37 「やる気ない奴は帰れ」と言ったら多分全員帰る状況
俺たちの足元でも、ちょっとした騒ぎが起こっていた。
例の爆発と共に、縦横無尽に動きまわっていた大ダンゴムシたちが完全停止。
何事かと身構えた約二秒後に、今度は一直線にトイレへと殺到してくる。もはや俺の存在など意に介していないようで、ざっと見回しただけで数百匹いる中にちょっかいをかけてくる奴は一匹もいなかった。
まさに風呂の水が排水口に吸い込まれていくように、虫の波は鮮やかに撤退していったのだ。
唐突に背中が軽くなり、料理番が虫のいなくなった床へ降り立ったのがわかった。
負ぶさるときも急だったが、降りるときもコレだ。最初から礼なんて期待していないが。
ただ少しだけ……背中が寂しくなったように感じた。控えめな重みとぬくもりと柔らかさを、もう少し噛み締めておけばよかったか……。
「あんまり腹が立ったから、下水をバーニングさせてやったのさ。フフン、ゴミはゴミ溜めから出てくるんじゃないよ」
そのゴミ相手にパニックを起こしてチビる寸前だったのはどこのどなたでしょうねえ。
そんなセリフが脳裏に浮かび、そのまま消えていった。
代わりに口から出たのは、あくまで業務連絡。
「俺は生徒会に顔を出してくる。被害状況が確認できたら、すぐに虫どもを追撃するつもりだ」
「はぁ? もういいんじゃないの、すごすご逃げ帰ったんだからさ。アタシらの勝ちってことで」
料理番の答えに、追撃戦に加わるつもりでいることを感じて、少し頼もしいと思った。
イカれたハンプティの魔法で、いったいどれだけの大ダンゴムシを葬り去ったのかわからないが、だいぶレベルが上がったに違いない。
今回のような雑魚大量ポップという状況では、料理番が広範囲を焼き払い、仕留めきれなかった瀕死の敵を俺か黒帯か巴御前が処理するという戦法も現実味を帯びてきた。
「自分の寝起きする場所の真下で、あの虫どもが次の襲撃のチャンスを虎視眈々と狙っているなんて、ゾッとしないだろ」
「また来るってのかい? 冗談じゃないよ!」
「そうだろ。だから頭を潰してやらないとな」
「そりゃそうなんだろうけど……追撃ってのはつまり……」
「下水道に突入だな」
俺が言い終わらないうちに、料理番はかわいらしい顔を盛大にしかめた。
わかるぞ。喜び勇んで行くような場所ではないからな。
「やっぱりそう来るわけかい……。しょうがないね、みんなには伝えといてやるよ」
ちっちゃな肩をよけいに落として背を向ける料理番。
俺は彼女の後ろ姿を見送ってから階段を駆け上った。
四階までの道中、生徒会の伝令役三人に「生徒会が探してましたよ」と言われながら図書室にイン。
生徒会長と副会長がダブルで頭を抱え込んでいるという光景を目の当たりにした俺は、そのままそっとドアを閉めて下に戻りたい欲求に駆られた。
ただ、そうもいかないので重い足取りで長机の前に立つ。
「で、状況は」
「芳しくありません」
ですよね。
俺は心の中で、丁寧に同意した。
「八人が行方不明です。四人が食いかけの状態で死亡。負傷者の情報は今集めているところですが、今のところ窓から飛び降りたうち五人でしたっけか。そのうち二人が骨折です」
「敵の撤退に乗じて追撃し、元を叩こうと思う。王を倒して虫どもを配下にできれば、逆に地下の守りを固められるはずだ」
「ああ……僕の判断が間違ってたんでしょうかね。いざというとき窓から避難できるからって言われて、女子を二階にしたんです。逆にすべきだったかな……男子を二階にしておけば、もっと被害が少なかったんでしょうか……」
相当参っているな。
もはや俺の声なんか届いちゃいないようだ。
生徒会長の気持ちはオートリーダー標準装備の者として理解できないわけではないが、今は彼の内省に付き合っている時間が惜しい。
俺は手近な生徒会役員に追撃作戦の旨を言付けて、すぐさま準備に取り掛かることにした。
二階では、俺のパーティメンバーたちが教室の防衛に成功し、健闘を讃え合っていた。
俺の下水行きの言葉には、さすがの黒帯も渋い顔で応じた。
「では、十分後に出発」
「りょうかーい」
応じる声もまとまりなく、パラパラとまばらだ。
リーダーとしては、パーティメンバーの士気の低さがとても気がかりだった。
多くの人は恐らく、士気というものの重要性を、スポーツの試合に出たり応援したりで実感するんだろう。俺の場合はネトゲだった。
メンバーのやる気や自信は、装備の性能をひっくり返す。
全員の士気が高い状態で臨んで、本来なら実力不足で倒せないはずの敵にギリギリ勝てたという経験が何度かあった。
もちろん、逆も経験済みだ。装備レベルも充分で、何度も勝利してきたはずの敵に、メンバーが乗り気でない状態で挑んで瞬殺される……なんてことが。
本当なら、追撃を見合わせるべきなのかもしれない。
ただしそうすると、今この瞬間から、いつトイレから大ダンゴムシが溢れてくるか戦々恐々としながら過ごさなければならなくなる。
ただでさえ慣れない環境に放り込まれて磨り減った精神状態の俺たちを、さらにストレスフルな状況に晒す実験などしたくない。
世界がこんなふうになったとき、俺が三階の窓から俺が見下ろしていたマンホールは今、ただの穴になっていた。
料理番の魔法で下水が爆発したとき、フタが吹っ飛んだのだろう。
マグライトの明かりを差し込んでもチョロチョロと水の流れる音がするだけで、大ダンゴムシが走り回っている様子はない。
それでは、覚悟を決めて入るとするか。