38 胃袋からライジングしたブツをゲボって言う女の人って……
「王よ」
「ノビ夫……どうしたその顔は」
校舎の角から現れた黄色地に緑の大蛇は、ちょうど眉間辺りに大きな傷を作っていた。
まだ新しいケガらしく、流れ出る血液は固まりきっていない。
「地虫の襲来中、飛来した鉄片により。面目ない」
マンホールのフタあああああ!
「ノビ夫ちゃん、かわいそー……」
何故か治癒のスキルが使えなくなり、ただの巨乳キャラと成り果てた衛生兵がそう言って涙ぐむ。
本当にな。一昨日だったかの恐竜みたいにノビ夫を治してやれたらよかったんだが……ないものねだりはすまい。
「地下の領域に行かれるか、王よ」
「毎晩あの騒ぎで起こされてはたまらないからな」
「虫どもの縄張りは、広く深い。お供致したいが、しかし」
「みなまで言うな。お前はこの穴に入れる大きさじゃない」
心配してくれる忠臣ノビ夫に学校の留守を任せ、俺たちはこみ上げる嘔吐感を気力でねじ伏せながらマンホールを降りた。
ハシゴがヌルついていて最強に気持ち悪かったが、下水道に降り立ってみると、覚悟していたほど嫌な臭いはしなかった。
もちろん無臭とはいかないが、カビの臭いがしたり、そうかと思えば潮っぽい臭いがしてきたり、どこか遠くでザリガニが手を降っている気配がしたり。汚物の臭いもたまに顔を出すが、常時ではないので耐えられないこともない。
「ナビ女、虫の親玉を探せるか?」
「おっぎいど、ばだびえだいけど、だんかここ、おかしいわよ」
「……何言ってるんだ?」
「だから、だんかここ――」
「普通に息をしろ」
頑なに鼻呼吸を拒むため、何を言っているのかわからないナビ女。
相変わらず奇行が著しい。毎度こうだと大喜利でも見ているような気になって、いつの間にか期待している自分がいるという事実に思い至った。
「ぞんだこどいっで、ぼしくさがっだらどうしてぐれんどよ!」
「そんなこと言って、もし臭かったらどうしてくれんのよ……だってさ」
「黒帯、お前……」
前々から、どんな相手とでも昔からの知り合いだったかのように絡めるキャラの黒帯だったが、ちょっとコミュニケーション能力が高すぎやしないか。
謎のトランスレーションスキルを発揮しだしたぞ。
「わたし、英語は結構得意なんだよ」
「いや、明らかに英語じゃないだろ」
一応ツッコミは入れておいたが、これは世界がこんなふうになってアレやコレした結果身についたスキルではない。
俺は自分にそう言い聞かせた。
「臭いか臭くないかと言われれば、臭い。だからと言って、俺がお前に謝ってやる筋合いはない。どうしても八つ当たりしたいなら、この先で出くわすだろう虫どもにしてくれ」
「うう……くさぐてゲボはいただどうしよう……」
「うう、臭くてゲボ吐いたらどうしよう」
「誰も吐いてないだろ。多少臭うが、吐くほどじゃない。俺を信じろ」
「わ、わがっだ……」
「わ、わかった」
「それくらいはわかる。でもありがとう」
こんなやり取りのあったせいで、五分以上十分未満の時間をロスした。
文句も言わずにガールズトークをしながら待っていてくれる衛生兵と料理番、そして無言で棒立ちしている巴御前には、感謝してもしたりないくらいだ。
大げさな鼻呼吸ストライキを解除したナビ女は、「あ、私、大丈夫だ!」とかふざけたことを抜かしていたが、メンバーたちはそれさえも「やったじゃん!」みたいなあたたかーい雰囲気で迎えていた。
だめだこのパーティ、人格者が多すぎる。
仕切り直して、俺はもう一度ナビ女に尋ねた。
「虫の親玉はどこにいるかわかるか?」
「大きい反応は、まだ感知できないんだけど、それ以上にちょっとおかしいことがあるの」
「何だ?」
「この先に、部屋みたいなのがいっぱいあるみたいよ」
ナビ女の指差す先は、確かに下水道の奥を指し示している。俺たちが地蟲にでもなったような気持ちで進んでいかなければならないところだ。
そこに……部屋だと?
「下水は水の通り道だ。普通、小部屋はないと思うが……」
俺も下水に詳しいわけではないので、断言はできない。
下水に捨てられたワニが巨大化するようなモンスターパニック映画では、どん詰まりに巣のような場所があったりもするが、それは小部屋とは言わないだろう。
ナビ女がどういう方法で地図や敵の現在位置を把握しているのかは知らない。しかし俺の脳裏には、一本道の左右に細かい四角がいくつも並ぶような、ネトゲで見たらさぞかしウンザリするであろうマップが浮かんだ。
「こうしていても仕方がない。その小部屋とやらに待ち伏せしている敵がいないか警戒しつつ、先に進むぞ」
俺たちはいつもの陣形を組み、足元に注意しつつ前進した。
下水道はすぐに、より幅の広いルートに合流した。今までの足元はチョロチョロと水が流れていたが、ここは流れがない。心持ち湿っぽいだけだ。
前方にうすぼんやりとした明かりが見えたような気がする。一歩進むごとに、それは気のせいではないのが明らかになってくる。俺は内心、首を傾げた。
俺たちが入り口として使用したマンホールがこの先にあるとするなら、少し変じゃないか?
マンホールは細い支流みたいなところにあって、それがより幅の広い本流に合流していると考えたからだ。
ここに来ていきなり、本流に直通のマンホールがあるというのは不自然ではないだろうか。
さらに進めば、違和感もよりプレッシャーをかけてくる。
さっきの明かりは、マンホールなんかじゃなかった。
この先にある通路全体が淡い黄色に光っているからだ。まるでそこに、光源でもあるように。
進むにつれて、俺はいよいよ自分が今何をするためにどこを歩いているのかわからなくなってきた。
目の前に広がっているのが、どう頑張っても下水道には見えない。
まっ平らで乾いた床。高い天井。明らかに人工的だが、そこにあるはずのない空間。
壁と天井には、マグライトを消しても黄色に輝き続ける塗料のようなものがムラなく塗られている。もしも手元に本があるなら、それほど目を凝らす必要もなく読めそうだ。
俺たちがたどり着き、足を止めたここ。
それはどう見ても、古い洋館にありそうなだだっ広い玄関だった。