第二話 成金男爵家ご子息と謝罪にまつわるエトセトラ
というわけで、うっかり続いた第二話です。
「マリアベル嬢、ちょっとよろしいですか?」
中庭での騒動からひと月が過ぎ、学園は落ち着きを取り戻していた。
わたくしはもちろん学園を追われることもなく、毎日学業に励んでいる。
クローディアも反省室と罰の奉仕活動を大人しく努めたことで規則通り1週間で授業に復帰し、元通りミカエル殿下の傍にべったりとくっついて、更に数人の男子を常に侍らせている。曰く、わたくしがどんな卑劣な仕返しを企んでいるか分からないので守ってもらっているのだそうだ。
ちなみに殿下は国王陛下にわたくしとの婚約破棄を願い出たそうだけれど、一蹴されたらしい。まあ、様々な政治的思惑で成立した婚約を平民の娘に恋をしたから破棄してくれと言われて簡単に応じる国主はいないだろう。その件について殿下はわたくしが裏で手を回しているんだろうと怒っていらしたが、とんだ言いがかりだ。
「マリアベル嬢!」
考え事をしながら歩いていたら、後ろから追いかけてきた相手が正面に回り込んできた。わたくしの隣を歩いていたラファエルがさりげなく前に出る。わたくしは小柄なラフィーの頭越しに相手の顔を見た。結構な距離を追いかけさせられたという不満が表情に露わになっている。おかげで校内でも一、二を争う美貌も、翳って見えた。
レオナルド=ディール・ヴィンツ、ミカエル殿下のご学友の一人で、クローディアに心酔している若者の一人でもある。艶やかな深緑色の髪を右肩で束ねて垂らした中性的な美貌の持ち主で、色気を漂わせた垂れ気味の目元に泣きボクロがある。色白でニキビひとつない肌は女性でも嫉妬してしまいそうなほどきめ細やかで、淡い桃色の唇は咲き初めのバラの花びらのようだと称えられている。
ヴィンツ男爵家は身分こそ高くはないが、王都を中心に大きな商会を持ち、財界に大きな影響力を持っている。レオナルドはその次男坊で、華やかな容姿から女生徒の人気も高かった。豊かな財力と、流行に敏感で話題も豊富な伊達男として、数々の浮名も流してきている。…クローディアの虜になる前は。
クローディアに魅了されたレオナルドは社交界での女性関係を清算し、有り余る財力を平民の小娘への貢ぎ物へと費やすようになった。クローディアは表面上は遠慮して見せるが、最終的には『友達の印』などと押し切られた風を装って全部ちゃっかり受け取っている。平民仲間の女生徒にこれ見よがしに自慢していたと人伝に聞いた。
「………レオナルド、そこをおどきなさい」
流石に真正面に立たれては無視することもできない。仕方なく扇子で口元を隠しながらなるべく穏やかにそう切り出す。ロートレック家の令嬢の通り道に立ちふさがるなどという男爵家の子息如きにあるまじき不作法についてはこの際突っ込まないことにする。
もちろん、わたくしとて学園にいる間は身分の低い者相手でも日常の会話くらいなら普通に声をかけられれば応えるし、相手によっては雑談や相談にも乗っている。
そう、あくまでも相手によっては、であるが。クローディアはもちろんのこと、レオナルドもわたくしにとって話し相手として決して愉快な相手とは言えない。よって可能な限り無視を決め込んでいたのだが、彼は自分が女性に声をかけて無視されることに免疫がないらしい。自分がなぜ無視されたのか納得しかねると言った表情で大袈裟なほどに溜息をつかれてしまった。
「私が先ほどから何度もお呼びしたのに、聞こえていなかったのですか?」
充分に聞こえていたし、その上で無視をしたというのに、当て擦るように文句を言われた。わたくしは扇子の影で溜息を押し殺しながら目元にできるだけ穏やかな微笑みを浮かべて見せた。
「まぁそうでしたの? わたくしてっきりレオナルドの親しい方にわたくしと似た名前の女性がいらっしゃるのかとばかり…。まさかレオナルドがわたくしの名前を呼ぶだなんて思いもよらなかったものですから」
どの面さげてわたくしに声をかけてきたのかという意味を込めて言葉だけは穏やかに、目線には冷気を込めて返す。一瞬レオナルドが応えに詰まるが、よっぽど急を要する話なのだろう。苛立ちを抑え込んでわたくしに微笑みかけてきた。その笑みもよく見れば微かに引きつっている。男性はこういう時に表情を隠す扇子が使えない。さぞ不便だろう。扇の影であくびをかみ殺しつつ仕方なく話に耳を傾ける。
「お話というのは他でもないのですが、先日の一件について、家のものを巻き込んで嫌がらせをするのをやめて頂きたいのです」
「……何のことかしら?」
先日の件と言えばあの断罪事件の事だろう。あの後、ミカエル殿下以外のクローディア信望者の男子達はそれぞれに実家から呼び出しを受けている。そこでどのようなやり取りがあったかは定かではないが、幾人かは実家に連れ戻され、自主的な謹慎をするとの届け出があったそうだし、各家の当主の名で父を通してお詫び状とお詫びの品だという贈り物が届いた。とりあえず全て封を開けることもなく送り返したが。
「先日の件、学内のことは学内の規範で裁くべきだと主張したのは貴女自身でしょう。それなのにご実家の権力でもって立場の弱い下級貴族を捩じ伏せる様な仕返しの仕方は如何なものかと思います」
「何のことか分かりかねますわ。わたくしレオナルドのご両親にはお会いしたこともございませんけど?」
社交界デビューはしているので、王宮の夜会やどこかのパーティーですれ違うくらいはしているだろうが、言葉を交わしたことは無い筈だ。わたくし自身はヴィンツ商会のお店に足を運んだこともないので、そちらで会ったという事もない。
「先日、母が懇意にしていたモリゾ侯爵夫人の茶会に出席したのですが、ロートレック伯爵夫人が居合わせたためすげなく追い返された、と。モリゾ侯爵夫人は母とは昔から親しくさせていただいていたのに付き合いの浅いロートレック伯爵夫人の為に茶会を追い出されたのは伯爵夫人が侯爵夫人に何事か吹き込んだからに違いないと思うのです」
「まぁ……」
実はその話は母から聞いている。なんでもモリゾ侯爵夫人の茶会はあの事件より前に招待状が出されていて、事件の後、母が出席することを気遣ったモリゾ侯爵夫人が茶会で出す予定で手配していた菓子やお茶、テーブルクロスや室内に焚く香などすべて、ヴィンツ商会のものをキャンセルし、別の店のものに変えたのだそうだ。その際ヴィンツ男爵夫人にも茶会も欠席してもらいたがって、遠まわしにそう伝えていたらしいのだが、ヴィンツ男爵夫人は直接的に欠席するよう言われたわけではないからと果敢にも茶会に出席してきたらしい。
もちろん、男爵夫人を追い返したのは母が文句を言ったわけではない。モリゾ侯爵夫人は自身が主催するお茶会で対立関係がはっきりしている者同士が鉢合わせしないように気を配った結果、ヴィンツ男爵夫人よりわたくしの母の機嫌を取ることを優先したのだ。この場合、付き合いの長さなど問題にはならない。
まあ、お母様の事だから茶会でヴィンツ男爵夫人を見かけて眉をひそめてみせるくらいはしたかもしれないが、娘を怪我させられてその程度で済ませているのはお母様の温情というものだ。
「それだけではありません。貴女の母上はあちこちの茶会で我がヴィンツ商会の商品にケチをつけて回っているそうですね。おかげでロートレック家の威光に屈した貴族の方々が次々にそれに追従して我が商会との取引を断るようになっています。このままでは何の罪もない従業員が路頭に迷いかねません。貴女の個人的な復讐でどれだけのものを巻き添えにするおつもりですか?」
これも正確な情報とは言い難い。母はヴィンツ商会の商品にケチをつけたのではなく、別の商会の商品を使ってみたらそちらの方が気に入った、と数人の貴婦人に『宣伝』しただけだ。その店よりもヴィンツ商会の品物の方が質が高ければいくら母が宣伝したからと言って早々に乗り換えられはしないだろう。
それにレオナルドが過去に関係を持った貴婦人やご令嬢たちは、レオナルド自身への恨みつらみからヴィンツ商会との取引を切ったと聞いているから、ヴィンツ商会の売り上げが落ちているのは別に母の所為とだけは言えない。
それなのに、まるでわたくしが私怨で家族を使ってヴィンツ家を陥れようとしているかのように言われても困ってしまう。わたくしに罪を擦り付ける前に自分の行状を顧みたらいいのに。
「お言葉ですがレオナルド様、お嬢様はご両親には例の一件についてはご自身では何も話してはおられません。ご実家に宛ててしたためられたお手紙にも『変わらず健やかに過ごしております』とありました。これ以上の言いがかりは我が主への冒涜と捉えますが、如何ですか?」
耐え兼ねたのかラファエルが低く地を這う様な声音で割り込んできた。けれどレオナルドはラファエルの言葉を鼻で笑うと改めてわたくしを睨み付けてきた。
「ずいぶんと小間使いに懐かれておいでのようですが、いささか躾が行き届いていないのではありませんか? 使用人の分際で私に意見しようだなんて主の質が知れますよ?」
ラファエルの背のどす黒いオーラが膨れ上がったが、この程度の挑発に乗るような迂闊な子ではない。スッと姿勢を正しレオナルドに向かって頭を下げる。
「主への暴言に取り乱しました。申し訳ございません」
その細い肩に手を置いてラファエルの前に出る。扇子を閉じ、レオナルドをまっすぐに見つめれば、たじろぎ、目を伏せたのは彼の方だった。
「うちの者が失礼しました。……男爵家のご子息などがわたくしにいきなり話しかけてくるくらいでしたからこの場は無礼講だと思い違いをしてしまったのですわ」
「……こちらこそ、家族や我が商会に尽くしてくれている従業員を思うあまり感情的になってしまったようです。……私が貴女にお話したかったのは、つまらない意地を張り続けていてはお互いの不利益にしかならないという事です。これ以上我がヴィンツ商会に圧力をかけ続ければ貴女の評判が更に落ちる一方です。もうそろそろ気も済んだでしょう。これ以上の弱い者いじめはやめるべきです」
レオナルドの言葉に持っていた扇子が微かに軋んだ。
「……つまらない…意地……? ……弱い者いじめ…………ですって?」
レオナルドはまるで頑是ない子供にでも言い聞かせるように、やたらと優しげな声を出して更に言い募ってきた。
「あの一件はもう決着がついたではありませんか。あなたはまんまと学園に残り、クローディアは恐怖と混乱のあまり魔力を暴走させてしまい、反省室へ入る羽目になった。可哀想に、クローディアは反省室がとても辛かったのか、出てきて私たちに最初に会った時には涙目で震えていたんですよ。その上、騒動以来周囲の者たちに避けられるようになったそうです。貴女の顔色を窺って、クローディアと距離を取っているのだろうと皆が言っています。あなたは勝ってなお弱者に追い打ちをかけるのですか? そのような非道な振る舞いがミカエル殿下の心を離れさせた原因だと何故お気づきにはならないのですか??」
「……わたくしが…勝者で……あなた方が、弱者……被害者だと……?」
突きつけられたレオナルドの言い分に、どんどん胸の奥が凍り付いていくような感覚を覚える。レオナルドから見た今の自分はきっと真っ青な顔で震えている様に見えるだろう。実際血の気が引いている感覚がする。今にも貧血でも起こしてしまいそうだ。
そんな私の落ち込み様に、レオナルドの声が益々高くなる。
「今現在、貴女によって苦境に立たされているのは身分や権力などで貴女よりも劣る下級貴族や平民の少女です。貴女は上位貴族の令嬢として民を守らねばならない立場でしょう? それなのに身分や立場を利用して周りの者たちに私やクローディアを攻撃させるなど、誰もが貴方の卑劣さに眉をひそめていますよ」
ある日突然に言いがかりをつけられ、公衆の面前で地べたに突き倒され、怪我を負い、いわれのない罪をあげつらわれた挙句、学園だけでなく社交界をも追い出すとまで面罵された。自衛のために反論すれば魔法で攻撃されかけた。
それを許さないでいること、家族や周囲の者がわたくしを思って行動してくれているのを止めないことが、卑劣な弱い者いじめだというならば、この世に自称弱者ほどしたたかで厚かましい強者はいないのではないだろうか。
わたくしは扇子を再び開いて、歪んでしまった笑みの浮かんだ口元を隠した。伯爵家の娘としてこんな取り繕うことに失敗した表情を人に見せるわけにはいかない。
「……わたくし、あなた方に傷を負わされたのですけれど……?」
声の震えを抑えるのには思った以上に労力がいった。けれど、レオナルドは心底呆れたとでも言うように鼻を鳴らして嗤った。美しい容貌の筈なのに、ひどく歪で、醜い笑みだった。
「怪我など、王宮付きの医療魔法師に治癒術を使わせて、跡も残らず治っているではありませんか。本来なら王族しか診ることのない希少な治癒魔法の使い手に貴女を治させたミカエル殿下は慈悲深い方だと思いますが、はたしてそこまでする必要があったのかは甚だ疑問ですね」
医療魔法は高度な技術を要する為、使い手が極端に少ない。王都では王宮勤めの医師団に数名所属しているが、彼らは王族専属の役職なので、本来であればわたくしを治療することはない。それ自体はレオナルドの言う通りだ。
けれど今回わたくしが彼らに治療してもらえたのはミカエル殿下の申し出によるものではない。いや、あの件で罪悪感を感じたかもしれない殿下も、一応口添えはしたのかもしれないが、大部分はわたくしの父であるロートレック伯爵が国王陛下に働きかけ、国王陛下が勅旨としてわたくしを特別に治癒するよう命じたのだ。
この異例の措置は、国王陛下がミカエル殿下に対して、わたくしと殿下の婚約を解消する意志がない事を示すものでもあり、それを他の貴族たちにも知らしめるためのパフォーマンスでもあるのだ。つまり、わたくしは将来王族に嫁ぎ、その一員になることが国王の名に於いて確約されているという証明だ。
万が一、ミカエル殿下とわたくしの婚約が解消された場合、その後に起こるのはミカエル殿下とクローディアの幸せな婚約などではあり得ない。ロートレック家以外の適齢の娘を持つ貴族がわんさとわたくしの後釜に娘を捻じ込もうとして王宮内や社交界を巻き込んでの激しい争いになるだけだ。ミカエル殿下が平民の娘を王宮に迎えることなど許される余地は万に一つもないだろう。
「……まあでも跡など残らなくて幸いでした。我々も貴女の怪我がきれいに治ったと知って胸を撫で下ろしたのですよ? 優しいクローディアはあなたの怪我には心を痛めていましたからね。けれどこれでもう彼女が気に病むこともないでしょう」
レオナルドは心の底からすっきりしたというように笑顔で宙を見ている。クローディアの幻でも見えているのだろう。いい加減、このくだらないやり取りを終わらせたくなったわたくしは今にも暴れ出しそうなラファエルを片手で抑えつつ、扇子を揺らめかせながらレオナルドが望んでいるであろう言葉を口にした。
「……貴方の仰る通り、残念ですけれどそろそろ潮時ですわね。わたくしといたしましてもレオナルドの言う悪評が広まるのは好ましくありませんし……」
「……!! それでは!!?」
「ただ、わたくしにも体面というものがございます。いきなり何事もなかったかのように父や母に口利きするわけにはまいりませんの。ですが、レオナルド、あなたがわたくしに最大限の誠意を見せてくれたのならばそのことを父と母に伝えて、今後はヴィンツ商会にできるだけの便宜を図るよう取り計らいましょう」
レオナルドの顔にしてやったりという笑みが浮かぶ。遠まわしにわたくしの立場が危うい事を告げて揺さぶりをかけ、わたくしが彼の謝罪を受け入れたと世間に示せるように事を運ぶこと、更にはわたくしが父母にレオナルドとその周囲を許すよう便宜を取り計らうことを口に出すように誘導することが彼の思惑だったのだろうから。
口約束であっても、その後彼から謝罪の品なり何なりを受け取ってしまえばそれがわたくしが彼を許したことの証しとして吹聴されるのだろう。
「お嬢様?!」
驚いたような声を上げるラファエルを視線で黙らせると、わたくしは扇子を持ち直し、今度こそ完璧に作り切った笑顔で小首を傾げてみせる。
「わたくし、ずっとレオナルドから頂きたいものがございましたの。他では見ない珍しいものなのですけれど……」
「我がヴィンツ商会は貿易業なども盛んですからね。マリアベル嬢のお気に召すものを手に入れて御覧に入れますよ。ああ、でも私の心はもうクローディアただ一人のものですから差し上げられませんけれど」
上機嫌で面白くもない冗談を言うレオナルドに、わたくしは更に笑みを深めてみせる。レオナルドの心など、その辺の塵芥ほどの価値もない。そのようなものはクローディアにでも放り投げて拾わせればいい。
「そんなものではございませんわ。もっとささやかで、簡単なものですの」
「珍しく謙虚なお言葉ですね。いいでしょう。何なりとお望みの物をお申し付けください。ヴィンツ商会の名に懸けて、必ず用意して見せましょう」」
勝ち誇った顔で宣誓するレオナルド。きっとどんなに高価な品をねだったところで、先々ロートレック家の口利きが手に入ると思えば些細な投資だなどと頭の中でめまぐるしく計算しているのだろう。わたくしは扇子の影で口元をほころばせながら、その品物の名を告げた。
「わたくし、貴方のその髪を頂きたいです」
「…………は? ……………今、なんと?」
何を言われたのか理解できなかったように、レオナルドがぽかんとしたあと、震える声で問うてくる。わたくしは変わらず笑顔のままで再度その品を告げる。
「貴方の、髪の毛、です」
殊更ゆっくり、噛んで含めるように一言一言宣告する。
「何でもいただけるのでしょう? わたくし以前からあなたのその美しい髪が欲しかったんですの。せっかくなので根元から、まるっと全部剃り落してくださいませ。丸坊主、と言うそうですわよ?」
遥か東方には聖職者が俗世を捨てる証しに髪を剃り落とす風習があると聞くが、当然わが国にはそんな風習はない。比較的髪が短いのは労働者階級か、軍人くらいで、貴族はだいたい髪を長めに伸ばしているのが普通だ。
中には一部ないしは全体的に髪の量が少なく、毛根に恵まれなかったために坊主に近い頭になっている者もいるが、わたくしたちの年齢ではそれも稀だ。
「ご冗談を……」
「あら? わたくし冗談を言ったつもりは毛頭ございませんわ。あなたが髪を剃り落してプレゼントして下さったらすぐにでも父と母にヴィンツ男爵のご子息はとても誠実な謝罪をして下さいましたとお話いたしますわ。レオナルドが誠実な方ならヴィンツ商会の品物も安心して購入できますわねと方々のパーティーでもお話いたします。何より父にヴィンツ男爵に目をかけて頂くよう取り計らいましてよ?」
あえてわざとらしいほどの無邪気さを装えば、レオナルドの顔が怒りの為か真っ赤に染まって行くのがよく見えた。
「……るな」
「何か仰いまして? ああ、口約束では不安なのでしたら証書をしたためて、ヴィンツ男爵にお送りいたしますわ。きっと孝行ものの息子を持てた幸せを感じてくださることでしょうね?」
「ふざけるなっ!!! 腐っても伯爵家の令嬢だと思って親切に忠告してやっていれば調子にのって、……言うに事欠いて私の髪を剃れだと??! 人を弄るのもいい加減にしろ!! そのような屈辱、受け入れられるものか!!!」
数々の令嬢を虜にしてきたであろう美貌を歪めて激昂するレオナルドに、わたくしは笑顔を消し、扇子を閉じてまっすぐに彼を見つめた。そうして彼に投げつけられた言葉を、今度はこちらから投げ返す。
「あら、髪など、伸ばせばすぐに元通り、切った痕跡が残るわけではないのですから、守るべきか弱き従業員の為、つまらぬ意地は張らない方がレオナルドの為ではありませんか? 髪は切っても痛みも無く血も出ないのですし、」
「なっ………!」
レオナルドが絶句する。
「貴方の仰る通り、わたくしの怪我と同じですわ。どんな屈辱を味わっても、傷跡が残らなければ心を痛める必要もないのでしょう? それどころか貴方の尊い犠牲にご家族や従業員の方々は感激し、その行いの美しさを崇め奉ってくださいますわ」
青褪めた顔でブルブルと震えているレオナルドはようやく自分の失言に気づいたらしいが、もう遅い。一度受けた屈辱が簡単には消えないように、広まってしまった醜聞を取り消すことができないように、口に出してしまった言葉をなかったことにはできない。そして一度宣誓した以上、その責任は取らなくてはいけないのだ。
「じょ……冗談じゃない!! こんな戯言に付き合っていられるか!! 失礼する!!!」
憤慨したというように怒鳴り散らしてレオナルドは走り去ってしまった。その背中を見送ってから、傍らのラファエルを見ると、心得たというように頷かれた。
「ヴィンツ男爵へ手紙を代筆しますね。内容は先刻のあのバカ息子……じゃなかったヴィンツ家ご令息の宣言とお嬢様の慈悲深い提案をしたためて。でもヴィンツ男爵が受け入れますかね? 息子可愛さに庇い立てするかも……」
「どうかしらね? 彼が社交界で飛び回ってた頃は宣伝にもなるからと放蕩を許していたようだけれど、男爵の希望はどこか上位の貴族令嬢へ婿入りさせて、王宮への人脈を広げることだった筈ですもの。それが平民の娘に岡惚れした挙句、主だった令嬢やコネになる貴婦人を片っ端から袖にしたせいで、社交界でのヴィンツ男爵家への風当たりが強くなってしまって、それ以降は親子仲に亀裂が生じていると聞いているわ」
商会の宣伝の役には立たなくなった息子の自尊心を守ることを取るか、王宮へも顔の効くロートレック伯爵との繋がりを取るか……。男爵は商売については厳しく、また、優れた判断力で、一代でヴィンツ商会を王都でも一番と称されるほどに大きくしてきたと聞いている。
野心家の彼の事だから、今回もきっと判断を誤らないだろう。
更に聞いたところによると、ヴィンツ男爵はレオナルドが平民の娘如きに夢中になり、高額な贈り物を繰り返すことに業を煮やしているらしい。
「……ねえ、ラフィー。放蕩息子の金遣いの荒さを矯正しようとしたら普通の親はどうするかしら?」
「そりゃぁ、財布を取り上げて、金に換えられるような宝飾品も没収しますよ」
「そう……ねえ、ラファエル。ヴィンツ男爵への手紙に書き添えて欲しい事があるの」
そう言ってわたくしは少し屈んで、小柄なラファエルの耳元にある事を囁きかけた。
しばらくたって、レオナルド=ディール・ヴィンツは学園から姿を消した。断罪事件よりも少し前から実家からの高額な援助を差し止められていた彼は、クローディアへの贈り物を買うためにヴィンツ商会の従業員の女を誑かして、商会の金を横領していたのだ。
調べによって真実を知ったヴィンツ男爵は即座に彼の身柄を押さえ、実家へと連れ戻した。表向きは自主退学と、本人に重篤な病が発覚した為、療養目的で遠い田舎の親類に預けられることになったと聞かされた。
その数日後、ヴィンツ男爵からわたくし宛に小包が届いた。そのまた数日後、ロートレック伯爵夫人主催の茶会が催され、ヴィンツ男爵夫人が主賓として招かれたそうである。母からの手紙には、ヴィンツ商会の新作のお菓子は大変おいしく、友達にも勧めている旨が記されていた。
王宮の廊下を歩いていると、前方からミカエル殿下が歩いていらっしゃるのが見えた。そっと道を譲りつつ、淑女の礼を取ると、何を思ったのか殿下は私の前で立ち止まられた。いつもなら不機嫌そうに眉をひそめて無言で通り過ぎるのに。
「……レオナルドは愚かな真似をしたと思う」
「……左様でございますわね」
突然の話題に何と答えるべきか分からず、取りあえず同意を示す。表向きは病気療養と言われていても、流石にわたくしの父や国王陛下には事の経緯が正しく報告されている。ヴィンツ男爵は商会を守るため、実の息子を自ら裁いたことで、情に流されることなく状況を判断する人物であるとして、父が良いように取り計らってくれたらしい。監督不行き届きについては、今回のところは不問とされた。
レオナルドは男爵家の領地の屋敷で生涯監視が付いて幽閉される。身一つで放り出して余計な事をしでかされるよりは今度こそ親元で厳しく管理するという姿勢の表明でもある。まあ、当の本人にしてみれば、暫くは外出どころか知り合いの誰にも会いたくはないだろうが……。
「しかし、あいつは共に学園で学んだ大事な友だ。それで、学園であいつが俺やクローディアに贈ってきたものをヴィンツ商会に返却し、損失の補てんができればと思ったんだが……」
「クローディアが返したくないとでも言いましたか?」
悪事に手を染めた友人に対して随分とお優しい事だ。元々ミカエル殿下は学園で出会ったレオナルドを、身分にこだわりなく付き合える友人として気に入っていた。学内で殿下の相談に忌憚なく答え、時には市井を知るものとしてお忍びでの街歩きなどの際には案内役も務めたレオナルドは、恋敵ではあっても殿下にとっては大事な友人だったようだ。
とはいえ、レオナルドの方ではどう思っていたかは甚だ疑問だが。レオナルドが高価な贈り物でクローディアの気を引こうとして手を出してはいけない領域に手を出したのは、彼がミカエル殿下や他のクローディア信者に比べても家格に劣り、また嫡男でもないことで、不利であると考えていたからこそだろう。有り余る財、実際は不正に手に入れた財だが、それを彼女に貢ぐことで他の男子を出し抜くつもりだったのではないだろうか。
クローディアに貢がれた贈り物の数々は彼女の身分では一生目にすることがないであろう高価な宝石や装飾品、お菓子や花。彼女は価値が分からない風を装い無邪気に喜んで見せていたが、それがとてつもなく高価なものだということぐらいは気づいていただろう。殿下の提案とはいえ返すのを渋ったのではないか。そう思って言った言葉に、殿下は不愉快そうに眉をひそめてわたくしを睨み付けてきた。
「お前と一緒にするな。レオナルドが捕まって、彼女は気絶しそうなほど心を痛めていたんだぞ!」
「まぁ……」
思わずわたくしの口から感嘆の声が漏れた。
では贈り物の数々を返したのだろうか。食べ物や花は無理としても、宝飾品を返すことで自分の印象を上げる方を選んだのか、まさか本気でレオナルドに同情したわけではあるまい……。
「ただ…彼女は街で会った貧しいもの達に施しをするために、レオナルドに悪いとは思いつつも贈り物の大部分を換金して貧民や孤児への寄付に使ってしまったんだ。もうほとんど残っていないらしい……」
「…………まぁ」
わたくしの口から先ほどとほぼ同じ言葉が零れたが、自分でもわかる程、トーンダウンしていた。殿下の話によると、クローディアは涙ながらに殿下へとレオナルド様から頂いたものは一生かけてでも働いてお返ししますから、殿下からレオナルドのお父様に彼をあまり怒らないでほしいと伝えてください、と訴えてきたらしい。
『レオナルド様は私たちの友情と絆を深めたいと思い詰めすぎてしまったんです。真面目な方ですもん。きっと今頃心から反省なさっていると思うんです。私、殿下だけが頼りなんです!』
と言っていたそうだ。へー。
思わず白けた気持ちが顔に出そうになって気力で引き締める。この場にラフィーがいたら盛大にツッコミを入れてくれている事だろう。
「クローディアは学園をやめて働きに出るとまで言うので、そこまでする必要は無いと説得はしたが、繊細な彼女の事だ、こたびの件、ずっと気に病むことだろう」
「……そうですわねぇ……」
引き留められるのを承知のポーズだとは思ったが、ミカエル殿下は素直に信じていらっしゃるようだ。いっそ本当に学園を出て行ってくれたら良かったのに。そう思う気持ちを押し隠しつつ適当に相槌を打っていたら、ミカエル殿下はとんでもない事を言いだした。
「彼女がレオナルドから受け取った贈り物の分は俺の私財から出せないかと父上に相談したが、すげなく却下された」
失礼を承知でわたくしは盛大に溜息をついて見せた。殿下は一瞬眉をひそめたが何も言わずわたくしが口を開くのを待っているようだった。
「……当たり前でしょう。そのような事に国の財産を使うなどあってはならないことですわ」
「何も国庫から支出したいと言ったわけではない。俺の私物をいくつか売り払えば……」
「いけません。殿下の私物も、あなた様が普段から身に着けているお召し物も、装飾品も、口にされる食事も、すべては貴方の私物であり、国家の財の一部でもあります。王族がたかだか学友の一人、それも身分が低く、罪を犯したような輩の為に個人的な援助を行うなど、許されることではありません」
わたくしの言葉に殿下は苦虫を噛み潰したような顔になる。おそらく国王陛下にも同じことを言い渡されたのだろう。ご自分でも、その提案は無茶な我がままだと自覚はあるらしい。それ以上は反論するでもなく不機嫌に黙り込んだ。
「それと、ヴィンツ商会にレオナルドの使い込み金の補てんをしてあげたところで、彼の罪には酌量の余地はでませんわよ」
「しかし、レオナルドは……」
「どんな理由があろうと、それが愛の為や友情の為であろうと、彼がやったことは私欲のために自分のものではない財に手を出す行為であり、やってる事はこそ泥と同等です。いえ、生活苦から生きるためにしかた無く盗むものに比べれば同情する価値など欠片もない自分本位の愚行に過ぎません。あのようなものは暫くはきっちりと頭を冷やして己の罪を思い知った方がよろしいのですわ」
ふと、ヴィンツ男爵が送ってきた包みに同梱されていた絵姿を思い出す。魔法技術の発展により、風景や人物の姿を精細かつありのまま写し出すことに成功したという最新式の絵姿には、見る影もなくなった元同級生の姿が写されていた。
「……ちょうど、頭も涼しくなったことでしょうし……ね」
思わず零れた笑みにミカエル殿下がきょとんとした顔をされたのが見えた。
「ミカエル殿下、お声かけ頂いたのに恐縮ではございますが、わたくし王太后様にお呼び頂いておりますの。…御前を失礼させていただきます」
これ以上の会話は時間の無駄だ。そう判断し、再度殿下に向かって淑女の礼をし、その場を立ち去ろうとした。けれど腕を掴まれ、引き留められる。
「……お前は」
「殿下? お放し下さいませ」
「お前はいつも正論ぶった理屈や身分だから仕方ないとか、貴族とはそういうものだとばかり言うが、お前には情と言うものはないのか?! 友を心配して何が悪い、人を好きになることがそんなに許されないことか?!」
「……悪いとまでは申しません。けれど、何事にも弁えるべき分がございます。レオナルドは愛に溺れ罪を犯しました。……殿下は、そのようなことになられぬようもう一度自身のお立場を顧みられた方がよろしいかと存じます」
掴まれた腕が痛い。それでも振りほどくような真似はしない。咎めもしない。彼が王子で、わたくしは一介の貴族の娘に過ぎないからだ。だから、殿下が婚約者のある身で平民の娘に心を寄せていても、責められるのはクローディアだけだし、殿下がクローディアにのめり込めばのめり込むほど、彼女は周囲から責められるだろう。だから殿下は誰の目から見てもクローディアを溺愛しているにもかかわらず、直接的な告白や求愛などはしていないらしい。クローディアへの誠意の為、求愛よりも前にけじめとしてわたくしとの婚約を解消したがっているのだ。
「……恋も知らぬお前に、俺の気持ちがわかってたまるか……!」
殿下は突き放すようにわたくしを離すと、そのままふらりと立ち去ってしまわれた。踵を返す瞬間、ひどく苦しげな表情をされていたのが目に焼き付いた。掴まれていた腕をそっとさする。じんじんと痺れるように痛むそこは、きっと痣になっているだろう。
そう、痛いのは腕。けしてこの疼きは胸の奥から来るものではない……。
「恋も知らぬ……ね。…………そのようなもの、とうの昔に捨てましたもの」
無人の廊下に零れた呟きは、深い被毛の絨毯へと吸い込まれた。