封じられた悪魔の追憶:前編
いつも読んでくださる方、本当にありがとうございます。
今回の番外編は前後編です!
もう一人の悪魔について、本編で触れられなかった部分。
楽しんでいただけますように。
いつも目の前には、真っ暗な闇が広がっていた。
どす黒い闇が心地よくて、人の悲鳴に酔いしれた。
血の匂い。憎悪の叫び。
その悪魔は、人の心で遊ぶことが大好きだった。
いつだったか、何百年も人間の戦争をかき回していた悪魔は、捕えられた。神の怒りに触れたのだ。
――人を学び、人を護れ。
魔力は、完全に封じられた。
血の味を覚え、人を見下していた悪魔は、自らの魔力を根こそぎ奪われて、発狂した。
あんなに見下していた人間と変わらない身体。しかし、悪魔であるが故に簡単に死ぬことはない。
奪ったのは、太陽の女神レミーア。その名の通り、レミーアは血生臭い悪魔を、陽の光の下に封じた。
そして、悪魔の封印役を神より賜ったのは、高潔な魂を持つ王族。
忌々しい太陽神の教会の地下に封じられ、悪魔は数千年経ってようやく大人しくなった。何をしても、封印が解けることも、封印者である王が悪魔と接触することもなかったからだ。
眩しい陽の光に目も慣れてきた頃。
はじめて外からの呼びかけがあった。
「はじめまして。私はエレデルト・ローデント。一応、ブロッキア王国の国王をやっている。そして、今日からは君の封印者となる。君の名は?」
若く、生命力に溢れた男だった。そして、人の良さそうな笑顔を浮かべていた。
この男は馬鹿だ。封じられている悪魔に自分から接触するなど。
操ってやろう。悪魔は久々に疼いた感覚に、残虐な笑みを浮かべた。
しかし、いくら男の目を見ても、澄んだ瞳は濁らない。
魔力を失っていることさえ、長い時の中で悪魔は忘れていた。
そして、屈辱にも封印者である人間に笑われた。
「そんなにじっと見つめて、どうしたんだい? 私の顔に何かついているのかな」
悪魔は黙りこみ、男が去るのを待っていた。
「君の名前を教えてくれないか?」
名前。名前。うるさい男だ。名前がなくとも、悪魔とでも呼べばいいものを。
「名前を忘れてしまったのかな。だったら、私が名づけてもいいだろうか」
一方的に、エレデルトは話し続ける。
「……チャド」
そして、一方的に悪魔に名を付けた。
「なんだその名前は」
はじめて、悪魔は口を開いた。
「意味はないけど……なんだか響きが不思議で、面白いから?」
「ふざけるな、人間ごときが俺を飼いならせると本気で思っているのか!」
呑気な笑顔で話すエレデルトに、悪魔は苛立ち、怒鳴った。しかし、それすらもエレデルトはにっこりと受け止める。
「飼いならそうなんて、思っていないよ。ただ、私を助けて欲しいと思ってね。私はまだ王になったばかりで、分からないことだらけなんだ。でも、チャド、君なら博識だろうし、賢いし……それに、君は人間を学ばないといけないんだろう? 私も、王を学ばなければならない。お互い、助け合えないかな?」
馬鹿馬鹿しい。そう一蹴してもよかった。それでも、悪魔は考えた。もしかすると、外に出れば、自分が復活を遂げられる日が来るのではないか……と。
その日から、悪魔は国王補佐官のチャドとなった。
*
「なあチャド、どうすればいいと思う?」
エレデルトは、悪魔の封じ手でありながら、気心の知れた友人のように接してきた。一国の王が悪魔相手に、だ。
「貴方様はこの国の王。思うように行動すればいいではありませんか」
だからこそ、悪魔は嫌がらせのように敬語で、他人行儀な態度を心がけていた。悪魔には、もう人を傷つけることも惑わす力もなかったから。馴れ馴れしく接してくるエレデルトに対しては、これぐらい礼儀正しくしておいた方がちょうどいい。しかしそれが、周囲から見て立派な主従関係に見えることに、悪魔はまだ気づいていなかった。
「結婚はいずれしなければならないとは思うが……」
国王の結婚は、重要な問題だ。それ故に、エレデルトは悩んでいた。
「花嫁候補は決まっているのでしょう?」
国王の結婚について相談されるほど、信頼されてしまっている。悪魔は溜息を吐きながら返す。
「あぁ。そうだな」
そしてエレデルトは西で勢力を拡大していたカザーリオ帝国を牽制するため、ザントリオ王国と同盟を結び、その姫アンネット王女を正妃として迎えた。大人しく、可愛らしい姫だった。国のための結婚ではあったが、エレデルトは彼女を心から愛した。そして、エイザック侯爵家の姫レイネを第二妃として迎えた。国内で派閥をきかせていたエイザック侯爵を手中に収めるためである。
エレデルトは二人の王妃を大切にし、二人の子どもを授かった。
はじめに身籠ったのは、レイネ王妃だった。
「どんな子が生まれてくるのか、とても楽しみだよ」
新しい命が生まれてくることに、何の感動もない悪魔に向かって、エレデルトは嬉しそうに語る。まるで、その命の誕生を共に祝おうとでもいうように。
人としての生活は、窮屈なだけだと思っていた。しかし、人とは限られた時の中で自由を求めて精一杯生きていた。それを滑稽だと笑えていたのは、エレデルトと出会って数年だけだった。自分もまた、人の中で生き、人と生きることになったから。
しかし、悪魔には感情が分からない。ただ、自分の心はひどく冷たく、空洞なのだと理解した。
「かわいいだろう? 娘のシュリーロッドだ」
エレデルトは産まれた娘を抱いて、父親の顔になっていた。
しかし、生まれてきた赤子を見ても、悪魔は弱そうだなと思っただけだった。まだ、悪魔は悪魔として存在していた。
仕事熱心で、忠義に厚い……と。
ただすることが仕事しかなかっただけなのに、何故か国王の側近にも信頼されるようになっていた。
そして、煩わしいと思っていたその信頼に、何故か応えている自分がいた。理由は分からなかった。放棄することもできたはずなのに、チャドとして毎日エレデルトに仕えていた。
「おい、チャド。お前いつも仕事ばっかだな。何か楽しみないのか?」
同じくエレデルトに仕える近衛騎士団長のブラットリーは、チャドに対しても裏表のない笑顔を向ける。エレデルトの相手だけでも面倒なのに、ブラットリーまでチャドをかまってくる。
煩わしいはずなのに、悪魔は拒絶する気にならなかった。
「楽しみなんて、私には必要ありませんよ」
「うわ、なんだそれ。絶対人生つまんねぇだろ!」
つまらない。そう、まさにつまらない時間ばかり過ごしてきた。だからこそ、人間たちで遊ぶようになったのだ。その結果、封じられて人間に仕えているが。しかし、エレデルトに外に連れ出されてからは、悪魔の内にあった空虚感は不思議と薄くなっていた。
「ここにいることは、つまらないこともない。どうしてだろうな……」
自分の気持ちが自分で分からず、呟いた。ブラットリーはその言葉を聞いて、にっと笑う。
「そうか、ならいい! でもいつか、無表情なお前が腹をかかえて笑うところが見てみたいなあ!」
そんないつかは来ない。もし魔力を取り戻す方法を見つけ、悪魔として目覚めたなら、自分が人間として過ごした屈辱を覚えている人間は皆消すだろうから。
それでも、今はまだ、自分は人間としての力しか持たない。
悪魔は、自分でも気づかないうちに居場所を見つけてしまった。見下していた人間の中に。
「私は、絶対に笑いませんからね」
そう言った悪魔の口元は、弧を描いていた。
*
「チャドっ!」
ひょこひょこと、小さな少女が悪魔を求めて走ってくる。
第一王女シュリーロッド誕生から二年後に生まれた、正妃アンネットの娘。
「クリスティアン王女様、走ってはいけません。転んだらどうするのですか」
注意したそばから、少女の身体は不自然に傾く。
短い溜息を吐きつつも、悪魔はふわりと軽い王女の身体を抱き上げた。嬉しそうにきゃっきゃと笑うその顔に、悪魔の表情も自然穏やかになる。
「チャドは、目が悪いの?」
まるい碧色の瞳は、悪魔の銀縁眼鏡を見つめている。チャドの目は悪くない。この眼鏡はただの飾りだ。はじめは、人間を拒絶するために眼鏡をかけた。しかし、それによってエレデルトがチャドに銀縁眼鏡を贈ってきた。仕方なく、その銀縁眼鏡をかければ、似合っていると称賛された。それ以来、何故かこの銀縁眼鏡を手放せなくなっている。
「そうなんです。これがないと、何も見えなくなるんです」
人の闇。憎悪。血なまぐさい戦い。そんなものばかりに目を向けて、どす黒く染まった瞳では、何も見えない。エレデルトにもらった銀縁眼鏡をかけていると、不思議と人間の良心や優しさが見えてくる。
「まあ、それは大変ね。でも、もしその眼鏡をなくしても大丈夫。チャドにはみんながついているもの!」
まだ幼い王女は、この世で最も危険な男に対して無邪気に笑う。
悪魔の力などなくても、王女の命は簡単に奪える。エレデルトを絶望させることができるだろう。そう思っても、この腕に抱く脆くか弱い存在を壊す気にはならなかった。
自分に縋ってくる、小さな手。
無防備な笑顔。
寄せられる絶対的な信頼。
悪魔は、人の世に毒されつつあった。
いい意味でも、悪い意味でも。