讃め歌
「競作小説企画第九回夏祭り」参加作品
夏ワード「旱星」「汗を拭う」「親戚の家」を使用。
城塞都市ラバを包囲中のヨアブの元に、王からの手紙が届いた。
陽が西に傾いたころ、隊列が見えるとの連絡があった。
物見櫓から目を向ければ、南へ延びる道を、数十頭の大きな荷を背負ったロバが近づいてくる。それらを引き連れた馬上の人物が手を振り、ヨアブは頬を緩ませた。櫓梯子を飛び降り大股に歩み寄る彼の脇を、兵士達が歓声をあげて駆けぬける。ロバの積み荷はつぎつぎと解かれて、陣営はたちまち活気にあふれた。これでまたしばらくの士気は保たれるだろう。
「騎乗の帰還とは豪勢じゃないか」
「いえ、なかなか大変です。歩いた方がよほどましです」
ヨアブが馬の手綱を取って出迎えると、若いウリヤは苦笑しながら鞍から降りた。
「でも王がくださった馬ですから、乗らないわけにもいかなくて」
「先の活躍はしっかり王の目に留まったんだな。出世して百人の隊長、千人の隊長ともなれば、馬での進軍は欠かせないから、俺もお前と馬を並べる日が待ち遠しいぞ」
軍団長から手放しの期待を寄せられ、青年は頬を染めて白い歯を見せた。と、あ、と小さくつぶやき、たすき掛けの皮袋の口を開く。取り出されたのは、巻かれて封のされたパピルス。
「王から将軍へのご命令です。それから、これはアビシャイ殿から」
こちらは消し炭で書かれた陶器片で、いくつかの言葉が目に入り、ヨアブはちらりとウリヤを窺った。が、青年の表情は変わらず屈託ない。異邦人はイスラエルに比べ、字の読めない者が多く、まして幼いころから戦いの間中で育った戦士ではと思い至った。
「ご苦労だったな。夕餉時だ。食いながらエルサレムの話を聞こうじゃないか」
パピルスを手に陶器片を小脇に抱え、ヨアブはもう一方の腕を若い肩に回した。
「まだまだ兵糧は尽きないようですね」
茜空に黒々と浮かび上がる城塞へ、ウリヤは厳しいまなざしを向けた。石壁のあちらこちらから、炊事の煙が上っている。
「アモン人のラバと言えば、堅牢な街で名高いからな。千人抱えても、貯蔵庫の食料はそうそう減らんさ」
ロバが運んできた兵糧で、この日ふるまわれた久しぶりの煮込み料理にヨアブは舌鼓を打った。古くからの戦友達の歓談も、ことさら今夜は弾んでいる。
「兵への王の気配りは今日に始まったことじゃないが、今回の奮発ぶりは気味が悪いくらいだな」
「そりゃ王に失礼だぞ。おい、ウリヤ。お前何を話して王を喜ばせたんだ?」
百戦錬磨の勇士達の視線をむけられ、青年は首を傾げた。
「これといったことは別に……ふつうに戦況報告とか、軍団長や兵士達の様子とか」
「ご自分も戦場にでたくて、うずうずなさっているんだろうな。まあ小競り合いばかりじゃ、出番はないが」
戦士の一人エリアムの言葉に、一同がため息をつきながらうなずく。アモン人の立てこもるラバの城壁を包囲して、すでに三月を数えていた。
この戦いは前年、アモン人の王ハヌンよりイスラエルが受けた誹りへの報復戦から始まった。ラバに迫ったヨアブ率いるイスラエルは、ハヌンが雇ったアラム兵に挟撃され一時危ぶまれたが、主の力によって勝利を得ることができた。しかし、これによってイスラエルの脅威を覚えたアラム各王が団結し、川向こうの仲間まで連れだしてカナンの地へ進撃してきたのだ。彼らとの対決は過去にもあったが、王に率いられたイスラエルはヘラムでの激しい戦いに勝利を得、ついにアラムとの和を講じることができた。
こうして長年の憂いを払ったこの春先、当初の目的を果たすため、ヨアブを軍団長としたイスラエル軍はアモン人の地へ再び進攻した。小さな町々を制し、いまや王ハヌンのいるラバは眼前なのだが。
「しかし、こりゃいつまで続くんだ。攻め上って壁に近づこうにも、矢の雨、石の雨、煮え湯の洪水ときた日にゃ、手も足もでん」
「乾季が進むのを待っているんだ」
片づけをする小姓に器を渡しながら、ヨアブは一同を見まわした。
「ブドウの収穫も終わるころになれば、俺たちが暑さに音を上げて引き下がると思っているのだろう」
これを聞いた勇士の面々は互いに顔を見交わし、くすくすと肩を震わせた。
「ずいぶんと見くびられたもんだ」
「荒野の放浪を思えば、ここの夏の日照りなぞ、汗を拭うほどもない涼しい木陰と同じだぜ」
それは言い過ぎと、高く笑い声があがったが、ヨアブの心中は深く首肯している。
前王サウルから憎まれ、その追撃を逃れるため荒野の洞窟を渡り歩いた日々は、待つことをいとわない強靱な忍耐を彼らに与えた。それはいまや王となった『男』への、信頼と従順が培ったものだ。『男』がイスラエルの主に向ける信頼と従順ゆえに、勇士達は荒野のなかにあっても、彼が神によって油注がれた者であると強く確信できたから。
「わたしももう少し早く生まれていれば、荒野で王に従う勇士の一人になれたのに」
面々の昔話をうらやましく聞くウリヤへ、エリアムが微笑みかける。
「アラムとの戦いで、お前が誰よりも速く戦場を走り、どれほど多くの敵を倒したか俺はよく知ってるぞ。こんな誇らしい娘婿はどこにもいない」
「そういえばエリアムの娘はたいそう美人だったな。そうか! 王がウリヤに与えた一番の褒美は、お大事の嫁御との逢瀬か!」
ひときわ大きく歓声が上がる。ために、首を振るウリヤの言葉はかき消え、だれも聞くことはなかった。
ヨアブが天幕を出ると、陣営は深い眠りに覆われていた。とはいえ、松明の勢いよくはぜる音は響き、警戒にあたる歩哨の影がそこここに立っている。自分の鍛え上げた軍規の成果に満足を覚え、ヨアブは歩哨と挨拶を交わしながら物見櫓へ向かった。
櫓の上へ声をかけ、梯子を上ると兵の中にウリヤがいる。
「どうも眠れなくて」
俺も同じだと返して、ヨアブはしばらく自分らが見張ると、ほかの兵士を下がらせた。
眼下に散る松明の間に、おびただしい数の兵の休む姿がある。かつて荒野をさまよっていたころ、何度この光景を目の当たりにしただろう。が、当時それらはすべて、あの『男』を追い狙う敵兵だった。今ここにあるのは逆に、王となった『男』に命を捧げた軍勢だ。ユダ族のみならず、全イスラエル部族が王に従い、神の力の偉大さが世に顕れた姿だった。
ヨアブは夜空をふり仰いだ。
隙間のないほどに、星々が全天を覆う。イスラエルの父祖アブラハムに与えられた神の祝福の約束は、この無数の輝きの前でなされた。子孫繁栄と譲りの地カナン。それは王となった『男』の手によって、この時まさにかなえられようとしている。神がともにおられる王とその王国。
彼の手足となって戦う喜びが、ヨアブを満たした。
「ラバが陥ちるのは、やはり乾季をこすのでしょうか」
それまで闇に沈む城壁へ臨んでいたウリヤが、顔を向けてきた。
「エルサレム攻略は、将軍がたちまち成し遂げてしまいましたよね」
「成し遂げたのは王だ。いや、イスラエルの主だ」
まあ、とヨアブは言葉を継ぐ。
「あのときは侵入路がわかっていたからな」
当時エブスと呼ばれた街は、ヨアブやその叔父でもある『男』の故郷ベツレヘムに近かった。幼い頃は、しばしば家族とともに街を訪れ、親の目を盗んでは街を徘徊したものだ。それが城外にあるギホンの泉から内部へ通じる、トンネル発見のきっかけとなった。
あの時王は言った。
――だれでも真っ先にこの街を打った者を軍団長としよう。
これをヨアブが勝ち取った。それまでユダの戦士を率いてきた実績はあったが、後から加わった残りのイスラエル兵を納得させるには、最大の効果となった。おそらく王はこれを見越していたのだろう。
しかし――
その裏の想いもヨアブは知っている。
「ラバの侵入路はみつかりませんか?」
「水の都の名のとおり水源は城内にあるし、ほかを探そうにも壁に近づくことすらできないからな」
今のところ十分な備蓄食料ときたる日照りの鞭を期待して、城内の士気は保たれているようだ。時がたち、飢餓への不安が満ちれば内通者もでようが。
「大きな合戦は、当面なさそうですね」
いささか気落ちしたウリヤの表情を、まあな、とヨアブは盗み見た。
「おまえは……たいそう足が速かったな」
はあ、とウリヤは小さくうなずいた。
「『ガゼルのアサエル』にはとても適いませんが」
はにかんだものの、その瞳はほこらしげに星の光を返している。
「アサエルか」
つぶやいて夜空に戻したヨアブの目が、南天にかかる赤い星を捉えた。
弟を埋葬した夜もあの星が瞬いていた。
前王サウルと王子達がギルボア山で斃れたのち、唯一生き残った王子イシュ・ボシェテが、マハナイムでイスラエルの次王として立った。それに尽力したのが、長くサウルに仕えていた将軍アブネルだ。このときすでに、ユダ族はヘブロンで今の王に油を注いでいたので、当然内紛がおこった。
しかしあからさまに分裂しては、他民族に隙を与えてしまい、共倒れは避けられない。そこで双方同じ数の強者を順に出し、剣の闘技によって宗主権をかけることになった。アブネルがイスラエルを、ヨアブがユダをそれぞれ引き連れ、ギブオンの池のほとりで対峙したのだが。
池を染める血が戦士達を逆上させた。
気づけば全員が剣を握る激しい戦いとなっていた。形勢の不利を見たアブネルは、いち早く自軍に退却を命じたが、ヨアブはこれに追い打ちをかけた。
イスラエルの王は、己の掲げるあの『男』ただ一人。この確信のもと、最初から儀式めいた勝敗に王国の行く末をかける気など、ヨアブには毛頭なかったのだ。アブネルを打てば、サウルの家は自然に瓦解する。だから先頭で走る弟アサエルに叫んで命じた。
――アブネルの足を必ず止めろ!
追いついたとき、弟はアブネルの槍を腹に受けて倒れていた。抱き抱えるとうっすら目を開けたが、たちまちに絶命した。離れた崖の上から、アブネルの声が届く。
――いつまでも剣で人を滅ぼしてよいものか! お前たちの兄弟を追うのをやめて、帰るんだ!
確かにユダもほかのイスラエルの部族も、ヤコブの根から生まれた兄弟だ。だが、その兄弟に剣を向け、王になる前のあの『男』をどこまでも追ってきたのは、誰というのか。
しかし、アサエルの死によって戦士達の士気は落ち、アブネルを討つ機は逸していた。ヨアブは、愛する末弟を失い涙を流すアビシャイを励ましながら、ともにアサエルの遺体を運んだ。その星光の照らす道。
目を捉えた光――赤。
ヨアブにとってそれは、自分が手を下すべきアブネルの血の色に見えた。
「エルサレムでは、妻の元に帰ったのか?」
いきなり軍団長が、再びの問いを向けてくる。およそこの場にふさわしくない内容に、ウリヤはしばらく目を瞬かせて首を振った。
「あ、いえ、王にも勧められたんですが」
眼下の陣営に視線を巡らす。
「神の箱も仮庵に住み、軍団長やほかの仲間たちが夜露に濡れているのに、わたしだけがのんびり家でくつろぐことなどできません」
戦士としての自負に結ばれた口元を見つめながら、ヨアブはウリヤの横に並んだ。
それは――
「まさに王の勇士としての資格は十分だ」
ウリヤの頬がうれしさに緩む。
「ありがとうございます」
「しかし、若妻一人置いての出陣は心配でないのか? 王の都とはいえ、不埒な奴はどこにでもいるぞ」
「ああ、それなら」
親戚の家に、とウリヤは言った。
岳父エリアムの父アヒトフェルが議官として王に仕え、王宮の近くに家を構えている。
「護衛や召使いはたくさんいるし、なにより王の御側なら、これ以上の安心はありませんから」
安心――平安と、ヨアブは口の中で言葉を転がした。それは、王国の未来がはるかに開けた日に、彼の心を満たしたものでもある。
あの赤い星を見上げながら。両の手が、血に濡れていたにもかかわらず。
その日、ヨアブが留守の間、マハナイムから将軍アブネルがヘブロンの王を訪問した。サウルの家に仕えるイスラエルが、ユダの王との契約を結ぶ由を伝えにきたのだ。喜んだ王はアブネルとその部下をおおいに歓待し、平和のうちに彼らを送り出した。そこへ帰還したヨアブは、これを聞いて王に詰め寄った。
――なぜ、あいつを無事に帰したのか! あいつの言葉を信用するな!
サウルの家でのアブネルの専横を、ヨアブは独自の人脈によって伝え聞いていた。あの狡猾なベニヤミンをユダの家に招くことは、いずれ王を再び追われる身とするだろう。
しかし、アブネルの朗報に心浮き立たせた王は、耳を貸そうとしない。業を煮やしたヨアブは、すぐさまアブネル一行を追うよう、使いを走らせた。王が呼んでいるとの偽の伝言を携えさせて。
城壁の外は、すでに闇が降りていた。
もう危険な夜道を戻ってくることはあるまいと諦めかけたとき、南にかかる赤い星に気づいた。目を染める赤。流さなければならぬ血。やがてその星光が、城門に近づくいくつかの影を照らす。アブネルだった。
――ああ、兄弟。久しぶりだな。
ヨアブは笑みを交わして肩を抱き合うと、白髪のかかる相手の耳にささやいた。
――王に会う前に、これからの軍隊の編成について話がある。こちらへきてくれないか。
ことは通り門の扉の陰で行われた。小さく唸ったアブネルの体はヨアブにもたれ、ゆっくりと地に落ちていった。
このときヨアブを包んだのが、心の底からの平安だった。もはや、イスラエルの中であの『男』を追う者はいない。荒野の道なき道を引きずった足は、神の王国を統べる道をまっすぐ進むだけとなったのだ。剣を握る手に生暖かい感触。松明を照らしてきたアビシャイが、荒い息の合間に、亡き末弟の名をつぶやくのが耳に残った。
王は名将の死を深く嘆き悲しんだ。ユダとイスラエルの民の前で衣を裂き、哀悼の歌を歌った後で、アブネルを手にかけた自軍の将を激しく非難した。
――ネルの子アブネルの血についての咎は、ヨアブの頭と彼の父の全家にふりかかるように。病と飢えと無能とが、その血筋から絶えることがないように。
それでも、ヨアブが民に糾弾されることはなかった。闇討ちにはなったが、末弟の血に報いたことには変わりはなかったのだから。
この後、柱を失ったサウルの家が滅び、かの元にあったイスラエル全家は王と誓約を結んで、その頭に油を注いだ。ユダとイスラエルによって、ようやく『男』は全イスラエルの王となったのである。
「そうか。それなら安心して、おまえも心おきなく戦えるというものだな」
ヨアブは腕を組みながら、出陣前に開かれたウリヤとその妻の祝言を思い起こした。勇士エリアム、議官アヒトフェルと、王家の屋台骨を支える家の祝祭は、二週間続いたものだ。
「ええ。でも、こういう状況では、手柄は当分お預けです」
苦笑を返したウリヤは、恨めしそうにラバの城壁を見上げた。
イスラエルの軍勢には、ヤコブの子孫だけではなく、さまざまな異邦人の傭兵が含まれている。もちろん加わるには、イスラエルの神を己の主とし、しるしとしての割礼を受けることが条件だ。だが民族的な序列から、イスラエル以外の者が社会的な地位を得るには、それなりの大きな貢献が必要だった。
ヘテ人ウリヤは先のアラムとの戦いで名をあげ、王とイスラエルへの忠誠の深さと戦士としての勇気を、民の前に知らしめた。そんな彼を勇士のエリアムがいたく気に入り、花のように育った自分の娘と娶せたのだが。
文字も読めない身では、戦いでより以上の成果が期待されているようだ。
「戦うのは主であり、勝利は主がくださるもの。個人の満足のためではないぞ」
ヨアブが意地悪く正論をなげかけると、青年は再び顔を引き締め大きくうなずいた。
「はい。確かにそうです。主に従う王によって、われらは勝利に導かれるのでしたね」
ウリヤは姿勢を正すと礼をした。
「そろそろ物見兵を戻しましょうか?」
邪気なくうかがいをたてる青年の顔を、ヨアブはしばらく見つめ、唇を湿らせた。
「一つ……作戦があってな」
顎をあげて、ウリヤへ城壁を見ろと促す。
「小競り合いは、だいたい三四日ごとで、次は明日あたりだ。毎日こちらがしかける挑発に、気の短い奴が辛抱できなくなるんだ。まあ、城内の士気を保つためでもあるし、こちらの武器をぶん捕ろうという魂胆もあるが」
この半ば慣れきった争いの油断を突こうと思う、とヨアブは言った。
「城門への坂の途中、道をはずれた右側だ。小さな茂みが見えるだろう」
ウリヤはヨアブの側に寄って、その指先が示す闇に目を凝らした。
あそこから城門まで一息に駆け抜けられるか。
低いしわがれた声が、ウリヤの耳元に届いた。
「やつらが出た時すぐ戻れるように、戦いの最中の城門は少し開いている」
自分達が敵兵の囮になっている間に、なんとか門に飛び込み、閂がかけられるのを遅らせられないものか。そうなれば引いていた自分達はすぐに攻勢へ出て、後に続くことができる。
だが――
大きく息をついたヨアブは、首を振った。
「あまりに危険だな。焦ることはない。じっくり王の勇士として数えられる日を待つことだ。異邦人でも王は差別をされないから、その時は必ずくるだろう」
声の調子を戻して、ウリヤの肩を気軽に叩く。
「もう降りよう。兵を呼び戻して、天幕でゆっくり休もう」
「将軍」
今度はウリヤが低く呼びかけた。
「王が主に従う限り、勝利はいつもわれらの手の中にあります」
硬い笑みを浮かべる。
「王のために、主のために走ります」
暁闇の向こうへ、兵士達の影がとけ込んで消えた。
ウリヤと彼へ部下として与えた特に足の速い者十人が、明るくなる前に茂みに潜むため密かに出立したのだ。陣営のはずれで彼らを見送ったヨアブは、踵を返して己の天幕へ向かった。
赤い星はすでに西へ傾き、東には明星が上っていた。
朝の到来を告げる、希望の星。闇に瞬く砂子の中で、燦然ときらめく星。常に太陽とともにあるそれは、常に主とともにある王の星だ。
その輝きは、荒野で夜明けを見つめていたあの『男』の横顔に重なっている。
先王サウルの刃が、どこまでも追ってきた苦難の日々。敵と裏切り者に囲まれ、安らかに休む地はどこにもなく、わずかな手勢を率いて、明日の希望はかけらも見いだせなかった。
その孤独の中、死海のほとりエン・ゲディの洞穴で。
夜番の『男』はただ一人、東の明けゆく空に向かっていた。ささやく人声に目覚めたヨアブが洞窟の入り口に目をやると、ほのかな朝焼けに浮かぶ『男』の姿があった。
背を丸め立てた膝に顎をのせながらも、瞳はまっすぐ遙かな空へ向けられている。
ささやきは、その口からもれている祈りだった。
神よ。私をあわれんでください。
私のたましいは
あなたに身を避けていますから。
まことに、滅びが過ぎ去るまで、
私は御翼の陰に身をさけます。
私はいと高き方、神に呼ばわります。
私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。
神は、天からの送りで、私を救われます。
神は私を踏みつける者どもを、
責めておられます。(※1)
その祈りは今歌となって、楽器とともに民の前で歌われている。ヨアブは闇の中をゆっくり歩を進めながら、それを口ずさんだ。
神よ。私の心はゆるぎません。
私は歌い、ほめ歌をうたいましょう。
私のたましいよ。目をさませ。
十弦の琴よ。立琴よ。目をさませ。
私は暁を呼びさましたい。(※2)
『男』の苦しみの祈りは、しだいに神への讃め歌へと変わり、その瞳が昇る暁の光を力強く返していく。
美しい、と、ヨアブは思った。
顕された自分が従う者の真の姿に、心のすべてを奪われた。神が確かにこの『男』に臨み、イスラエルの王としての道を約束しているのだと確信した。
それゆえに。いやそれ以上に。
この『男』と想いをともにしたいと、強く願った。
しかし『男』には、すでに友としての堅い契約のくちづけを交わした相手がいた。仇敵サウル王の長男ヨナタンだ。勇気と人格と身分と、すべてが『男』にふさわしく、なにより主への信頼を『男』と分かっていた。『男』は自分につき従う勇士達をこよなく愛したが、ヨナタンと同じ愛を注ぐことはなかった。
だから。
ヨナタンがサウル王と運命をともにしたとき、ヨアブは胸のどこかが軽くなったのを覚えている。友を失った『男』の心の間隙をうめようとは思わなかったが(とうてい無理なことだ)、『男』が臨む王への道を、己のすべてを賭して作り上げようと密かに誓った。
ただ、それは主にへではなく、自分と『男』に対しての誓いだった。でなければあのサウルの将軍は長らえて、いまだイスラエルは混乱のさなかにあったことだろう。
しかしアブネルを手にかけたのち、ヨアブへ寄せる王の視線は、明らかに以前と違ったものとなっていた。
股肱の臣の反逆に対し、のろうほど失望したためではない。あのような呪詛は、ヨアブにいささかの畏れも抱かせない。母のツェルヤの子とされるヨアブ達兄弟の父の家など存続するに値しないし、もともとこの世は病と飢えと無能者で満ちている。
王はヨアブの目指すものに気づいのだ。それが明らかに、現実の自分を有利に導くと知って戦慄したのだ。民がヨアブを責めれば処罰の道もあったろうが、アサエルへの血の報いと解されては、なすすべはなかった。ヨアブ達ツェルヤの子らの誉れはかくのごとく高かった。
それで。
エルサレム攻略のおり、ヨアブが真っ先に突撃するのを見通しての、あの激励があった。
最初にエブスを討った者を軍団長にする。
いくら侵入路が明らかとはいえ、突撃隊が戦死する見込みは高い。おそらく王は、ヨアブの処遇を神の手にゆだねたつもりだったのだろう。
神の差配はヨアブの生にあった。
ヨアブの確信はゆるぎないものとなった。神の祝福が得られたからではない。王と王国が流さねばならない血の咎を負うべきは自分だと、神が認められた。
そうとしか思えなかった。
エルサレムに遷都して王のヨアブへの態度は元に戻ったが、時折その瞳には以前にはなかった憂いがのぞいた。
王よ、憂うことはない。
ヨアブが天幕へ戻る気配を察して、うたた寝していた従者が飛び起きた。火皿にともした灯りを卓に置いて退出する。わずかな光を受けて、天幕の端に置かれている武具や道具箱の陰が浮かんだ。
ヨアブは一つの箱を開け、巻かれたパピルスと陶器片を取り出した。昼間ウリヤから受け取った、王とアビシャイからの手紙だ。王の護衛兵を務めている弟には、時に応じて王の様子を知らせるよう命じてあるが、いくら文字が読めないとはいえ、包みもしないでウリヤに託す迂闊さは厳重注意ものである。
消し炭の文字はこう告げていた。
――王は先頃人妻を召して身ごもらせたらしい。
すでに封を切ったパピルスを開くと、見慣れた王の手跡が現れた。
「ウリヤを激戦の真っ正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ(※3)」
ヨアブは人差し指で、ゆっくりと文字を追った。
愚かな王だ。愚かな男だ。
しかし、ヨアブにはこの愚かさが、叫びだしたいほどにうれしかった。これは王自身がヨアブを、己の血の咎をともに負う者と認めてきた証左だ。この自分、ヨアブの血の助けとともに、王国を築こうとする決心の表れだ。
指先で手跡をたどる。ヨアブの口元に笑みが浮かんだ。
「ウリヤよ。王が主に従う限り、確かに勝利はイスラエルの手にある」
万が一には成功する目もあるかもしれない。しかし、それはイスラエルの王にとって勝利となるのだろうか。
主がともにおられる王は、強くあらねばならない。雄々しくあらねばならない。そして王が率いるイスラエルの全軍は、声を一つにして勝ち鬨を上げるのだ。
そのために、自分はいつでもこの手を血で濡らそう。
この血の咎を以って、心からの讃め歌を歌おう。
そうだ、王よ、憂うことはない。
イスラエルの掲げる、わが主、わが王よ。
ダビデよ。
その栄光はとこしえまで。
火皿の中で、パピルスが炎をあげた。
(了)
引用/旧約聖書 新改訳第3版
(※1、2)詩篇57篇 抜粋
(※3)第二サムエル記11章15節
聖書を読んで長年書きたかった人物を、旧約聖書で有名なスキャンダルに絡めてみました。
興味の持たれた方は、旧約聖書のサムエル記をお読みくだされば、きっとドキドキしますよ。