第十話 公爵令息と伯爵令嬢と、昔にまつわるエトセトラ
後輩が今期の棚卸を頑張って勤め上げてくれたので、彼女の誕生日ではないですが、更新することにしました。
嘘です。書きたかったから書いたらたまたま後輩が頑張ってくれていました。
今度なんか奢る。
王宮の廊下を歩いていると、前方からオーギュストが手を振っているのが見えた。
正直なところ、回れ右をして帰りたい気持ちになったが、踏みとどまってそのまま歩み寄ると、そっとスカートの裾を摘まみ、膝を落とす。
「ノワール子爵様、ごきげんよう。このような出で立ちで失礼いたしますわ」
「いえいえ、大変よくお似合いです。あなたと同級生になるためでしたら3年くらい留年しておけばよかったですねぇ。ところでそのように急がれてどちらへ?」
いくら顔馴染みとはいえ、内宮貴族院の廊下で気安い口を利くわけにはいかない。公爵家令息であるオーギュストは現在個人としては子爵の地位にあるのでそのように呼ぶ。更に普段であればわたくしが王宮に上がる時は少なくとも身分にあったドレスを身に纏っているのが普通なので、学園の制服のままの不作法も詫びる。
対するオーギュストはと言えば相変わらず底の見えない笑み浮かべていた。普段であれば適当に天気と最近の社交界の話などを軽く交わしてからすれ違うのだが、わたくしは挨拶だけ済ませるとそのまますれ違いに彼の横を通り過ぎようとした。
わたくしが急いでいたのはひとえに貴族院の運輸省に詰めている筈の父、ロートレック伯爵へ会いに向かっていたからだ。
「今日は外宮での講義が休講になりましたので、お父様にたまには顔をお見せしようかと思いましたの」
「なるほど、しかしそれでしたら残念なことにお父上は陛下のお召しで先ほど奥の院に向かわれましたよ」
その言葉に、さっさとオーギュストの横をすり抜けようとしていた足が止まる。訪ねて行ってもお父様が不在では意味がない。クローディアが内宮にスカウトされたということの全容を伺うつもりだったのに。
クローディアは外宮での短期研修講義について、ベリーニ大公の研究助手として内宮史務省での勤務を研修の代わりとし、期間後にレポートを提出することで受講とみなす、という大公直々の申請が学園に提出されたということで、彼女は本来の講義を免除されてしまっている。
あれだけ研修に参加するために周囲も巻き込んで引っ掻きまわしたのに結局講義を受けないとか、これでは胃に穴の開くような思いで彼女に補習講義をしたであろうミュシャ夫人が気の毒だ。
何より突然放り出されるようにクローディアとの接触を断たれたエドアルドやミカエル殿下の荒れようがすさまじく、わたくしが何かしたに違いないと言いがかりをつけられるので迷惑極まりない。
ともあれ、お父様が不在では、と踵を返そうとしたわたくしにオーギュストが切れ長の瞳を更に細めてにっこりと笑いかけてくる。
「いかがです? お時間が空いたのであれば、私とあちらの四阿でお茶など。今日に限ってはちゃんと口にできる物をご用意できますよ」
「……いえ、お父様がいらっしゃらないのでしたらわたくしは……」
オーギュストとのお茶会には碌な思い出がない。毒の危険もそうだが、何より彼が悪戯で仕込むゲテモノを使った菓子や茶が怖い。
「そうですか? 実はちょっと興味深い史学書を借りてきた帰りなのですが、希少本なのであなたも興味があるかと思ったのですがねぇ」
そう言ってオーギュストがかざした本の表紙には史務省の箔印が押されている。つまりは最初からその話をするのが目的で待ち伏せされていたということだ。
オーギュストが示した中庭の四阿ではすでに彼の指示を受けたのだろう侍女がお茶の準備を始めている。
なんだか掌の上で転がされているようでいい気はしなかったが、このまま手ぶらで帰るよりはましだろうと溜息を吐いて首肯した。
「……そうですわね。ぜひ拝見させていただきたいですわ」
用意された席に座ると、美しい容姿の侍女が優雅な所作でティーカップにお茶を注ぐ。そのカフスピンにノワール家の紋が刻まれているところを見ると、彼女はオーギュストが私的に連れてきているのだということが分かる。
政敵も多い彼は身の周り、特に口にするものに関しては専属の者以外に世話をさせないと聞いている。
注がれたお茶は見たところ色味も濃さも申し分のない最高級の紅茶だ。香りも特におかしなところは無い。恐る恐る口を付ける。味も普通においしい。
目の前ではオーギュストが普通に自分の分のカップに注がれたお茶を飲んでいる。同じポットから注がれたお茶なので、少なくともお茶自体に毒はなさそうだ。
「さて、マリアベル嬢、あなたはベリーニ大公殿下についてはどの程度御存じで?」
出されたお茶を一口飲んで、長い足を組みながら問いかけてくるオーギュストの口調にはどこか試すような響きが含まれていた。
「国王陛下の異母弟で、先王陛下が身罷られた直後に自分から王位継承権を放棄し、大公へと臣籍降下なされた方だと。王妃様のお茶会などでも全く話題に上らない方ですし、お会いしたこともありませんわ」
今回の知らせで史務省の長官がベリーニ大公だったことを初めて知ったくらいなのだ。
「内宮史務省は王国史の編纂がおもな職務で政治的実権は無きに等しく、閑職の中の閑職と言われているのではありませんでしたかしら?」
「その通りです。大公殿下は良くも悪くも政治権力に全く興味がないお方でして、先王陛下のご崩御に伴い政権争いに巻き込まれるのを忌避していち早く王位継承権を放棄なさったのち、ご自身で史務省勤めをご希望なさった、まあ、王族としては少々個性的な方ですね」
貴族の中でも規格外に個性的なオーギュストに言われたくはないだろう。
「日がな一日史務省の書庫に籠って古代史から神話時代に至るまでの古文書を翻訳するだけのお仕事に精を出されていらっしゃいます」
「そのような方がなぜ……」
一日中史務省の奥に引きこもっているならばクローディアと出会う機会などない筈だ。
「どうもいくつかの古文で書かれた資料が読み解けず、気分転換に散歩をしていたところ、外宮で偶然資料を飛ばしてしまい、通りすがりの学生に拾ってもらったんだそうですよ」
どうやらオーギュストも同様の疑問を抱き、すでに調べていたようだ。彼がクローディアの動向を注視する理由はわからないが、今この時点においては彼のもたらす情報はわたくしにとっても価値がある。
「偶然……ですか……」
資料を飛ばしてしまったことは偶然だとしても、そこに都合よくクローディアが居合わせたことが引っ掛かる。
確か学園で彼女がミカエル殿下や多くの男子生徒が彼女の虜になったのも、初めは偶然にしては出来過ぎた偶然の出会いがきっかけではなかっただろうか……。
「けれどそれだけで一介の学生をいきなり自身の助手になど……」
「その時に資料に書かれていた古代詩の一節を彼女が詠じたのだそうです」
「古代詩を……?」
わたくしの知る限り、クローディアの成績は平均よりは多少上。史学と古代文に関しては平均そこそこだったはずだ。所見の古代詩を読み解けるとは思えないが……。
「彼女の故郷に童謡として伝わっている歌と似ていたんだそうで、それにインスピレーションを感じた大公殿下が資料を読み解くヒントを得たと言って、更に他にも似たような事例があるかもしれないから庶民の童謡を多数知っている彼女を雇い入れたという流れの様です」
「けれど平民でまだ学生のクローディアを内宮に勤めさせるなんていくら王弟殿下でも無理があるのでは……?」
「正式な任官でしたら無理でしょうねぇ。彼女は官吏の資格をまだ持ってはいないし、正当な人事なら私の許可なしには動かせませんから」
そう言うと、オーギュストは少し距離を置いて控えている自分の侍女を指し示した。
「あれらと同じですよ。クローディア・モーヌはベリーニ大公殿下の私設の助手として雇われたんです。私的な使用人なら殿下くらいの地位ならば今まで連れていなかった方が不自然なくらいですからね」
「……流れは理解いたしましたわ。けれど、一番重要な事が分かりませんわ」
「といいますと?」
糸のように細く見えるオーギュストの目の奥で、アメジストを思わせる瞳が煌めいた気がした。
「クローディアはなぜ王位継承権もなく権力も持たないベリーニ大公殿下に近付こうとなさったのかしら? ミカエル殿下と距離を置くような真似までして……」
「第二王子よりも王弟の方が羽振りがよさそうに見えたんじゃないですか? 王位継承権についても、一般の庶民なら知らなかった可能性も高いですし」
「彼女に限っては相手の地位や財、権力を見誤ることは無いと思いますわ」
学園であれだけ高位貴族の子息がひしめき合う中で、的確に地位、財、家柄権力に至るまでトップクラスの男子ばかりを的確に選別して侍らせていたのだ。ある意味で人を見る目は確かだと言わざるを得ない。
「とすると、大公殿下はとっかかりに過ぎず、真の目的は別にある……と考えた方がよろしいかもしれませんねぇ」
「別の目的……そういえばオーギュ…ノワール子爵は以前に……」
「オーギュストで結構ですよ。今は人目もございませんし、あまり畏まられると幼なじみとしては寂しいものです」
「……幼なじみというほどあなたとは親しくしていた覚えはありませんわ」
元々オーギュストのノワール公爵家と我がロートレック伯爵家は家同士のつながりが深い。オーギュストの母君とわたくしの母が従妹同士でもあるので子供同士を小さい頃からともに遊ばせていたりしたからだ。
けれど、オーギュストはどちらかというとアンリお兄様とばかり遊んでいたと記憶している。
当時すでに成長が止まりかかっていた兄と、3つ年下のオーギュストはつり合いが良かったらしく、よく我が家の庭や図書室で共に過ごしていた。わたくしはと言えば、3つも上の男の子の遊びに参加できるわけもなく、遠くからそっと眺めていただけだった。
「何度かお庭での散策とロートレック伯領でのピクニックでご一緒させていただきましたよ。あなたは当時からお人形のように愛らしくていらっしゃったので、アンリと『 』と、三人で誰が眠ってしまったあなたをおぶって帰るか取り合いになったものです」
普通の会話の中で不意に挟まる無音に心の臓に刺さったままの棘が痛む。
わたくしに課せられた呪いについては家族の者しか知られてはいない。当然オーギュストも知らないのだから、彼と会話をしていればこんなことも起こりうるだろう。
さりげなく扇を開いて強張りそうになる口元を隠す。
あくまでも穏やかな笑みを浮かべてみせながら懐かしい会話に恥じらう令嬢を演じる。
「そんなことございましたかしら……? きっとはしゃいでしまって疲れたのでしょうね。お恥ずかしいところをお見せいたしましたわ」
「いえ、とても可愛らしかったですよ。昔は舌足らずなご様子で、アンリが僕のことを『オージェ』と呼ぶのを真似しようとなさって、『おーじさま』『おーじさま』と呼んでくださってまして……」
続けて突きつけられた過去に今度は素で顔に朱が昇るのを自覚する。
いくら子供とはいえ何ということを……。
「その節は……大変な失礼を……」
震える声で不敬を詫びる。言い間違いにしてももっとましな呼び方もあっただろうに……。
「ふふっ……あなたのそんな顔が見られるのでしたら幼いころからの付き合いはしておくものですねぇ」
にんまりと笑うオーギュストが腹立たしい。
コホンと咳払いをして、折られてしまった話の腰を戻す。
「その! ノワール子爵は……」
「オーギュスト」
間髪を入れずに訂正を促される。どうやら名前で呼ばないと話を進めない気でいるらしい。
「なんでしたら『おーじさま』でも……」
「オーギュスト! わたくしをからかうのもいい加減になさって! そんなことよりも! 以前にあなたがわたくしにおっしゃっていたクローディアが、おに……わたくしの従僕を狙っているとの言、あれはどういう意味でしたの?」
クローディアが学園に入学するために田舎から王都に出てきたのは今年。お兄様が眠りの呪いをかけられたのが6年前。
「あの者は療養の為ロートレック領の彼の実家に下がらせています。クローディアは会ったこともございませんわ」
「おや、そうなんですか? 美しい顔立ちだからきっとあの子豚さんのお好みだと思ったのですがねぇ」
オーギュストはあの夜会以来、クローディアの事を子豚と呼ぶことに決めたようだ。クローディアは豚と呼ばれるほど太ってはいないのだけれど……。
更に深く追求しようと、扇子の影で息を吸い込んだとき、オーギュストの従僕らしき青年が渡り廊下の方から駆け寄ってきて、彼の耳に何事か囁きかけた。
「……わかりました。すぐに行きます。お前は先に行って応対の準備を。……申し訳ありません、マリアベル嬢。急な仕事が入ってしまいました。私はお先に失礼いたします。外宮へは誰か送りの者を差し向けますのでこのままお待ちください」
「……いえ、結構ですわ。一人で戻れます」
正確にはラファエルも一緒なのでひとりではないのだが、召使というものは数に数えないのが普通だ。
急ぎ足で去っていくオーギュストの背を見送りながら、結局聞きたい情報は得られなかったと言う事実に溜息が零れた。
「……?」
ふと、ティーカップのソーサーの下に折り畳まれた紙が敷かれているのが見えた。
引っ張り出して開くと、流麗な文字でこう記されていた。
『史務省大書庫奥の間 銀の書』
ただそれだけ。詳細な情報が何もない。それでも、オーギュストがわざわざこれを渡すためだけにあの場で待ち伏せていたのだとしたら……。
「ラフィ」
「はい、お嬢様」
一声呼べば見えない場所に隠れていた護衛兼メイドの少年が姿を現す。その小さな手に紙片を握らせた。
「これについて、分かる限りのことを調べて頂戴」
「畏まりました。まずは一度外宮の宿舎に戻りましょう」
その夜、ラファエルからもたらされたのは、メモにあった書物は王国史以前の記録が収められていたとされる古文書で、史務省大書庫奥の間で厳重に管理されていたが、20年ほど前に盗難に遭い、紛失したものだという情報のみだった。
「20年も前に失われた古文書がどうしたというのかしら?」
「内容がまだ読み解かれていなかった古代の神聖文字で書かれていたらしく、史務省でも内容についての記録はないそうです」
内容も所在も分からない本がクローディアの件とどう関係があるというのだろう。
オーギュストが何を伝えようとしていたのかさっぱりわからない。
もしかして、思わせぶりな情報でこちらをからかっているのではないだろうか。オーギュストならありうる。
自分の得か損か以上に、気分で人をひっかきまわすのが何より好きな男だ。
そう思いながらラファエルから返された紙片を改めて見直す。
「……ラフィ、もう一度、この書について調べ直してくれるかしら? 紛失の詳細な時期や、一緒に盗まれた書物、当時の責任者の消息、それと……銀の書と同時代の古文書が他に存在してはいないかということ」
「はい。……お嬢様、あの男がアンリ様や兄さんと親しかったというのは本当なんですか?」
ラファエルは『 』お兄様の弟だ。事件の頃はまだ幼く、母親と一緒にロートレック領にいたので、お兄様たちとオーギュストが交流を持っていたことを知らなかったようだ。
「ええ、アンリお兄様の暴走を気にすることもなく、逆に二人で手を組んではとてつもなく手の込んだ悪戯を繰り返しているとよくお兄様が愚痴をこぼしていたわ」
『アンリ様の従僕ではなくお嬢様のしもべになれて良かったですよ。あちら側に四六時中立たされたら俺は胃が持ちません』
そう言ってよく苦笑いをしていた。
「お兄様は魔法の才もおありだったから、お元気なら今頃わたくしたちの先輩として学園に通われていたかもしれないわね」
もしくは、わたくしの入学に合わせて供に入学させられていたかもしれない。従僕であるということは進路の選択は主家の都合に委ねられるということだから。
「もし兄さんがお嬢様と一緒だったら、あんなバカ王子たちにお嬢様を断罪させるようなこと、させなかったと思います」
「そうかしら……」
もしオーギュストの言っていた通り、クローディアがお兄様を気に入って、魅了しようとしたとしたら……。
「……わたくしは嫌な女だわ」
「お嬢様?」
「あの女に出会わずにいるのだったら……お兄様が眠ってくれていることが有り難いと、一瞬でも考えてしまうなんて……どうかしてるわ」
「お嬢様……」
頭に浮かんだ邪な思いを振り払う。たとえお兄様がクローディアと出会ってしまうとしても、目を覚ましてさえくれるならすべてを捨ててもいい。
「明日は魔法省の講義の後、アンリお兄様が魔法書の書庫をご案内下さるそうなの。お兄様は一通り調べ尽したと仰っていたけれど、何か手がかりが見つかるかもしれないから、探してみようと思うわ。女官長に夕食は結構と伝えて頂戴」
「……はい」
窓の外に浮かぶ月はミルク色の明かりを地上に注いでいる。柔らかな光はお兄様の髪の色を思わせる。
「 お兄様……」
呼びたくても呼べない名前は、音を結ぶことなく夜の闇へと溶けて消えた。
活動報告にちょっとした企画を書きこんでいます。よろしかったらご覧ください