三十七話 再会と再会のエトセトラ
「マリアベル! それと、クロ……聖女も無事だったのか!?」
北の砦に着くと、疲労困憊で倒れ込みそうになったわたくしを抱き止めてくれたのは、久々にお顔を見ることになったミカエル殿下だった。
王国騎士の黒き鎧が歩き疲れて火照った頬に当たってひんやりと気持ちがいい。
わたくしや他の歩兵たちの後ろから神殿兵に担がれた輿に乗って現れ、優雅に降りてきたクローディアを見てミカエル殿下の眉間に深くしわが寄るのが見えた。
その苦悩は諦めきれぬ慕情によるものなのか、それとも別の感情なのかは、わたくしからは推しはかることはできなかった。
「ミカエル様、お出迎えご苦労様でした。早速で悪いんだけど、見てのとおり私たち疲れ切ってるの。お部屋へ案内してくださいな」
足取りも軽くこちらへと駆け寄ってきたクローディアが上目遣いにミカエル殿下へとしなだれかかる。
一度はクローディアの方から手ひどくミカエル殿下を拒絶したというのに、学園時代と変わらぬ馴れ馴れしさで、正直神経を疑う行いであるが、本人は何の痛痒も感じていないのか、ミカエル殿下の腕に自分の腕を絡ませてニコニコと笑っている。
「……すぐに案内の者を呼んでくる。聖女様はこちらで暫し待たれよ」
ミカエル殿下は唇を真一文字に結んだまま、やんわりとクローディアの腕を解くと、わたくしを横抱きに抱えあげた。そのまま砦の奥へ歩きはじめる。ミカエル殿下の指示で砦の兵士たちが次々に聖女一行を砦に迎え入れるべく荷物の受け取りや人員の案内で動き始めた。
「ミカエル様~! 私疲れちゃってもう歩けな~い!!」
甘えるような猫なで声でその場に倒れ込みながらクローディアが訴える。
「騎士に命じて部屋まで連れて行かせる」
「え、やだ! よく知らない人に抱き上げられるとか気持ち悪くて無理~! ミカエル様なら安心して身を任せられるの。大切なお友達だから」
「それならばマリアベルを部屋まで運んだらまた来る。それまで待っていろ」
「マリアベルさんならさっきまで元気に歩いてたんだから平気よ。歩けるくせに甘えて倒れる振りまでして。婚約者の立場を振りかざしてミカエル様を顎で使おうとしてるのよ」
さっきまで輿の上で鼻歌を歌っていた女よりはわたくしの方が疲れている自信はあったけれど、確かにミカエル殿下に抱き上げられて運ばれるのはなんだか恥ずかしい気もしたので下ろしてもらおうかと身を起こそうとしたら、逆にミカエル殿下に強く抱き寄せられた。
「マリアは本来地べたを長時間歩くような身分じゃない。それでも自分から俺を足に使うぐらいならそこらの従者に馬になれと命じるような女だ。それがこうも大人しく抱えられている時点でこいつの体力は限界だ。すぐに休ませたら戻る。……おい、聖女様に冷えた飲み物を用意して差し上げろ」
通りすがりの騎士に命じながら、再度わたくしを抱え直すと、クローディアの声を無視して砦の奥へとスタスタと進んでいった。
連れて来られたのは砦の最上階にある、司令官用の私室があるフロアだった。その一画にある部屋に入ると、殿下はわたくしをそっと壊れ物のように寝台へと下ろした。
「生憎侍女はいないが、世話のできる女騎士を呼んでくる。……着替えも用意するが、清潔ではあるが、普段のお前が着ているものとは比べるべくもない粗末なものだが……」
「それは……構いませんけれど……ここは……」
「今は俺の私室って事になってるが、生憎ここ以上に上等な部屋は無くてな。……心配しなくても隣の部屋にはソファもある。軍議で夜通し不在のこともあって全然使っていない」
「そんな、それではわたくしがそのソファの方に……」
「疲れ切って倒れた婚約者を身体の休まらないソファに寝かせるほど俺は人でなしではない。いいから休め。ほら、ローブはこっちへよこせ」
結び目を解かれそうになった外套の紐を慌てて抑える。
外の寒さから解放され、部屋の中は暖かく、ローブは暑いくらいだったが、今、フードを外す勇気はわたくしにはなかった。
ぎゅっとフードを縁を握る手が震えているのが分かる。
「マリア……どうか……したのか?」
心の底から心配していることが分かるミカエル殿下の声。
久々に聞いた、よく知っている人の声だった所為か、わたくしの心が疲れ切っていた所為か、ふっと息を吐いた瞬間、堰を切ったように涙が溢れてきた。
「マリア?! お前一体…………っ!?? お前……その髪は」
涙と同時に手まで緩んだのか、フードがはらりと落ち、無残に短くなってしまった髪がミカエル殿下の視線にさらされる。
「ふっ……くっ……ぅぅ…………わた……くし……」
クローディアの前では決して泣くものかと決めていた。泣いたところでなんの解決にもならない。彼女を楽しませるだけだと分かっていたから。
彼女の所業を訴えたところで、聖女に心酔する神殿兵や巫女達が取り合ってくれるなど有り得なかったから。
涙にぬれた頬が冷たい感触に再び触れた。ミカエル殿下に抱きしめられたのだ。
鎧は硬く、冷たいのに、その腕の中は暖かで、安心して、わたくしはひとしきり声を上げて泣いたのだった。
泣いて、泣き疲れて眠ってしまったわたくしが目を覚ますと、部屋に殿下の姿は無くて、代わりに白狼と呼ばれた獣に最初に会った森で同じ隊にいた女兵士が濡れたタオルを絞っているところだった。
「ロートレック伯爵令嬢、お目覚めになりましたか?」
「あなたは……ランブール嬢……?」
「一介の兵士に『嬢』は不要ですよ。ジャヌカ、とお呼びください。お身体を起こしても大丈夫ですか? よろしければ、お身体を拭かせていただきます」
「あなたが……?」
「本職の侍女に比べると手つきの拙さはご容赦ください。ミカエル第二王子殿下から、ロートレック伯爵令嬢の……その、髪の事を知っているもので世話を任せられるものをということで私が志願しました。この砦の者はまだ令嬢のご尊顔も拝したものはおらず、ミカエル第二王子殿下は婚約者を誰にも見せたくない程溺愛しておられるともっぱらの噂になっております」
「それは……殿下もさぞお困りでしょうね……」
溺愛どころか完全なる政略結婚、互いに幼馴染以上の情などない間柄だというのに、わたくしがこの髪を見られたくないばかりに、ミカエル殿下を誤った噂の的にしてしまった。
「ミカエル第二王子殿下はロートレック伯爵令嬢の事をずっと心配なさっておいでだったそうですよ。この砦の指揮を放棄するわけにいかないから自ら探しに行くこともできず、とても苦悩なされていたと砦の兵士が申しておりました」
「ジャヌカ、だったかしら、その、『ロートレック伯爵令嬢』って毎回呼ぶの、長くて面倒でしょう? わたくしの名前、マリアベルというの。よかったらそう呼んでくださらない?」
ミカエル殿下のことも長々と敬称をつけて呼ぶのは、彼女が低いながらも爵位のある家柄だからだろう。最初は固辞していたものの、しつこく頼み込んでいたら、ようやく頷いてくれた。
「わかりました。ではマリアベル様とお呼びします。……本当によろしいんですか?」
「ええ、それと申し訳ないのだけれど、身体は自分で拭くわ。タオルを置いて、暫く部屋を出ていてもらえるかしら」
「それは……構いませんが……あの、私では不安なのでしたら誰か別の者を呼んでまいりましょうか?」
「いいえ、結構よ。……ごめんなさいね。あなたが悪いわけではないのよ」
躊躇うジャヌカが部屋から出ていくのを見届け、絞ったタオルの温度を確かめる。部屋の隅にあった姿見の前へ行くと、みすぼらしいワンピースを着た髪の短い女が映り込んだ。背は低く、絹糸のようと褒めたたえられた髪は艶を失い、無残にも短く、不揃いなまま肩にかかっている。肌は埃と土に汚れ、かつての陶器のような輝きはない。柔らかなマシュマロのようだった頬は丸みが削げ落ち、貧民街の幼女のようだ。
かつての美貌の面影は、エメラルドの様な瞳に残っていたが、社交界の薔薇と謳われた華やかさは見る影もなくなってしまっていた。
「鏡なんて久しぶりに見たけれど、思っていた以上に酷いわね」
ここまで酷いといっそ笑えてくる。
腰のベルトに手をかけ、ワンピースを脱ぐ。下着も脱いで現れたのは、痩せた貧相な肉体。元々肉が付きにくい体質だったのだが、この行軍ですっかりガリガリになってしまった。
膨らみの薄い胸の下、ドレスならばコルセットに覆われるであろう場所に、不自然に浮かび上がる紋様を指先で撫でる。花びらを幾重にも重ねた花にも似たその紋様は、かつてに自分にはなかったもの。十年前に、この身に刻まれたものだ。
「……段々、黒くなっているわ……時間が……無いというの?」
あの仮面の魔導師に掛けられた呪いの証。
あの魔導師はこれをゲームだと言い、期限などは設けてはいなかったが、もしもこの紋様がすべて漆黒に染まった時がその期限だとするならば、その時、わたくしは完全にお兄様の事を忘れてしまうのだろう。
「早く……探さなくては」
わたくしにとってはこの行軍も、古代の魔導について調べる為のものだった。
今やクローディアを中心に世界の命運すらわからなくなっているというのに。わたくしの中では今も最大の優先すべき問題はお兄様のことだった。
「ミカエル殿下に知られたら、この非常時に何と自分勝手な、と怒られてしまうわね」
生真面目で、融通の利かない婚約者の起こり顔を思い浮かべ、口の端に笑みが浮かんだ。
「わたくし、まだ笑えるわ。だからきっと大丈夫」
あったかく濡れたタオルで顔を拭く。土と埃を落とした顔を鏡で見る。
「少し日に焼けてしまったけれど、まだそう見劣りするほどではないわ」
多少痩せていても、少し汚れてしまっても、着るものの質が落ちていても、わたくしがわたくしである事実は揺らがない。
タオルで汚れを落とす度、心の憂いも少しずつ拭い去られていくようだった。
身体を拭き終わって、ジャヌカが持ってきてくれていた着替えに袖を通す。ここに着て来たワンピースとさほど質は変わらないが、きちんと洗われて清潔であることが、今のわたくしには何よりの贅沢だった。
ここまで着てきたワンピースは畳んでおこうとして、ポケットに入れているものの事を思い出した。
失くしてしまわないように小さな小袋にまとめて入れ、ポケットにしまっていたのだ。
取り出して改めて眺めてみる。アメジストの鱗、獣の牙の欠片、サファイヤの玉。これらがすべてクローディアが言っている神獣にまつわる物だとするならば、なぜ聖女であるクローディアではなく、わたくしの手に在るのだろうか。
クローディアはクローディアで、これまでの神殿で剣や盾、宝玉といったアイテムを得ている。それらは神獣の宝と呼ばれるにふさわしい魔力が込められており、神殿兵が厳重に箱に納めて運んでいた。
みたところ、目の前のアイテムには魔力らしきものは感じられない。
「なぜ……あの獣はわたくしにこれを託したのかしら」
クローディア曰く、歴代の聖女は魔導皇帝時代の聖女の記憶の欠片を持っているという。その中でもクローディアは聖女の生まれ変わりとして、聖女自身の記憶を全て持つ唯一の聖女なのだと。
それならば、クローディアの言うとおり、聖女が神獣を慈しみ、神獣もまた彼女を愛していたのならば、なぜ、聖女ではないわたくしの前に頻繁に現れるのか。
考え込んでいると、にわかに部屋の外が騒がしくなった。
ジャヌカの声と、もう一人は、クローディア?
「ここってミカエル様のお部屋でしょ? どうして入っちゃ駄目なの? 久しぶりに会ったから一緒にお茶でもしようかと思ってお菓子も持って来たのに」
「ミカエル第二王子殿下はただいま軍議の為こちらにはいらっしゃいません」
「じゃあ中で待たせてもらうから大丈夫よ。あなたは下がっていいわ」
「そういうわけには参りません。今こちらではマリアベル様、いえ、ロートレック伯爵令嬢がお休みなさっておいでです」
「え?! マリアベルさんって医務室に連れて行かれたんじゃなかったの? なんでミカエル様のお部屋で休んでるの?」
「ロートレック伯爵令嬢はミカエル第二王子殿下の婚約者であらせられるのですから、下々と同じ医務室のベッドに寝かせるわけにいかないとの殿下のご配慮です」
「うっそ! ミカエル様はマリアベルさんのこと嫌いなのに、そんなワガママ言って困らせるなんて、マリアベルさんたら相変わらず人の心が分からない人ね。ミカエル様が可哀想」
頭の痛くなるような会話が聞こえてきて、わたくしは獣たちに貰ったアイテムを小袋に仕舞い、改めてポケットへ隠した。
扉へと近づき、様子を窺う。
身体を拭く際、用心の為鍵を掛けていたので、クローディアが無理矢理入ってくる気配はない。クローディアも内鍵が閉まっていたので、ミカエル殿下が部屋にいると思ったのだろう。そこへジャヌカがわたくしの様子を見に戻ってきて鉢合わせた、というところだろうか。
「私の見る限り、ミカエル第二王子殿下はロートレック伯爵令嬢を大変慈しんでおられる様子です。……先ごろ王都に流布していたお二人の不仲の噂は所詮噂に過ぎなかったのでしょう。ご本人を見て、そう思いました」
「あなたって、人を見る目ないのね。あの二人は典型的政略結婚、ミカエル殿下はマリアベルさんのことずっと疎んじていたし、マリアベルさんは自分以外誰も愛せない自己中の塊みたいな人なのよ。ほんのちょっとお世話したくらいでころりと騙されるなんて可哀想。男社会の兵士たちの間で生きてたから、女の子の裏の怖さとか知らないのね」
「……そうですね。今まさに思い知らされて驚いています」
「そうでしょ~。マリアベルさん、見た目だけなら小柄でお人形みたいに可愛い系だからみんな騙されるのよ。実際は高慢で嘘つき、プライドばかり高くてお友達になってあげられるの、私くらいしかいないんだから~」
クローディアはいつまでわたくしのお友達ごっこを続けるつもりなのだろうか。
狼の獣に会った夜以来、時々思い出したように唱える『お友達』は無意味に過ぎて、もはやわたくしの知っている単語ではなく、聖女独特の何かの呪文なのではないかとすら思えてくる。
少なくとも過去から現在に至るまで、彼女から友情を感じたことも無ければ、彼女に友情を注ごうなどと思ったこともない。これほど実情の彼方を斜め上に滑る言葉があっただろうか、と思う。
「お友達想いの聖女様でしたら、眠っていらっしゃる令嬢を無理矢理起こされたりはなさらないでしょう? 今日のところは聖女様もお疲れでしょうし、お部屋に戻られては?」
「お部屋ってまさか最初に一休みするために案内されたあの大部屋じゃないでしょう? 私まだ部屋には案内してもらってないのよ。それもあってミカエル様を探していたの」
「聖女様方、神殿の皆様は神殿内で衣食住を共にされると伺っておりましたので、男女別であれば同室でも問題ないと思いますが」
「そりゃ神殿兵や巫女は雑魚寝でもいいんでしょうけど、私は無理。知らない人と一緒の部屋なんて耐えられないわ」
「……女騎士たちの兵舎に空き部屋が無いか確認してまいります」
「ええ~? 騎士の部屋ってなんか汗臭そう。女捨ててますって感じで」
これ以上は聞いていられない。仕方なく部屋の鍵に手をかけた時、聞き覚えのある声がドアの向こうで響いた。
「ミカエル殿下の命令で聖女様のお部屋の支度が整ったことを伝えに参りました。こちらへどうぞ」
きびきびとした所作が目に浮かぶようなはきはきとした声。
平時ならば鬱陶しいと感じる声を聞いて、安堵のため息が零れたのは初めてかもしれない。
「あら? 遅かったじゃない。おかげで無駄な時間を過ごしちゃったわ」
「申し訳ありません。聖女様に恙なくお過ごしいただく部屋をご用意するのに時間を要しました」
「あなた、この砦の新人? 次からは最初に私に部屋の準備をしていることを伝えに来なさいよね。そしたら変な勘違いしないで大人しく待ってたのに」
「は、申し訳ございません」
そのまま足音が部屋から遠ざかっていく。
ホッと息をついた一方で、クローディアの言葉に疑問がわく。クローディアは目の前に現れた男が誰だか分からなかったようだ。
「あの顔を見て見間違えるなんてこと、あるのかしら?」
その疑問は、クローディアの案内を終えた男が、ジャヌカを伴って部屋を訪ねてきたときに解消された。
男は全身を王国兵の黒き鎧で覆い、顔全体を覆うアーメットヘルムを被っていたのだ。通りで声がなんだかこもって聞こえると思った。
部屋へ二人を通し、ティーテーブルをはさんで腰を下ろす。
「部屋の鍵は掛けたから、もう兜を外してもよくってよ。エドアルド」
「……気づいていたのか。クローディアは全然気づかなかったのにな」
そう言いながら、ガチャガチャと音を立ててヘルムを外す。その下から現れたのは、紅く燃えるような短髪に、いかつくはあるが、凛々しいともいえる整った顔立ち。
ミカエル殿下の腹心にして、氷の騎士、エドアルド・マーニュだった。




