◇王子ふたり(1)
イリーネたちが朝の活動を始めたとき、すでにジョルジュの騎士隊や巡視監の一団はオーブの街を出発したあとだった。予想外の展開で驚いたのだが、思えば今日中には王都グレイアースにイリーネたちも到着して、またジョルジュと会えるのだ。
昨夜の出来事をイリーネたちが目撃したのを、アスールは知っているのか知らないのか――まったくアスールは顔に出ないから分からない。これまで何度も襲撃されていたとしてもおかしくないくらいだ。
何の躊躇いもなく、化身族の刺客を斬り殺したアスール。それを淡々と見ていたジョルジュ。ふたりとも、異常なほど静かで落ち着いていた。その姿は背筋が凍るくらい、怖いと感じてしまう。今目の前にいるアスールは、いつも通りにこやかに笑っているのだけれど、それが逆に怖いのだ。
しかしカイもチェリンも普段通りに振る舞っている。イリーネも努めて平静であろうとする。
そして四人は、王都グレイアースへと歩きはじめた。オーブとグレイアース間の街道の距離は短い。徒歩でも昼過ぎには到着できる程度だ。馬を使ったジョルジュたちなら、すぐ到着するだろう。
★☆
水と夜光の国サレイユの都、グレイアース。カトレイア半島のほぼ中央、オレント川を水源とする豊かな街だ。人口はリーゼロッテの神都カティアに次いで多く、観光客の出入りは世界一だ。
グレイアースの見どころはたくさんある。女神教の『世界三大聖堂』のうちのひとつは、この街にあった。フローレンツにあったものは狩人協会のアネッサと見に行ったし、最後の一つはリーゼロッテにあるそうだ。さらには王の住む宮殿、世界最大規模の図書館、大きな噴水が目印の広い公園、夜まで賑やかな商店街、ショーが行われる大通り――一日程度では回り足りない、それくらい楽しめるのがサレイユの王都なのだ。
やはり水の都というだけあって、グレイアースでの水の運用技術は優れていた。噴水ひとつをとっても、他国には絶対にない豪華さだ。上下水道などもきっちり整備されて、清潔感もずば抜けている。フローレンツやイーヴァンにはなかったきっちり感だが、そんなに窮屈でもない。
そんな街の北側に、美しい宮殿が鎮座している。あれがグレイアースのシンボルで、アスールの育ったグレイドル宮殿だ。
「すごく綺麗な宮殿ですね!」
「ああ、見栄えはいいな。私は正直、趣ある古城のほうが好きなんだがね」
アスールは苦く笑う。アスールにとっては息苦しい場所だったのかもしれない。なんだか辛口だ。
すれ違うヒトと肩がぶつかりそうになったカイがひょいと避け、人混みに早くも辟易したように問いかける。
「それで、あの宮殿に行くの?」
「いや、そんなに急がなくても良かろう。昼食くらいゆっくり摂ろうではないか」
「適当だなあ。会う時間の約束とかないの?」
「ははは、相手は私の兄弟だ。そう構えなくていいよ」
アスールはそう言うけれど、気軽にダグラスに会えないと言ったのはアスール本人だ。時間や場所もきっちり調整済みなのだろうが、それを仲間たちには気にさせない。ならばこちらがそれを気にするのもおかしいものだ。
……多分だが、アスールはあまり王宮に戻りたくないのだろう。延び延びにしようとしている雰囲気が、なんとなく伝わってくる。
そういうわけでしっかりと昼食を摂り、ぶらぶらと王都観光だ。あちこちに水があるせいか、どことなく街中は涼しい。少し肌寒くすらあるが、カイには適温だ。じめじめと蒸し暑かったイーヴァンやギヘナを過ぎ、季節も徐々に秋めいている今こそ、何をするにも一番快適な時期である。
立ち寄った大聖堂には、休日でもないのに大勢の参拝者がいた。フローレンツで見たものと同じ、女神エラディーナの石像が鎮座している。人々はその像に向かって一心に祈っているのだ。女神教の教徒たちの間では、リーゼロッテ、フローレンツ、サレイユの三大聖堂を巡礼することが習わしなのだそうだ。古代、リーゼロッテから最も遠い独立国だったサレイユやフローレンツにまで女神の教えが届いたというだけで、その影響力の強さがうかがえる。サレイユではリーゼロッテと同盟を結んでから、より一層宗教に重きを置くようになった。だから日々多くの女神教教徒が聖堂を訪れるのだ。
「……それで? いつになったらダグラスに会いに行くんだ?」
指摘しにくかったことをずばりと尋ねてしまったのは、やはりカイである。聖堂から外へ出たところでアスールはぎくりとした様子で足を止めて、振り返る。
「観光も良いけど、今は他にやることがあるでしょ。らしくない」
「……すまぬ。どうも踏ん切りがつかなくてな……」
アスールはそう力なく微笑んだ。いつもはあれだけ思い切りのいいアスールが、こんなにも躊躇う――それがいかに珍しいことか、イリーネたちは分かっている。アスールにとってグレイドル宮殿は、生き地獄なのだ。陰謀と策略が飛び交う、不穏の地――。
「ダグラスって、どんなヒトなのよ?」
妙な雰囲気とカイとアスールを和ませようと、チェリンが別の問いを投げかける。門へ向かって歩き出しながら、アスールが腕を組む。
「そうだな……主に外交交渉を担当しているから、世界事情には精通している。キレ者だな」
「アスールも詳しいじゃないですか」
「いや、私などダグラスに比べればまだまだ。だが、性格は少々強引というか短気というか、乱暴というか……」
「――悪かったね、強引で短気で乱暴で」
「は?」
聞き覚えのない声がして、イリーネたちは足を止める。と、先頭を歩いていたアスールが門を出た瞬間、横合いから杖が伸びてきてアスールの脛を一撃した。門柱の影にいた何者かが的確にアスールに攻撃したのだ。
一番痛いところを突かれたのだろう、アスールともあろう者が足を抑えて悶絶する。カイが瞳を金色に変化させて身構えたが――現れた人物を見て、拍子抜けしたように構えを解く。
そこにいたのは、昨晩別れたばかりのジョルジュだ。彼は哀れな目線をアスールに送っている。その傍に、ふたりに比べれば小柄な青年が立っていた。
透き通るような空色の瞳。アスールよりいくらか長い、同じ色の髪が風になびく。髪型こそ違うし、目元はこのとき怒ったように吊り上がっていたが、顔のパーツ自体はアスールとそっくり。というか――。
「……ふ、双子……?」
思わずそう口に出してしまうほどだった。
今しがたアスールをつついた杖で、その青年は自分の肩を叩く。足が悪いようには見えないから、ただの小道具のようだ。まだ着るには早いのではないかと思える黒のコートをきっちり着込んで、杖を持つ姿はさながら青年貴族。
……が、その杖で肩をとんとん叩いている格好は、どう見ても不良のようだ。
「いつまで経っても戻ってこないと思ったら、案の定油を売っていたか! 分かりやすすぎるぞ、お前は!」
「くっ……ジョルジュ、なぜ止めなかった……!」
「私の制止を、ダグラス様がお聞きになると思いますか? というか、アスール様、自業自得です」
にべもなく主君に現実を突きつけたジョルジュは、にこやかにイリーネたちに一礼してきた。それを見て、青年貴族も肩に担いでいた杖を下ろす。
強引で短気で乱暴――それにこの見目。間違いなく、この男は。
「君がダグラス?」
カイが問うと、青年は吊り上げていた目を元に戻した。そうすると尚更アスールと瓜二つだ。
「ああ。待っていたよ、お客人」
アスールも観念したように息を吐き出し、ゆっくり立ち上がったのだった。
ダグラスが案内してくれたのは、グレイアース中心地の飲食街にある洒落た喫茶店だった。こんなにヒトの集まる場所で難しい話をして大丈夫なのかと不安だったが、この店はダグラスもアスールも懇意にしているらしい。店主の計らいで、店の奥まった個室に通してもらう。
コーヒーが全員に出されたところで、落ち着いたダグラスが息を吐き出す。暑苦しいコートも脱いでしまうと、どこにでもいそうな若者にしか見えない。
「……さてと。では改めて自己紹介をしよう。僕はダグラス・S・ミュラトール。ここにいるアスールの兄だ。よろしく」
アスールより数日早く生まれながら、第二夫人の子というだけで第二王子となった青年。兄なのか弟なのか分からないが、アスールは以前から「自分は弟だ」と告げて譲らなかった。そしてダグラス本人も、「自分が兄だ」と名乗った。二人の間では、そういうことになっているのだろう。
「イリーネ姫は記憶がないんだったね。僕のほうからは、久しぶりだと告げておくよ。三年ぶりになる」
「はい。あの、すみません、私……」
「いいんだ、気にしないでくれ。……うん、君は間違いなく、僕の知るイリーネ姫だな」
その言葉に、アスールが不機嫌そうに眉をしかめる。
「まさか、疑っていたのか?」
「ほんの少し。何事も自分で見聞きしないと気が済まない性分でね。……そうむくれるなよ、悪かったって。イリーネ姫も、見定めるような真似をしてすまなかった」
「い、いえ……?」
特に不快にも思っていなかったイリーネは戸惑いがちに首を振る。記憶を失い、自分が何者かを証明できないイリーネは、周りの人々の承認のもとに『イリーネ』と名乗っている。カイやアスールが、リーゼロッテの姫であると認めてくれたから、これまで様々なヒトからの協力を得られたのだ。だからダグラスの疑惑は当然のものだと思うし、ダグラスもイリーネが『本人』だと認めてくれただけで、イリーネも少し自信がつくというものだ。
カイとチェリンもそれぞれ名乗る。そこで、ずっと聞きたくて仕方がなかった質問を、チェリンが思い切って投げかけた。
「ねえ、あんたたちって異母兄弟なのよね? それにしてはそっくりすぎない?」
聞かれると思った、という顔でアスールが頭を掻く。
「それが、私たちは異母兄弟でもあり、はとこでもあるのだよ」
「はとこ!?」
「私の母とダグラスの母が従姉妹同士ということだ。ローディオン家とミュラトール家は、元々ひとつの家でな。私たちの祖父の時代に、ふたつの家に系統が分裂したのだ」
「これだけ血が濃ければ、嫌でも似るさ。手が速い父には困ったものだよ」
ダグラスもまた苦笑しながら、コーヒーを啜った。道理で似ているわけだ。
ようやく話は本題に入る。と言っても、話はアスールがダグラスに向けてこれまで起こったことを説明するところから始まった。ダグラスは一切の口を挟まず、時折コーヒーを飲みながらアスールの話に聞き入っている。ジョルジュの方も初めて聞く話だからか、聞き漏らしのないように真剣に聞いている。
かいつまみながらも説明が終わると、「なるほど」とダグラスは一言呟いた。そしてテーブルの上で指を組む。
「アスールは首脳会議の直後から、イリーネ姫とカーシェルを探し出すために単身で動いていた。ここ数か月なんの音沙汰もないからどうしたものかと思っていたが、まさか大陸を横断していたなんてね」
「けれどイリーネは無事に見つけることができたし、カーシェルの無事も確認できた。無駄な時間ではなかったぞ」
「そういう問題じゃない! フローレンツにいる時点でイリーネ姫と合流できていたのなら、連絡のひとつくらいよこせ! お前が死んだという噂まで流れて、こっちでは対応にてんやわんやだったんだぞ!」
「わ、悪かった、それは謝るから殴るな……!」
ダグラスにどつかれるアスールを見て、チェリンが『仲良いのね』と棒読みで呟く。どうもダグラスもジョルジュも、アスールには上から物を言うタイプらしい。アスールにも頭の上がらないヒトというのがいるのだ。
しかし、ここまでイリーネを守ってきてくれたアスールの行動は、ダグラスやジョルジュも承知済みのものだったのだ。王子がひとりで所在の知れないヒトをふたりも探す旅に出るなど、大胆極まりない。
「……まあ、とはいえサレイユで動いたのは僕とアスールだけだ。個人の力などたかが知れていたよ。アスールひとりではファルシェを頼るのが関の山だったし、僕が直に動かせる人員も少なすぎた」
ダグラスの表情に苦悩が現れる。
国政を任されているという点では、ダグラスとアスールの兄弟も、カーシェルも同じだ。だが両者には決定的な違いがある。神国王はすべての政治を放棄しているために、国政の全権はカーシェルが握っていた。もはやカーシェル本人が王だ。だがサレイユの王は違う。足が悪いせいで身動きは取れないが、政治はしっかり行っている。王の指示を受けたダグラスとアスールが、その指示を忠実に実行するのだ。それがサレイユの近年の行政だった。
だからダグラスとアスールには、個人で動かせる権利や兵というものが殆どなかった。彼らはあくまでも、足の不自由な王の代理人に過ぎない。ファルシェのように、イリーネたちを直接支援することができないのだ。それをするには王宮の廷臣たちを説得し、王を説得しなければならない。いかにダグラスがいち早く情報を掴んでいようと、アスールが武芸の達人であろうと、密偵や軍を動かすことはできなかった。そのせいで彼らは、単独で動いていたのだ。
「でも、君たちは動いたんでしょ。イリーネとカーシェルを助けるために、たったふたりだけでも。誰よりも早くね」
カイがぽつりと告げる。驚いたように顔を上げたダグラスが、やがて笑みを浮かべる。そして大きく頷いた。
「ああ。今までは何もできなかった、けれどこれからは違う。ここまでアスールに任せきりにしていたが、僕もカーシェルの救出に手を貸すよ。できるかぎりのことはさせてもらう」
「及ばずながら、私も」
ジョルジュもそう告げる。頼もしい味方が、またふたり増えたのだ。




