◇王子ふたり(5)
屋根付きで円形のテラスには、中央にテーブルが設置され、その周囲にテラスの形に合わせて椅子が取り付けられている。ヒトが四人いても十分動き回れるくらい広かったため、窮屈さはない。むしろ木造のテラスは温かみがあって落ちつけた。
テーブルの上には、豪華な装飾が施されたティーセットに、たくさんのお菓子が盛られた皿が置いてあった。お菓子の種類は豊富で、クッキー、ケーキ、チョコレート、焼き菓子、ゼリーなどが、どれも一口サイズで揃えられている。サレイユ王室で食べられているお菓子が美味しいのは、イリーネも既に承知している。ここのお菓子は、見た目も非常に繊細かつ複雑で、もはや美術品の域なのだ。食べるのがもったいなくて、ずっと見ていたくなるほどだ。そんなお菓子が、大量に置かれている。贅沢すぎる。
「ごめんなさいねぇ、急に呼び出しちゃって」
レティシアがほっこりと笑ってそう謝した。椅子に座ったイリーネは首を振る。
「いえ、お招きしてもらってとても嬉しいです」
「本当? そう言ってくれると、私たちも嬉しいわぁ」
すると、おずおずとチェリンが口を挟んだ。
「あの、あたしも一緒で良かった……んですか? あたしは王族でもなんでもないし、そもそも人間じゃないし……」
チェリンの敬語はぎこちない。どんな相手でも敬語などつけなかった彼女が、アスールの母親たちということで少し緊張しているらしい。
ソレンヌが紅茶を注ぎながら笑った。
「身分や種族なんて、私たちには些細なことよ。貴方はイリーネちゃんたちの大事な仲間だって、アスールが紹介してくれたわ。それで十分、貴方を歓迎する理由になるのよ」
「そうよぉ、遠慮なんかしないで」
レティシアもそう頷き、チェリンはぼそぼそと礼を言った。照れているらしい。
それにしてもこの夫人たちは、本当に仲が良いのだ。自分たちの父親同士がいがみ合っていることなど興味ないという様子で、優雅に王宮生活をしている。アスールの言った通りだ。
なんかこう、ないのだろうか――同じ男の妻であることに対する、嫌悪とか嫉妬とかは。ありがちなことだと思うだけに、彼女たちの様子はちょっと異質だ。
紅茶のカップが目の前まで差し出される。ソレンヌ特製のミルクティーだ。飲んでみてと促され、カップを持ち上げる。強い芳醇な香りがすぐに感じられた。独特の渋みを覚悟しながら口をつけてみたが、不思議と優しい味がする。ミルクのなせる味なのか、それとも茶葉自体が良いのか。後味もすっきりしている。甘みに関して味覚がおかしいチェリンも、すんなり飲めているようだ。
「美味しいです……!」
「そうでしょ、そうでしょ。サレイユ最高品質の茶葉が運よく手に入ったのよ。イリーネちゃんとチェリンちゃんに是非飲んでもらいたかったの」
「お菓子もどうぞぉ。このムースなんて絶品よぉ」
レティシアに勧められたお菓子も、確かに絶品だ。イリーネとチェリンが飲んだり食べたりしている姿を見て、ふたりの夫人はにこにこ笑っている。母親の目そのものだ。
彼女たちは、イリーネに過去の記憶がないと分かっていても、それについて尋ねることはない。多分、昔からソレンヌたちの態度は一切変わっていないのだと思う。何も聞かず、イリーネに記憶があるように接してくれる。それが嬉しかった。
「それにしても、なんだか大変なことになっているのよねぇ。ダグラスもアスールも、詳しくは教えてくれなかったけど」
「ここ何日か、ずっとお部屋に閉じ込められていたんでしょう? 酷いことするわねっ、まったく。久々に帰ってきたと思ったら、あの子はもう……」
憤慨するソレンヌを見て、慌ててイリーネが口を挟んだ。
「ずっと、ではないです。西棟の中は自由に歩いていいって言ってもらえたし、街に行く便宜も図ってくれました。アスールが誰のために頑張ってくれているのか、ちゃんと分かっています。だから窮屈になんて思っていません」
「イリーネちゃん……貴方は本当に変わらないのね」
ソレンヌは微笑んだが、ふと笑みを収めてテーブルの上で拳を握った。綺麗に整えられ、ほんのり赤く塗装された形の良い爪が、彼女の掌に食い込む。
「悔しいわね。可愛い息子と娘たちのために、何も出来ないなんて」
「いえ、そんな……」
すると今度はレティシアが首を振る。
「サレイユ貴族の中ではねぇ、女が政治に口を出すのははしたないことだって思われてしまうのよぉ」
「そう。何を言っても、お父様たちは私たちの話なんて聞いてくれない。自分の欲望のために孫たちを利用して、恥を知ればいいのよ」
「私は政治に疎いから口を出せても仕方ないんだけど、ソレンヌは見ての通りでねぇ」
頭の固い廷臣たちを、一言怒鳴りつけてやりたくてたまらないのだろう。そういう大胆なところは、アスールとそっくりかもしれない。
「……でも大丈夫。私の言いたいことは、全部アスールとダグラスが言ってくれているのよ」
ソレンヌはそう微笑んで、イリーネの手をそっと両手で包み込んだ。
「あの子たちは、必ずイリーネちゃんを守るわ。だから信じてあげてね、あの子たちを」
「はい、勿論!」
「ふふ、今更だったかしらね。こんなこと頼むのは」
話がまとまったのを見計らって、横からレティシアがにこにこと話に割って入る。
「難しい話だけじゃなくて、楽しい話もしましょう? せっかく美味しい紅茶とお菓子があるんだからねぇ」
「そうね、そうしましょう!」
ぱっと明るい表情になって、ソレンヌとレティシアが話しはじめる。音楽の話、食べ物の話、裁縫の話とあちこち飛んでいき、途中途中でイリーネとチェリンがこれまで見てきた他国の街について質問がくる。ソレンヌたちは日々の時間を、こうやっておしゃべりで潰しているのだ。ただでさえ話は上手だったし、何よりも口八丁なアスールとダグラスの母親だ。聞いているのはまったく苦ではなく、むしろ楽しい。そのうちイリーネとチェリンも一緒になって笑ってしまうほどだ。
最終的にはアスールとダグラスの子供のころの話――失敗談がメインだったが――で大笑いだ。この場にいないふたりを笑いものにして申し訳ない気持ちはあるのだが、今はあんなに堂々としているアスールが昔は泣き虫だったとか、昔のダグラスは今と違って勉強が大嫌いで家庭教師を困らせていたとか、アスールとダグラスはあまり気が合っていなかったとか――意外すぎて面白いのだ。そういうことを知っているのは、母親ならではだろう。
ああ、あのふたりにも子どものころっていうのはあったのだなと、イリーネは妙な感心を覚えてしまう。
気付けば、午後のお茶会というには時間が経ちすぎていた。夫人たちはまだまだ話し足りないようだが、次にお茶会を開いたときに話すということで落ち着いた。何より、こんな時間までカイを放っておいてしまって罪悪感が出てきたのだ。
「楽しかったわ。またお話しましょうね、イリーネちゃん、チェリンちゃん」
「はい、是非」
「あたしも楽しかったです」
「あ、そうだわぁ、これ持って帰って」
帰りがけにレティシアが、イリーネに包装された小さな箱を手渡した。
「さっきの紅茶の茶葉よぉ、お留守番しているカイくんにも飲ませてあげて。ジョルジュに頼めば美味しく淹れてくれるわよ、あの子そういうの上手だからねぇ」
「あ、ありがとうございますっ」
王族でも滅多に手に入らないという高級な紅茶をお土産に持たせてくれるなど、なんて気前が良いのだろう。カイが飲めなくて残念だと思っていただけに、嬉しい手土産だ。ついでにイリーネたちもまた飲めるし。
同じ建物の中に暮らしているというのに、もう当分会えないのではないかと思うほど盛大に手を振って見送られ、これにはさすがのイリーネとチェリンも苦笑した。ソレンヌとレティシアは、イリーネとチェリンを本当の娘のように扱ってくれた。それが照れくさくもあり、嬉しくもある。イーヴァンのファルシェもそうだったが、どうして今まで出会ってきた王族のヒトたちはこんなにも気さくなのだろう。
日の入りは日ごとに早くなっている。もうこの時期になるとだいぶ日が沈むのも早い。
長いことひとりにされたにも関わらず、イリーネとチェリンが美味しいお茶とお菓子を食べていたと知ったらカイはどんな恨み言を口にするのだろう。まったく気にした素振りもなく寝ていそうだとも思うが、あれでカイは甘い食べ物とか好きみたいだし。……そんなことを考えながら、カイの部屋の扉をノックする。返事の声は、不機嫌そうには聞こえない。不機嫌なカイはあまり見たことがないが、まず何より機嫌の良し悪しは声に出そうなものだ。
「ただいま戻りました、長いこと――」
ひとりにしてごめんなさい、と扉を開けながら告げかけたところで、イリーネは口をつぐんだ。室内にいたのはカイだけではなかったのだ。ソファに座るカイと、ローテーブルを挟んで向かい側に腰かけていたのはジョルジュだった。
確かにジョルジュはカイと留守番すると言ってくれていたが、「しばらくの間」のことだと思っていた。二時間近く経っているのに、彼が部屋にいることに驚愕を隠せない。思わず『まだいたんですか』と口走りそうになって、慌てて言葉を変える。
「ジョルジュさん、もしかしてずっと?」
「お帰りなさいませ、イリーネ姫様、チェリン嬢。……おっと、いつの間にこんな時間に」
ジョルジュは窓から差し込む夕日に気付いて立ち上がる。対照的に深くソファに沈み込んでいるカイは、ひとつ欠伸をした。
「このヒト、めっちゃ暇してるんだってよ」
「暇って……仮にもアスールの腹心で、エリート騎士でしょうに」
呆れたようにチェリンが指摘すると、ジョルジュは苦笑して首を振った。
「アスール様の腹心であろうと騎士であろうと、所詮私はただの軍人です。議会には口を挟むどころか立ち入ることも許されぬ身。争い事がなければ、稽古か市街の見回り程度しかやることはありません。歓迎すべきことですよ」
まあ、今日は非番だったんですがね、とジョルジュが付け加える。貴重な非番をカイの相手をして過ごすなど、言っては悪いが物好きだ。アスールがそれを命じるとも思えない。
「へえ、案外退屈なのね」
「そうなのです。ですからチェリン嬢、私と共にゆっくりお茶でもしませんか」
「悪いけどあたし、紅茶よりコーヒーのほうが口にあってるから」
「むむ……私は正直コーヒーの苦味が得意ではないのですが、貴方とならどんなに苦く濃いコーヒーでも甘いと感じられるかもしれない。良いでしょう、行きましょう。明日にでも!」
「それはねジョルジュ、物理的にチェリーが砂糖を大量投下するからだよ」
ひらひらとカイが手を振る。その声は届かなかったようで、ジョルジュはチェリンから拒絶の一撃を鳩尾に食らっていた。急所を突くなど、チェリンも容赦がない。
「ぐっ、腰が安定した、いい一撃です……! 腕だけでなく、足腰の力や体幹もしっかりしておられる。さすがですね、私でなければ悶絶ですよ」
「そっちこそ衝撃を和らげるのが上手いじゃない。余程鍛えているのね」
「ふふ……見てみます? 私の腹筋」
「冗談じゃない見ないわよさっさと帰りなさい」
やっぱりというか、なんというか――アスールの師匠というだけあって、表現が直接的でしつこい。アスールはもっと間接的で詩的だった気がする。今思えば、ここまでジョルジュを模倣しなかったのは、アスールに照れがあったせいだろうか。模倣『しなかった』のではなく、『できなかった』のだ。
やっとジョルジュが退散したところで、カイがイリーネを振り返った。
「お茶会、楽しかった?」
「あ、はい。アスールとダグラスさんのお母さまたち、とても優しくて」
「どうもそのお母さんたち、俺たちがここに住み始めた時からイリーネたちとお茶会したかったんだそうだよ。アスールもダグラスもしつこく要求されて、ついに折れたってわけ。ジョルジュがそう言ってた」
そんなに前から、イリーネたちと会うことを望んでいた。ソレンヌなどは状況を理解していただろうに、どうしてそんなに事を急いだのだろう。
そう考えてから、イリーネはカイを見つめる。
「……ソレンヌ様たちは、私たちを保護しようとしてくださったのかもしれませんね」
「そうだね、ジョルジュもそう考えていたみたいだ。王妃が直々にお茶会に招待することで、イリーネの身分を保証する――政治的な身分が低かろうと、彼女たちは王族だ。これでいよいよ、足踏みをしている廷臣たちも後戻りできなくなった。……そういうタイミングで、アスールは今回のお茶会を許可したんだと思うよ」
本当に、サレイユ王室は策士一家だ。みんな心の奥で、何を考えているか分かったものではない。アスールやダグラスが連呼していた『申し訳ない』という言葉は、急なお茶会を詫びる意味より、お茶会を利用することを詫びる意味があったのかもしれない。
「ジョルジュと二時間もそんな話してたの?」
チェリンが問うと、カイは苦笑して首を振った。
「色々だよ。まあ、アスールの現状とか他国の動向についての話も多かったけど」
「アスールの現状……どんな?」
「あともうひと押し、って感じ。イリーネを匿うとか、武官派と文官派の一時休戦とか、そのあたりは大筋まとまったらしい。ただ、サレイユという国としてリーゼロッテに対抗するかどうかは、まだ分からないって」
つまり、同盟破棄。数十年続いた体制を崩す、大きな決断を強いられているのだ。勢いで決められるものでもないし、慎重になるのも無理はない。同盟破棄で失うものはあまりに大きすぎる。軍事的にも弱く、切り札も持たないサレイユは、他国の協力が不可欠だ。
そこで価値が出てくるのが、ファルシェのイーヴァン王国だ。既にファルシェはイリーネの後見に立ってくれている。イーヴァンとサレイユが組めば、少なくともサレイユ側はイーヴァンの豊かな財源を当てにできる。東西から大国リーゼロッテを挟撃することも可能だ。
「でも、お偉いさんはファルシェ王をどこまで信用していいのか考えあぐねている。あの子は辣腕で知られているらしいから、みんな尻込みしているんだって。アスールとダグラスがなんとか説得しようとしている真っ最中だ」
カイはそう言って、ソファから立ち上がる。
「……とまあ、そんな状況らしいよ。アスールの説得が成功すれば、正式にカーシェル奪還のために動き出すことになる」
「もう少し……なんですね。私も、しっかりしないと」
イリーネはぽつりと呟く。そんなイリーネをちらりと見て、チェリンはまた別の話題を振った。
「他にはどんな話を?」
「最初は俺たちの旅先での思い出話。脱線して武術稽古の話。なぜか次に人生と思想について語って、最終的にジョルジュの恋愛観についての話で終わった」
「……な、なんだそれ……それで盛り上がるの?」
「俺は殆ど聞いてただけ。ジョルジュ的に、チェリーは案外タイプらしい。気をつけなね」
「どうしよう、まったく嬉しくない」
感情の全くこもらないチェリンの言葉に、イリーネは吹き出す。次にふたりが顔を合わせた時、また一戦やらかすのだろう。容易に想像がつく。
それにしても、カイがジョルジュと長々と話をしている姿がまったく思い浮かばない。案外気があったのだろうか? コミュニケーション能力ゼロだと自分で言っていたカイだけれど、そんなことないではないか。イリーネはそう思いつつ、チェリンと話すカイを微笑ましく見ていた。




