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第一章 蒼き月

 月が蒼く染まった。

 人工のブルーライトでもなく、カラーセロファンを透した光でもない、正真正銘の「蒼」。アスファルトがまるで一瞬のうちに水族館になってしまったかのように、夜道が淡く照らされる。

 声はない。音もない。匂いも、風の冷たさもない。あるのはそう、その蒼い景色だけ。


 五十年前から、世界の夜は変わった。

 ある日突然、真夜中の月が不気味な青色に変貌し、筆舌に尽くしがたい禍々しさを放ち始めた。

 人々は恐れ慄いた。同時に、正体不明のすさまじい不安が彼らを襲った。


 そして、その不安は的中した。


 まず第一に、世界に「妖」なる連中があふれ出したこと。

 かつて伝承の中に、「妖怪」なる者どもの存在が記されていたが、彼らをその目で確かめた者はさほど多くはなかった。しかし、いつのことだったか。伝承のみの存在であった妖が、頻繁に人の目に触れるようになっていったのだ。まるで、人々の不安が実体化されていったかのように。

 そしてもう一つ。

 世界から突如として「男性」が消えた。


 理由は不明だが、少年期のある日を境に「男子」は「女子」へ変化するようになった。時期は個人差があるが、大体十五歳前後に彼らは性転換を始める。

 そのようなこともあってか、男子はそれまでに人生の伴侶となる女性を決め、子を成すことを義務付けられた。もし伴侶が決まらない場合、強制的に相手を選ばれるか精子を冷凍保存して遺伝子を無理矢理残すかという選択肢になる。どちらにしても子孫を残すことが容易ではなくなったことに変わりはなく、人口はみるみる減っていった。そのため、人々は種の繁栄に躍起になっていくようになった。

 種の繁栄を望むのは人間だけではない。妖連中もまた、自らの子孫を残すことに必死になっていた。しかも彼女らは人間と違い完全に女性しか生まれないという。では種となる男性はどうなるかというと、彼女らは人間の男子に目をつけざるを得なかった。そのために彼女らは自らの伴侶にするべく性転換前の人間の男子たちを攫うようになっていった。


 そして、攫われた男子は皆――。



「なぁ、エロ本って知っているか?」

 小金山(こがねやま) 神威(かむい)の唐突な質問に、安土(あづち) 風星(ふうせい)は怪訝な表情を浮かべる。

 彼が意味の分からないことを言うのは今に始まったことではないが、今日は特に意味不明すぎる。だからといって反応しないわけにはいかなかったので、とりあえず首を傾げておいた。

「昔さ、大人の男たちしか見ちゃいけないそういう本があったんだって。中には女の人の裸がひたすら載っていてさ、これを見てみんな興奮しまくっていたんだってよ」

「へ、へぇ……、そうなんだ」

「すげぇよなぁ。つまりこれを読んだら一人前の男ってことだろ? いっぺん読んでみたいぜ」

 目を輝かせている神威を余所に、風星はもう一口だけ手に持ったパンを齧った。

「女の人の裸なんて誰も興味ないんじゃない? 僕らもどうせいつかはそんな身体になるんだし」

「ロマンがねぇなぁ」

「僕にはよくわからない世界なだけだよ」

「やれやれ……」

 首を横に振って、神威は中庭のベンチに寝転んだ。

 日差しが強い。いや、日差し「は」強い、といったほうがいいだろうか。もうすぐ夏休みになろうというのに、近頃やたら肌寒い。夜は厚着にならなければ外を出歩けないほどだ。

 空を眺めると太陽が見える。強く自己主張をしている割に、まるで存在がない。肌寒さと蒼い月のせいで彼の「暖かさ」が全く感じられない今日この頃。

 神威も風星も来年には中等部へ進学する。おそらくそのころには男子生徒の半数以上が女子の制服へと衣替えするだろう。女性化する前にスカートに慣れるべき、という名目で。

『僕にはよくわからない世界なだけだよ』

 風星のその一言が彼の頭にしばらく響いていた。

 ――わからない、世界ね。


 神威が少しうとうとしかけていると、横からなにやら声が聞こえた。

「そういうわけだから、明日はよろしくね。風星君」

 聞き覚えのあるはっきりとした少女の声だった。同世代の女子と比べても一、二歳大人びたような口調で話していた。しかしどこか照れくささも感じ取れた。

「こちらこそよろしく。如月さん」

「私たちの仕事はあくまで調査だけだから。まぁ何かあったら全力で守るわ」

「こ、怖いこと言わないでよ……」

 もう一人、今度は同世代の女子よりもかなりおどおどした口調の声が聞こえてきた。

 一呼吸置いた後、神威は上体を起こして彼女らを見た。

「なになに? お前ら明日なにすんの?」

 おどけた口調で神威は話しかける。

 すると目の前にいたツインテールの少女は、彼を鋭い眼光で睨みつけた。

「あなたには関係のないことよ」

「んだよ? ケチ」

「あ、あの……」今度は頭にリボンを付けたショートヘアの少女が口を開いた。「その、ね。退魔委員会の仕事のことで、風星くんに伝えることがあったから……」

「退魔、委員?」

 神威は眉間に皺を寄せた。

 彼らの通っている私立倉成学園には、初・中・高等部全てに「退魔委員会」が設けられている。

 学園に通う生徒たち、特に初等部と中等部の男子生徒を妖から護るために設立された委員会であり、その名が示すとおり役員の大半は代々退魔を生業としてきた家の人間が務めている。

 ツインテールの少女、如月(きさらぎ) 静流(しずる)も学園内では知らぬ者のいない退魔の名家「如月家」の跡取りであり、初等部に設立されている退魔委員の委員長も務めている。

「そういうこと。つまり、あんたにはまっっっっったく、関係ない話!」

 小さい「つ」をこれでもかというぐらい詰め込んで、静流は神威を指差した。

「あっそ。てか風星。お前、いつの間に退魔委員なんて入ったんだよ?」

「私が誘ったんだよ……」ショートヘアの少女、桜庭(さくらば) 小春(こはる)が答えた。「風星君、前々から退魔委員会の仕事に興味があったみたいだし。それに、ほら。退魔委員会って人が少ないでしょ?」

「ま、たしかに。なんかとっつきにくいっていうか、まず委員長からして妖だもんな。鬼っていう」

「だーれが鬼よ!?」

「まぁまぁ」

 目を尖らせる静流を風星が嗜めると、静流は顔を赤くして「ふん」と鼻を鳴らした。

「そういうわけだから、僕も何か協力できないかと思って。それで明日、倉成山の調査についていくことにしたんだ」

「倉成山ってうちの学校の裏にある? あそこになんかあんの?」

 神威が尋ねると、静流は「はぁ」と深いため息を漏らした。

「あんた気付かないの?」

「何が?」

「今何月よ?」

「七月」

「そう、七月。なのにこの寒さは異常だと思わないの?」

 ああ、と神威は頷いた。

「んで、この寒さは妖のせいだ、と。如月博士はそうお考えというわけですか」

「そういうことよ」

「静流ちゃんがね、前からあの山から強力な妖気を感じるって。だから学園に許可をもらって一度調査したいんだって」

「なるほど。それで明日は三人で仲良くピクニックというわけか」

「あんた、この流れでよくそんなこと言えるわね……」

 これ以上彼と話をするのは時間の無駄だと思い、静流は踵を返してその場を去ろうとする。

「と、とりあえず明日は夕方五時に集合よ。忘れないようにね」

「が、頑張ろうね。風星君」

「うん。それじゃあまた明日」

 そういって、二人は足早にその場を去っていった。

「しかしお前も物好きだよな。退魔委員なんてさ」

 神威は風星に話しかけた。

「正直僕なんかができるかわからないけど、でも二人のためにやれるだけのことはやりたいんだ」

「二人のため、ねぇ」

 神威は頭の片隅に置いてあった三人の関係性を整理した。

「確か、お前らって小さい頃からの幼馴染同士だっけ?」

「うん。僕の家と如月さんの家は仲が良くてね。本当に小さい頃からよく遊んでいたよ。それでいつからだったかな? 小春ちゃんも僕たちと一緒に遊ぶようになったんだ」

「小春が?」

「うん。その辺のことは正直よく覚えていないや」

 一瞬考え込んだ後、神威は前を向いた。

「なるほどな……」

「ん?」

「いや、なんでもねぇよ」

 珍しく真面目な表情を浮かべる神威に、風星は怪訝な表情を浮かべた。


 チャイムが鳴り響いた。少年少女らが一斉に校舎の中へと入っていく。

「さて、俺らも帰るか。次って家庭科だよな?」

「う、うん……」

「よーし、テンション上がってきた! 今日は何作ろっかなー?」

 いつもの表情に戻る神威を見て、ますます風星は首を傾げてしまうのであった。




『あらー? 久しぶりじゃない、ダーリン』

 何かが彼に話してきた。いや、最初に呼んだのはこちらのほうであるが。

「うるせーな。正直俺はあまりお前と話したくねぇんだよ」

『つれないわねぇ。今若い子たちの間で流行っているツンデレというやつかしらぁ?』

「流行ってねぇよババア」

『ババアは失礼じゃない。あたしはまだピチピチの1208歳よぉ』

 ピチピチなんて言っている時点でババアだろ、という突っ込みを入れたいところではあったが、その気持ちを押し殺して彼は話に入った。

「どう思うよ、この寒さ」

『ずいぶんいきなりじゃない? 久しぶりなんだからもっとお話しましょうよ』

「質問に答えろ」

『ふん。まぁいいわ。どうもこうも、あの静流とかいう小娘の言うとおり妖のせいでしょうね』

「やっぱり、な」

『とはいっても、それほど強くはないわね。おそらく人間をどうこうしようというより、妖自身の存在が環境に影響しているみたい』

「つまり、俺らに危害を加えようという気はさらさらないってことか」

『ええ。“あなたには”ね』

 その瞬間、彼は息が詰まる思いをした。

「それって、まさか……」

『明日はどうするのかしら? ねぇ、ダーリン』

「決まっている。風星についていくしかねぇだろ」


 神威は目の前にいる蜘蛛に向かってそういった――。



 翌日。晴れた土曜日の夕方。

「この時間になると寒さも一層増すわね」

 小弓を肩に背負いながら、静流は一歩ずつ山を踏みしめていく。彼女のいうとおり肌が妙に寒い。山の鬱蒼とした雰囲気が冷たさを更に強めた。

「小春ちゃん、大丈夫?」

「う、うん。私は平気……」

「ところで――」静流は振り返った。「なんであなたがここにいるのかしら!?」

 緊張感の欠片もまるで見られない、神威の姿がそこにあった。退屈そうに欠伸をして、歩きながらスマホをいじっている。

「いやぁ、なんか面白そうだったからさぁ」

「ほんっとに空気が読めないのね。私たちの目的を知らないわけじゃないでしょ?」

「あ? まぁ大丈夫だって。邪魔はしねぇからさ」

 軽々しい口調で話す神威に、静流は心底呆れ果てた。小春も、委員会に入って間もない風星も、初めての調査で緊張の面持ちであるだけに、この馬鹿の存在はお荷物以外の何者でもない。そこそこ調査に手馴れた静流とはいえ、ただでさえ経験に乏しい二人のボディーガードも引き受けているのに余計な三人目の存在は邪魔でしかなかった。

「あのさ、素朴な疑問なんだけど」

 風星が口を開いた。

「な、何かしら?」

 静流が顔を赤くしながら言った。

「この寒さって、本当に妖のせいなのかな?」

 静流は一瞬考えた後、

「そうね、一概にそうだとは言い切れないけど、その可能性が高いわね。だからこうして調査する必要があるのよ」

「だとしたら、どんな妖がいるのかな?」

 しばらく、緊張の空気が周囲を包んだ。

 小春は目を下に背け、静流はしばらく考え込み、そして神威は

「雪女、とかじゃね?」

 あっけらかんと名前を出して、三人の目を丸くさせる。

「えっと……」

 雪女。言わずと知れた、有名な妖。

 白い着物を身にまとい、存在そのものが「冬」を象徴する、美しくも恐ろしい女性。雪女に纏わる伝説は神威たち小学生でも知っている。

「んー、やっぱそれしか思いつかないな。違ったらただの異常気象ってことで」

 静流はごくり、と唾を飲み込んだ。

 冗談かも知れないが、もしそんな妖が出てきたら彼女には荷が重過ぎる。退魔の家の人間とはいえ、そして退魔委員長とはいえ、太刀打ちできる相手ではない。

「ま、まぁ可能性がないとは言い切れない、わね」

 しどろもどろになりながら彼女は答えるしかなかった。


 しばらくその冷たい空気が続いた。

 山道は大して辛い道程ではなかったが、空気が張り詰めていたせいか非常に苦しい雰囲気が始終漂っていた。ずいぶん長い時間を過ごしたように感じたが、いつの間にか日も暗くなっていた。

「ねぇ、あれ……」

 小春が何かに気づき足を止めた。

 目の前に、大きく開かれた洞窟が立ち阻んでいた。まるで、ここに入れと言わんばかりの大きさだ。

「気になるわね」

「おー、こいつは冒険心をくすぐられますなぁ」

「馬鹿! あんたはここで待っていなさい!」

「んだよ、それ」

 神威は静流を睨みつけた。

「あんたはそもそも退魔委員会じゃないでしょ。ここから先は私たちの仕事だから待機していなさい」

「だったら最初から連れてくるなっての」

「あんたが勝手についてきたんでしょ!」

「あのさ、神威」風星が間に入った。「もし、僕たちに何かあったら時に誰かがここで待っていたほうがいいと思うんだ」

「あ、あの、私も賛成」

 小春もゆっくり手を挙げて発言する。

「多分何事もないかと思うけど、念のために、さ」

「あー、まぁしょうがないっか」

「あんたはそこでスマホでもいじっていなさい」

「へーい」

 淡白な返事を投げかけた後、神威はふと風星のほうを向いた。

「風星。気をつけろよ」

「ん?」

 珍しく真面目な表情をした神威に、風星は驚いた。

「妖は人間の男子を狙うからな。万が一、ってこともあるだろ」

「あはは、ありがとう」

 そういって、風星は懐から懐中電灯を取り出した。

「それじゃ、行ってくるよ」

 そのまま静かに洞窟へと侵入していく三人。

 神威は彼らを見送った後、そっと空を見上げた。

 寒いとはいえ、今は夏。気温が下がったところで日の入りの時刻が変わるわけではない。

 まだ五時五十分。そこまで暗いというほどではない。

 少し苛立ちながら、神威は考え込んだ。


「なぁ、糞蜘蛛よ」

『呼んだかしら、ダーリン』

「お前、トロイの木馬って知ってるか?」

 彼の右腕を這う蜘蛛に、そっと呼びかけた。



 洞窟内にすさまじいほどの土臭さが広がっていた。これで本当に暑かったならば湿気のせいで土どころかカビやら虫の死骸やらの臭いでたまったものではないだろう。

 時折、吹き抜ける風が冷たい。それも入り口からではなく、奥から来た風だ。

「な、なんか怖いね……」

「そ、そうね。気を引き締めていくわよ」

「やっぱりアイツも呼んできたほうが良かったかな? ほら、適度に緊張感和らげてくれそうだし……」

「いなくていいわよ!」

 洞窟内に静流の怒鳴り声が響くと、しばらく静寂が襲った。

 そのまま一歩ずつ踏みしめていく。緊張感が更に強まったみたいだ。

「あ、あのさ……」

 静寂を打ち破ったのは小春だった。

「何?」

「前から聞きたかったんだけど……」小春は一瞬間を空けて、「風星君と、静流ちゃんって、その……、付き合っているの?」

 途端に静流の顔が赤くなる。

「な、何を言っているの!? 私たちは、単なる幼馴染って奴よね、風星君」

「あ、うん。そ、そうだよ!」

 風星もまた顔を赤くして照れた。

「そ、そうなんだ……」

 小春は顔を曇らせて俯いた。

 彼女の他愛ないガールズトークも虚しく、再び静寂の時間が訪れた。

 懐中電灯の光を頼りに、洞窟を奥へと歩いていく。中は薄暗さが次第に増していき、しばらくすると真っ暗になっていた。

「さっきの神威君の話だけどね」再び小春が口を開いた。「本当に雪女の仕業かも知れないよ」

「ん? どういうこと?」

「昔、ね。この山に出たんだって。雪女」

「そう、なんだ?」

「それで、人間の男を愛してしまって、その人には恋人がいたにも関わらず無理矢理さらったんだってさ」

 冷たい空気が流れた。

「それで、その男の人はどうなったの……」

 風星が聞こうとすると、洞窟の奥がぼんやりと光っていた。

 蒼。限りなく、透き通るように綺麗な蒼色。

 何かに釣られるように三人はその方向へと向かっていった。

「綺麗……」

 思わず言葉に出してしまうほど、そこは蒼色に染まっていた。

 洞窟の一部屋。懐中電灯の明かりが必要ないほどに月明かりが差し込んでいる。まるで汚れを知らない海の中に迷い込んだかのような、冷たい空間だった。

 その部屋に入り込んだ瞬間――。

「えっ……?」

 天井から差し込んだ月明かりが照らしていた“それ”は、彼らの想像を絶するものだった。

 蒼い光を吸収した、透明な「氷」の塊。身の丈は洞窟の天井ほどもあり、思わず上を向いてしまうほどの大きさだ。

 その氷の中にそれはいた。悲しげな目を虚ろにしたまま、何かを抱きかかえている「女性」の姿――抱きかかえられているのも、また別の「女性」だった。二人とも白い着物を身に纏い、長く青白い髪を氷の中で静かに垂らしていた。そして二人の背中には、そう――長い矢が刺さっていたのだ。

「この矢……」

 静流がゆっくり近づき、それを眺めた。

「如月、さん?」

「この矢、うちに代々伝わるものじゃ……」

「分かった? 静流ちゃん」

 突然小春が背後から喋った。しかしその口調はいつになく、どこか力強かった。

「小春、ちゃん?」

 ゆっくりと、小春が近付いてきた。

「これはある退魔師に倒された雪女の姿。完全に消滅しないように自らを氷で封印したの。“愛した男ごと”ね」

 ――ドクン!

 いやに静流の心臓が高鳴った。もう口を開くことさえ恐怖に拒まれていた。

「こ、はる……」

 その瞬間、風星の両手両足に違和感が走った。

 すさまじく冷たい。空気ではなく、直に氷に触れたかのような冷たさ。いや、違う。既に氷に「捕らわれて」いたのだ。

 しかしそれに気がついた頃には彼の四肢は完全に氷漬けになっていた。

「妖はね、愛した男と子を成すと、彼に妖力を注ぎ続けるの。ちょうど彼らが女性になってしまうまで、ずっとね。そうすることで愛した者と長い時間、一生を共に過ごすことができるから」

 小春はそっと氷に手を触れた。

 彼女の柔らかな手が蒼色に染まった、その時――。


 ――サアアアアアア!


 一斉に洞窟内に強力な衝撃が走る。静流の髪を逆なで、砂埃を大量に撒き散らすほど、その衝撃は大きかった。

 そして、一瞬目を瞑った静流が目を開けた瞬間、そこに映っていたのは、

「私のお母さんがそうしたように、ね」

 真っ白な、少女の姿がそこにあった。

 先ほどまでピンク色のワンピースを着ていたはずの少女。黒いおかっぱの髪型だったはずの少女。静流の知っている彼女はもっと明るく、名前のとおり春のような子だったはずだ。

 しかし、今は違う。

 彼女の肌、髪、そして着物、それら全てがまるで「雪」のように蒼白く染め上げられていた。

「こ、はる……?」

「お母さん、お父さん、見ていてください」

 そういって彼女は静流を見据え、

 ――ビュン!

 風を切る音と共に、何かが静流の横を切った。

 ゆっくりと背後を振り返ると、壁に氷柱が二本、ダーツのように突き刺さっている。

「弓を構えて、静流ちゃん」

「小春、あなた一体……」

「復讐よ。あなたのお母さんが、私のお母さんとお父さんを殺したから」

 静流ははっと気がついた。

「まさか、そんな……」

「本当よ。これを見ても疑っていられる?」

 もう一度彼女は氷漬けの雪女を見せ付けた。静流は声を出すこともままならないまま、口を噤んでしまう。

「お父さんを愛したお母さんも、雪女としてお母さんを受け入れることを決めたお父さんも、一人の退魔師によって倒された。かつて、自分が愛した男だとも知らずにね」

「!」

 最早声にならなかった。

「小春ちゃん! やめるんだ!」

 かろうじて動く口を使い、風星は必死に叫ぶ。

 小春はゆっくりと彼のもとへ歩み寄っていった。

「風星君、見ていてね。復讐を終えた後はあなたも私と同じにしてあげるから……」

「同じ?」

「そう、私と同じ雪女に、ね……」

 まさか、と風星は驚きを隠せなかった。

「最初から、そのつもりで……」

「そう。私はずっとこのときを待っていた。静流ちゃんに近付いたのもそのため。あなたを殺し、その目の前であなたが愛した人を雪女にするために――」

「愛、した?」

 風星は思わず目を丸くした。

「知っているんだよ。静流ちゃん、ずっと風星君のこと好きだったんだよね?」

 途端に静流は顔を赤くして、

「ち、違うわよ……」

「嘘ついてもダメだよ。ちゃんと分かっているんだから」

 静流は俯いた。風星もまた、声を失ったままひたすら二人を見つめた。

「そうよ」先に口を開いたのは静流だった。「ずっと好きだったわよ、風星君のこと!」

 洞窟内に響き渡る声で、彼女は叫んだ。

 小春も風星も、しばらくただ静流のことを見つめるしかなかった。

「そっか」

「そうよ。あんた気付かなかったの? 小さい頃からずっと一緒に遊んできて、いつの間にか好きになって……。退魔委員会に誘ったのだって、あんたと少しでも一緒にいたかったから」

 もうヤケになっていた。

 ようやく静流は小春に睨みつけることができた。歯を食いしばりながらじっと彼女を鋭く見据えるその表情は、どこか憎しみも混じっていた。

 そしてゆっくりと弓に矢を番え、小春に狙いを定めた。

「風星君を解放しなさい。さもなくばあなたをここで殺すわ」

「やっと、その気になってくれたんだね。静流ちゃん」

 二人はしばらく見つめあった。

「解放しなさい」

 まだ、矢を向けたままだ。

「嫌よ」

「撃つわよ!」

「撃っていいよ」

「撃つ、わよ……」

「いいよ。本気で来て」

「撃つ……」

 その瞬間、小春に向けられた矢頭が下がった。

 静流は全身の力が抜けたかのように、その場にへたりこんだ。

「できないよ……」

「えっ?」

「できないよぉ、小春を殺すなんて私には無理だよぉ……」

 いつもの強気な静流からは想像もつかない、弱々しい声。涙混じりに聞こえる彼女の声には、小春も風星も驚きを隠せなかった。

「静流……」

「風星君も好きだけど、小春だって大好きだもん……。どちらを選べかなんて嫌だよ……」

 完全に静流は泣きじゃくっていた。駄々をこねる子供のように、その声は洞窟内にずっと、幽かに響き渡っていた。

「そんな、だって私はあなたのことを殺そうとしているのに……」

「やだやだぁ! ずっと私は二人と一緒にいたい! 風星君のことは諦めるからぁ! だからぁ……」

「静流ちゃん……」

「ずっと三人で一緒にいようよぉ! 小春が妖だって構わないから、ずうっと、仲良く……」

 ひたすら彼女は泣き続けた。

 戸惑いと、悲しみに満ち溢れた洞窟内。まるで時が止まったかのようにその光景がしばらく続いていた。

 その時だった。

 ――パシャリ!

 変な音と共に、微妙な閃光が洞窟内を一瞬明るく照らした。

「おー、いい写真が撮れました。ツンデレ退魔委員長の泣き顔写真とはレアいレアい」

 三人は口をぽかんと開けたまま、彼をじっと見続けていた。

 スマホを片手に、神威が洞窟の内部に侵入していた。

「あんた……、今の見た?」

 我に返った静流が尋ねる。

「うん、ばっちり。このとおり写真も撮れた」

 神威がスマホを見せ付ける。確かに画像には静流が泣いている姿が映し出されていた。

「あ、あんたねぇ……」

 もう呆れ果てるしかなかった。ビンタの一発でもかましてやりたい気分だったがそんな気力も尽き果てていた。

「小金山君、どうしてここに? 外で待っていたはずじゃ……」

「いやぁ、待っているだけだと退屈だったからさぁ、ついてきちまったよ。そしたらなんかお前ら楽しそうなことやってんじゃん。ったく、俺抜きで昼ドラばりの修羅場やってんじゃねぇよ!」

「そんな、どうしてこの場所が……」

 ふと、小春は風星のほうを見た。

 よく見ると、彼の背中から何やら伸びているのに気がついた。

「糸? いつの間に……」

 それをゆっくり伝って見ていく。

 そしてそれが最後に行き着いた先は……。

「ご苦労さん。役に立ったぜ」

 小金山 神威の右腕だった。

 そして、そこに何やら小さな生き物が這っていることに気がつくのに時間はかからなかった。

『ありがとう、ダーリン。ご褒美に後で……』

「調子にのんなよ、蜘蛛女が!」

 彼の右腕に、小さな蜘蛛が這っていた。

 ゆっくりとその節足を前後させながら、その生き物は神威の肩へと登っていく。

「何? 何なのよ、あんた……」

「なぁ、小春。俺からも頼むからさ、風星のことを放してやってくれないか?」

 小春はしばらく考え込んだ後、

「分かった。静流ちゃんのことは許してあげてもいい」

「小春……」

「でも!」小春はキリッと睨みつけた。「風星君を放すわけにはいかない! だって、彼を妖にしなければ、私たちは一緒にいられないから」

 静流は絶句するしかなかった。

 しばらくの沈黙を置いて、

「なぁ、風星」おもむろに神威は尋ねた。「お前、結局どちらを選ぶんだ?」

「えっ?」

「『えっ?』じゃねぇよ。お前が優柔不断な態度を取っていたらこんな過激な修羅場はいつまでたっても終わんねぇぜ」

 神威がそういうと、風星は静かに目を瞑った。

 数秒ほど、沈黙が続いた。三人とも風星の様子をただ黙って見つめるしかなかった。

 そして、風星は目を見開いて――。

「静流ちゃん……」

「風星、君……」

「ごめん!」 

 間髪を入れず、風星は頭を下げた。

 軽い呼吸を整え、静流は黙り続けるしかなかった。

「そっか……」

「本当に、ごめん。君の気持ちに気付かなくて。でも、僕はずっと……、小さい頃から小春ちゃんのことが好きだったんだ」

「風星君、嘘……」

 静流よりも寧ろ小春のほうが驚きを隠せない様子だった。

「嘘じゃないよ。僕はずっと君のことが大好きだった。君が妖だってことも、薄々感じてはいたよ。でも、それでも僕は君と一緒にいたい……」

「そんな、そんなぁ……」

「やれやれ……」

 冷たかった洞窟内に、暖かな空気が流れ込んだ。

 悲しみに満ち溢れたその空間に、ようやく春が訪れたのかも知れない。二人を祝福しているような、そんな気さえした――。


 ただ、それは気のせいだった。


「うふ、あはははははは!」

 突然洞窟内に奇妙な高笑いが生じた。

 あどけない少女の声、しかしどこか残虐性を秘めたような声。

 聞いたこともない、まさか聞くことになるとは思わなかった、桜庭 小春の狂気に満ちた笑い声だった。

「こ、はるちゃん?」

「うれしい、風星君がそんなに私のことを思っていてくれたなんて……。だったら、ずぅっと一緒にいよう、永遠に、ね……」

「ちっ!」

 妖の本能だったのかも知れない。

 愛する男を何がなんでも手に入れようとする、肉食どころの話では済まない彼女らの本能。彼女から発せられる妖気はただならぬものだった。

「小春、やめて!」

「邪魔はさせない!」

 静流の両手両足が少しずつ凍りはじめた。洞窟内全体が南極大陸にでもなったかのように冷たい空間に包まれる。

『どうするの、ダーリン』

「しゃーねぇだろ。ここまできたら……」

 猛吹雪が洞窟内に吹き荒れた。

 神威はその中を突っ切るように、ゆっくりと足を進めていく。そうしてなんとかして月の光に照らされた氷のもとへとたどり着いた。

「私たちの邪魔をする者は、みんな、凍っちゃえ!」

「小春!」

「目を覚ましやがれ! 馬鹿野郎!」

 神威はその身体を蒼い月の光に照らした。

 その瞬間――。


 彼の身体は、少しずつ大きくなっていった。


 比較的小柄だった身長は、十センチほど伸び、黒い髪もそれに合わせるかのように伸び始めた。同時に、右腕に這っていた蜘蛛がしゅるしゅると音を立てて口から糸を吐き出していく。それは繭でも作るかのように、神威の身体を包んでいく。

 しばらくして、彼の衣服は平凡なパーカーから黒い艶やかな着物へと変化していった。


「神威……」

 そこそこ長い付き合いになる風星だが、神威のこんな光景を見るのは初めてだった。

 そこにいたのは先ほどまでいた小金山 神威ではない。長身で、すらっと背の高い、そして見たこともないほど美しい女性だった。

「今まで黙っていて悪かったな」

「その姿は……?」

 奏でるような美しい声で彼、いや彼女は言葉を発した。

「オレ、とっくの昔に人間じゃなくなっているんだ」

 彼女はふっと笑みをこぼした。心なしかその笑みにはどこか悲しみが含まれている気がした。

「なるほど。そういうことだったの……。あなたが、あの有名な妖――女郎蜘蛛」

「ざっつらいと。正解」

 あどけない顔を浮かべる神威。

「そんな、神威が、妖だったなんて……」

 その瞬間だった――。

 びゅん、という鋭い音と共に何かが部屋全体を襲う。それは先ほどと同じような氷柱だった。

 一瞬凍りつく寒気が襲ったかと思うと、いつの間にか洞窟全体の壁にびっしりと氷柱が張り巡らされていた。

「人間だって妖だって関係ない。私の邪魔をする者は、ここで消えてもらうわ」

「やれやれ……」

 そういって神威は着物の袖からするすると長い物を取り出した。

 ゆっくり出されたそれは、鋭い一振りの日本刀だった。美しい白い刀身と、どこか不気味な――まるで蜘蛛がそのまま変化したかのような柄になっている。

『ダーリン、この子本気みたいよぉ』

「折れたらメンゴだぜ」

『あらぁ、あたしのこと信用していないのかしらぁ?』

「はっ! てめぇみたいなナマクラをそう易々と信じてたまるかっての!」

「って……」静流が何かに気付いた。「刀が、しゃべったあああああああああああ!?」

 素っ頓狂な驚きの声が洞窟内に響き渡る。

「お前今更何言ってんだよ。さっきこいつ喋っていただろ」

「こいつって……」そういえば、と静流は思い出した。「あんた、さっきの蜘蛛!?」

『ざっつらいとよぉ』

 神威の真似をしながら刀が答えた。

「そうよね。色々ありすぎてすっかり忘れていたけど、そもそも蜘蛛が喋っていることに突っ込みをいれるべきだったのよね。うん、とりあえず落ち着け、私……」

『なんかいきなり緊張感なくなっちゃったんだけどぉ』

「しゃーねぇな。さっさと終わらせるぞ」

 神威は刀の切っ先を小春に突きつける。

 じっと睨みつけながら、小春は少しだけ相手の出方を窺っていた。

「そう。相手になるというのね。いいわ、来なさい」

「ダメ! そんなことしたら、小春が……」

 死んでしまう。そう言おうとした、その瞬間だった。

「大丈夫だよ、如月さん」

「えっ?」

「神威を信じて」風星が真剣な表情で静流を見つめた。「多分、この状況を変えてくれるのは神威しかいないよ。あいつは馬鹿だし無鉄砲だけど、何かを変える力がある。僕はそう思っているからさ、だから如月さんも信じてほしいんだ」

「風星、くん……」

 そのまま静流は唯一動かせる首を動かして、ことの成り行きを見届けることにした。


 いつの間にか、小春の手にもまた大きな刀が握られていた。透き通るその質感はおそらく氷でできたものだろう。

 二人はしばらくにらみ合い、そして――。

「はあああああああ!」

 カキン! と鈍い音を立てあいながら互いの刀が猛烈にひしめき合った。

 部屋は相変わらず冷たい。生半可な冷蔵庫では太刀打ちできないほどに。

 だが、彼女らの熱い鍔迫り合いはそれら全てをかき消していった。お互いの刀身が離れたかと思えば、すばやく左右が入れ替わり再び鍔迫り合いに持ち込む。ひゅんと風を切ったかと思ったら互いに上手く交わし、の殺陣を繰り返す。

「邪魔、邪魔邪魔邪魔じゃまじゃまじゃまああああああああ!」

 あまりにも強烈な小春の叫び声。

 しかしそんなことに臆する様子もなく、神威は何度も、何度も斬りつけていた。

「やるじゃねぇか」

「ふざけないで!」

 瞬時に、地面から氷柱が生え出した。それも、一本や二本ではない、無数の氷柱だった。

 ひゅっ!

 神威の手から伸びた糸が天井に張りつき、そのまま彼女の身体はするすると上へあがっていく。

「ひええ、危なかった」

 神威は地面を見た。氷柱というよりも最早剣山のようになった地面に突き刺さってしまったら、と考えると少し身震いしてしまう。

「運が良かったわね。でも……」

 今度は天井から氷柱が生えた。

 神威は急いで壁に蜘蛛の巣を張り巡らせて、トランポリンのように弾けとんだ。

 ――カキン!

 その反動を利用して、構えた刀で彼女に斬りかかろうとするが、見事に氷の刀で受け止められてしまう。

 ゆっくりと身体を安全な地面に下ろし、神威は体制を立て直した。

 その油断した一瞬――。

「甘いわね!」

 神威の両足が凍り始めた。

「しまっ……」

 ひゅん、と神威の横を氷柱が掠めた。気がつくと、彼女の頬から血が滴り落ちていた。

「終わりにしましょう。小金山 神威……」

「なぁ、その前にひとつだけ聞かせてくれ」

 弱々しい声で、神威は尋ねた。

「何かしら?」

「お前、風星が男のまま大人になったら、ずっと愛していられるか?」

 突然の質問に小春は眉間に皺を寄せる。

 そしてしばらく考え込んだ後、

「突然何を聞いてくるのかと思えば。そんなこと……」少しだけ、声に優しさが戻った。「願ったり、叶ったり、よ……」

「そうか……」そういって神威はきりっと彼女のほうを強く見据えた。「だったらお前は生きろ!」

 その瞬間――。


 ひゅっ!

 ひゅっ!

 ひゅっ!


 無数の微かな音が、突然洞窟内に響き渡った。

「この世界に人間の男も、妖の男もいなくなっちまったけどさ……」ふてぶてしい顔つきで神威は笑った。「蜘蛛だったらどうかな!?」

 まさか、という言葉を発することもなく、小春は部屋を見渡した。

「そんな……」

 天井。床。壁。ほぼ全てが氷に包まれた洞窟内。本来ならば生き物は全て死骸へと変貌してしまうはずのその空間に、びっしりと生き物がいた。

 1、2……数えるなど到底できないほどの、無数の「蜘蛛」。

 気持ち悪いほどに、それら全てが氷の上に這い寄っていた。

「きゃあああああああ!」

 静流は思わず声を挙げた。女の子には流石に刺激が強すぎたのだろうか。

「そんな、何で?」

「そりゃあオレは女郎蜘蛛だからな。元は男を餌にする妖だし」

『蒼月の女性化現象はどうやら蜘蛛には効いていなかったみたいねぇ』

「おかげでこうやって雄蜘蛛どもを集める力が使えるってわけだ」

 ひゅっ!

 ひゅっ!

 微かな音が鳴り止まない。

「こ、こんなはずじゃ……」

 そうしているうちに小春はようやく気がついた。

 ――手が、動かない?

 ゆっくりと彼女は天井を見上げた。そこには数匹の雄蜘蛛から伸びた糸が束ねられて一本の大きな糸となっていた。それが彼女の両手両足を縛り四肢を動けなくさせていたのだ。

「そんな、蜘蛛ごときの糸で……」

「昔、とあるすっげー強い男がこう言ったそうだ。『矢一本なら一人の力で折ることができるが、三本となったときはなかなか折れない』ってな。蜘蛛の糸だって、集まれば大した力になるんだぜ!」

 そういって、神威は何かを口に咥えた。

 いつの間にやら天井からぶら下がった糸に、彼の刀がくくりつけられていた。糸のもう一方は一匹の蜘蛛を滑車代わりにして彼女の口へとつながっていた。

「そんな、そんな……」

 神威は口に咥えた糸を思いっきり引っ張った。

 びゅん、と強い音を立てて刀が弾けとび、そして――。


「いやあああああああああ!」


 刀身が、小春の胸を貫いた。




 しばらくの間、静流はこの光景を見ながら呆然としていた。

 ――小春が、死んだ?

 襲ってきたのは彼女のほうとはいえ、あまりにも無慈悲な最期に彼女は言葉を失うしかなかった。もう、涙すら出ないほどに長い時間が流れた。

「安心しろ」

 神威が突然言葉を発した。

「そんな、小春……」

「だーかーら、安心しろっての」

 静流がしばらく呆然としていると、

「ご、ごめん、ね……。しず、る、ちゃん……」

 胸を貫かれた彼女の口から、弱々しくはあるが声が発せられていた。

「小春?」

「ったく……」

 驚いたなんてものではない。あれほど深く胸を貫かれたのならば人間ならば即死、妖でも言葉なんて出せる余裕はないだろう。

「生きて、る……?」

「大丈夫だ。こいつで死んだりはしねぇよ。ただちょっと強すぎる妖力をいただいただけだ」

 しばらくすると、神威たちの動きを封じていた氷が溶け始めた。ものの数分もしないうちに全員身体を動かせるようにはなっていた。

「小春ちゃん!」

 風星は急いで彼女の元へ駆け寄った。

「風星、君……」

「良かった、本当に良かった……」

 風星は涙を流しながら、そっと彼女を抱きしめた。

 その様子を見つめながら、静流はそっと目を閉じた。

「風星、次はお前が彼女を護る番だぜ」神威は格好を付けるように親指を立てた。「しっかりと護ってやりなよ、“男らしく”な」

 しばらく黙ってから、風星は笑顔で「うん」と返事をした。



 休み明けの昼休み。

「風星君、あーん」

「えっと、ちょっと恥ずかしいかな……」

 中庭に広がる、初々しいカップルの姿。仲睦まじくお弁当を食べる二人を、近くを通りがかる誰もが冷やかし、そして応援した。

 そんな二人を遠目で眺めながら、一人の少女ははぁ、とため息を吐いた。

「ここ、いいか?」

 一人寂しそうに弁当を頬張る如月 静流に、誰かが話しかけた。

「あんた……」

 よっこらせっと、と言いながら小金山 神威は彼女の隣に座った。

「どうよ。振られた気分は?」

「冷やかしにきたの?」

 彼女は終始曇った顔つきのままだった。

「まぁ、上手く言えないけどさ、元気出せよ。お前ならきっと他にいい男見つかるって」

 静流はしばらく黙ってしまった。神威は頭を掻きながら困惑する表情を見せるしかなかった。

『ホントダーリンって女心がわかっていないのねぇ』

 突然、彼のほうから声がした。

 見ると相変わらずのように蜘蛛が彼の右腕を上下していたのだった。

「あんたは楽しそうよね……」

「え?」

 神威は少し困惑した。

「どうしてそんな前向きでいられるの? あんたもう人間じゃないんでしょ? 大人になる前に妖にされちゃって、でも、どうして……」

「どうしてって、そりゃあ……」

「私だって、あんたみたいな強さがあったら、どれほど楽になれるか……」

 神威はふっと息を吐いた。

「辛い、けどさ……」神威は静流を見つめた。いつになく真面目で、どこか優しい瞳だった。「こんなんでへこたれていたら立派な男になれないだろ?」

「立派な、男?」

 神威は空を見つめた。暑い日差しが戻り、本格的に夏へと変貌しているようだ。

「オレさ、なってみてぇんだ。大人の男って奴に」

 強い口調で、彼は答えた。

「なれるわけないじゃない。だって、大人になったら、女になっちゃうんでしょ? それにあんたなんかもう妖になっちゃってんのに……」

「だからさ。オレはいずれ人間に戻る。多分このままだと大人になる頃には本物の女郎蜘蛛になってると思うけど……」

『あたしはその時が楽しみよ、ダーリン』

「黙れ! 握りつぶすぞ!」

 神威が怒鳴ると、蜘蛛はこそこそと肩の後ろへと隠れていった。

「仲、良いのね?」

「あん? うるせぇだけだって。こいつに妖にされたせいでオレがどれだけ苦労したことか」

『もう、ダーリンったら照れちゃってぇ』

 肩の陰からこっそりと蜘蛛は呟いた。

「蒼い月。今思えばあれが全ての元凶なんだよな」

 そうだ、と静流は思い出す。

 五十年前に蒼い月が現れて以来、世の中の全てが狂ってしまった。子どもの自分にはそれが当たり前だと思っていたが、本当はそれが間違っているのだ。少し気を抜いたらそのことを忘れそうになってしまう。

「そうね。あれさえなければ妖も生まれなかったでしょうに」

「だからさ、オレは考える。あの蒼い月を終える方法を、さ」

 彼の発言に、静流は一瞬戸惑った。

 ――蒼い月を終わらせる? そんなことができるの?

「ま、今のところどうすればいいのかさっぱりなんだけどさ」

 ずこっ、と彼女は転げ落ちそうになった。

「ば、バカじゃないの?」

「ああ、そうだ。悔しいけどオレはバカだ」そして神威はじっと蜘蛛を見つめ、「でもさ、バカなりにガムシャラに行動して、そして初めていろんなことを勉強してなるもんじゃねぇのか? 大人ってさ」

 その台詞を聞いた瞬間、静流はじっと彼を見つめた。

 しばらくして、彼女ははっと気がついた。そのまま、遠くで弁当を食べている風星と小春の姿を眺めていた。

 ――蒼い月が終わったら、小春はどうなるの?

 妖は蒼い月と共にその姿を現した。ならば、それが終わることはもしかしたら妖の存在も消えてしまうことになるかもしれない。

 ようやく大好きな人と結ばれた彼女が消える、そんなことを考えたくはなかった。

「そんでもし、だ。それで妖がみんな消えるようなら、今度は消えない方法を考える」

 もう一度静流はずっこけた。

「あんた、ほんっっっっとうにバカでしょ!?」

「ああ。だから考えるんだよ」神威は自信満々に彼女を見据えた。「人間も妖も、みんなが安心して暮らせる世界を、さ」

「バカみたい。そうなったら今度は本格的に人間と妖の戦争が始まるかもしれないのに」

「そうしない方法も考えればいい」

「そんなことしていたらキリがないでしょ」

「当たり前だろ。キリがないことを繰り返すのが人生ってもんだろ」

 神威の表情はずっと真面目だった。

 いつしか静流の顔がぽっと赤く染まっていることに、本人ですら気付いていなかった。

「オレ、叶えてみせたいんだ。人間も、妖も、共に成長し合って、風星や小春みたいに自由に愛し合うことができて、そして仲良くエロ本が読める世界をさ」


 ――あれ?

 静流は、ずっと神威を見つめていた。

 何も考えない能天気な奴だと思っていたけど、本当は誰よりもしっかりといろんなことを考えているのかもしれない。

 もしかしたら、神威は静流が思っている以上に大人なのかも知れない。彼女はそう思った。


「それにしても、あのときの泣き顔はびっくらこいたなぁ」

 ピキッ!

 一瞬にして、静流のこめかみに力が入った。

「『やだやだぁ! ずっと私は二人と一緒にいたい!』だっけ? いやぁ、本当にいい顔してたな。どれどれ、あのときの写メはどれだっけなぁ」

 意地悪そうに神威はスマホをいじりだした。

 ――一瞬でも彼のことを尊敬の眼差しで見た自分が馬鹿みたいだ。

「かーむーいー!」

「あ、ん?」

 鬼のような睨みを利かせたまま、彼女は立ち上がった。

「あの写真、消しなさい。今すぐに!」

「え、あ、その……」

「けえええええしいいいいいいなあああああああさああああい!」

「うわ、ちょっと、待てって! タンマタンマ! た、助けて、風星くぅーん! おーい!」


 ある意味妖よりも恐ろしい少女と、お調子者の少年の叫び声が中庭中に響き渡るのであった。


『やれやれ、二人とも、まだまだ子供ねぇ』

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