しいことで有名ですからねぇ。確かに実力のない者や不正に手を染めるような者は門前払いでしょうねぇ」


 財務大臣のレンブラント伯爵は生粋の貴族の中では珍しく、不正を嫌い、贅沢を嫌い、静謐と謙虚を美徳とする生真面目な方だ。それゆえ何かと出費の多い軍部や宮事とは折り合いが悪いのだが、彼が王宮の財政を取り仕切っているおかげで王宮内の無駄な出費を抑え、公共事業や国土整備に予算が回り、国が円滑に動いているので、国王陛下でさえ彼には一目置いている。

 そんな彼の仕事ぶりは国民にも有名らしく、学園で国府を目指す平民の多くは財務を志望していると聞く。

 学生会長もそんな中の一人なのだろう。


「しかし、その志の高さは学園に通う貴族の御曹司の受けは悪いんじゃありませんか? 国府受験に対して妨害や嫌がらせが後を絶たないでしょう?」

「多少の嫌がらせは覚悟の上だ。どうせ実力で俺を捩じ伏せることができない奴ら悪あがきしているに過ぎないんだからな」


 学生会長はそう言いながらなぜかこちらを睨み付けてくる。

 まるでわたくしが嫌がらせの首謀者みたいな態度だが、学年も違う上に学生会長の進路になんの利害もないわたくしが彼に嫌がらせなどする理由がない。


「月貴院の連中も俺が学園改革の為に出している意見を読みもせず突っぱねる馬鹿ばっかりだ。アンタの婚約者も平民に優しいとかもてはやされているが、結局はお貴族様だ。俺たちの事など何もわかりはしないんだろう!」


 どうやら恨まれているのはミカエル殿下の方だったらしい。

 月貴院で副会長を務める殿下は学生会の訴えを月貴院で審議したのち、概ね却下の通達を宣告する役目を担っている。

 審議の内容は月貴院内の合議によるものなので、たとえミカエル殿下自身が学生会の意見に賛成していたとしても、結果として反対の結論を宣告せねばならないし、職務に関しては真面目な殿下のことなので、私情を挟むことなく冷静に通告をしているのだろうことは容易に想像できた。

 あの方が冷静さを欠いて私情で行動するのは、ただ一人、クローディアの為だけだ。


「まったく……不器用な方ですこと」


 扇の影で益々溜息が深くなる。


「ジャン君は学園の為に頑張ってるのに、ミカエル様ったらやり方が悪いとか批判ばかりではなく対案を出せとか文句まで言うのよ。もっと協力してくれてもいいのに!」


 助言をしている時点で充分協力していると思うのだけれど……。

 職務を真面目にこなしただけなのに、クローディアにさえ文句を言われるなんて流石に殿下が哀れだ。


「なるほどなるほど、あの方にも困ったものですねぇ。今度私の方からも進言しておきますよ」


 隣ではオーギュストが調子のいいことを言っている。態度からして胡散臭いことこの上ないが、目下の批判対象がミカエル殿下に集中している二人は気づく様子がない。


「この学園で俺は貴族の専横をやめさせてみせるし、国府に入ったら貴族優遇の今の社会を抜本から改革してみせる」


 熱く語る学生会長は自分の志が叶うと信じて疑っていない様子だ。国府にさえ入ってしまえばなんとかなる、と。


「それは是非とも頑張って頂かなくてはなりませんねぇ。ささやかながら私もあなたのその夢を応援させていただきたい」


 オーギュストの言葉にまたしても周囲がざわめく。次期宰相ともうたわれ、宮事院で辣腕を振るう男が、まだ学生であり、平民である学生会長を支援するなどと発言したのだ。


「援助なんていらない。……俺から言わせればアンタも王宮の腐敗した貴族の一人……いやその筆頭だって噂は聞いてる。そんな奴に援助されるほど落ちぶれちゃいない」

「そう言わずに。私も国府ではまだまだ若輩の身、若さゆえに侮られることの方が多い。あなたのように先進的な方が国府を目指してくれると心強いのですよ。……私にできることなんてささやかですが、少なくともあなたの受験を邪魔する連中の抑止力くらいにはなりますよ」


 敵意剥き出しに突っぱねられているのに、オーギュストは穏やかに微笑み返してポケットチーフを抜き取ると、護衛に差し出させた携帯用のペンで何かを書きつけた。


「国府受験の際、つまらぬ嫌がらせを受けたらこれを見せると良いでしょう。露払いくらいの役には立ちますよ。あなたはただ妨害などに煩わされず、自分の力で受験に集中すると良い」


 そう言って学生会長の手にポケットチーフを握らせた。そこにはオーギュストのサインと、受験応援のメッセージが添えられている。おまけにチーフにはノワール家の家紋まで入っているのだ。

 たしかに、受験の時に学生会長の足止めやらなんやらの嫌がらせをしようとするであろう連中にこれを見せたら一発で追い払えるだろう。ある意味最強のお守りである。


「しかし……」

「あなたは何も私から資金援助や不正な口利きを提案されたわけではありません。そのハンカチはただの激励。あなたはあなたの実力でのみ受験に挑めばいい。きっと合格するでしょう」


 ニコニコと学生会長を激励するオーギュストの表情には後ろ暗い様子は一切なく、本気で心から彼を応援しているように見えた。

 そもそも彼は黒い噂も絶えないが、気まぐれで身分の低い下々の者に援助の手を差し伸べることがあるため、一部の使用人や侍女から支持されたりしているし、平民の中にも彼のファンがいるという。

 まあ、人気取りのパフォーマンスとも言われているのだが。


「……そこまで言うのなら貰っておいてやるが、こんなものは最後の手段だ。俺はそもそも貴族共の下衆な嫌がらせなんて屁とも思ってないからな」

「ええ、次は国府でお会いできるのを楽しみに待っています」


 オーギュストがひらひらと愛想よく手を振るのを無視した学生会長の視線がこちらへと向いた。


「マリアベルさん、今日の所は失礼させてもらう。だが、あんたがクローディアを目の敵にしているのは紛れもない事実だし、平民を侮ったその態度も改めてもらいたい。……少なくとも貴族は平民に何をしても許されるなどという発言は慎んでもらいたい」

「学内で増長した平民が外の世界に出た途端に不敬罪で将来を閉ざされることがないよう警告させていただいてるだけですわ。学生会長もせいぜいお気をつけ遊ばせ」


 扇を軽く振りながら忠告すれば、学生会長は険しい顔を益々しかめて、舌打ちをしながら踵を返していった。

 平民集団も何となくと言った様子でぞろぞろとその後ろについていく。昔庭園で見た働きアリの行列の様だ。最後にクローディアが残った。てっきり学生会長にくっついてそそくさと帰るかと思ったのに。


「……マリアベルさん」


 何かを探るような瞳で呼びかけてきた彼女は、けれどそのまま口を噤んでしまった。


「やっぱり何でもないわ。……悪役にヒントを貰おうなんて邪道だものね」


 そう言うとクローディアはくるりと制服の裾を翻して去っていった。

 彼女はときおりよくわからないことをボソボソと呟く癖がある。たいていが意味が分からない言葉だったり、脈絡のない文句だったりするので聞き流しているのだが。


「……なんなんですの。まったく」

「マリアベル様がご忠告なさってるというのにあの態度。はたで見ていてこちらまで不愉快になってしまうわ」


 同席していた友人たちが口々にクローディアと学生会長の態度を責めるのを聞き流しながら、隣に座っているオーギュストに視線を送る。


「……なぜあのようなものを渡しましたの? おかしなことに利用されでもしたら……」

「彼の性格上それは無いでしょうねぇ。それこそ、『最後の手段』までは持ち歩きはしても、人に見せることはしないんじゃないでしょうか」


 のんびりとした口調のオーギュストに余計に不信が募る。


「本気で学生会長の受験を応援なさるおつもりなの?」

「ええ。本気ですとも。彼の国府受験は絶対に成功するでしょうねぇ。受験担当者にはこう伝えるつもりなんです。『私のサイン入りのチーフを荷物に忍ばせている受験者は採点することなく合格させるように』と。なので、彼は必ず合格しますよ」


 オーギュストがわたくしにだけ聞こえるように声を潜めて語った内容に、今度こそ深い深いため息が零れた。


「……前々から思ってはいましたけれど、悪趣味ですわよ、オーギュスト。そんなことをしたら本人の意思に関わらず完全な不正受験ですわ」

「おまけにこれも付け加えましょう。『彼以外の平民は成績に関わらず不合格とするように。ただし採点はせよ』とね。なに、宮事院は王宮及び国府の人事を司る機関です。このくらいの決定は日常茶飯事ですよ」

「真相を隠す気もない構えですわね。何を企んでいますの?」


 問いかけに対し、オーギュストはほっそりとした面に、それはも楽しそうに、優雅な微笑みを浮かべて見せた。


「なに、ちょっとした観察ですよ。お山の大将からお山を取り上げ、縋るつもりだった梯子も外してみたらどんなふうに壊れるかなぁっていう、ね」


 言っている内容さえなければわたくしでさえ見惚れてしまうであろう美しい笑顔に、背筋がゾッとする。

 本当に学生会長は厄介な人物に目を付けられたものだ。

 きっと彼はオーギュストの言葉通り、国府へと合格するだろう。けれど、彼の望む財務院への採用はあり得ない。レンブラント卿は不正に国府へ合格した者を自分の下に置くなど、絶対に許さないからだ。

 たとえ彼がオーギュストに騙されたと身の潔白を訴えたとしても、試験は採点すらされておらず、おそらくだが受験直後に答案そのものが破棄されるだろう。

 それでも彼が自分の実力の身で国府の官吏たり得ることを証明するならば、再受験を待たねばならなくなる。

 しかし国府受験は中途受験者の枠など毎年あってなきがごとし、数少ない受験枠には地方府で実績を重ねてきた者や有力貴族の子弟が座るため、この学園の卒業年を逃せば受験は絶望的となる。

 そして、彼が再受験を選ばずそのまま国府に残ったとして、実力もなしにコネだけで国府に乗り込んできたというレッテルを剥がすのは困難を極めるだろう。財務以外で実績を伸ばそうにも、周囲の貴族からは嫌厭され、味方となるべき平民からも同学年の同志を見捨てて自分だけが成りあがってきた裏切り者と後ろ指を指される。


「……ちなみに、彼が開き直ってあなたのコネを利用しようとしてきたらどうしますの?」


 宮事院のオーギュスト=ル・ノワールの伝手で入ってきたというのは、逆に言えばいくらでもそれを利用してのし上がれるということでもある。あくまでも本人が周囲との軋轢にも平民出身者からの白眼視にも耐えられればの話だが。


「そんなの決まっているじゃないですか。………もちろんポケットチーフを渡したのは何かの間違いだったとでも言って取り上げます。それで終わりですよ」

「…………わたくし、クローディアやミカエル殿下から意地悪だの性悪だのとよく言われるのですけれど、あなたを見ていると自分はとても善良なのだと思いますわ」

「それは良かった。適度な自己肯定感は心身の健康のためにも大切です。大丈夫、あなたは間違いなく善良ですよ。私に比べればね」


 扇をひらひらさせて朗らかに言い切った男に、もはやため息も出なくなる。

 仕方なく自分の扇を閉じると、傍らに控えていたラフィを呼び寄せた。


「ラフィ、遅くなってしまったけれど、ランチを運んできて頂戴。……オーギュストはそろそろミカエル殿下の所に行かれた方がよろしいのではなくて? 遅刻してはただでさえ斜め下に向かった殿下のごきげんが直滑降してしまうかもしれなくてよ」

「う~ん……。非常に面倒くさいんですけどねぇ……。仕方ありません。マリアベル嬢、それにフェルメール男爵令嬢とセザンヌ子爵令嬢も、今度時間が許す時は是非お茶をご一緒させてください」


 そう言って優雅に一礼して立ち上がるオーギュストに、わたくしも笑って応えた。


「オーギュストとのお茶会は毒だの劇薬だのとスリル満点が過ぎるので嫌ですわ」

「それについては申し訳ありませんねぇ。何せ人気者なもので」


 精一杯の皮肉にも満面の笑みで応えられ、無駄に敗北感を味わう。

 どうあがいてもこの男に口で勝てる気がしない。いつか本当に毒にやられればいいのに。そんなことを思いながら苛々と扇を開いたり閉じたりしていたら、ふとオーギュストが身をかがめて、わたくしの耳元へと唇を寄せてきた。

 低く艶を帯びた声が耳朶を掠める。


「マリアベル嬢、あのクローディアと言うお嬢さんにはお気を付けください。彼女はあなたの―――を狙っていますよ」


 ゾワリ、と先ほど以上に全身が総毛だった。低くひそめた声の中にぽかりと開いた空白。聞き逃したのかと一瞬思ってしまった。声を小さくひそめていたから、途中を聞き落としたのだと。

 けれど、さりげない仕草で身を起こし、「肩にゴミが付いていました」などと言って見せる男の表情を見て確信する。

 聞き逃したのではなく、『その部分』だけがわたくしには聞こえなかったのだと。相手が発音したのに、わたくしの耳がそれを聞き取れなかったとしたら、そこに入るのは『ただ一人の名前』を置いて他にはない。

 この身に受けた呪いの所為で、音として聞き取ることができず、頭の中で思い浮かべようとしても、それは文字の形を取るより早く崩れ去り、声に出して発音することもできなくなった、わたくしの唯一の―――。


「……オーギュスト、あなたいったい何者ですの?」

「あなたの味方ですよ……。今のところは、ですが」


 そう言って王宮の魔王ともあだ名されている青年は、蕩けるように甘い笑みを浮かべて見せた。

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