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第二章 終夜

 視界を開いた瞬間、青い光が目に降り注いだ。いつも見ているはずの光なのに、こうして空をまじまじと見上げたことはなかった。何度も瞬きを繰り返しながら、鬱蒼とした光景を目になじませていった。

 意外と意識ははっきりしていた。つい先ほどまで深い眠りに誘われていたと思っていたのだが、妙に身体が清々しい気分だ。普段寝起きが悪い彼にとっては恐ろしく気持ちが悪かった。もっとぼんやりしてくれたほうがまだマシだ。

 背中に妙な柔らかさを感じた。普段寝ている布団よりもずっと撓る布の上にいるかのようだった。なんとなくハンモックで寝るのはこんな気分なのだろうなと彼は思った。

 ゆっくり上体を起こすと、そこで彼は自分の姿の異変に気づいた。

 胸が重い。まだ小学生で筋肉もついてない彼の胸が、異様な重量感を加えていた。言葉に詰まっていると、今度は短いはずの髪の毛がふわりと、頬をさすった。

「あらぁ、お目覚めかしら」

 聞き覚えのない女性の声が聞こえた。いや、少女かも知れない。

 横を見ると、銀色の髪をした女――中学生くらいか、もう少しぐらい上の少女がいた。

「生まれ変わった気分はどうかしら?」

 クスッと嘲り混じりの笑みをこぼし、彼女はそっとこちらの肩を抱き寄せる。

 ようやく今の状況が飲み込めた。

「オレは、もう……」

「人間じゃないわ。それに、男でもない――」

 不思議と驚かなかった。世間にはあまり知られていないことだが、彼女らがこうして若い少年たちを妖に変えていることは彼は知っていた。

 彼は至って冷静に、周囲の状況を掴み取ろうとした。

 真下を見下ろすと、真っ白なハンモックの下に木々の集団が並んでいる。多分、彼女は高い木と高い木の間にこれを仕掛けたのだろう。

 そしてこのハンモック――これを作ったのは彼女自身。それどころか、この材料自体も彼女が生産したものだ。

「女郎蜘蛛……」

「あらあら。博識ねぇ」

 蜘蛛の妖で真っ先にそれを思い浮かべたが、どうやら正解だったようだ。彼女はこうして獲物となる少年を待ち伏せていたに違いない。

「どういうつもりだ? オレを、妖なんかにして」

「お言葉だけど、あなたさっきまで死にかけていたのよぉ。あの崖から落ちたの覚えていないの? あたしの巣がなければそれはもう悲惨なことになっていたわぁ」

 人間社会だったらまず詫びの一言でも出るところだが、どうやら彼女にはそんな常識など知ったことではないらしい。命さえ助かれば人を人でなくすことを躊躇などしないのだろう。

 憎さも感じなかった。目の前にいるこの妖に対して抱いている感情は濛々とした意識の中にかき消された。

 少年だった少女の右手が、突然女郎蜘蛛の首根っこを鷲掴みした。続いて、左手も……。

「ぐっ……」

 あまりにも突然の出来事に、女郎蜘蛛は白目になりかけながら少女を見つめる。彼女の瞳は光が消えていた。それは彼女に纏わり付いているはずの青い月の光も同様だ。感情全てを殺して機械人形のように心のない暴力を犯そうとする、妖の中でも最もたちの悪い目をしていた。

 手が徐々に強張っていく。女郎蜘蛛の喉元に親指が食い込んでいく。

 頭から血が失せていく感覚すら、既にぼやけ始めていた。視界に映る少女の姿も半分ほど見えなくなっていく。


「う、あぁぁぁ……」

 女郎蜘蛛は掠れていく声を必死で挙げて、


 ――そのまま、意識を失った。




「お母様、失礼いたします」

 障子の向こう側から琴の音が聞こえる。古い日本家屋の縁側は蒼い月の光に照らされ、より風雅な雰囲気を醸し出していた。

 如月静流は縁側に行儀良く正座しながら、すっと息を整えた。

「お入りなさい」

 琴の音が止まり、中から凛とした女性の声が聞こえた。

 障子を端正な手つきで開き、静流は頭を下げて中に入る。やや虚ろな目をしながら、着物の裾を直して再び正座する。

 普段二つに結っている髪も、今は下ろしていた。その髪を微塵もたなびかせることもなく、すっと顔を母親へと見据えた。

「お母様、お話があります」淡々とした口調で少女――如月 静流は話した。「先日、私が退魔委員の仕事で倉成山の洞窟へ行ったことはご存知ですね」

 母親はぴくりと眉を動かすが、そのまま黙り込んだ。

「あの場所で私は、かつてお母様が封印した雪女を見つけました。それも、二人――」

「それが何だというのです?」

「単刀直入に申し上げます。私は、その雪女の一人が、かつてお母様が愛した男性だということを知っています。お母様はそれをご存知でしたか?」

 母親は全く娘のほうを向こうとはしなかった。そして、全く何も答えようとせず、ひたすら膝元の琴を見ているだけだった。

 徐々に、静流も苛立ちを覚える。

「知っていたのですね」

「ええ。もちろんです」

「つまり、妖がどのようにして伴侶をつくるのか、存じていた、と。まさか、人間の男を自らと同じ妖にするとは、さすがに私も知りませんでした」

 静流の視線が更に鋭くなっていく。

 汚い言葉を使うならば、「ふざけるな」と言いたい。大人の事情なのか何なのか知らないが、人として、そして妖と戦う者として、最低限知っておかなければならないようなことを母親は隠していたのだ。もう教え忘れていた、などでは済まされない。

 この母親は果たして自らの手で愛する者を傷つけた罪を悔やんでいるのだろうか。いや、そんな気配は微塵もない。過去の罪など生きていく上で必要としない女なのだと思った。

 とりあえず気持ちを落ち着けて、母親にもう一度尋ねた。

「お母様、いい機会ですから教えていただけないでしょうか? そもそも私たちが戦っている“妖”とは一体何者なのですか? 何故、男性を――」

「あなたが知る必要はありません」

 母親の淡々とした口調は、静流を言いよどませてしまった。萎縮したまま、静流はすっと背後へ下がる。

「そう、ですよね。お母様は昔からそういうお方ですから。肝心な場面で私を子ども扱いして、綺麗事以外のものを私から遠ざけようとする、そういう人です」

「言いたいことはそれだけですか?」

「分かりました、お母様――」

 静流は怒りを最大限に込めた。

 もうこの手しかない――。一見退魔師として人々のために妖と戦っているようで、実は過去の罪に対する罪悪感を持たない、冷血な女。最早彼女を母親として、人間として尊敬できなくなってきた。

「私にも、考えがあります」

 決心した。もう、この女と決別しよう、と――。



 小金山 神威は玉葱を切っていた。

 鋭い眼光で、全く涙を滲ませることもなく、皮を器用に剥く。まな板の上に置かれたその玉葱は、研ぎ澄まされた包丁により細胞一つ潰すことなく、あっという間に薄切りの山へと変化していった。

「ふぅ、ざっとこんなもんだぜ」

 にやりと一人で笑いながら、己の腕に惚れ込む神威。

 まな板には他に鶏の挽肉、人参、ジャガイモが既に仕込みを終えて並べられている。今夜の食事は簡単な肉じゃがを作ろうと踏んでいた。

「っと、そういやマグロの切り身をもらったんだっけ。アレは、とりあえずネギトロにでも……」

 鍋を準備しようと思った段階で、ようやく冷蔵庫の中に入っているものを思い出した。今朝方にアパートの管理人が一人暮らしの神威に、とお裾分けしてきたものだったが、どうしようかと迷っていたところだった。

 マグロを取り出そうと冷蔵庫を開けた瞬間、不意にドアのチャイムが鳴った。

「いるんでしょ、神威!」

 やや乱暴な声で聞き覚えのある少女の声が聞こえてきた。

 ドアを開いた瞬間、神威の眉間に皺が寄った。

 罰が悪そうに玄関に佇む少女は、あの如月 静流だった。無理矢理目を合わせないようにしているのか、左下のほうをずっと向いたまま口をへの字に曲げていた。

「……何しに来たの?」

「今晩泊めて」

「えっと……、何で?」

「今晩泊めてって言ってるでしょ! 理由なんて教えるつもりはないからとにかく上がらせなさい!」

 半ば強引に静流は玄関を上がり、リビングへと入り込んだ。

 無礼にも程があるだろ、と怒りたい神威ではあったが、何故だか帰すのも悪い気分に陥ったのでとりあえず自分の気持ちをため息で誤魔化す。ゆっくりとリビングへと戻り、座り込んでいる静流を見下ろしながら尋ねた。

「いくらなんでも失礼だと思わないのか?」

「……ごめんなさい。でも、今日はどうしても家に帰りたくなかったから……」

 仏頂面だったが案外素直に謝罪する静流に、神威は頭を掻いて困惑した。

「で、何でオレの家なんだ? てか何でオレの家の場所を知っているわけ?」

「……風星君に聞いた」

 だろうな、と神威は納得した。二人が共通して親しい人間といったら安土 風星しかいないだろう。

「てか別にオレじゃなくても他に泊めてくれそうな友達いないのか? 小春とかさぁ……」

「……今日は風星君の家にお泊りしている」

 ――あのバカップルどもめ!

 神威は知っている。昔、年端もいかない男女が一つ屋根の下で甘い夜を過ごすことを「不純異性交遊」と呼ばれていたということを。実際何をしているのかは知らないが、とにかく由々しき問題なのではと思った。

 が、それはそれとして今は目の前の静流を何とかしなければ。

「まぁ何で家にいたくないのかは聞かないでおく。とりあえずお前はシャワー浴びて来い」

「えっ……」突然静流の顔が赤くなったかと思ったら、鬼の形相で神威を睨みつけた。「な、何考えてんのよッ! スケベッ!」

 流石にこの反応は予想していなかったのか、神威は仰け反って手を振る。

「お前が何考えてんだよ! いいからとっとと汗ぐらい流して来い! その間に飯作ってやるから」

 何とか神威が取り繕うと、静流は落ち着いたのかそのままバスルームへと向かう。多分あの様子だと完全にこちらのことを警戒しているだろうなと神威は頭を抱えた。

 ふと、まな板の上の食材に目がいく。そうだ、冷蔵庫にマグロもあることだし――。

「一人分増えちまったし、肉じゃがはやめてアレつくるか」

 エプロンを締めなおし、冷蔵庫からマグロを取り出してまな板の上に乗せた。


 ――そういえば今、風呂場にはアイツが入っていたような。



 ぶすっとしかめっ面をしたまま、静流は脱衣所に入りそのまま服を脱いだ。

 上半身が裸になった状態で、ふと自分の身体を見下ろす。お世辞にも膨らんでいるとはいえない胸は少々コンプレックスだが、おそらく歳相応には膨らんでいるのだと信じたい。が、自分のよく知る胸――小春の風船巨乳にはまだほど遠いところだ。

 ほどなくすれば、同世代の男子もやがて女性になる。もしかしたら彼らは自分より大きな胸になるかもしれない。それどころか自分より見た目も中身も女性らしくなってしまう可能性もある。そればかりは悔しいと彼女は考えていた。

「何考えてんのよ、アタシは。バッカみたい」

 当たり前のことだったはずだ。今この世界には大人の男など一人を除いて存在しない。将来的には全ての男子たちは自分と同じ身体になるのだから、気に病む必要はないはずだ。

 そんなことを考えながら、静流は浴室の扉を開いた。

「あらぁ、静流ちゃんじゃないのぉ。来てたのねぇ、いらっしゃぁい」

 どこかしら妖艶な声を放ちながら、銀髪の女性が裸でシャワーを浴びていた。

 しばらくボーッと彼女を眺めた後、

「きゃあぁぁぁぁぁぁ!」

「おいおい、どうした!?」

 慌ててやってきた神威を見るなり、静流は

「きゃあああああああああああああああああああ!」

 更に大声を張り上げて、入浴剤の容器をゴンッ、と勢いよく彼の顔面に投げつけたのだった。


 浴槽内で俯きながら、静流はただじっと蹲っていた。腰掛に座りながら例の女性はひたすら身体を泡で擦っている。一見大人びているかと思ったが、歳は自分よりも少し上、中学生くらいだろうか。少し濡れた銀色の髪が充分に大人の魅力を引き出していた。あと、胸もかなり大きかった。

「まったく、アイツはホンッッッッットに信じらんない!」

「そりゃあ、あんなに叫んだらそうなるわよぉ」

 この独特の喋り方。最初は眉唾ものだったが、よくよく考えたら聞き覚えがあるはずだった。

「それにしても驚いたわよ。まさかアンタが、神威の腕に貼りついていたあの蜘蛛だったなんて……」

「昼間は妖力を封印しているからねぇ。あたしだって二十四時間この姿でいられるならいたいわよぉ」

 そこで会話が止まった。考えてみれば彼女が出るのを待っていれば良かったのだが、成り行きに任せて一緒に風呂に入ってしまったことを少し後悔していた。

 魂が抜けたように静流は口まで湯に浸かりながらぶくぶくと泡を立てた。

「もしかして、怖がっているのかしらぁ?」

 静流は黙り込んだ。考えてみれば退魔委員である私が何故妖と一緒に風呂に入っているのだと、妙に冷静な思考まで働いた。

 あまり気落ちするのも馬鹿らしかったので、とりあえず上半身の姿勢だけ正した。

「怖がってなんかいないわよ」

 ようやく口を開いた静流は、彼女と目を合わせないようにしてしゃべった。

「だったらもう少し仲良くしてもいいじゃないのぉ」

「勘違いしないで。私はこれでも退魔師の端くれなんだから。妖のあんたとは仲良くできるわけないじゃない」

「そう? 面倒臭い子ねぇ」女郎蜘蛛は首を横に捻り、「だったらダーリンとも縁を切ったほうがいいわねぇ。一応、妖なんだから」

「ふざけないで! あいつは人間よ!」

 頭に血が上った静流は思わず浴槽から立ち上がった。

「あらぁ? そんなに怒っちゃってぇ。もしかしてダーリンのこと好きなのかしらぁ?」

「なっ……」

 顔を真っ赤にしながら静流はゆっくりと再び浴槽に座る。

「図星かしらぁ?」

「図星じゃないわよ! 誰があんな、奴……」

 ふと静流の脳内にこないだの出来事が思い出された。小春に襲われた自分を助けてくれた、神威の姿。静流だけではなく、妖にされそうになった風星も、自分を見失っていた小春も彼は救った。妖の姿になりながらも誰よりも人間らしい心を持っていた、そんな気がした。そう、あいつは人間なのだ。いや、人間であって欲しかった。

「……なんで、あいつを妖にしたのよ?」

 小声で静流は呟いた。その声にはどこか悔しさが滲み出ていた。

「仕方がなかったのよぉ。そうでもしなければ、ダーリンの命は危なかったんだからぁ」

 命が危なかった?

 その言葉に静流は先ほどまで逸らしていた目線を、女郎蜘蛛のほうに一気に向けた。

「それって、どういう……」

「一年ほど前かしらねぇ。怪我を負った男の子が、突然崖から落ちてきたのよぉ。偶然にもあたしが貼った蜘蛛の巣に引っかかってくれたおかげで死ぬことはなかったけど、どうやら崖から落ちる前にものすごい怪我をしていたみたいだったの。」

「落ちる前から、怪我?」

「えぇ。酷い怪我だったわ。あれは人間か、もしくは妖のどちらかに襲われたような……。どのみち残された手段は妖力を注ぎ込んで彼を妖にしてしまうしかなかったの」

「そんな、それじゃあアイツは……」

「それで、あいつは女郎蜘蛛に……」

「でもね、話はそれだけじゃないのよぉ。私はね、目を覚ましたダーリンに首を絞められて、妖力を奪われたの。こう、掌に力を込めて、ぎゅうっと」

 女郎蜘蛛が手で首を絞めるしぐさをする。

 瞬時に、静流の背筋に戦慄が走った。巨大な氷柱を押し付けられたような戦慄だった。

「奪われたって、まさか、あの神威に? 冗談ですよね」

「それがねぇ、冗談じゃないのよぉ。あのときのダーリン、妖のあたしが感じたこともないような恐ろしい恐怖を放っていたの。ええ、今のダーリンからは微塵も想像がつかないような、ね」

 女郎蜘蛛の目が少し血走っていた。

 怒りではなく、何かに怯えたような血走り。彼女自身、そのときの光景は凄まじいほどの脅威だったに違いない。

 そんな彼女が今は何故神威と一緒に? 疑問符が静流の中に投げかけられた。

「じゃあ、あんたは何故――」

「ダーリンと一緒にいるの? って聞きたいんでしょう」

 質問を読まれたので、静流は口を噤んだ。

「心配だったのよ」

「えっ?」

 おおよそ彼女からは出てこないような意外な答えが発せられた。

「あなたは疑問に思わなかった? まだ小学生のダーリンがどうして一人暮らししているのかって」

「そりゃあ、思ったわよ」

 静流が率直な感想を述べる。

「あの子ね、親の顔を知らないの。ずっと昔に捨てられて、それから施設に入ることもなく一人で暮らして……。心配になって当然でしょ? それに私も妖力を失った以上、あそこで暮らすわけには行かなかったもの」

「ホントよく分からない奴……」

「ええ、同感よぉ。ダーリンったら、あたしを殺そうとしたことはおろか、誰かに襲われたこととか崖から落ちたことも全く覚えていないっていうのよぉ。いくら家庭科と体育以外オール2だからって、そこまで記憶力がないわけではないでしょうに」

 女郎蜘蛛がクスクスと笑い出す。けど、どこか本心で笑っている様子ではなかった。

「……ごめんなさい」

「あらぁ? どうしちゃったのぉ?」

「あなたのこと、誤解していた」

 本当は、誰よりも神威のことを知っている。

 本当は、誰よりも神威を心配している。

 本当は、誰よりも神威のことを――愛している。

 全て静流の思い込みかも知れないが、少なくとも彼女の口調からそれが感じ取れた。

 静流も神威と知り合って期間が短いが、それなりに彼のことを理解したつもりだ。多分彼は自分と同じ人間を増やしたくない、そして辛い悲劇を繰り返したくないのだ。あの、風星と小春のときのように。

 静流が考えていると、女郎蜘蛛が浴槽から立ち上がった。

「さぁて、そろそろあがるわねぇ」

「えっ、あ、うん……」

 そういって女郎蜘蛛はすたこらさっさと風呂から出て行った。


 ――まさか、ね。


 彼女の背中を眺めながら、一旦そこで彼女は思考を止めた。




 風呂から出ると、刺激的な香りが彼女の鼻孔に入ってきた。

「あらぁ? 今日はカレーねぇ。肉じゃが作るって言ってなかったぁ?」

「るせぇ。変更したんだよ。食いたくなかったら食うな!」

「まさかぁ。ダーリンのご飯なら何だって食べるわよぉ」

 姿が変わっているにも関わらず、何の気兼ねもなくじゃれあう二人。それだけ神威と女郎蜘蛛の間には愛とか友情を超えた信頼関係が築かれているのだろう。

 静流には、入る隙もないような。

「静流、カレーは嫌いだったか?」

 静流が呆けていると、神威が聞いてきた。

「えっ……、ああ、好きだけど……」

「そっか。とりあえずまぁ座れよ」

 神威の気さくな態度に従って、静流は静かに着席した。卓の上には既にカレーライスがよそられ、スプーンも並べられている。

「ダーリンの愛情たっぷりカレー、いただきまーす」

 女郎蜘蛛は元気良く手を合わせてからカレーを勢い良く頬張った。

 静流は少し戸惑った後、一匙口に入れる。あっさりとした風味が口いっぱいに広がった後、辛さがじんわりと効きだす。ほどよく人参、玉葱、ジャガイモの甘みがルーにマッチしており、これがまたつややかに炊かれたご飯と合う。

「……美味しい」

「だろ? 鶏肉とマグロを使ったあっさり味にしてみた。カレーなんて滅多に作らないし、少し変わったのに挑戦してみたんだけど、上手くいったな」

 得意げな表情で笑う神威。

 一口、また一口とカレーを口に運んでいると、いつの間にか皿の上がすっかり空になってしまった。多分、ここ最近で一番美味しいものを食べたと思った。

「ご馳走様」

「お粗末!」

「……女子力高い」

「おい、それ褒めてねぇだろ」

 一応静流なりに精一杯褒めたつもりだったのだが、神威は気に入らなかったようだ。

 ふと女郎蜘蛛のほうを見つめた。彼女もまたカレーを美味しそうに舌鼓を打ってご満悦といった表情だ。


 ――どうして、二人ともそんなに笑っているの?


 自分でも良く分からないまま妖にされた神威。その神威に妖力を奪われた女郎蜘蛛。お互いがお互いを憎み合っても仕方がないのに、二人は笑いながら仲良くカレーを食べている。

「もう、ダーリンの手作りカレーってばそこらのレトルトより全然美味しいんだから」

「微妙な比較対象出すんじゃねぇよ、ジョロ子!」

「だってあたしダーリンの以外、レトルトしか食べたことないからぁ。あと、そのジョロ子ってのはやめてほしいわぁ」

 ぶっきらぼうにふてくされる神威と、ベタベタとじゃれてくる女郎蜘蛛。

 付き合いたての男女のような光景が静流の思考回路をどんどん混乱させていく。でも、静流はどういうわけかそんな二人を眺めるのをやめることはできなかった。

『それでは次のニュースです。仙波総理が人妖共栄論についてイギリスの首相と会談しました』

 付けっぱなしだったテレビから淡々としたニュースの報道が流れる。

 そのニュースを聞くや否や、先ほどまで目もくれなかった神威が突然振り向いた。

「ちょっと、神威……」

「しっ!」

 女郎蜘蛛が指を立てて静流を止めた。

 テレビに六十過ぎの男性が映る。飛行機から降りた彼はビッチリとした高級なスーツに身を包み、ややこけた頬を自慢の笑顔で渋く際立たせている。ブラウン管越しではあるが、彼はこちらを見ながら得意げに手を振ってお茶の間に存在をアピールしていた。

 何故この世界に大人の男性が? という疑問が湧き上がるかも知れない。その問いに答えるのならば、彼は現存する世界唯一の男性なのだ。

 仙波総理がまだ幼い少年だった頃、突然蒼月が発生した。周囲の男性たちは皆一斉に女性の身体へと変貌し、また自分よりも年下の男児たちも成長するにつれ女性になるという異常現象が起きた。しかし、どういうわけか彼一人だけが成長しても男のままだった。

 彼は必死で勉強した。世界で唯一残った男性になってしまうと悟った彼は己が出来ることをひたすら学び、様々な職を経た後に政治家となった。そして昨年、ついに内閣総理大臣の座に就いたのだった。

『仙波総理がたった今イギリスから帰国してきました。現場には大勢のマスコミたちがカメラを構えており……』

 ニュースとしては大して面白くもない総理の帰国風景だったが、神威は食い入るようにそれを見つめている。静流は首を傾げ、とりあえず黙っておいた。

「じいちゃん……」

「えっ?」

「やっぱじいちゃんはすげぇや! あんな大勢のマスコミの前で堂々として、すげーかっけぇ! なぁ、ジョロ子」

「はいはい。本当におじいちゃんっ子ねぇ」

 女郎蜘蛛は笑みをこぼしながら宥める。

「あのさ、神威。じいちゃんって……」

「ああ、言ってなかったっけ? 仙波総理ってオレのじいちゃんなんだよ」

 静流はその答えに一瞬呆けた後、

「えええぇぇぇええぇぇぇえ!?」

 素っ頓狂な声を挙げた。

 確かに、世界で唯一残った大人の男性である仙波総理は、大勢の女性と交わることを許された。つまり彼の子孫がそこらじゅうに散らばっていてもおかしくはない。

 しかしまさか、こんな身近にいるとは静流は夢にも思わなかった。

「あんたが総理のお孫さんだったなんて……」

「あぁ? なんか文句でも?」

「いや、別に……」

 一応あるにはある。何故あんなカリスマ性の塊のような総理の孫がこんなカリスマのカの字もないような男子なのか、と。とはいえ一宿一飯をお世話になっている身としては変な突っ込みを入れるのは申し訳なかった。

 そうこうしているうちに、ニュースは次へと映る。

『では次のニュースです。倉成公園でまたも行方不明者が出ました』

 そのニュースを聞くと、今度は静流も女郎蜘蛛も目を移した。

『行方不明になったのは近所の倉成学園初等部に通う小脇 靖君(10)。調べによりますと、小脇君は塾の帰りに友達と公園近くで別れた後に行方不明となった模様。現在警察はこれまでの事件と関連して調査を続けています』

「なぁ、おい……」

「これってもしかして……」

 その瞬間、突然静流のスマホが鳴り出した。

「はい、もしもし。あぁ、小春? うん……、えっ?」

 真剣な表情のまま、静流は顔を強張らせた。



 夏の夜らしい蒸し暑さが外に広がっていた。

 街灯が申し訳程度に照らされた倉成公園は、アスファルトが淡い蒼の光に染まって気持ち悪さを余計に醸し出していた。

 自分に張り付いた蚊を叩いた後、頬を掻きながら神威は公園内をまじまじと眺めている。

「本当に風星はここに入っていったのか?」

「……うん」

 小刻みに震えながら、桜庭 小春は首肯した。

 公園の奥は真っ暗で人気もない。蒸し暑さの中にある申し訳程度のそよ風が少し涼しい。少し前までこの雪女のせいで肌寒かったのが嘘のようだ。

「そのときの状況を詳しく教えて」

「え、えっとね……二人で歩いていたら、突然風星君が立ち止まったの。『どうしたの?』って聞いたんだけど、聞こえなかったかのように公園へ向かっていって……、追いかけたんだけど消えちゃって……」

 小春がたどたどしく説明する。まだ落ち着いていないのだろう。

「ニュースでやっていた事件と同じね」

「やっぱりこれって妖の……」

「でしょうね」

 妙に冷静な静流を見て、小春はしゅんと萎縮する。

「ていうか、お前らこんな夜中に何やってたんだよ?」

「ふ、普通にコンビニに行ってただけだよ……」

「昔、不純異性交遊って言葉があったってじいちゃん言ってた……」

 はぁ、と呆れたため息をつくと、一人の少年がすっと公園に入っていくのが見えた。

 歳は神威たちと同じくらいだろうか。どこか瞳は虚ろで、何故かパジャマ姿に裸足である。

 徘徊癖があるという様子ではない。足音も立てず、左右に身体を揺らしながら一歩ずつ公園の奥へと向かっていく。

「おい……」

「あんたどこへ行くの!?」

 返事はない。

「風星君も、あんな感じで……」

「なるほど。ついていってみよう」

 三人は少年の後を付けた。姿は既に無くなっていたが、一本道だったので進む方向は決まっていた。

 途中、何度か身体にどっしりと重い感触が伝わる。一瞬でその感触はなくなるが、数歩歩いたところで再び重さを感じた。

 呼吸を整えながら、奥へ奥へと向かっていく。何度も唾を飲み込み、森閑たる並木道をひたすら進んでいった。

 しばらくすると、先ほどの少年がぼんやりと、尻子玉でも抜かれたかのように腑抜けた顔で立ち止まっていた。

 ――様子が、おかしい。

 できる限り距離を置いて、三人は少年の姿をじっと見つめていた。

 すると、突然少年の身体は朧気に光りだす。と思った矢先、その光は彼の身体ごと虫一匹程度の大きさに縮んでしまった。

「あれ……」

「シッ!」

 あまりに異様な光景を目の当たりにした三人は、光が少しずつ動いていくのを黙ってみていた。

 辿った先に見えたのは、恐ろしい光景だった。

 小さな光の粒が、ある一点に集中していた。数えるのも億劫になるほど、無数の光――それが並木道の奥にひっそりと佇んでいる大木に集まっていく。

 身の丈は分からないが、多分この三人が肩車しても届かないくらいの大木だった。

「さぁ、我の元へ集まれ。そして、我と一体となり、我の子となるがよい……」

 どこからか太い女の声がした。すると光は吸い込まれるかのように大木へと集まっていく。

 そして、大木の枝に揺られている蕾が、一斉に花開いた。光は花の中に吸い込まれ、また蕾へと戻っていく。

「そう。今はゆっくりお休み……。我の娘となる子らよ……」

 光があらかた蕾の中へ入った瞬間、大木の幹からギロッと生々しい眼が現れた。

「キャッ!」

 小春が思わず声を張り上げる。

 眼がゆっくりこちらのほうを見据えていた。多分、今ので完全に気付かれたに違いない。

「誰だ!?」

 大木の仰々しい声に、神威はやれやれといった表情を浮かべながら静かに前へ出た。

「うわ、こりゃまたとんでもないヤツが出てきたもんだな」

『なるほど、古椿の霊ねぇ。年を経た椿の木は人をたぶらかす怪木となるそうよぉ』

「お前も人をたぶらかす妖だろうが」

『失礼ねぇ。あたしをこんな節操のない丸太と一緒にしないで』

 まるで緊張感の欠片もない神威と女郎蜘蛛のやりとりを見て、怪木の眼に血が走った。

「先ほどから我の嫌いな蜘蛛の匂いがすると思ったら、なるほど、貴様か……」

『お言葉ねぇ。これでも体臭には気を使っているほうなのよぉ』

「それはマジ。俺の部屋にはこいつ専用のアロマオイルとかあったりするから」

「あんたらねぇ、何の話してるのよ……」

 静流が呆れたような表情を浮かべると、余計な雑談が一旦止まった。

「そこの少年よ……」

 古椿が神威に語りかけてきた。

「貴様……一体どういうことだ? 何故我の妖術に……いや、なるほど。その蜘蛛と行動を共にしているということは、貴様は既に……」

「妖だよ。こいつのせいでオレはとっくに人間捨ててるの」

 神威は右腕を這っている女郎蜘蛛を左手で指差し、悪態混じりに説明する。

「しかし、見かけは少年のまま、というのは、一体……。まぁよい。とにかく貴様ら、これを見た以上早くこの場を去れ。そしてこのことは誰にも話すな。そうすれば命だけは助けてやろう」

 威圧的な声を発しながら、古椿の眼が更に血走った。

「そんな、それじゃ……」

「そういうわけにはいかないんだよねぇ」

 やれやれ、といった様子で神威はスマホの画像を古椿に見せ付けた。画像には遠足の時に撮った神威と風星が映っている。

「これこれ。この右にいる奴なんだけどさぁ、オレの友人で風星っていうんだけど。お前、もしかしてこいつを……」

「ふんっ!」

 古椿は眼を虚ろにして、

「確かにいたな。なるほど、こやつを探しにきたというわけか」

「そっ。ちなみにさぁ、まさかお前……」

「今頃は我のゆりかごの中でゆっくり眠り始めたところだろう」

 思わず、三人は言葉を詰まらせる。

 落ち着く間も与えず、閉じた椿の花が突然揺れだした。しばらくして、それはぽとりと地面に落ち、静かに形を変え始めた。

 嫌な予感だった。先ほどの古椿の台詞からは薄々感づいてはいたのだが、口に出したくはなかった。その予感が的中した今となっては固唾を吞むよりほかはなかった。

「何、これ……」

 落ちた椿の花は、まるで風船が膨らむかのように肥大化していく。それは神威たちよりも少し大きくなると、今度は胸、髪、脚と人に似た形になる。

 出来の良い日本人形、とでも例えるべきなのだろうか。椿の花だったものが、黒い髪、紅色の着物、そして透き通るような白肌の女性へとあっという間に変化していた。

 女性はゆっくりと瞳を開け、千鳥足で古椿の幹へと擦り寄っていった。

「おかあ……さま……」

「さぁ、もっと甘えるがよい。我が娘よ……」

 異様な光景を目の当たりにして、静流が恐縮した。

「娘? 何、それ……。だって、その花に入っていったのって……」

『なかなか姑息なことを考えるじゃなぁい。まさか、椿の花に入れた坊やたちを、そのまま妖にしちゃうなんてね』

「愚かな人間の男など、所詮は餌に過ぎぬ。しかし、寧ろ感謝して欲しいところだがな。男どもをこうして殺さずに我の娘として成長させてやれるのだからな」

「……えして」

 神威の後ろから、微かに声が聞こえた。

「返して! 返してよ! 風星君を、私の大事な人を返して!」

 泣きそうになりながら、小春が声を張り上げた。

「ふんっ、貴様も妖の匂いがするな……。人間の男に恋なんぞしおって」

『あらぁ、恋は素敵なものよぉ。乙女心の分からないオバサマねぇ』

「恋、か……。くだらぬ。我の娘たちはやがて種子となり、我と同じ椿の木となる。そして、再び人間の男どもを集め、繁殖する。貴様らみたく恋などという愚かな感情は不要なり。なぁ、娘よ……」

「はい、お母様……」

 古椿の娘は、彼女の幹下に着座した。

 最早人間だった頃の記憶はないのかも知れない。というよりも、彼女自身、記憶などというものは必要ないのかも知れない。

「……何よ。さっきから偉そうに」

 静流が呟く。小刻みに震えた様子から、感情を押し殺していたのは明らかだった。

「何よ。さっきから娘、娘って……。アンタのどこが母親なのよ」

 ――そうだ。

 今の静流にとって、母親という存在は決して温かなものではない。

 愛や恋を冒涜する行為をしておきながら、平気で母親面するこの妖は、まるで自分の母親を見ているかのようだった。けど、それでいて二つはどこか違う。その違いが分からないせいで、彼女の感情は余計に猛っていた。

「ほう、小娘。貴様はどうやら人間のようだが……」

「だから何? 風星君は返して貰うわよ」

 そういいながら、静流は弓に矢を番え、構える。

 同時に、風が少しざわめいた。そして、ぽた、ぽたと椿の花が突然大量に枝から落ちていく。

 ひとつひとつ、それらは人間の形を成し、幹元に佇んでいる女性と同じく“娘”となっていった。

「お母様……」

「おはよう、ございます……」

「これからも……」

「どうぞよろしくお願いします……」

 あっという間に、無数の娘たちが古椿の木の下に集った。

「あーあ。やっちゃったか……」

 この状況を見ても気だるそうな顔つきで、神威はとぼとぼと歩き出す。

 雑木林に一箇所、月の蒼光が際立っている場所があった。神威はそこを見据え、その場所に立ち尽くした。

 蒼月の光を身体に浴び、神威は静かに呼吸をした。

 小柄な彼の身長が、少し伸びる。黒い髪もまた、静かにしなやかなストレートを形成しながら伸びていく。腰をぎゅっと締めたかと思ったら、尻がやや大きくなっていく。

 右腕を這っていた女郎蜘蛛が糸を吐き、彼の身体、そして自分の身体を包んでいった。彼の身体は黒い艶やかな着物に、自身は豪奢な日本刀へと変貌していった。

「さて、このペチャパイどもをまな板にしてやりますか、っと」

 讒謗するや否や、神威の耳元に空気を掠める音が聞こえる。

 痛みと痒みの中間ぐらいの感覚が、神威の頬に伝わる。そこに指を当てて、ようやく血が出ていることに気がついた。

 そういえば、と思い出す。理科の実験で一度観察したことがあるのだが、椿の葉は非常に厚く、鋸葉とも呼ばれるように葉がギザギザに尖っている。おそらく、今の痛みはその葉を飛ばしたことによるものだろう。

「恐れを知らぬ小童だ。娘たちよ、こいつらを始末しろ」

「はい……」

 古椿の娘が地面を蹴るようにしてこちらへと飛び跳ねた。

 神威がそれを見据えて刀を下段に向ける。彼女らが上からくるのは予測出来たので、刀の切っ先が彼女らの視界に入らないように構えた。

 瞬時、予測どおりに上から飛び掛ってくる。それを見越して、神威は素早く切り上げた。

「ぐはっ!」

 手応えは薄かった。しかし、一瞬のうちに彼女の姿は影も形もなくなる。代わりにその空間には赤い花弁が数枚、ヒラヒラと舞ってやがて地面に落ちていった。

「やりぃ」

 と神威が高をくくっているのも束の間、左腕にビュンと強い空気を裂くような音が聞こえた。

 着物の袂が少し切れている。幸い、大した出血はなかったが、神威の腕にはジンジンと淡い痛みが伝わってくる。

 一人、二人と娘たちが増えてきた。猫のように目を光らせながら、彼女たちはこちらを睨み付けてくる。

 そう思った矢先、娘の一人に突然矢が当たった。普通の人間ならば当然胸を押さえて倒れるところだろうが、彼女は先ほどの娘と同じく、一瞬にして花弁となって消えた。

「ボーッとしてんじゃないわよ!」

 静流が矢を番えながら怒鳴りかけてきた。

 同時に、地面には凍った花弁がいくつか混じっていることに気づく。一方では小春が手を翳しながら冷気を噴出していた。

「おし、小春! そのまま一網打尽にしてしまえ!」

「そうしたいのは山々なんだけど……」

 小春は苦しそうな表情を浮かべながら、突然手を止めた。

「お、おい……」

「ご、ごめん……。これが精一杯」

 肩で息をする小春を見ながら、神威は状況を察した。

 ――そうだ。

 この間、彼女は自分が妖力を封印したばかりだった。ある程度の妖力は残っているとはいえ、ここにいる娘たち全員を彼女に相手させるのは負担が大きい。

 だったら根元を断てば――。

「小春! じゃあ古椿本体を凍らせて……」

「え、でも、それじゃ……」

「バカッ! そんなことしたら捕まっている風星君ごと凍っちゃうでしょ!」

 神威は我に返り、頭を抱えた。

「……スマン。オレ、どうやらバカだったみたいだ」

「知ってる! だったらバカなりに頭使え!」

 「バカなりに」の部分を強調しながら静流は怒鳴る。

 もちろんこの娘たちを一体ずつ相手しては時間が掛かりすぎる。小春の妖力もそうだが、静流の矢だって数に限りがある。

「まず、あの娘たちを引き離して、だ」

 神威は脳味噌を捻り出すように考えた。

 要は、壁となっている娘たちを引き離せばいい。その隙に神威か静流が古椿に一発攻撃を喰らわせる。

 問題はその壁の数が圧倒的に多すぎるということだ。引き離している隙に誰か一人でも古椿側の防御に入ってしまったら終わりだ。散らばった娘たちを“全員”一箇所に集めて、隙をつくるか、いっそ全員一気に仕留めるしかない、ということだ。

「だったら……」

 その瞬間、突然眼前の空を切り裂かれる。

 飛び出してきた娘の一人が放った手刀が、空気ごと鋭い刃の波を作り出す。

 神威は背後に仰け反る。ややぬかるんだ地面に足がつき、泥が跳ねる。その反動を利用し、相手へと飛びこみ、手にした刀で腹部を一文字に切り裂いた。

「ヒントありがとさん」

 神威はニッと笑みを浮かべた。相手はその台詞を聞くこともなく、花弁を散らして消えてしまう。

「静流、小春」

「何よ?」

「今から言う作戦に従ってくれ」

「はぁ?」

 応戦中の静流と小春は怪訝な表情を浮かべる。

「また馬鹿なこと言い出したら承知しないわよ」

「……先に言っておくけど、失敗する確率は高いぜ」

 その台詞とともに、二人は更に眉を顰める。

 静流は深いため息をしながら、弓に矢を番えた。

「とりあえず話してみて。その作戦とやらを」

「ああ……」

 神威は二人だけに聞こえるように話した。二人とも息を呑みながら耳を傾け、話が終わる頃にはやや冷ややかな目つきで、

「大丈夫、なの?」

「心配だけど……それに賭けるしかなさそうね」

「ああ。だったら決まりだな。行くぜ!」

 神威の掛け声とともに、三人はいっせいに走り出した。しかしその方向は、古椿とは真逆だ。

「逃がさん!」

 古椿の声を合図に、娘たちは神威たちを追いかけた。

 月明かりはそこそこ差し込んでいるものの、公園内の暗い道をひたすら走っていく。神威が目指している場所までは少し距離がある。

『本当に、やるつもりなのかしらぁ?』

「ったりめぇだろ。あの技が使えなきゃ勝てないんだし」

『でもあの技、今まで成功したことが……』

「うっせーな! だったら今成功させればいいだけだろ!」

 硬いアスファルトを蹴り飛ばしながら走り、ようやく神威は立ち止まった。

 大丈夫だ。俺は本番に強いタイプだ。

 自分に言い聞かせながらじっと後ろを振り向く。思ったとおり、娘たちが一体、また一体とこちらに向かってきている。

 既に作戦の準備は完了している。静流も小春も、配置についている。

『来るわよぉ』

「任せとけ! 無双ゲームなら大得意だ!」

 視界にぞろぞろと娘たちがやってくる。ゆうにその数は五十を超えている。

 あと、五人……、四人……。

 と数えている隙に、一人が手刀で斬りつけてきた。

 滑る地面を跳びあがり、なんとか回避する。

 そのうちに新しく二人来ていた。しかもいつの間にか背後にも何人か回りこまれていた。

 あと、一人……。

「覚悟しろ! この蜘蛛風情が!」

 迫った手刀を刀の峯で押しとどめ、はじき返す。

 と、今度は別の娘たちが一斉に手刀を構えた。しかし彼女らの手は神威が出した糸で絡め取られてしまう。

「そういえば俺って糸出せるんだっけ。忘れてた」

 堪える娘たちに向かってニッと笑う神威。しかし今度は別の娘がこちらに迫ってくる。

 マズい、早く最後の一人が、このエリアに入ってくれなければ……。

「神威君! 最後の一人、入ってきたよ!」

 よしっ!

 彼の待ちかねていた一言が、耳に届いた。

「小春、今だッ!」

 神威は大声で叫んだ。

 その瞬間、地面にミシッと妙な感覚が伝わった。

 娘たちは目を丸くして驚いた。

「まさか、ここは……」

「おおっと、気付かなかったのか? 俺たちは今、凍った池の上にいたことにな!」

 地面、いや池に張っていた氷がめり込んでいく。娘たちがその場から逃げようとするも、時は既に遅かった。

 小春の妖力で池に張っていた氷は、彼女が妖力を使うのをやめれば一斉に溶け出す。

 そして、ドボンと大きな音を立てながら、娘たちと神威は池の中に沈んでいった。

『行くわよ、ダーリン!』

 刀と見合って、神威は静かに目を開ける。溶けたばかりの氷水は冷たく、鼻は泥臭い。視界も濁って何も見えない。

 だが、そんなことは最早お構いなしに、神威は刀を構える。まず下段から斜め左に突き上げるように。そして、水中の浮力を利用して身体を一回転させる。そして、と次々に斬り方を瞬時に頭の中でイメージしていった。

 軽く息を吐いて、神威は目を光らせた。

「女郎蜘蛛流奥義、水紋斑斬り!」

 鈍色の刀から、水へと斬撃が迸った。

 先ほど娘の手刀から真空の刃が飛んだときに気がついた。自分には空気に斬撃を伝わらせる技術はないが、水ならば可能である、と。

 剣先から迸った斬撃は、水中全体を刃の嵐へと変貌させていく。唸るような波紋たちは娘を一人ずつ斬りつけ、椿の花へと変えていった。

 小春はほとりから池を眺めていた。神威の姿は見えないが、池が荒々しく轟いているのだけは分かる。そして次第に池の表面に椿の花弁がプカプカと浮いてきた。

 あとは、静流が上手くやってくれれば……。

 小春は手を合わせて祈った。


「なっ。娘たちの妖力が……」

 一瞬の出来事だった。既に古椿の周囲には娘たちは一人もいない。神威たちが逃げたのだと勘違いして全員追わせたのが失敗だった。

「あれだけの数を、一瞬にして……」

「こっちよ、古椿!」

 目を血走らせながら、古椿は声のほうを睨んだ。

 先ほどの弓使いの少女が、宙に浮きながらこちらに矢を向けている。

「馬鹿な、貴様は一緒に逃げたはずでは……」

 と、その瞬間に彼女が何故浮いているのかが理解できた。

 彼女の背後にある木に、何か無数にざわめく物体がある。それが自身にとって最も忌み嫌う蜘蛛だと気付くのに時間は掛からなかった。

 その無数の蜘蛛たちが出した糸に吊り下げられながら、彼女は冷たく怒りを露にした。

「小賢しい真似を……。我の娘たちを屠るだけでは飽き足らぬというのか。許さぬ、許さぬぞおおおぉぉぉぉ!」

「許さない? それはこっちの台詞よ」

 静流は俯いていた目線をあげながら、弓を更に引き絞った。

「風星君を、風星くんを……」

 全身全霊の一矢。引き絞っていた右手に力を込め、軽く何度も呼吸を重ねた。

 この妖だけは許さない。どんな理由があろうと、風星を取り込み、偉そうに母親などと名乗るなど、言語道断などでは済まさない。

 絶対に、この一撃で決めてやる!

「かえせええええええぇぇぇぇぇぇぇぇッ!」

 渾身の矢が、古椿に向かって放たれた。



「ぷはっ!」

 泥臭い池の中からようやく顔を出した神威は、ぺっと口に入った水を吐き出した。

 気がつくと既に自分の姿は男子へと戻っている。多分、今の一撃で妖力を大分使ったからだろう。

「だ、大丈夫?」

 陸の上から小春が呼びかけてくる。

 水面には花弁が無数に散らばっている。勿論、全部椿の花だ。

「あー、疲れた」

『ホント、ムチャするわねぇ。でもまぁ、上出来よぉ』

「へっ、夜中に学校のプールに忍び込んで練習した甲斐があったぜ」

「ふ、不法侵入はダメだよ……」

 小春が悩ましげなツッコミを入れる。

 そうしていると、先ほど古椿があったほうから誰かが走ってくる音が聞こえてくる。静流だ。

「静流ちゃん! 古椿は……」

 と小春が尋ねると、静流はニコッと笑い、二人にピースサインを送った。

「なんとか一件落着、だな……」

「それよりも、二人とも早く来て!」

 静流が呼びかけ、神威は池からあがる。

 彼女について行くと、古椿から咲いている花が淡く光りだしていた。それらは静かに蕾を開かせ、中から光の粒が現れる。

 粒は雪のように静かに地面へと降りていき、やがて大きく肥大化していった。光が消えるとそこから現れたのは一人の少年だった。

「これって……」

 同じように他の花からも光の粒が溢れ出していく。それらもまた少年たちの姿へと変わっていったのだった。その中にはあのニュースで見た少年の姿もあった。

「元に、戻ったんだね……」

「ああ。完全に、じゃないけどな」

 何故か渋い顔をする神威に、二人は怪訝な表情を浮かべた。

「オレらが倒した娘たち……。アイツらだって、元は普通の人間だったんだよな」

「あっ……」

 途端に芽生えた罪悪感。襲われたからだとはいえ、彼女らは元は普通の少年だった。しかし、既に妖へと変えられた少年たちを救う手立てはなく、結果的に倒すより他はなかった。

「そんな、それじゃあ私たちのしたことって……」

「でも、あのまま放っておいたら、もっと被害が出たでしょ! これは、これは仕方がなかったんだよ……」

 拳を握りながら、静流は肩を震わせる。多分、彼女なりに思うところがあったのだろう。

 やれやれ、と首を横に振りながら神威は二人の肩にそっと手を置いた。

「そうだな。それに、アイツを助けられただけでもよしとしなきゃな」

 そういって神威は椿の根元を指差した。

 そこにいたのは、静かに眠っている風星の姿。やはり彼もまた古椿に捕まっていたのだろう。

 ほっと胸を撫で下ろし、小春は風星の傍に座った。膝に彼の頭を乗せ、しばらく黙ってみていると、彼の閉じた瞼がぴくりと動き出した。

「……春、ちゃん?」

「風星、君?」

 ゆっくりと風星の瞼が開いていく。

 静流も近寄ろうとしたが、一歩進んだところで足が止まった。

「小春、ちゃん? どうして、ここに……」

「風星君。良かった、良かった……」

 小春は彼の身体を抱き寄せ、静かに腕で包んだ。

 暖かかった。雪女の自分がそう感じてしまうほど、彼の身体と心からその心地よい感触が伝わってきた。

 しばらく、二人の間に柔らかな時間が流れた。

「オホン!」

 と思いきや、神威の咳払いによってそれは遮られる。

「か、神威? それに、静流ちゃんまで……」

「あー、お二人さん。思わず手榴弾投げ込みたくなるような雰囲気のところ悪いんですが……」

 神威はそっと二人を見つめる。

「カレー」

「はい?」

「作りすぎちゃったんだよなぁ」

 突然の単語に、バカップルの二人は目を見合わせる。

「いや、カレー作りすぎたからさ、二人ともどうかな、って思って。実は今日、静流のヤツもちょうど泊まりに来ていたところだし、どうせならみんなでパーティでもどうかなと思ったんだけど……」

「それはいいけど……」

「なんで静流ちゃんが神威のところに?」

「まさか二人って付き……」

「ないないなあああああい! そんなことぜっっっっったいにあるわけないでしょッ!」

 静流は全力で否定する。

「まぁそのへんの事情はともかくとして、静流もいいよな?」

 神威はチラリと静流のほうを見た。

 何故か静流は顔を赤くして、コクリと頷く。その反応に疑問を持つこともなく、神威は高らかに腕を挙げた。

「よしっ! 決まりッ! そうと決まったらオレの家に行こうぜ!」

 そういって、四人は神威の家へと歩き出していった。


 その後は本当に楽しい時間だったと思った。。

 神威がふざけ、静流が怒り、そして小春と風星が宥める。

 随分黙り込んでいた女郎蜘蛛も、人間態の姿を現して、小春と風星を驚かせた。その後は、相変わらず神威にべっとりとくっついていた。

 だが、そんな中でも女郎蜘蛛はひとつだけ心残りがあった。


 胸の中でどうにも嫌な予感がしてならなかった。これほどまでに危険な雰囲気を彼女は感じ取ったことはない。


 あの公園で感じた、別の気配――。


 今はまだ何ともないのだが、あれは確実に妖の気配だった。

 それも、とてつもなく強大なもの。


 何事もなければ良いのだが、と彼女の胸中に疑念が渦巻いていた。



 静まり返っていた公園内に、矢が刺さった大木が一本あった。

 その木から矢が抜かれた瞬間、木から突如として巨大な目玉が開く。

「アンタかい? アタシらのシマを荒らしていた妖ってのは」

 封じられていた古椿が意識を取り戻す。その眼前には背の高い金髪の女性がいた。

 彼女の耳元からは黄色い獣のような耳が付いている。なるほど、そういう類の妖かと古椿は納得した。

「貴様、何用だ……」

「ふんッ! 随分派手にやってくれたじゃないか。そして最後は人間如きに封印されちまってさ。無様だねぇ。同じ妖として頭が痛くなるよ」

「ほざけ。この獣風情が……」

「ママー、やっぱコイツムカつく」

 彼女の後ろから、ひょっこりと少女の姿が現れた。背は低いものの、同じような長い金髪と獣のような耳が付いている。

「ちょうどいい。銀火、コイツに思い知らせてやんな」

「待て、思い知らせる、だと?」

 古椿が狼狽した声で聞いた。

 すると母親のほうは冷たい視線で古椿を見下ろしながら、

「言っただろ? アタシらのシマを荒らしたから、ちょいと痛い目に遭ってもらうんだよ。本当は封印したまま葬り去るつもりだったけど、もうかったるいからそのまま消えな」

 そう言い浴びせると、娘のほうは眉を顰めながら、

「うーん、どうしようかなぁ? 枝を一本ずつ毟るとか……」

「そんなのまだるっこしいだろ? こういうときはどうするんだったんだい?」

 母親がそう言うと、娘のほうはポンと手を叩いた。

「そっかぁ。燃やすんだ!」

「や、やめろ……。我が、一体何をしたと……」

「うるさいなぁ。燃えちゃえ!」

 そこからはほんの一瞬の出来事だった。

 少女の手から拳大ほどの大きさの炎が飛んだかと思えば、瞬時に古椿を包んだ。

 十秒とも掛からず、その火は椿を蒸し焼きにしてしまい、残ったのは燻すような匂いと黒コゲになった巨大な炭だけ。断末魔の声すらなかった。


「全く、世話がかかるねぇ」

 母親がため息をついていると、娘がくいくいと彼女の着物の袖を引っ張った。

「あのさぁ、ママぁ」

「ん? なんだい?」

「銀火ね、見つけちゃった」

「何をだい? はっきり言いな」

「んーとねぇ。結婚相手!」

 娘の言葉に、母親はふっと吹き出す。

「あはははは! そいつはいい! で、誰だい?」

「ほらぁ。さっきいたでしょ? あの木を封印した人と一緒にいた……」

「ああ。そうかいそうかい。それじゃあ、善は急げだ。その坊やを早いところ連れてこなくっちゃ、ねぇ」


 二人は笑いあった。

 公園内に、狐の嬉しそうな声が響き渡った。


 一方、幸せな時間を過ごしている神威たちはまだ知らなかった。

 このときが、四人が一緒に幸せになれた最期の時間だということに――。

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