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第五話 舞踏会と宰相の息子と辺境子爵にまつわるエトセトラ

今回は2本立てです。

 軽やかな音楽と軽妙な会話、眩いシャンデリアの光りが降り注ぎ、華やかなドレスに身を包んだ令嬢たちがくるりくるりと踊っている。それを眺めながら、わたくしことマリアベル=フォン・ロートレックは、扇の影でため息を吐いた。


「まったく……やってくれましたわね……」


 この日の為に誂えた最新流行のドレスは濃い青の絹タフタに繊細な刺繍で縫い込まれたビーズがきらめいて、満天の星空を集めて身にまとっているかのように素晴らしい出来栄えだし、扇もドレスに合わせて新しく作らせたものだ。豊かな金の髪は複雑な編み込みを作りながら派手すぎず、優雅なアップスタイルにまとめ上げ、真珠と珊瑚の髪飾りが歩くたびにしゃらりと揺らめいている。

 そんな美しいドレスも、華やかな舞踏会の空気も、今のわたくしの気分を持ち上げてはくれない。なぜならば、わたくしは今、数多の貴公子や令嬢が楽しげに踊ったり機知に富んだ会話を楽しんでいる、このホールの隅で、たった一人で佇んでいるからだ。

 このマリアベル=フォン・ロートレックが、クリステル王国で大臣の地位を歴任してきたロートレック伯爵家の娘であり、第二王子、ミカエル=アンジェロ・クリステルの婚約者であり、社交界の薔薇、麗しき宝石と称えられた、この、わたくしが、たった一人で壁の花となっているのである。ため息も出ようというものだ。

 もちろん、わたくしは最初から一人でこの舞踏会に参加したわけではない。ちゃんとパートナーにエスコートされてきたのだ。もちろんパートナーは現在婚約中(まだ破棄されていない)の第二王子殿下こと、ミカエル様だ。しかし、肝心のミカエル様は会場に入って数分もたたないうちにわたくしを放り出して行ってしまわれたのである。

 普通ならばありえない。婚約者をエスコートするということは、相応の責任というものを伴う。結婚前の娘の安全を守り、最後に無事に家まで送り届けるのが男性側のマナーであり、義務である。娘を預ける側の親からすれば完全な責任放棄であり、信頼を裏切る行為にほかならない。普段であれば、ミカエル様がいくらわたくしのことを嫌っていようと、パーティーでのエスコートはちゃんとなさっていたのだけれど。


「まあ、あんなものを見せられたら動揺しますわよね……」


 視線の先では、一人の少女を取り囲んで不穏な空気を漂わせる貴公子の集団。中心にいるのは本来ならばこのような場に出入りできるはずのない平民の少女と、この国で最も高貴な血を引く青年。そしてわたくしたちよりは少し年かさの、アッシュブロンドの紳士だ。男性二人が睨み合い、間に立たされた少女は怯え、震えている。

 周囲は何事かと、気にはしつつも第二王子殿下の怒りの雰囲気に、あからさまな視線を送ることもできず、何事もないかのように舞踏会を進めながら、耳をそばだてている。

 男性の方は遠目にも落ち着いた様子で、ミカエル殿下を宥めるように何か話しかけているが、ミカエル殿下の方は怒りで我を忘れてしまっているかのようだ。あの様子では周囲の事など目には入っていないだろう。



 思えば、わたくしとミカエル殿下がパーティ会場に入った時、すでにホール内に不穏な気配は漂っていたのだ。年かさのご婦人たちが眉を顰め、男性は視線を躱し合いながらひそひそと何事か囁き合っている。彼らの視線の先に目をやった瞬間、ミカエル殿下が驚愕の声をあげた。


「クローディア!!?」


 本来ここにいる筈のない平民の少女が、眩いほどの豪奢なドレスを身にまとい、長身の貴公子と踊っていたのだ。淡い桃色のドレスはデザインこそ多少古めかしいものの、レースをふんだんにあしらい、ドレープをたっぷりと寄せてボリューム感を出した華やかなものだ。ほっそりと括れた腰からスカートがふわりと広がっている、胸元は少し大胆にデコルテを見せて、蔓薔薇をモチーフにした首飾りがキラキラと光を反射してきらめいていた。サラサラの黒髪は半分を残して結い上げ、首飾りと同じ蔓薔薇の髪飾りで彩られている。花やいだ装いはさながら春の妖精といった風情だ。

 そこいらの下級貴族の令嬢よりよっぽど贅を尽した装いである。ただ、踊りはお世辞にも軽やかとは言い難く、リードの巧みさで何とか体裁を整えていると言った程度だが、それを差し置いても彼女の容姿は嫌でも目立つ。上等のドレスを身にまとい、眩い宝石で身を飾り、一流のメイドが仕上げたであろう化粧や髪型も完璧にまとまって、お伽話のお姫さまさながらではある。あくまでも見目だけのことを言うならば、であるが。


「ちょっと、ここで待っていろ!」


 最初は驚きに、次には怒りで真っ赤になりながら、クローディアとそのパートナーらしき男性を睨み付けていたミカエル殿下は、曲が途切れた途端にそう怒鳴るや否や、一目散に彼女の元へと向かって行ってしまった。

 かくしてわたくしは、デビュタント以来、社交パーティの席で一度も経験したことのない、壁の花を初体験している訳である。


「お嬢様」


 馬鹿馬鹿しい茶番を遠目に眺めながら扇の影であくびをかみ殺していたら、すぐ傍からラフィの声が聞こえた。わたくしの下僕はこう言ったパーティでは人の群れに紛れ込んでわたくしを密かに護衛しながら、会場内で様々な情報収集を行ってくれる。今も、ちょっと視線をずらせば、すらりと引き締まった給仕の制服の少年が飲み物の盆を片手に何気ない素振りでグラスを差し出してきている。雀斑以外特徴のない顔から、雀斑が消え、ほんの少し目元と眉、髪型を変えただけで、学園で見慣れたものでさえ、この変装を見抜ける者はいないだろう、見事な腕前だ。


「クローディアをこの会場へエスコートしてきたのは、ユージェーン=ドゥ・ラクロワ子爵です。クローディアの故郷一帯の領主を務めている方ですね。彼女を魔法学園に推薦したのも彼だったそうです」


 ラフィの言葉に、ミカエル殿下と対峙している紳士を改めて見る。名前は聞いたことがあるが、地方の領地にいることが多く、あまり王都に出てこない辺境貴族の一人だった筈だ。どうりで見覚えが無いと思った。


「ラクロワ子爵……というと、確か既婚者で……」

「はい、奥方様は病弱な方で、領地で静養なさっておられるそうです。お知り合いの方には挨拶の時、『独り身での夜会は侘しく、知人の娘に頼んでついてきてもらった』と話していたようです」

「……よくある常套句ね……あの娘は意味が分かってるのかしら?」


 既婚者が奥方以外の女性をパーティに伴う場合、娘や親類でなければ愛人か娼婦だ。けれど、表立ってそうは言えないので、『知人の娘』などという言葉で誤魔化すのが、社交界では通例になっているのだ。よしんばあの紳士が王都の社交に慣れておらず、本気で『知人の娘』という意味で言ったのだとしても、間が悪過ぎである。

 どういう知人かは知らないが、この舞踏会の会場には魔法学園に娘や息子を通わせている貴族も多数いる。彼らにしてみれば、クローディアは婚約者のいる貴族の男を誑かしては貢がせているような女として評判なのだ。そのような言い方をすれば、周囲の者はクローディアがとうとう貴族の愛人の座を射止めたのだとしか思わないだろう。そんな評判が立てば、益々彼女とミカエル様の恋路は困難なものになる。


「ミカエル殿下が怒るのも無理ありませんわね。彼女の名誉を傷つけまいと、わたくしとの婚約が正式に解消されるまではと我慢を重ねていたのに、当の本人は別の男と浮かれて踊っているんですものね」

「どうします? けっこう拗れそうですけど……? もうお帰りになるのでしたら馬車を呼んでおきますが」

「ミカエル様の馬車で来たのに、帰るために我が家の馬車を呼んだりしたら殿下の顔を潰してしまうでしょう?」

「いっそ二、三度潰された方が本人の為って気もしますけどね」


 たしかに、エスコートすべき相手を放り出していつまでも戻って来ないのはミカエル様の責任ではあるけれど、平民が貴族の舞踏会に紛れ込むなどといったことは不測の事態過ぎる気もする。


「もう暫く様子を見ましょう。ここで帰っても特にすることもないし。ラフィ、ここでは彼らの会話までは聞こえないから、少し様子を探ってきて頂戴」

「……わかりました。……良くない流れになったらどうしますか?」

「適当に飲み物でも零して別室へご案内なさい。これ以上揉め事が大きくなれば主催の方に迷惑がかかるわ」

「わかりました。……お嬢様はお一人で大丈夫ですか?」

「めったにない壁の花体験ですもの。せいぜい楽しませていただくわ」


 給仕の少年の姿をしたラフィが恭しい態度で一礼しすっと人ごみへ紛れていく。わたくしは受け取った飲み物に口を付けながら、ホール内を見渡した。一画に不穏な動きはあるものの、我関せずという様子で踊りを楽しむ者もいれば、興味深げにちらちらと騒ぎの方へ目をやるもの、集まってひそひそと囁き合うもの、人の恋路には興味ないというように互いだけを見つめ合う恋人たちもいる。


「おや、お一人ですか?」


 まるで見計らったかのように声をかけられ、肩を竦めて振り返る。


「これが二人以上でいるように見えるのでしたら貴方は既に幻が見えるほど酔いが回っていらっしゃるのではなくて? オーギュスト」

「いえいえ、ちゃんと一人に見えておりますとも。しかればこそ、珍しい事もあるものだと我が目を疑ってしまったのですよ」


 芝居がかった口調で話しかけてきたのは、オーギュスト=ル・ノワール。宰相を務めるノワール公爵の嫡男で、次期宰相候補とも言われている男だ。わたくしやミカエル殿下より3つ年上で、魔法学園の卒業生でもある。ひょろりと細身で身長が高く、遠目には細長い棒を想起させる体形で、アッシュグレイの髪を後ろだけ伸ばして束ねている。顔立ちは整っているが、若干つり気味で切れ長の細い紫の瞳や、常に口角の端だけにんまりと上げた胡散臭い微笑み顔のせいで、性格が悪く見える。まあ、実際のところ性格が良いわけではないので、あながち間違ってもいないのだが。

 次期宰相候補として王宮で文官勤めをしているのだが、常に人を食ったような態度と持って回った物言いで人を惑わすともっぱらの評判だ。ついでに神出鬼没で、絶妙に嫌なタイミングで現れることに定評がある。まさに今がそれだ。


「マリアベル様と言えばデビュタント以来社交界の薔薇、淑女の鑑、数多の貴族令嬢の憧れであり目標とされているのに、お一人で、このような壁際に、ひっそりと、佇んでおられる。……今宵のパートナーはいったいどうなされたのですか?」

「……貴方、分かってて仰っているでしょう?」


 じっとりとねめつければ、オーギュストはにんまりと、それはもう楽しそうに微笑んだ。金糸で梟を刺繍した艶やかな扇を広げてその影で声を潜める。余談だが、クリステル王国内の貴族の男性で、扇を日常的に使っているのは彼だけだ。そのほかにも束ねた髪に東方の細工師に誂えさせたという飾り櫛を挿していたり、女性のように爪を整えていたりと、風変わりな格好を好んでいる。他のものなら笑いものにされていたであろう出で立ちは、なぜか彼にはしっくりときて、一部の令嬢には彼の熱心な信望者がいるとかいないとか。


「……あれが例の庶民のお嬢さんですか。随分と破天荒な振る舞いをなさっていますねぇ」

「庶民の間ではああいうのを『おおらかで前向き』と言うのだそうですわよ」

「なるほど、物は言いようですね。ですが、いくらおおらかでも、このような席で殿下の事を名前で読んだり、自ら子爵を紹介するような真似をなさったりするのは如何なものかと思いますがねぇ」

「知らなかったでは済まされない不作法のオンパレードですわね……って、オーギュスト、あなたこの位置からあちらの会話が聞こえているの?!」


 そこそこ耳がいいわたくしでも全く聞こえないからラフィを近くに向かわせているというのに、この男の地獄耳は化け物並なのかしら。


「まさか。唇の動きから会話を読み取っているだけですよ。大したことじゃありません」

「何それ怖い」

「こう言った場では遠くの人間の会話でも有益な事がたくさんありますからねぇ。なかなかに便利ですよ。……まあ、あなたとその召使殿は口元を殆ど見せずに話されているので、遠くでは何を話しているのかわからないことの方が多いんですけどね」

「……ひょっとしてあなたが日常的に扇を使ってらっしゃるのは……」

「便利ですよね。扇」


 奇矯なファッションが実は諜報活動の一端だったなんて、次期宰相と謳われるだけはある。わたくしは背筋に走った鳥肌を悟られぬよう、平静を装って会話を続けることにした。


「折角ですから、あなたが読み取った向こうの会話を教えてくださらない?」

「ええ、でもちょっと待ってください。今ちょうど面白いところです」


 切れ長の目を細めてあちらを眺めるオーギュストはやたらと楽しげで、彼のような特殊能力に恵まれていないわたくしは、仲間外れにされたような気分で唇を尖らせる。


「そんなに可愛らしく拗ねないでください。そろそろ事態が荒れてきましたから治めに行きましょうか?」

「わたくしたちが? 騒ぎを止めて別室に促すくらいでしたらすでに指示を出してますわよ?」

「それでは楽しくないでしょう。ささ、参りましょう」


 やたらと楽しげなオーギュストに促されるまま、殿下たちの集団へ近づく。先ほどまでは何やら言い争っている空気だったというのに、今近付いてみると、ミカエル殿下はショックを受けた様子で押し黙っているし、クローディアは怯えてラクロワ子爵の影に隠れているし、周囲はクローディアへ冷たい視線を投げかけているしで、静まり返っているのに、雰囲気がカオス過ぎて、面倒くさそうな気配に早くも近付いてしまったことを後悔し始めた。ラクロワ子爵はただ一人落ち着いているようにも見えるが、顔色は悪く、拗れた事態を収拾する技量は無いようだった。おそらくはパッと見の印象通り、貴族社会に不慣れな、ただのお人よしなのだろう。クローディアを庇いつつ、


「すみません。悪い子ではないのですよ? 何分こういった場は初めてでして……」


 などと言っている。初めてこんな場所に平民の娘を連れてくるのであれば、最低限のマナーや常識は躾けてから連れてきていただきたいものだわ。

 何とも言えない険悪ムード漂う輪の中に、オーギュストが場違いなほど優雅な所作で割り込む。


「やあやあ、失礼~」


 歌う様に軽やかにミカエル殿下とクローディアたちの間に割って入った彼は、クローディアとその隣に立つラクロワ子爵を完全に無視して、ミカエル殿下へと向き直る。


「第二王子殿下、ごきげん麗しく……は無いですね。今日も見事な眉間のしわです。あちらでパートナーが探しておられたのでお連れしましたよ?」

「わたくしは別に探してなど……」

「お前には待っていろと言ったはずだ!」


 オーギュストの言葉をやんわり否定しようとしたら、ミカエル殿下に遮られた。仕方なく、扇を開いて口をつぐむ。


「え?! オーギュスト=ル・ノワール??!」


 傍らで聞こえた声に内心でギョッとするも、当のオーギュストがあえて無視をしているようなので、振り返らず、オーギュストとミカエル殿下のやり取りを静観することに集中する。

 クローディアがオーギュストを呼び捨てにしたような気がしたけれど、彼女が学園に編入してきたのはオーギュストが学園を卒業した後だ。顔見知りだという可能性は低い。それとも彼の変人っぷりは平民にまで噂が及んでいるのかしら。当の本人はクローディアの声が聞こえていただろうに、きれいさっぱりと無視を決め込んでいる。


「女性のエスコートは男子の嗜み、麗しい許嫁がありながら、このような場所で何をなさっておいでです?」

「お前には関係がない事だ。引っ込んでいてくれないか?」

「いえいえ、そうも参りません。殿下、少し冷静になって周囲を御覧なさい。今、ここは何処で、あなたはどういう立場におられるのか」


 オーギュストの、柔らかな口調の中にも厳しく窘める響きを聞き取ったらしいミカエル殿下が、周囲を見渡し、バツが悪そうな顔になる。


「……すまない、少し頭に血がのぼっていた。ラクロワ子爵、どういった事情があるのかは知らんが、今夜のところはクローディアを連れて帰れ」

「……そうですね。久しぶりの王都で、少々羽目を外してしまっていたようです。ノワール様も、申し訳ありませんでした」

「いえいえ、たまにはこういう余興も悪くありませんよ。……程度を守っていただければ、ですが」


 扇を閃かせてにんまりと笑うオーギュスト。一応この場はこれで落着なのかしら。だとしたらわたくしが連れて来られる必要ってなかったような……。そんなことを考えていたら、クローディアがまたしても騒ぎ出した。


「え? なんで私が帰らなくちゃいけないの?! まだ来たばっかりだわ!! ミカエル様とだって踊ってないのに!!」


 なんていうか、この娘はわざと剥き出しの地雷を踏み抜いているとしか思えない行動ばかりとるのだけど、いくら平民とはいえ物を知らなさすぎやしないだろうか。それとも、ここが学園と同じように学生同士ならば対等に扱われる場だとでも勘違いしているのだろうか。

 ともかく、これ以上ここでクローディアを騒がせている訳にはいかない。視界の端でラフィが飲み物のグラスを構えるのが見えたが、それよりも先に手が動いていた。持っていた扇を、彼女の良く動く口に押しつけて、物理的に黙らせたのだ。


「お黙りなさい、平民の分際でわたくしたちに対等な口を利こうなどとおこがましい。ここはあなたの様な卑しい身分の者が出入りして良い場所ではないの。弁えなさいな」


 低く抑えた声は、それでもよく通り、あたりがシン、と静まり返る。オーギュストがただ一人、ヒュッと口笛を吹くのが見えたが、彼の場合はこの展開を狙っていたようなのでじつに楽しそうだ。対して、ミカエル殿下は顔色が悪い。彼の後ろに控えていた騎士が手を降ろすのを確認してようやく息を吐くのが見えた。まったく……このわたくしが平民の小娘如きの為にこんな茶番を演じさせられるなんて……。


「……っ……ひっく……ひど…ぃ……酷すぎるわ……っ!」


 クローディアの大きな目からぼろぼろと涙が零れる。庇護欲をそそるその姿に、ミカエル殿下の肩が震えるが、わたくしと目を合わせると、ぐっと唇を噛みしめ、踏みとどまる。


「クローディア、今夜のところはお暇しよう。……それでは殿下、御前を失礼させていただきます」


 泣きじゃくるクローディアの肩をラクロワ子爵が抱いて、会場から連れ出す。会場の扉の向こうに、華やかな桃色が消えると、緊迫していた空気がやっと緩む。音楽は一段と軽やかな曲が流れ、周囲は何事もなかったかのように踊りや談笑を再開する。


「マリア」


 久しぶりに呼ばれた愛称は苦い感情を呼び起こす。扇でいつものように口元を隠そうとして、それがさっきあの女の唇にぶつけたものだと思い出す。いやだわ、また扇を捨てないと。そうして扇で顔を隠すこともできず、呼ばれた先を振り返れば、ミカエル殿下が俯いていた。それは、小さい頃に国王陛下や王妃様に叱られて、仕方なく謝るときの殿下の癖だ。


「……す……世話をかけた」

「まったくですわ。この上殿下が謝ったのでは本当に意味がありません。殿下はあの娘の命を背負う立場にはないのですから」


 貴族主催のパーティで、身分というものは絶対だ。ラクロワ子爵の連れとはいえ、平民に過ぎないクローディアが、王族であるミカエル殿下に対等な口を利くなど許されない。更には侯爵家令息を呼び捨てにし、王子の決定に逆らい、その婚約者であるわたくしを差し置いて王子と踊りたいなどと口にしたのだ。ミカエル殿下の後ろにいた騎士は、宴の場ゆえに帯剣こそはしていないものの、わたくしにとってのラフィと同じく、殿下の護衛を務めている。あのままクローディアが騒ぎ続けていれば、王族への不敬罪を理由に彼女を取り押さえ、投獄していた可能性もある。彼らにそれを命じているのはミカエル殿下ではなく国王陛下なので、殿下自身ですら、そうなった場合はクローディアを庇うことはできないだろう。


「いやぁ、見事な迫力でしたね。惚れ惚れしましたよ」

「オーギュスト、わたくしを見世物のように扱って遊ぶのはやめてくださる? 先刻だって、あなた自身であの子を止められたでしょうに」

「いやいや、私ではマリアベル嬢ほどの高慢さは出せませんからねぇ。ましてや婦女子を泣かせるなんて芸当はとてもとても」


 いけしゃあしゃあとのたまう男の顔面に扇を叩きつけてやりたい衝動に駆られるが、我慢する。


「さて、前座の余興も終わった事ですし、お二人は主催の侯爵夫人に挨拶がまだでしょう? よろしかったらご案内しますよ?」

「ああ、頼む」

「いえいえ、マリアベル嬢、この後は一曲ぐらいは踊られるのでしょう? 殿下の後で私とも踊っていただけませんか? 何せあなたは社交界の花、予約でもしておかないと滅多に踊れませんからねぇ」

「あなた時々リードするように見せかけて男女パートをすり替えるから嫌ですわ」


 軽口を叩きながら会場内を移動していたこの時、わたくしの頭の中では、今夜の騒動は既に終わりを告げていて、クローディアが何故舞踏会へと出てきていたのか、彼女が何を求めているのかを気にすることは無かった……。


次はクロちゃん視点

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