封じられた悪魔の追憶:後編
乳母がいるにも関わらず、いつしかチャドがクリスティアンの子守をするようになっていた。その成長を見守りながら、悪魔は自分が悪魔である事実を忘れていた。あまりにも穏やかで、幸せに満ちた時の中に身を置いていたから。
「チャド、だーいすき」
五歳の幼女にとって、自分と遊んでくれる人間は皆いい人で、大好きな人だった。
「私も、王女様のことが大好きですよ」
他愛のない会話。
それでも確かに心に刻まれていった、大好きという言葉。
成長するにつれ、クリスティアンは王女としての礼儀を覚え、幼い頃のように甘えてくることはなくなった。もちろん、無防備な笑顔で大好きなどとは言わなくなった。
そのことに寂しさを覚え、胸がざわつきはじめたのはいつだったか。
「娘が他の男のものになるというのは、やはり寂しいな」
婚約式を終え、エレデルトがぽつりともらした。
王女は皆の王女でも、一人の女性としてのクリスティアンは婚約者の男のもの。
「ならば何故、婚約などさせたのです」
珍しく、チャドはエレデルトに意見した。
「仕方ないだろう。王女であるからには、国のために結婚してもらわなければならない。それに、クリスティアンはセドリック君を好いている」
エレデルトの答えに、チャドは歯噛みした。
そう、クリスティアンはセドリックに恋をしている。
そんなこと、分かっていた。だからこそ、気に入らない。
何故。どうでもいいはずだ。
変わらない無邪気な笑顔。
それでも、王女としての責任を負い、変わってしまったクリスティアン。
(ずっと側にいられると思っていたが……)
この日々は続かない。
人の世は、心は、常に変化していく。
時の流れに置いて行かれるのは、永遠に悪魔ただ一人。
だからこそ、かつて彼は退屈を持て余していた。
ふと、悪魔の内に湧き上がってきたのは、かつての残虐な日々。
自分は悪魔だ。何を平和ボケしていたのだろう。
失いたくない。離れたくない。ずっと、自分だけのものにしたい。
悪魔を連れ出し、友人のように接したエレデルトも。
いつも明るく話しかけてくれるブラットリーも。
無防備に天使のような笑顔を向けるクリスティアンも。
チャドを慕い、信頼してくれる人間たちすべて。
しかし、その思いもいずれ変わる。人間たちはみんな、悪魔を置いて逝ってしまう。
――だったら、自分と同じように堕とせばいい。
絶望。破壊。憎悪。希望などない、闇の世界に。
あまりにも孤独すぎた悪魔は、失われる前に自分の手で壊すことを決めたのだ。
そして、そのために孤独を抱えていた王女シュリーロッドを利用した。
悪魔としての自分の魔力を取り戻すために。
しかし、エレデルトが死んでしまって、悪魔は自分の心が凍りつくのを感じていた。
再び襲ってきた、空虚感。涙など、流したことがなかったのに、目からは透明の雫が垂れていた。壊してしまえば、満足するはずだったのに。自分の感情が理解できず、悪魔は混乱した。そして、クリスティアンが処刑された。大切にしたいと思っていた、一人の少女。小さな手はもう、動かない。微笑んでいた顔は、憎しみに歪み、もう笑わない。
「私は、何をしているんだろう」
シュリーロッドが封じ手になり、教会にいた神官たちを追い出したことで悪魔の魔力は少しばかり戻った。しかし、その戻った魔力で最初にしたのは破壊ではなく再生だった。魂はもうその身体から抜け出ているのに、悪魔はクリスティアンの亡骸を元のかたちに戻した。魔力で再生された亡骸は、死んでいるというのに美しく、ただ眠っているようだった。シュリーロッドの命で、その亡骸はセドリックへと渡された、不本意ではあったが、悪魔はもう目的を一つに絞っていた。
魔力を完全に取戻し、今度こそこの世界を破壊する。
――自分を一人置いて逝く、こんな残酷な世界はいらない。
悪魔は悪魔らしく、憎悪に満ちた闇の道を歩む。
そして、その先でかつて見た少女の光に出会い、悪魔は再び苦悩する。
「クリスティアン様、あなたが死んでしまったことはとても残念でしたよ。だから、せめてあなたの美しい姿を残しておこうとしたのです」
もう二度と会うことはないと思っていた、クリスティアンの魂。自分はもう、狂ってしまった。それでも、あの時抱いていた思いを。口にしてもいいだろうか。
「私はあなたが好きだったんですよ」
純粋で、何もかもを信じるお人好しの甘い王女だったから。その姿を見て、悪魔のくせに人間と生きたいと思ってしまった。
「なら、どうしてシュリーロッドと契約したの?」
ティアレシアとなった彼女は、苦しそうに問うてくる。まだ、チャドの中にかつての面影を探すように。だから、悪魔は馬鹿にしたように笑ってみせた。このまま彼女がチャドに情を抱いていては、彼女は前に進めない。そして、自分も。
「もう飽きてしまったのですよ。人間は何も変わらない。少しくらいかき乱してみたくなりましてね。実に面白いものが見ることができましたよ」
変わらないのは自分だった。変わりたいと思ったのも、自分だった。壊すことでしか、つなぎとめておくことを知らなかった。人の争う姿を面白いと感じていた昔の自分は、もう今はいなかった。
「それなら、もう十分でしょう」
「いいえ。私は数百年ぶりに魔力をこの手に宿して気付いたのです。やはり、この世界は簡単に手に入れることができる、と」
自分の思い通りの世界。そんなものは存在しないと分かっていても、望まずにはいられなかった。
そして、自分は悪魔だ。優しい世界で、あたたかな時間を過ごすことなどできはしない。
――今度は、あなたの手で、私を封じてくださいね。心優しい王女様。
***
「おはよう、チャド。あなたは、もう私の悪魔よ」
闇の中、追憶に沈んでいた悪魔を呼び起こす声。
新たな封じ手である少女は、そう言ってどこか哀しげに笑った。彼女の後ろには、殺気を隠しもしない悪魔がいた。
(何故、私はここにいる?)
また、何千年も暗闇の中封じられるのだと思っていた。それなのに、悪魔は地上にいる。
そして、目の前にはクリスティアンの魂が宿ったティアレシアがいる。
彼女の中に、憎悪は感じなかった。
エレデルト、クリスティアン、シュリーロッド……大切な人間を死に追いやった悪魔が許せないはずなのに。
彼女の心を受け止めたのは、さっきからずっとこちらを睨みつけてくる悪魔だろうか。
「あなたには、ここで罪を償ってもらうわ」
その言葉で、悪魔はここがどこであるか気づく。
悪魔が目覚めたのは、教会だった。
神官は戻っており、レミーア神の封印は以前よりも澄んでいた。封じられた自分の魔力の片鱗さえも感じない。
自分がしたことは、何だったのだろう。目覚めて、悪魔は自問する。
無駄なことばかりをしてきたような気がする。そう、限られた時の中であがく人間のように。
間抜けすぎる。
ふっ、と笑みがこぼれた。
「あなたは誰ですか。私は、誰なのでしょう」
後悔だらけの記憶。悪魔は忘れたかった。
それでも、壊しても、壊しても、心に残った記憶がある。
自分の罪は。血に濡れた過去は。裏切りの代償は。消し去ることはできない。
いっそのこと、消してほしかった。消えたかった。
馬鹿みたいに、破壊することしか知らなくて。
目の前の悪魔みたいに人と共に生きる選択もあったのに。
置いて逝かれる自分に耐えられなくて。
すべてを自分が壊してしまった。
「あなたはチャド。世話の焼ける私の家族よ」
あぁ。どうして。こんなにも、胸が苦しい。目が熱くなり、視界がぼやける。
家族だと。こんなどうしようもない悪魔が。
悪魔は再び歩き出す。
かつて自分が手を引いた少女に手を引かれ。
その罪を償うための、長い道のりを。
いかがでしたでしょうか。
正直、読者様がどんな感想を抱かれるのか、不安でいっぱいです。
少しでも彼を知っていただけたら、とは思うのですが、どうでしょう。
シュリ―ロッドとチャドが契約を結び、行動していたのは、きっと同じように孤独だったからでしょう。不器用すぎる二人は、自分の手で大切なものを壊して、はじめて気づくのです。自分の側にあったぬくもりに。そしてそれを壊した愚かな自分に。
それでも作者的には、この悪魔もかわいいやつです。
これからが楽しみですね。でもルディが嫉妬に狂いそうです。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます!!
奏 舞音