第十四話 忍び寄る影のエトセトラ
夜になって、アンリお兄様が外宮宿舎のわたくしの部屋を訪ねていらっしゃった。手には甘い匂いのするバスケットを持って。
夜の食事も取らずにいたわたくしを気遣って持ってきてくださったようだ。
「アンリお兄様……わざわざすみません」
「ぼくマリアちゃんとお夜食したくて遊びに来ただけだよ」
そう仰って片目をつぶるアンリお兄様は昔悪戯を仕掛けては叱られていた時のようで、少し懐かしい気持ちになった。
「そういえば昔、お兄様がお父様の大事な絵画を壊してしまわれて、罰として夕食をぬきにされた時、こっそりお夜食を持って言って差し上げましたわね」
「そうそう、オージェは一緒になってしょうこいんめつしてたのに、あいつはよその子で、公爵家の子だからってぼくだけ怒られたんだよ。ひどいよね」
オーギュストはオーギュストでノワール公爵に怒られて、暫くわが家へ遊びに来られなくなっていたように思うのだけれど、アンリお兄様としては一緒に悪戯をした者は一緒に怒られるべきだという理屈であるらしい。
「アンリお兄様、今日の事……」
食堂でのクローディアとミカエル殿下の一件は既に外宮中に伝わっているだろう。ただ、あの中庭でのことはおそらく当事者以外は誰も知らない。
お父様からは食堂での件については『暫し待て』との返答だけで、具体的な見通しは立っていない。
「うん……あのバカ王子がふられたのはいい気味だとしか思わないけど、そのせいでマリアちゃんが悪く言われたりするのはいやだから、ぼくからも父上に話してみたんだ。マリアちゃんとあの王子の婚約はなしにしたらって。でも今すぐには無理だって言われたんだよ」
「お父様は王家との結びつきを欲しがっていらっしゃったから……」
「それもあるんだけど、今、街道のあちこちで魔獣が出現していて、防備の増強のためにも王家との協力体制を手ばなすわけにいかないんだって」
アンリお兄様の言葉に摘まんでいたビスケットを取り落としてしまった。
「街道に……魔獣が?」
魔獣というのはその名の通り魔力を持った獣で、人や家畜を襲うこともある凶暴な生き物だ。
過去には偶発的に群れで発生し、国軍が駆除に乗り出したこともあったが、ここ百年ほどは人里に現れたという話は無かった筈だ。
「うん、ひとつひとつは個体数も少ないし、力もそんなには強くないんだけど、あちこちに出るから国軍を送るにもいくつにも分けないといけないし、街道の守りのことだから父上のお仕事でしょ? それで今は対応に追われてて、それどころじゃないみたい」
「それならば仕方のないことですわ。娘の、それも成婚自体はまだ先の婚約問題よりも、民の安全は優先されるべき問題ですもの」
「そうなんだけどさぁ……」
頬を膨らませてビスケットを頬ばるアンリお兄様は、なんだかわたくし以上にわたくしの婚約問題を心配してくださっているようで、少しだけ気持ちが軽くなった。
「わたくしでしたら多少何と言われても気にしませんわ。もともと良くも悪くも噂されてきたのですもの。今さら悪評が一つ増えたところで百対百一の差です。それよりも、魔獣の件ですけれど、具体的にどこでどのような被害が出ていますの?」
アンリお兄様の話によれば、街道と言ってもまだ大都市からは離れた地域や領境の森近くが多いらしく、人的被害は出てはいないが、近隣の家畜が数頭、猟師小屋などの家屋が何軒か破壊されたらしい。
その数も少しずつではあるが増えつつあるということで、駆逐と原因究明の為、近々国軍と共に魔法省からも何人かの魔導師が各地に派遣されることになっているそうだ。
「お兄様も行かれますの?」
「今のところはメンバーには選ばれてないけど、下の子たちが手に負えなかったら行くことになるかも。……なんか嫌な感じなんだよね。最近神殿からの使者もやたらと王宮に来てるみたいだし」
「神殿が?」
この国で広く信仰されている時と光の女神クロノアを祀った神殿は王都を中心に国中に点在している。中でも王都にある中央神殿は国の創成期より続く由緒ある神殿として、この国の信仰を支えてきた。
神話時代の魔道帝国最後の皇帝に諫言し、殉教したとされる聖女の遺物を奉じ、国の危機に際しては幾度となく神託によって時の王に助言をすることもあったという。
けれどここ数十年国は平和で、神殿にも託宣は降りてはおらず、少しずつその意義は衰退しつつあったのだが……。
「もともとあそこは魔道帝国を神をも恐れぬ邪教の帝国だったとして、その頂に立っていた皇帝と配下の魔導師を封じた女神を、今の国家の礎を築いた創生の祖として崇めているのでしたわね」
「ぼくあそこの連中嫌いなんだよね~。ぼくのこといっつも気持ちわるい目つきで見てくるしさ~」
アンリお兄様は先祖返りの魔導師と呼ばれてはいるが、太古の魔導師そのものではないし、当然、邪教の徒でもない。
けれど、その類稀なる魔力と老いを知らぬ姿に奇異なものを見る目を向ける輩というのは後を絶たない。
「……お兄様、どうかお気を付けになってくださいね」
アンリお兄様はその昔神殿の中でも過激な教派のものに攫われかけたことがある。魔道帝国の復活を阻止するための生贄として。
あの時は国軍が素早く動いてくれたおかげで事なきを得たし、過激教派の集団は一斉検挙され、神殿の腐敗を洗い出すきっかけにもなった。
捕らわれた神官の1人はアンリお兄様やお兄様を産んだお母様を激しく罵っていたと後々に人伝に聞かされた。
悪逆の魔道皇帝の血を引く生まれ変わり、国を亡ぼす毒婦などと呼ばれたらしい。
もちろんロートレック家は魔道帝国皇家の血筋ではないし、帝国時代の魔導師は数が多く、国内の貴族のほとんどは少なからずかの国の国民だった者の血を引いているので、アンリお兄様だけが責められる謂れなどないのだけれど。
宗教を背景にした思い込みは時として人としての道理をあっさりと踏みにじる程の悪意へと育つ。
「だいじょうぶだよ。ぼく強いもん」
「そうですわね。強くて素敵な自慢のお兄様ですわ」
事件以来、お兄様は生まれ持った魔力を最大限鍛えて自在に使いこなせるようになり、国内はおろか近隣諸国にまで名を馳せる大魔導師として魔法省のトップ幹部に昇り詰めると、自分と同じような特性を持つ子供の調査と保護、育成を国家事業として執り行うようになった。
国立魔法学園にも、特殊学科として、先祖返りの魔導師専門の学科がある。
彼等の存在の周知と受け入れの体制づくりを自分の力で成し遂げたお兄様を尊敬しないわけがない。
「マリアちゃん」
「なんですの? お兄様」
唐突に手をぎゅっと握られて、澄んだ蒼眼が覗きこんでくる。
「何があっても、ぼくたちはマリアちゃんを守るからね」
「……え、ええ……ありがとうございます……?」
いきなりすぎて意味が分からなかったけれど、真摯な好意は伝わってきたので、お礼を言ってサラサラの金髪を撫でる。ぎゅっとしがみついてくる様は幼子そのもので、それでも兄としてわたくしを案じてくれているのだろう。
感謝の気持ちを込めて、わたくしはもう一度、お兄様をぎゅっと抱き返した。
翌朝になってもラファエルは帰ってきていなかった。
いくら諜報活動に手間を取っているとしても遅すぎる。こんな事ならば行き先をちゃんと聞いておくのだった。
お父様は今はお忙しいようだから使用人の行方を探して欲しいなどと頼める状況ではないだろうし、お兄様も同様だ。
そもそもあの子がどこへ行ったのかわからないままでは探しようもない。
あの子の様子がおかしくなったのは、史務省の書庫で陛下の私的なお手紙を見てしまったあとからだ。
「あの手紙が何か……」
もしくは手紙の挟まっていた本になにかどうしても気になることがあったのだろう。
わたくしにそれを言わずに一人で調べに行ったのは、確証もなくわたくしには話せないと判断したからだ。
そう思ったわたくしは講義の始まる前の早朝から史務省へと足を運んだ。護衛騎士はかさばるし、目立つので宿舎に残ってもらうことにした。
この時間ならばあの腹立たしい門番の当番ではないし、大公にもクローディアにも会わずに調べ物ができるだろう。
史務省の司書官だけが問題だけれど、まあ何とかなる筈だ。
そう思って内宮に入った時、前方から顔見知りの侍官が走ってくるのが見えた。
「あ! ロートレック伯爵令嬢!! ちょうどいいところに!!」
青褪めたその侍官はわたくしの記憶が確かならミカエル殿下の傍付きのものではなかっただろうか。
そういえば昨日はあの後殿下はどうなさったのだろう。自分の事で手いっぱいで忘れていたけれど、婚約者としてはこの機会に頭を冷やさせて、王子としての自覚を促すべきだったのだが、うっかり放置してしまっていた。
「ハンス、そのように慌ててどうなさったの?」
いつものように扇をさりげなく広げて問いかける。ハンスは肩で息をしつつも背筋を伸ばすと声を潜めた。
「それが……ミカエル殿下が昨晩ご自身の宮に突然戻られたかと思うと侍女や侍官を追い出し、引き籠ってしまわれて……今朝になっても出て来られないのです。護衛の者は部屋の外から窺っているのですが、妙に静かで……暴れられたりなさってはおられないようではあるのですが……」
聞いていて頭痛がしてきた。確かにあのような騒ぎになってしまっては、目撃した学生も多い外宮の宿舎には戻りにくいだろうとは思うけれど、自宮に、それも使用人たちを追い出してまで引き籠るなんて……。
思春期の子供でもそのような我儘はなさらないだろうに……。
侍官が困り果てているのも当然だ。命令に背いて中に入ればどのようなお咎めがあるかもわからないけれど、放っておいて王子が自傷にでも走ったら、それは傍付きや護衛の者の責任を問われるのだ。
思わず深々と溜息が零れた。
「……わかりました。わたくしが伺って様子をお尋ねいたしますわ。それと……万が一のためにエドアルドか、誰か他の方も呼んできてくださらない?」
万が一の時はわたくし一人では殿下をお運びすることもできない。
恐縮するハンスにそう命じると、ミカエル殿下の宮へと足を向けた。
ミカエル殿下は第二王子として王宮内宮の奥の宮に夏宮と呼ばれる宮殿を賜っている。学園に入学してからは寮に入ってはいるが、生まれ育ったのはこの宮で、わたくしも幼いころから出入りさせていただいている。
薔薇の庭園が見事な、華やかで豪奢な造りの宮殿だ。
入り口付近で身を縮こまらせている侍官や侍女に労いの言葉をかけつつ、中へと入る。
殿下が学園の寮にいる間も、手入れは行き届いており、塵ひとつ落ちていない廊下を進み、殿下の居場所を探す。
途中護衛官らしき騎士が奥のサロンルームにいると教えてくれた。
「ですが、そのわたくし共も部屋に立ち入ることを拒絶されておりまして……別の方が来るのをお待ちいただいた方が……」
気づかわしげにそう提言されたが、待っている間に自棄でも起こされてはいけない。部屋の中に入っても咎めを受ける心配のない者がひとまず殿下のもとに行くべきだろう。
「気遣いは無用ですわ。わたくしは殿下の婚約者として、彼の方をお諌めする義務がございますもの。もしもの場合はお声をおかけしますわ」
「はい。申し訳ありませんがよろしくお願いします」
階段を上がり、問題の部屋の前に立つ。
中からは物音はしない。
扉をノックする。返事は無い。
一瞬だけ躊躇する。もし殿下が中で自傷に及んでいたとしたら、平民に弄ばれた末の自害など、王家の不名誉極まりないだろうから、王家としては隠蔽したがるだろう。その場合、呼んでも大丈夫なご典医は限られてくる。
そんなことを考えていたら、部屋の中からカタリと何かが倒れる音がした。
慌ててドアを開けて中へと飛び込んだ。
王族のサロンルームに相応しい豪奢な調度に囲まれた室内には大理石のローテーブルと、深い紅色に緻密な刺しゅうを施したソファがあり、ミカエル殿下はその一つにぐったりと横たわっていた。
その床にはいくつも散乱した瓶とグラス。先ほどの音はこれのどれかが倒れた音だったようだ。
恐る恐る歩み寄って様子を窺うと、その胸がゆっくりと上下して息があることが分かった。
最悪の事態ではなかったようで、ホッと息をつくと、ふわりと鼻に酒精が香った。
扇で口元を覆いつつ眉間にしわが寄るのを隠せない。
「……王子ともあろう方が自棄酒だなんて……」
デビュタントを済ませた身なので、夜会で多少のアルコールを嗜むこともある。殿方の場合は特に周囲に勧められることもあるだろう。けれど、貴族の子女たる者はそういった席で己の酒量を把握し、自身を律することができるのが当たり前とされる。
酒に負けて酔いつぶれるなどというみっともない姿は決して人に見せてはならないというのが紳士のマナーだ。
いや、確かに人を追い出して一人で飲み潰れているのだから、問題ないと言えば問題ないのだが、やっぱり大問題だろう。
こんなことが外に知れ渡れば、ミカエル殿下の評判は益々落ちてしまわれるし、わたくしやお父様が巻き添えを喰らうのも目に見えている。
人が来る前に空気を入れ替えてこの状態を片付けてしまわなくては―。
そう考えて、殿下の傍に転がる瓶を拾おうと手を伸ばした時、突然伸びてきた手に腕を掴まれて、ソファの上へと引き倒された。
「っ……!?? 殿下?! 起きられましたの?」
「お前は……マリア……か……?」
背中には天鵞絨張りのソファの座面、視界には美しくもどこか虚ろな顔の殿下と、細密画の描かれた天井が映っている。
どうやら殿下は近付いてきたわたくしの気配に曲者と思って取り押さえんとしたのだろう。
その紅玉を思わせる瞳が驚きに丸くなっている。
「はい、わたくしです。ご理解いただけたのでしたらお放しくださいませ」
そう言って、殿下の下敷き状態から抜け出そうと身を捩った時、思いもかけなかったことが起きた。
「マリア……」
殿下の手が、わたくしの肩と腕をソファに縫い止めるかのように抑え込んでこられたのだ。
見上げれば酔っているのか、濁った瞳がこちらを見下ろしている。
「お放しください。殿下」
「結局……お前なんだな…………」
呻くように絞り出された囁きの意味を問うよりも早く、アルコールの香りが差し迫ってきて、ようやく自分の置かれた状況に気が付いた。
身を捩って殿下の顔を引き剥がすように押しのける。
「お止めくださいませ!! 人を呼びますよ!!」
バタバタと暴れてみるが、もとより長身で逞しい殿下と、小柄でひ弱なわたくしでは力の差は歴然で、押し返そうと突っぱねた身体はピクリともしない。
「人が来たとて何だというんだ……。お前は俺の婚約者で、俺自身ですらそれを覆せないというのに……。どうせいずれ遅かれ早かれこうなるんだろう……っ!!」
「やめっ……ぃやっ!!」
「失礼しま……っ!??」
揉みあう声が階下に届いたのか、先ほどの護衛官がドアを開けたが、室内の光景に呆然と硬直している。
ミカエル殿下はそんな護衛を睨み付けると、掠れ焼け付いた声で低く退室を命じた。
「……出ていけ、こいつは俺の婚約者だ。何も問題は無い。……それとも…見ていくか?」
歪んだ笑みで吐かれた問いかけに護衛官は首を千切れんばかりに横に振ると、部屋を出ていく。ドアを閉める直前、申し訳なさそうにこちらを見たが、その目もすぐに伏せられた。
ここが何処で、目の前の男が誰で、自分が何者かということを突きつけられた気がした。
脳裏に浮かぶ、たった一人の顔。けれど助けを求めようにも、呼べない。呼んだとしても、あの人がここに来てくれることはあり得ない。そして、来てくれたとしても、わたくしを助ければあの人が罰せられるという結末が待っている。八方ふさがりとはこのことだ。
わたくしが、ミカエル殿下の婚約者だから……。
「ぃや……いやぁっ!」
恐怖と絶望に、思わず声が震える。
家のために嫁ぐ覚悟をしていたつもりだった。出来ているつもりだった。お兄様と呼び慕っていた従者を助けることさえできたら、殿下の婚約者として、王子妃として相応しく、王家と国家に尽くすつもりだった。
それなのに、嫁ぐべき相手に組み伏せられて、身体をまさぐられることにどうしようもない嫌悪感がこみ上げて、不敬を承知で抵抗せずにはいられない。
「マリア……」
首筋にぬるりとした感触が触れ、肩のところで絹が裂ける音がした。
「やだっ……誰かっ…………たすっ……!」
誰も来ないと分かりつつもそう叫ばずにはいられなかった。眦が熱く、視界が滲んだ。
溺れ落ちた涙が絨毯に沁みこむのが見えたその時、閉ざされてしまったはずのドアが勢いよく開け放たれた。
「マリー!!」
そう叫ぶ声が聞こえた瞬間、何故か大量の水がわたくしと殿下へと降り注いでいた。
「なっ?!! 何だいきなりっ!! 誰が……」
文字通り冷水を浴びせられた殿下が身を起こしたところ、ひょろりとして見える腕がその首根っこを子猫でも捕まえるかのように掴んで、ソファから引きずり下ろした。
「おイタはそこまでですよ、殿下」
そう言ってにっこりと細い目を糸のようにして微笑んだのは、肩で息をしているオーギュスト=ル・ノワールだった。
「オーギュスト?! お前がなぜここに!? いや、それよりもこの宮には誰も出入りするなと……」
「そうですね~。殿下の命令とあらば侍従や護衛官、侍女や使用人は従わざるを得ませんからねぇ~。困り果てたハンス君がエドアルド君を探して外宮へ向かう所にたまたま遭遇いたしまして、とるものとりあえす駆けつけた次第ですよ。いやぁ、間に合って良かったですねぇ~」
「いやしかし……」
「どうなさいました? 先ほどの水の量ではまだ酔いが醒めておられないのでしたら追加でご用意いたしますけど?」
有無を言わせないオーギュストの笑顔に気圧されたのか、水のおかげで酔いが醒めたのか、ミカエル殿下は正気を取り戻された様子で、床に座り込んでいる。
ふとその眼がこちらへと向いて、気まずげに逸らされた。
びしょ濡れのまま、ソファに身を起こすと、肩にふわりと上等のジュストコールが羽織らされた。顔を上げるとオーギュストが困ったような笑顔で、ハンカチを差し出してくる。
「遅くなってすみません。……侍女が外に控えていますので、お召し替えをなさってください」
差し出された手を取ろうとして、自分の手がぶるぶると震えていることに気付く。
深呼吸をして、震えを止める。
目の前の手は、わたくしの敵ではない。わたくしに酷い事もしない。そう言い聞かせてその手に手を重ねれば、そっと握り返された。
途切れ途切れの声で、何とかお礼の言葉を絞り出す。
「……あの、ありがとう……」
「いえいえ、あなたの身に何かあったら僕たち末代まで呪われそうですからね」
いつものような軽口に少しだけホッとする。
導かれて部屋の外に出ると、オーギュスト付きの侍女が待機していた。オーギュストが小声で何事か指示をする。
侍女は恭しく一礼すると、わたくしをサロンルームから少し離れた客用の部屋に案内した。
「今お着替えをお持ちいたします。……水を被られたのでよろしければお湯浴みのご用意も致しますが」
「……いえ、着替えだけで……そうね、やっぱりお願いできるかしら?」
危ないところだったとはいえ、わたくしは汚されてなどいない。そう思って湯浴みは断ろうとしたが、首筋に這った殿下の唇の感触が思い出されて、途端に全身を掻き毟りたい衝動に苛まれた。
湯浴みの支度が整うまでの間、オーギュストに渡されたハンカチで何度も首筋を拭う。
おかげで湯に浸かるころには首筋が真っ赤になっていて、メイドたちに心配されてしまった。
薔薇の香油を惜しげもなく使った湯に浸かり、高価な石鹸で洗われ、ようやく恐怖に凍えていた心が温まる。
湯上りに柔らかなタオルで全身を拭われ、どこから持って来たのか、真新しい肌着とドレスを着つけられた。
ラベンダー色の軽やかな絹のドレスは繊細な襞やレースで飾られ、ボリュームがあるのに驚くほど軽い。刺繍や重ね生地による装飾を控えめにして、織糸の染色に変化を持たせることで織地が虹のような色味の変化を見せている。デイドレスらしい慎みあるデザインで、首周りは窮屈すぎない程度に詰まっており、袖は肩周りに軽く膨らみを持たせて、二の腕から肘にかけてはぴったりと腕に沿って、肘から下はふわりと広がっている。
襟周りが覆われていることに何とはなしに安心しながら丁寧に水気を取って貰った髪をサイドだけ編み上げて残りは背中に垂らしてもらう。鏡を見ると、編み上げた髪はドレスとお揃いのリボンで飾られていた。
「ありがとう。綺麗にできているわ」
「いえ、よくお似合いです」
そう言って微笑む年かさのメイドに案内されて、先ほどのサロンルームに戻ると、ミカエル殿下が床に正座させられた状態でオーギュストからお説教を受けていた。
「……そもそも、成婚前であろうが、成婚後であろうが、酔いに任せて女性に乱暴を働こうなどと、紳士たるもののやることではありません。だいたい、何ですかこの散乱した瓶は。これぐらいの量で物事の善悪も判断できなくなる程酔うなど弱すぎます。自棄酒だなどと十年早い。貴族院のタヌキじじいどもと渡り合うならこの倍は飲んでも平静を保てるようになりなさい」
なんだか叱るべきポイントがずれている気はする。
それにわたくしが退室してから戻るまでかなり時間が経っているはずだが、まさかその間ずっとお説教をしていたのだろうか?
「オーギュスト……あの……」
恐る恐る声をかけると、振り返ったオーギュストはわたくしの顔色を見て、ホッとしたように息を吐いた。次いで、わたくしのドレスを頭の先からつま先まで確認し、目元を緩める。
「戻られましたか。よくお似合いですよ」
「ええ、ありがとう……。ところでその……」
「殿下、まずは言うべきことがあるでしょう?」
オーギュストに促されて、殿下は床に座ったまま、こちらへと向き直った。
「マリア……いや、マリアベル=フォン・ロートレック、おまえに酷い事をし、暴言を吐き、無体を強いようとして、本当にすまなかった!」
そう言って床に額を擦りつけんばかりに頭を下げたのだ。
本来、王族が下の身分の者に多少の無体を強いたところで謝罪などする必要もなければ、罰せられることもない。
ましてや先刻殿下自身が言っていた通り、殿下とわたくしは婚約者で、たとえ成婚前にそういったことになったとしても、多少年配の貴族に眉を顰められるくらいで、問題になることはまずないだろう。
わたくし自身、殿下が謝ってくるなんて露ほども思ってはいなかったし、もし問題になったとしても、責められるのはわたくしの方なのだと思っていた。
迂闊にも婚約者の男性の部屋に供も連れずに一人で近付くなど、淑女としての慎みに欠けると言われても仕方がない。
むしろ大人しく身を任せずに抵抗などして殿下に怪我でもさせたらと斜め上の批判さえ浴びかねない。
状況に関わらず、性別や身分に依って非があるとされる方が決まる。それが今の貴族社会だ。
それなのに、その貴族社会の頂点にいる筈のミカエル殿下が、平身低頭の姿勢で身分が下の、女相手に謝罪しているのだ。
「許して欲しい……っ。いや、許せなくて当然であるし、お前は俺を許さなくていい。それだけのことを俺はした。生涯を以って償うと誓う!」
殿下が一言許せと命じれば、わたくしは立場上許さざるを得ないというのに、許さなくていいと仰る。
けれど、ただそれを素直に受け入れられない。いずれにせよ、婚約は殿下にもわたくしにも解消できないもので、いつかはわたくしは殿下に嫁がなくてはならないのだ。
夫に求められて許さない妻など、周囲の者がそれこそ許しはしないだろう。
「殿下……わたくしには……許すも許さないも…………」
「許さなくていい。周りにも文句は言わせない。俺はお前と結婚したとしても、お前に触れない。もちろん他の女に手を出してお前の誇りや立場を貶めることもしない。子供ができなかったとしても、俺に不具合があると噂を流せばお前が責められることはなく、不能な夫とならば、お前が望めば離縁もできるだろう。俺はお前を踏みにじろうとした。だからお前は俺を踏みつけにしていい。いや、そうして欲しい」
必死な様子で言い募ってくる殿下に何と答えてよいか分からず、困惑した気持ちでオーギュストに助けを求める。
立場上王子を許さないなどと言えるわけなどなく、けれど、心の底から許す気持ちには到底なれない。そんな気持ちを込めて見上げると、オーギュストは暫く考えた後、こう言った。
「ひとまずこの件については外に広まればアリアベル嬢の名誉にも関わりますから、内々に収めましょう。ですが、殿下の仰る通り、マリアベル嬢は殿下に怒る権利があります。殿下を許さず、気が済むまで罵り、殴りつけ、生涯二度と女性に触れないよう縛ることもできます。今後一生をかけて殿下はあなたに償うでしょう。ひとまずはその宣誓を書面にでもしてあなたが預かればいいのでは?」
「えっと……でも……」
「いざというときは私が証人になります。もちろんあなたに不名誉な評判が立つことの無いよう、全力で取り計らいましょう」
オーギュストの言うとおり、ここでどうこう言っても、始まらないのだ。
少なくとも、オーギュストはわたくしのために動いてくれているし、殿下はどうしようもない方だけれど、自らのお言葉を違えるような方ではない。
「……わかりました。オーギュストにお任せいたしますわ」
今はそれが精一杯だった。
殿下は未だに床に正座したまま、うなだれている。
なんだか叱られた犬に見えなくもない。尻尾や犬耳があったらしょんぼりと垂れている事だろう。
「殿下、わたくし、先刻、とても怖かったのです」
「ああ、すまない……」
「殿下との婚約を受け入れていたつもりで、何の覚悟もできてはいなかった。役割だからと、そう教えられたからと受け入れた気になって……。でも殿下に組み敷かれて、怖くて、嫌で……気持ちが悪くて……このような行いは到底受け入れることができないと感じました」
「気持ちが悪い……そうか……そうだな。当然だ」
「けれど、現状婚約問題はお父様や陛下にも今すぐどうこうできる問題ではありません。ですので、政情が落ち着くまではこの件については保留ということにしたいと思います。落ち着いたら、殿下も望まれていたように、婚約を白紙に戻せないか、お父様と国王陛下に……」
「ちょっとまて、政情がって……何かあったのか?」
驚いたように声を上げた殿下を見て、そういえば殿下はまだ魔獣出現の件を知らないのかもしれないと思い立った。昨日の様子ではそれどころではなかっただろうし、その後は今まで引き籠っていたわけだし……。
オーギュストに視線で問うと、頷いて現在国内で起こっていることがつらつらと説明された。
「……とまあそういうわけで、外宮での研修も早ければ今週で打ち切られると思います。地方から出て来てる貴族や平民の学生は家族が心配して故郷への一時帰郷を訴えてきていますからね。学園は一応は平常通り講義を行う予定ですが、魔獣が増加するようなら王都の結界強化の為、郊外にある学園施設は封鎖される可能性があります」
「それほど……昨晩アンリお兄様に聞いた時は被害は小さいと伺ったのですけれど、被害が拡大しているんですの?」
「その傾向にありますね。古代の魔道帝国の遺跡があると言われている北の樹海周辺が特に荒れているようです。王宮ではマーニュ将軍の中央師団が南方視察から戻り次第北へ派遣する案が出ています」
マーニュ将軍ならば安心だと思う一方で、彼ほどの人物を派兵せねばならない事態に、緊張感が増す。
「……こんなところで管を巻いている場合ではなかったのだな」
ミカエル殿下が低く呟いて、強い決意の表情で立ち上がろうと膝を立てる。
「父上のもとに行き、現状の確認と、俺にできること、すべきことの提言を……っと…っ」
長時間正座をしていた状態から急に立ち上がろうとしたのだから当然、足は痺れていたのだろう、よろけて倒れ込みそうになる殿下を咄嗟に受け止める。
非力なわたくしでは支えきれないかと思ったのだが、殿下自身が何とか踏みとどまったのと、まだ片膝をついていたので、危ういところで共倒れにならずに済んだ。
また、殿下が国を憂う顔をなさっていた所為か、手が触れたのに先刻のような嫌悪感は湧いてこなかった事にも少なからずホッとした。
「大丈夫ですか? 少し足を延ばされて、痺れが取れてからになさった方がよろしいかと存じますわ。陛下の前に出るにしてもまずはその崩れた身なりを整えなさいませんと……」
服は昨日の学園制服のままだし、お酒の匂いも取れてはいない。そのような状態で陛下に謁見を求めるなど許されるはずがない。
「ああ……そうだな……」
殿下は少し驚いたようにわたくしを見ていたが、そっと離れると、ソファへと腰を下ろし、ゆっくりと足を延ばし始めた。
その間もなにやらチラチラとこちらを窺ってくる。
「なんですの?」
「いや……何でもない……」
「何でもないという態度には見えませんわ。何か気にかかることがあるなら仰ってくださいませ」
わたくしに対して遠慮がちな殿下など、どちらかと言えば気味が悪いので、正直に話して欲しいと強く言えば、渋々という様子で口を開いた。
「その……お前は、伯爵家で大事に育てられたにしては痩せすぎなんじゃないかと……もしかして食が細い所為で成長に支障が出ているのではないかと……だな…」
しどろもどろに、目を逸らしながら仰るので、殿下が主にわたくしのどの部分について仰っているのかわかってしまった。
本日一番の深いため息が口から零れ落ちる。
「……オーギュスト」
「はい。おや殿下、私としたことが手が滑ってしまいました」
傍らに立つ男の名を呼べば、我が意を得たりとばかりに棒読みの言い訳を放つと、殿下の頭上に、先ほどよりも大量の水がどこからともなく降り注いだのだった。
確かに言いよどんでいたのを無理に言わせたのはわたくしだが、この件に関しては反省も後悔もしていない。
身支度を整えるという殿下を侍女や侍官たちに任せて、夏宮を後にする。
隣を歩くオーギュストをそっと見上げる。背も高く、足もその分長い筈なのに、わたくしの歩幅に合わせているのか、その歩みはゆったりとしている。
「先ほどは助かりましたわ。それにこのドレスも……」
「いえいえ、王宮では貴婦人同士の諍いでドレスを汚されるなどの事件も多いので、予備にと用意しておいたものが役に立ちました。未使用品ですし、マリアベル嬢によくお似合いですから、よろしかったらそのままお持ち帰りください」
オーギュストはそう言ってニコニコとしているが、普段王宮に出入りしている貴婦人たちは殆どの場合わたくしよりも背が高く、体型もふくよかな方が多いだろう。
「……このドレス、やけにサイズがちょうど良かったのですけれど……?」
「ええ、小さめのサイズでしたので今までご使用になる方がいらっしゃいませんで、お役に立てて良かったです」
きっぱりとそう言い切られてはそれ以上聞くのも野暮な気がして、問い詰めるのは止めにした。
けれど、こんどはオーギュストの方から話し始めてしまう。
「……本当はね、ある人にプレゼントしようと思って誂えさせていたんです」
「オーギュストが人に贈り物を……?」
何かの陰謀とか賄賂とかではなく?
思っていたことが顔に出てしまっていたらしく、オーギュストが目を細める。
「僕だって贈り物の一つや二つしますよ。……ただ、出来上がったところで贈る相手がいなくなってしまったんです」
「え……」
オーギュストの伏せられた瞳を縁取るまつ毛が長く、微かに震えるのが見えて、言葉を失う。
「それは……えっと……おかしなことを訊いてしまってごめんなさ――」
「――と、いうのはまぁ今考えた作り話なんですけどねぇ」
「は?」
淑女としてあるまじき声が出てしまった。
思わず半眼で睨み上げると、白皙の美貌がしてやったりとニンマリと笑いかけてきた。
「そのドレスは正真正銘、余りもので、王宮での事故対応のための予備で、サイズが合うご婦人がいなくて残っていただけの代物ですよ」
「……わたくしにも水属性の魔法が使えたら、今この場でオーギュストをずぶ濡れにしますのに……」
引っかけられた悔しさにヒールで足の一つも踏んでやろうかと思ったが、この男の場合喜びそうなのでやめておいた。
「わたくしここで失礼させていただきますわ。オーギュスト、あなたもお忙しいでしょうけれど精々お身体をご自愛なさい!」
自分で言っていても迫力に欠ける捨て台詞だとは思ったが、できる限り、ツンと顎を反らせて高飛車に言い放つ。
「まあそう言わずに、史務省までお送りいたしますよ」
「なぜわたくしがそこに向かっていると……? いえ、それよりも、前にあなたが渡してきたメモの文書、全く読み解けないのですけれど、いったい……」
「その件も含めてお話いたしますから。さ、お嬢様、お手をどうぞ」
差し出された手に渋々自分の手を重ねる。
こんなそつのないエスコートができるくせに、どうして普段はああも残念なのだろうか。
「……オーギュストって、損な性分ですわね」
「ええ、そうでしょう? ですので今後は是非労わってください」
「なぜかしら、本人にそう言われると、全く労わりの気持ちが湧いて来なくなるのだけれど」
「マリアベル嬢が自他ともに認められる捻くれ者だからでは?」
「扇で叩きますわよ」
そう口にしたところで、肝心の扇をミカエル殿下の所に忘れてきたことに気付いたが、取りに戻る気にはなれないので、そのまま史務省へと向かった。
けれどこの時わたくしは忘れていたのだ。
なんだかんだと時間を食ってしまった所為で、いつの間にかお昼近くになってしまっていたことに。
ベリーニ大公とクローディアの出仕時間に重なってしまった結果、史務省でゆっくり話すことは断念せざるを得ず、新たに話す場所を探すにはオーギュストの方が時間が無くなってしまった。
結局、オーギュストとは史務省の出口で別れた。
「近いうちに学園へあなたをお訪ねします。例の書についてはその時に」
別れ際にそう告げると、オーギュストは風のようにいなくなった。
わたくしも、溜息を一つ吐くと、外宮の講義へと向かったが、担当の教官が用ができたため急きょ自習になったと知らされ、仕方なく宿舎へと戻った。
今日は一度に色々な事が起こりすぎたと思う。ひとまずはゆっくりと休んで、今後の事を考えたかった。
けれど、部屋のドアを開けたわたくしの目に飛び込んできたのは腕から血を流し、部屋の中央で倒れているラファエルの姿だった。
「ラフィッ?!!」
「お嬢様……すみません……不覚にも後れを取りました……」
「いったい何があったの?!」
「ボク……史務省での国王陛下の手紙を見て、もしかしてって思って……こんなこと他の誰かを介して問い合わせるわけにもいかなくて……ロートレック領まで行ってきたんです……そしたら帰りに……魔獣の群れが……」
「何ですって?!」
よく見れば血が出ている腕は獣に噛み裂かれたような裂傷だったし、旅支度らしき服は泥にまみれている。
「すみませ……」
「いえ、よく無事に帰ってきてくれたわ。すぐに治療を……」
「ボクのことは後でいいんです……それよりも……お嬢様にお伝えしないと……兄さんの、ことで……」
「治療が終わってから聞きます! 今はわたくしの言うことを聞きなさい!」
叫ぶように命令すると、わたくしは急いで外に待機している護衛騎士に医師を呼びに走らせたのだった。
今さらですが、オーギュストの魔法は水属性ともう一つ、マリアベルは光と大地、ミカエル殿下は炎と風だったりします。
そのうちちゃんとした人物紹介つくらにゃ……。




