36 彼女のハンプティの半分はイカれた薬でできている
まあ、虫な。
子供の頃は平気で手づかみしていたのに、今急に出てこられると「うおっ」となるのはなぜなんだろうな。
クワガタとかカナブンとか、硬くて手に持ちやすい虫は今でもまったく問題ないが、チョウチョみたいに柔らかい虫は「もし潰したら……」と考えると少しゾッとする。
さらに、何かの弾みで口に入ったらと考えると、心なしか意識が遠のく気がしなくもない。
いずれにせよ、今――足元を巨大なダンゴムシが我が物顔で駆けめぐる状況で考えることではないな。
俺は今、料理番に背中にしがみつかれながら一階を目指している。
運動会の競技に「ムカデ競争」があるだろう。あれの、後ろの奴がめちゃくちゃ密着してしがみついてくる版だと思ってくれれば間違いない。
はっきり言って、とんでもなく歩きづらい。
あと、料理番の胸が俺の背中でぎゅうぎゅうにすり潰されて、なんか……どうすれば。女の胸は神経通ってないのか?
「おい、この先下り階段だぞ。見えてるか?」
「見てないよっ! アタシはなーんにも見てない!」
いや、見ようぜ? 危ないだろう階段。
この状況だ。背後の料理番が足を踏み外したら、俺ももれなく巻き添えを食ってダンゴムシの濁流にダイブすることになる。
いくらなんでも、こけたところで顔かじられるのは嫌だ。痛いとかそういうの以前に、嫌だ。
「料理番、俺に負ぶされ」
「なんでアタシがそんなことしなきゃなんないのさ! ガキじゃあるまいし! ちゃんと歩けてるじゃないか、見てわかんないわけ?」
ちゃんと歩けている要素がまるで感じられないし、ゼロ距離で背中に貼りつかれて一体何が見えると言うんだ。
支離滅裂な料理番だが、彼女をどうにかしない限り、このダンゴムシパニックに決着はない。ついでに、籠城している黒帯や巴御前をあまり待たせては悪い。
「お、異様にでかい虫が来たぞ。料理番、お前小さいから丸呑みされないように気をつけろよ」
間髪入れず首に腕が回され、腰を両脚でホールドされた。
せめて何か言ってから負ぶさってくれ。急に背中の重量が増えてバランスを崩すだろうが。
しかし、だいぶ歩きやすくなったのはありがたい。
俺は通行の妨げになりたまに攻撃してくる大ダンゴムシを雑にさばきながら、目的地である一階の南側トイレを目指す。
階段を降りればすぐだ。そう思ってソロのつもりで階段を飛び降りたら、着地の時に背後から思い切り首をキめられた。落とされるかと思った……。
「料理番、お前、虫嫌いだろ?」
「見てわかんないわけ? 嫌いとか、そういうもんだいじゃないんだよ! アタシが存在を許してないのに、誰の許可を得てのさばってんだい? ホント意味わかんない、早く死んで! 二秒以内だよ!」
首っ玉にしがみつかれているわけで。耳元でそう罵られてもな……。
「俺たちは今、クソムシどもがゾロゾロ這い出してくる穴の前にいる」
「そんな汚い穴は塞いでしまいな!」
「そうだな。だがこの穴は、クソムシどものすみかにつながっている。下水道の中は、奴らの天国だ。きっとウジャウジャいるぞ」
「死にさらせ!」
「異議なし。そこでだ、爆弾の魔術師さん」
俺はおんぶした子供にするように、背中の料理番を揺する。
小さくて軽い物体が、ピクリと動いたのを感じる。
首に巻きついていた腕がほどけていき、肩の辺りで柔らかく添えられるにとどまったことで、俺は窒息死の危機を回避した。
背後で料理番がゆっくりと体を起こすのがわかった。
「棲家ごとクソムシどもを吹っ飛ばすってのはどうだ?」
「気に入ったよ。なかなか素敵なアイデアじゃないか」
「できるか?」
右肩をつかんでいた手が離れていき、俺は再びバランスを崩しそうになった。
料理番が体をひねっているのだろう。
やがて俺の目の前に差し出された小さな手のひらには、かわいらしくデコレーションされたタマゴが乗っていた。
「アタシのハンプティは、加減を知らないイカレ野郎なんだ」
目、鼻、口と、服が描かれたタマゴ。
なるほど、英語の教科書に出てきたハンプティ・ダンプティか。
頬と唇がピンクに塗られ、襟には豪華過ぎるレースがあしらわれた服という、少女マンガちっくなデフォルメがされている。
けれどもその中に詰まっているのは、物騒な薬品と剣呑な魔力だ。
いまだ断続的に大ダンゴムシが湧き出てくるトイレの個室に入ると、料理番が俺の肩越しにイカレ野郎のハンプティを投入した。
俺は片手でシャベルを振り回し、虫どもを散らしながら水洗レバーを踏むと、水とともに虫もハンプティも飲み込まれていく。
虫は節操なく再び湧き出てきたが、俺はそのたびに何度でもレバーを操作した。
ハンプティは今ごろ、どこにいるのだろう。料理番にはもしかすると、自分の魔力を込めた物がどのあたりにいるのかわかっているのかもしれない。
一分くらい経ったころだろうか。
俺の背中でおとなしくしていた料理番が、いたずらっぽく叫んだ。
「今だよ、爆ぜな!」
……何も起こらない。
もしかすると、排水管の中でハンプティは大ダンゴムシにやられてしまったのかもしれない。
そうだとするなら、次の案は――
どぉん!
足の裏に伝わる強い振動。
くぐもった爆発音が聞こえたのは、向かいの教室の窓の外。
首を伸ばせてそちらを見れば、窓ガラスの向こうには闇夜を焦がすオレンジの火柱が上がっていた。