第四十話 紐解かれていくエトセトラ
数日が砦で無為に過ぎた。
ミカエル殿下率いる王立軍および近衛騎士団と、クローディアを擁する神殿一派との方針のすれ違いは平行線をたどりつづけたが、王都を囲む黒霧の調査から戻ったマーニュ将軍の報告により、事態は神殿派に優勢へと傾いた。
マーニュ将軍率いる王立軍第一師団の精鋭の力をもってしても、黒霧を抜けることはおろか、中の様子を窺うことすらできなかった為だ。
武力のみでは打つ手がなくなったミカエル殿下はクローディアの要請を呑み、北の廃神殿へと聖女及び神殿兵、そしてそれを守るための騎士団を一部隊つけ、派遣することにした。
クローディアからは更に行軍にはミカエル殿下およびわたくしの同行が要求されたが、これにはミカエル殿下もマーニュ将軍も難色を示した。
「何が起こるか分からぬ廃神殿へ、指揮官である殿下を向かわせるのは賛成いたしかねます。ましてやロートレック伯爵令嬢まで同行を求める理由がわかりません」
口ひげをしごきながら険しい顔を更に顰めているマーニュ将軍の傍らで、ミカエル殿下も眉間にしわを寄せている。
「この神殿で起きることは絶対にミカエル様はその目で見なきゃダメなの! マリアベルさんもだわ! 本当はエドくんやレオくんも一緒だった筈なんだけど、シナリオ上はそんなに影響ないからあの二人はこの際いなくてもいいわ。でもミカエル様とマリアベルさんは必須メンバーなの」
クローディアは綺麗に手入れされた爪で卓上の地図を指さしながら力説している。
残念ながら半分以上何言ってるか分からないのだが。
「こんな果ての地の廃墟に何があるというんだ。聖遺物が必要と言うならそれこそ神殿兵を数人派遣してその遺物だけ回収してくるのではだめなのか?」
「神殿の封印の間に入れるのは聖女とクリステルの王族、それと魔導皇帝に選ばれたものだけなの」
「それならなおのこと、マリアベルは砦に残っても問題ないだろう。あいつはまだクリステルの王族ではない」
「マリアベルさんの伯爵家には何代か前に王家からお姫さまが降嫁してるでしょ? 血筋的には資格がある筈よ」
「資格があろうと、危険な場所へ連れて行くのは……」
紛糾する会議を扉の影から窺う。
廊下側の扉ではなく、軍議の間から奥の続きの間に繋がるドアがあり、ミカエル殿下の仮の執務室になっているのだが、今日は軍議が始まる前にジャヌカとエドアルドに頼んでここで密かに待機させてもらったのだ。
隙間から覗くと、ミカエル殿下の向かいにはクローディアと司祭のジョシュア、数人の神殿兵と巫女が並んでいる。
彼らの表情は一様に茫洋としていて、発言はもっぱらクローディアとジョシュアが中心に行っている。
「マリアベルさんには真実を知る義務があるわ。真実を知って、自分の罪と真摯に向き合って欲しいの。マリアベルさんを友達と思っているからこそ言ってるのよ」
「しかし……」
「ミカエル様は私が危険な場所に行くのは止めないくせに、マリアベルさんだけを庇うの?」
危険な場所に勝手に行きたがっているのはクローディア自身なのだけれど。
呆れてものも言えないが、ミカエル殿下としては彼女のことも危険な目には合わせたくないのだろう。
「それならば神殿へは俺が一人で行って、遺物を回収してくるというのは……」
「封印の間の封印は聖女にしか解除できないんだもの。私は行くしかないの。だから、信頼できるミカエル様に守ってほしいの」
上目遣いで甘く蕩けるような声で縋るクローディアに、ミカエル殿下の眉間のしわが深くなる。
これ以上押し問答をしていても埒があかないだろう。
わたくしは扉を開けて軍議の間へと足を進めた。
「わたくしは構いませんわよ。北の廃神殿、ご同行させていただきますわ」
「マリア!? お前、部屋で大人しく待っていろと……」
「言われて大人しく待っている性格ではないことは殿下もよくご存じでしょう? クローディア、その廃神殿とやらに行けば、王都を包む霧を抜ける術が手に入る。ひいては王都にいらっしゃる国王陛下や王太子殿下、宰相閣下、……それとわたくしのお父様もお助けできるんですわよね?」
「ええ、もっちろん!」
自信満々に豊かな胸を反らすクローディアに、苛立ちを覚えるものの、彼女の言う廃神殿がこれまでの神殿と同じように神獣にまつわる某かがあるのだとしたら、クローディアの求める聖遺物とは別に、わたくしが手に入れるべき何かもそこに在るのではないだろうか。
ポケットの上から小袋の存在を確かめる。
「ミカエル殿下、わたくしからも伏してお願い申し上げます。北の廃神殿へ、わたくしを行かせてくださいませ」
ミカエル殿下に向かって頭を下げれば、ミカエル殿下はぐむむと暫し逡巡なさっておられたが、結局は折れて下さった。
「わかった。俺も同行する。その間マーニュはこの砦で魔獣対策の装備の増強を行いつつ王都の様子を監視、廃神殿へはクローディアと神殿兵、近衛騎士団から二部隊を連れて行く。出発は二日後だ。それまでに出発の準備を整える。同行させる部隊には今日中に選抜の旨を伝える」
「ありがとうございます。殿下」
「ミカエル様ならわかってくれると思った。大丈夫。ミカエル様なら真実を乗り越えて未来を支える力になれるよ」
苦労を掛けてしまうのは承知で我儘を通したことへの礼を告げている横で、相変わらずクローディアは何を言っているのか意味が不明だった。
そうして二日後の早朝、クローディア率いる聖女とその一団は北の最果てにある廃神殿を目指し、砦を出発した。
クローディアは神殿兵が担ぐ輿に揺られて、わたくしはミカエル殿下、ヘルムで顔を隠したエドアルド、そしてジャヌカの馬に交代で同乗させられながらの行軍となった。
「あの……わたくしも一応馬くらいは乗れますが……」
「以前もそう言っていたな。だが別の馬に乗せたのではいざという時守りづらい。お前の乗せた馬を驚かせて暴走させる、なんて手段を取られたらかなわんからな。しっかりと俺に捕まっていろ」
ミカエル殿下がまたがっている前に横抱きに乗せられて、落下防止のベルトで固定された様は、お姫様扱いと言うよりは完全に子供を同乗させるときのそれである。
仕方なく、ミカエル殿下の邪魔にならないように身をできるだけ縮めてその胸にしがみついた。
「落とさないでくださいませね」
「絶対に落としたりしない。守り抜いてみせる」
力強く言われて、ようやくわたくしは肩の力を抜いて、ミカエル殿下の胸に寄りかかったのだった。
行軍中、小規模ながら魔獣の襲撃を幾度か乗り越え、雪と氷に閉ざされた廃神殿へとたどり着いたのは砦を出て一週間が経過したころだった。
吹きすさぶ風の中、魔力を込めて織り上げた毛織のコートと防寒具のおかげで寒さはそれほど辛くはなく、動き回るにも支障はない。
雪山に入った時点で馬を降り、徒歩での行軍にはなったが、殿下やエドアルドが常に風上に立ってくれ、雪に足を取られそうになるたびに支えてくれた。
そうして辿りついた廃神殿は、その名の通り、がらんどうの廃墟にしか見えなかった。
壁は所々崩れ、柱には無数の亀裂が走っている。松明で照らされた内部も所々にがれきが散乱し、祭壇だったであろう場所には朽ちた台座が置かれ、天井近くまで高々とそびえたつ巨人像が残されていた。
「見たところ……杯らしきものはございませんわね」
「これまでの神殿だって、宝物は隠し部屋にあったでしょ? 入ってすぐの場所に置いてあるわけないじゃない」
クローディアが嘲るように鼻で笑うのを聞きながら、慎重にその像を観察する。
巨人と言うだけあって、とても大きいが、残された文献では実際はこの彫像よりは小さかったと言われていた筈だ。
魔導帝国の四方をそれぞれ、風、水、炎、大地を司る神獣が守護し、帝都の皇城は彼らの作る結界によっていかなる外敵をも侵入できない鉄壁の守りを誇っていたという。
と、クローディアが此処までの道中で語っていた。
威風堂々と天井を支えるように立つ立像に、なぜか違和感を感じる。
「立派な彫像よね。これも魔導皇帝様が巨人の働きへの感謝の意を込めて建立したのよ。生き生きとして、生前の姿そのままなんだわ」
はしゃぐクローディアはぐるぐると何かを探すように巨人像のまわりを回っている。
神殿兵はそれについて回り、巫女達は聖女の休憩場所を整えるために走り回っている。
ミカエル殿下と近衛騎士団は聖女たちとは少し離れた場所に瓦礫をすこしどけながら休憩場所を作っていた。
「マリア、こっちで少し座れ。今ジャヌカが茶を沸かしている」
ミカエル殿下に手を引かれ、巨人像から少し離れた騎士団の輪に入る。
大きめのカップに注がれたのは、温かい紅茶で、シナモンの香りがふわりと漂った。
「スパイス入りの紅茶です。少しくせがありますが、温まりますよ」
「ありがとう」
熱いのが苦手なので、ちびちびと口をつける。魔法のコートで防寒していたとはいえ、やはり極寒の地を移動してきたため、身体は冷えていたらしい。少しずつ身体の芯がポカポカとしてきた。
そうしてつかの間の休憩を楽しんでいると、クローディアが駆け寄ってきて、ミカエル殿下の腕にしがみついてきた。
「ミカエル様、風の魔法で私をあの像のてっぺんに連れて行ってください!」
「あの像の……? そこに例の聖遺物があるのか?」
「いえ、そこに封印の間への鍵があるんです。ミカエル様ならあそこまで飛べますよね!?」
ふくよかな胸を押しつけるように殿下の腕にしがみつくクローディアの慎みの無さにジャヌカをはじめとする女性騎士が眉を顰めるが、当の本人は気づいていないようで、ミカエル殿下への上目遣いでのお願いを繰り返している。
「……わかった」
ミカエル殿下が溜息を吐いてクローディアの手を取り、巨人像へと向かう。
封印の鍵とやらが気になったので、ついていくわたくしの背後にはヘルムを被ったエドアルドが続く。
巨人像の足元まで来ると、ミカエル殿下はクローディアを横抱きにして、風を操り、宙へと浮かび上がった。そのまま巨人の頭上へ向かって上昇していく。
「もう少し右です殿下、巨人の額のところに近付いてください!」
「わかったから少しじっとしていろ。暴れられるとバランスが崩れる!」
パタパタと手足を振り回しながら右へ左へと指示を出すクローディアにミカエル殿下が四苦八苦しながら巨人の顔の部分へと近づいていく。
真下でハラハラしながら見守っていると、クローディアが巨人の額に手を伸ばして何かを掴むのが見えた。
そうしてその掴んだ何か―――彫像の一部をそこから投げ捨てたのだ。
「マリア! 避けろ!!」
ミカエル殿下の叫びと同時にエドアルドに押し倒され、今しがたまでわたくしが立っていた場所に落ちてきた石塊が床で砕け散った。
「マリアベル、怪我はないか?」
「え……ええ、エ……あなたが庇ってくださいましたから」
粉々になって床に散らばる石塊を見ながら、ドキドキと早鐘を打つ心臓を鎮めようと深呼吸をする。
あれが直撃していたらとても無事では済まなかっただろう。
「マリアベルさんごめーん! でもそんなところに居たら危ないわよー!!」
「クローディア! たとえ下に人がいなくても、彫像から外した石塊を落としていいはずがないだろう!」
「だって用があるのはあの蓋じゃなくてこの中に入ってる鍵なんだもの~」
ミカエル殿下が怒っている声とクローディアがまるで意に介していない声が聞こえてくる。
まあ確かに朽ちかけた巨大な像の足元をうろうろするのは危険が伴う。だが、今回に関しては明らかに人災だろう。
エドアルドの手を借りて立ち上がると、言い争いながら降りてくる二人を溜息と共に待った。
「ごめんごめん、わざとじゃないのよ? 大事な鍵が見つかったからつい嬉しくて蓋になってた石から手を離しちゃったの」
まったく悪いと思っていないクローディアの様子に苛立ちがこみ上げては来るが、どうせ言っても無駄なので受け流すことにした。
「無事だったのですから構いませんわ。それよりも、鍵は無事見つかりまして?」
「うん! あとはこの鍵を……」
クローディアが祭壇の中央にある窪みへとその鍵をはめ込む。するとそこから激しい光が溢れ、クローディアを包み込む。クローディアの襟元から、あの雫型のガラスのペンダントが零れ出た。光はペンダントを通して無数の呪文と魔方陣をあたりの壁へと映し出す。
陣はくるくると回り、そして神殿全体へと広がり、真っ白な光の波となってクローディアの周りにいたわたくしやミカエル殿下、エドアルドたちをも呑みこんでいった。
すべてが真っ白に塗りつぶされていく中、低く、悲しげな声が、微かに鼓膜を震わせた。
『……か……り……とし………子よ』
そうしてすべてが真っ白な光の中に呑まれた。
小鳥の声が窓辺で囀るのを聞きながら、少女は眠たげに目をこすりながら辺りを見回した。
肌を包むのは滑らかな絹の寝衣とシーツ。ふかふかのクッションを抱きしめたまま緩慢な仕草で身を起こす。
薄い天蓋の隙間から覗く部屋の中には色とりどりの花が飾られ、柔らかな日の光が差し込んでいた。
部屋の主の目覚めに、数名の侍女たちが静々と部屋へ入ってきて、少女の身支度を整え始める。
「姫様、今日も帝都は良好なお天気でございます。これも姫さまと皇帝陛下のご加護の賜物にございますね」
「今朝は陛下が姫さまと久しぶりにご朝食をご一緒なさりたいと仰っておられるそうです。先日賜りましたドレスをお召しになられますか?」
織り糸が虹色に輝き、繊細な刺繍がいくつも施されたドレスを運んできた侍女に少女ははにかんだ笑顔を見せた。
「ドゥネリお兄様が? 嬉しい! そうね、ドレスはそれがいいわ。髪飾りは……この間、オヌクール大臣が持ってきた真珠の髪飾りがいいわ」
「はい。姫様の絹糸のような御髪によく映えることと存じます」
褒めたたえながら侍女は波打つ髪を梳り、艶やかに結い上げていく。
瞬く間に身支度が整い、少女は軽やかな足取りで部屋を出た。
「それにしてもドゥネリお兄様は本当にお忙しくていらっしゃるのね。同じお城の中にいるのに、近頃、ちっとも会えないのだもの」
「それは致し方ないことでございますよ。ドゥナテリウス皇帝陛下は、広大なる魔導帝国を収める唯一無二の皇帝陛下なのですから。多忙を極めている中でもこうしてお時間を割いてくださるのは、姫さまへの愛情あればこそですわ」
「そんなことは分かっているわ。私だって子供ではないのだから。我儘を言ってドゥネリお兄様を困らせるつもりは無いのよ」
桜桃のような唇を尖らせ薔薇色の頬を膨らませる少女に侍女たちはくすくすと笑みをこぼす。
渡り廊下を涼やかな風が吹き抜け、少女のドレスの裾を揺らした。
「でも最近のお兄様は前にも増してお忙しそうで心配だわ。南の国境付近では農民の反乱も起きていると聞いたし……」
「まあ?! 誰がそのようなことを?」
「昨日お庭を散歩していたら若い庭師の女の子が話していたの。領主が横暴で不当に税率を上げているから、食べるのに困った農奴が暴れて近隣の村から略奪をするようになってしまったって。その女の子はおうちへ仕送りをするためにこの神殿の庭師として奉公に上がってきたんですって。私よりも随分幼いのにとてもしっかりしていたわ」
話をしている間に、侍女を引き連れた少女の一行は朝餐の間へとたどり着く。
白絹の浄衣に身を包んだ神官が恭しくこうべを垂れ、重厚な扉を開くと、既に卓に着いていた男がゆっくりと顔を上げ、柔らかな微笑みを浮かべた。
高い鼻梁とけぶるようなまつ毛に彩られたガーネットの瞳が蕩けるような甘い光を浮かべ、低く包み込むようなバリトンが愛おしげに少女へと呼びかける。
「我が姫、昨夜はゆっくり眠れたかい?」
「ドゥネリお兄様が下さったお香がとても良い香りで、朝までぐっすり眠れました。おかげで今朝はいつもより体調がいいんです」
「確かに、顔色も良くなっているね。先日礼拝の最中に倒れたと聞いた時は心配だったけれど、もう大丈夫そうだね」
「その節はご心配をおかけしてすみません。実はここ数日夢見が悪くて、でも昨夜は夢を見ることなくぐっすりと眠れました。ありがとうございます。お兄様」
頬を薔薇色に染めてはにかむ少女の手を立ち上がった皇帝、ドゥナテリウスが取り、テーブルへと導く。
「さあ、立ち話はその位にして、朝食にしよう。今朝は我が姫の好物をたくさん作らせたんだよ」
「まあ、美味しそう!」
「南のボンドーネ地方のミルクを使ったスープ粥だ。栄養があるからたくさんお食べ」
南の国境の地名を聞いて、少女の表情が翳る。
「お兄様、私南の地方から奉公に上がっている下人に聞いたのですが、ボンドーネ領の領主が不当な税の取り立てを行っているようなのです」
「……詳しく聞かせてくれるかい?」
眉を顰めたドゥナテリウスに促され、少女は庭師の娘から聞いた話を事細かに聞かせた。
下人の娘が話していたことを一言一言思い出しながら話している間、ドゥナテリウスは静かな表情で少女の話に耳を傾けていた。
「……ということで、飢えた農民が近隣の村で暴れる騒ぎになっているらしいんです。その下人の娘も家族に仕送りをするために奉公に上がってきたのだと言っていました」
「そうか……わかった。ボンドーネ領へは然るべき措置を行うとしよう。教えてくれてありがとう、我が姫。私が至らないばかりに民に無用の苦労をかけてしまったようだね」
「そんな! お兄様は誰よりも民のために心を砕いていらっしゃいます。私など、この城の神殿でお祈りするしかできないというのに」
「姫はよくやってくれているよ。聖女の祈りの加護があるからこそこの城も、わが国も、外敵を寄せ付けることなく平和が保たれているのだから」
ドゥナテリウスは立ち上がると少女の頭を撫でた。
「食事の途中ですまないけれど、仕事ができた。ボンドーネの件は任せておいて」
「まあ、もう行ってしまうんですか?」
寂しげに見上げてくる少女の額に唇を落として、ドゥナテリウスは耳元へと囁きかけた。
「我が姫、今宵は逢いに行くから起きて待っておいで」
艶めいた声音に少女の頬が朱に染まる。
ドゥナテリウスは初々しい少女の反応に微笑みながら華奢な指を捉え、指先にも口づけを落とす。
絡めあった指の薬指には虹色に煌めく揃いの紋が浮かび上がっていた。
数日後、庭を散歩していた少女はボンドーネ領から出稼ぎに来ていた庭師の娘が遊歩道の脇に平伏しているのを見つけた。
「聖女様、あたしの訴えを皇帝陛下に奏上していただいたそうで、本当にありがとうございます!」
娘は大きな瞳に涙を浮かべて少女を見上げてくる。
「ボンドーネ男爵は排され、村々の略奪行為も鎮められたと故郷から知らせが届いたんです。これも聖女様のおかげです」
「まあ、私は何もしてはいないわ。すべてはドゥネリお兄様がして下さった事よ」
「はい、陛下にももちろん感謝いたしております。仕送りの必要がなくなったから故郷にも帰ることができます。ありがとうございます。ありがとうございます」
地べたに額を擦りつけて礼を繰り返す娘の手を取り、少女は優しく微笑みかける。
「あなたがお城からいなくなってしまうのは寂しいけれど、家族を会えるのは幸せな事だわ。元気でね」
「はい! ありがとうございます!!」
額に付いた土を払うこともせず繰り返し礼を述べる娘に少女は胸の奥が温かくなるのを感じていた。
娘が何度もお礼を言いながら立ち去った後、少女はそっと手を合わせ、時の女神の聖句を唱えた。
「彼女と、彼女の故郷に平和と静寂の時が与えられんことを」
祈りを捧げてから、寂しさを振り切るように顔を上げ、散歩を再開する。
美しく整えられた遊歩道は中庭を横切り、神殿を取り囲む高い壁の近くまで伸びている。
少女はその壁の先へと出たことが無かった。
神殿で生まれ、育ち、クロノアの聖女として国の安寧を祈るのが日々の務めだった。
皇帝に見初められ、とこしえの愛を誓い合ってからもその日々は変わらない。
それでも少女は幸せだった。
壁の外の事は、ドゥナテリウスや侍女、それに先ほどの娘のような下人から聞くことができる。
あまねく大地にクロノアと魔導皇帝の加護が降り注ぐこの国はいたって平和で、豊かで、笑顔の絶えない国だ。
あの庭師の娘の故郷のような問題が発生しても、ドゥナテリウスが解決してくれる。
この国で最も強い魔力と、魔法の技術を持つ皇帝はその力でこの広大な国を一つにまとめ上げているのだ。
「あら? あれは……」
少女が壁の近くまで来たとき、小さな、子猫ほどの大きさの穴が開いているのを見つけた。
好奇心に駆られ、覗きこんでみたが、壁の向こうには別の石壁に挟まれた道が見えただけで、面白いものは何も見えなかった。
ただひとつ気になったことがあった。
「あの黒い鎧の戦士たちは、神殿では見たことが無いわ」
穴から見えた道を歩いていた数人組の兵士は漆黒の鎧に身を包んでいた。
神殿内は基本的に男子禁制で、例外として皇帝が来るときに付き添ってくる親衛隊の騎士は皆、白銀の鎧を身に着けているのだ。
不思議に思った少女は、ついてきていた侍女に尋ねた。
「ねえルカ、帝国騎士の中に、真っ黒な鎧の戦士がいるの?」
「真っ黒……それはもしかしたら黒曜騎士団の戦士かもしれませんわ。皇帝陛下に重用されておりますけれど、出自に難があって陛下の親衛隊には任ぜられなかった者たちの集まりだとか……」
「出自? ドゥネリお兄様はそんなことで部下を差別したりなさらないわ」
少女が不愉快そうに眉を顰めたのを見て、ルカと呼ばれた侍女は顔色を失くす。
「も、申し訳ございません。決してそのような意味では……」
「もういいわ。直接お兄様に聞いてみるから」
その夜、寝所へと訪ねてきたドゥナテリウスに少女が昼間に見たもの、ルカの話を聞かせると、皇帝は困ったように眉尻を下げて少女の頭を撫でた。
「壁に穴が? それは早いうちに修復をしなければいけないね。穴が開いているところは壁自体が崩れやすくなっているかもしれないからね。見つけても不用意に近づいてはいけないよ。それと……黒曜の騎士のことだけれど」
ドゥナテリウスは少女を膝の上に抱き上げ、柔らかく包み込むように抱きしめながら囁く。
「確かに帝国貴族ではない出身の者が多い。けれどそれを理由に親衛隊に入れなかったのではないよ。彼らは城の外側で大事な任務を背負っている。近衛騎士や親衛隊ではないからと言って、大切ではない騎士など、この城にはいないよ」
「やっぱり、お兄様ならそう仰ると思っていました。ああ、でもルカのこと、あまり叱らないでやってくださいね。彼女は悪気があったわけではないと思うの」
「わかっているよ、我が姫。さあ、そろそろ私だけを見て。でなければ拗ねてしまうよ?」
甘く蕩かすような声音で掻き口説かれ、少女はすべらかな絹の褥へとその身を沈めた。
翌日、朝の祈りを終えて少女が再び散歩の途中で例の壁の穴のあったところへ足を運ぶと、すでに穴は修繕され、跡形もなくなっていた。
少女はふと気になって、壁にそって神殿の外周を回ってみることにした。
今朝は傍付きの侍女が数人体調不良で休んでいたこともあり、散歩には少女一人で出ていたのだ。
侍女が傍にいてはきっと止められてしまうだろう。
昨日見た壁の外への穴は、少女が今まで実際に見てみようとは思ってもいなかった外の世界への好奇心を刺激したのだ。
とはいえ、同じような穴が早々見つかるわけもない。
その上神殿の敷地は広大だ。
少女は半分も行かないうちに、息が上がってしまっていた。
「はぁ……今日はもうここまでにしようかしら。……でもルカやフラがいない散歩なんて滅多にないし……」
元々体力がある方でもない少女は、ついにくたびれて、壁へと寄り掛かった。
その時、壁に見えていた筈の場所が、忽然と消えて、少女はそのまま外へと転がり出てしまった。
「いったぁ……何で壁が消えて……」
「大丈夫かい? お嬢さん」
砂利道へと倒れ込んだ少女に、漆黒の手甲をまとった手が差し出された。
顔を上げると、昨日見たのと同じ漆黒の鎧に身を包んだ、背の高い青年が少女を見下ろしていた。
「あんた、今この壁から出てきたように見えたけど、もしかして神殿の巫女さんかい?」
「あの……あなたは……?」
巫女ではなく聖女であると告げるべきか否か迷った末、少女はまず青年の名を尋ねることにした。
「ああ、そうだよな。神殿巫女は高貴な帝国貴族の娘が多いんだった。僕の名はルキフェリス。ルキフェリス・クリステルだ」
青年は快活そうな笑みを浮かべて、少女の手を取り、助け起こすとそう名乗った。




