ある黒鴉の独白
リーゼロッテ神国の上空を飛ぶのは慣れている。
ヘルカイヤ公国で【目】として活動していた時も、そのあとも、俺やクレイザが一番に警戒するのはリーゼロッテ神国だった。王太子カーシェルやイリーネ嬢ちゃんが、ヒトとして信頼できるのは分かっている。が、国というのは個人の意志など簡単に捻りつぶせる。本意ではなかろうが、俺たちに追っ手や監視をつけていたのはいつだってリーゼロッテだった。
後手に回らないために、俺は頻繁に情報収集に飛んでいた。リーゼロッテやサレイユの動向は逐一確認していたし、イーヴァンのファルシェと密に連絡を取りもしたものだ。
だから、リーゼロッテで王太子カーシェルの安否が不明になったことは、いち早く入手して――いなければならなかったのだが。情けないことに、俺の諜報能力をリーゼロッテの情報秘匿能力が上回ったのだろう。……いや、ちょっと待て。俺は身一つで世界各国を回っていたんだぞ? 定期的にクレイザの様子も見に戻らなければならなかったし、無理があるんじゃないか。きっとそうだ、俺のせいではない。
(ま、見苦しい言い訳だわな)
見抜けなかったのは間違いなく俺の責任だ。クレイザもどうにかしてカーシェルを救いたいと考えている。そりゃそうだ、カーシェルがいなければヘルカイヤの民がどうなるか分からない。カーシェルほどヘルカイヤの女神教に理解ある者がどれだけいるだろう。下手をすればまた戦渦に巻き込まれる可能性もあった。
まんべんなくさまざまな情報を集めるより、狙ったひとつの情報を収集するほうが得意だ。俺がクレイザから頼まれたのは、カーシェルの居所の特定、できれば獣軍将カヅキとの接触・連携、あわよくば救出。……他人事だと思って無理難題を押し付けてきやがる。
そういうわけで俺は、サレイユからはるばるギヘナを飛び越えて、リーゼロッテ神国の神都カティアへやってきた。クレイザはサレイユで留守番だ、どうせ今頃気ままに街中で竪琴を弾いているのだろう。
リーゼロッテは起伏にも富み、森林の多い国だ。同じような気候風土のサレイユが続々と森林を伐採して開拓していく半面、リーゼロッテはその広大な土地柄、開発未着手の森林が多い。とはいえ、密林とか原生林というほどうざったい森じゃあない。森林浴とかいう、何が楽しいのか分からない行楽地としてある程度整備されている。森の恵みも豊富だ。そういう意味ではイーヴァン人が山を大切にするのと同じような気持ちで、リーゼロッテ人も森を大切にしているのだろう。
俺も森林は好きだ。別に清々しいとか、爽やかだとか、そういう意味じゃない。身を隠しやすいのだ。木々の密集した場所は俺にとっても飛びにくいが、俺くらいの強さになれば、簡単にすり抜けて飛ぶことができる。普通の獣や鳥族はとても追って来られないし、人間の撃つ猟銃も視界が悪くて狙いを定められない。案外木々の緑の中に黒い俺は溶け込むことができるし、いいことづくめだ。
そんな森林を眺めながら、俺は先程から同じ場所をぐるぐると旋回している。俺の真下にあるのは、巨大な城だ。古くさくていかめしい城だが、歴史の重みがあるとかであえてそのままにしているらしい。間違いなく一般的なリーゼロッテ貴族の豪邸が三つも四つも入る、世界最大規模の敷地。深い森林の中にすとんと落とされたように異質で、だが雰囲気は悪くない。それがリーゼロッテの王城だった。
城下街から少し離れたところにある王城は、いつだって静かだった。だが、その静けさが違う。何度も来た俺だから分かるのだ。いつもは荘厳とか重厚とか、そういう類の静けさだった。今の静けさは、ヒトがいないという類の無音だ。
明らかにおかしい。この城はカーシェルやイリーネが住んでいる『家』で、貴族たちがああでもないこうでもないと国政に口を出す議会の場だが、普段は一般客にもある程度公開された、明るい城だったのに。門扉はすべて閉ざされて、ヒトひとり出入りしていない。
ゆっくりと降下していく。本当ならこれ以上近付きたくないのだが、近づかなければカーシェルやカヅキがどこに軟禁されているのか分からない。何せこれだけ広い城だ。歩いて探すことも時には必要だろう。
――と、何やら倉庫らしき建物の裏手で屈みこんでいる人間の男が見えた。リーゼロッテ神国の兵の姿をしてはいるが、どうにも怪しい。手元には紙……手紙か。
ふと興味が湧いて、そのすぐ傍に降り立って化身を解く。音に気付いたのだろう、男ははっとこちらを振り返った。持っていた手紙を隠し、素早くナイフを引き抜いて構える。その構え方は、神国兵じゃない。
「待った!」
飛び掛かる寸前の男を慌てて留める。男はナイフを構えながら止まったが、警戒の目は相変わらずだ。
「俺はニキータ。一時期イーヴァンに身を寄せていた。お前はイーヴァン王の使いだな?」
「……! これはニキータ様。すみません、少々気が立っておりまして」
あっさり信じられて、逆に拍子抜けする。もう一度化身するなりなんなりする必要があると思っていたが、男のほうは俺を知っていたらしい。考えれば、ファルシェに密偵として使われるほどの男だ。ファルシェの傍に控えていたなら、俺やクレイザの事情を知っていなければおかしい。
しかし――リーゼロッテの城に忍び込むだけでも大変だろうに、獣軍将と接触し、あっさりカーシェルの居所をイーヴァンの密偵が突き止めたというから、どんな男かと思えば。こう言っては何だが、どこにでもいそうな地味な若い男だ。イーヴァン人の特徴である褐色の肌でもない。まあだからこそ、ばれずに済んだのかもしれないが。
「その手紙は、ファルシェに送る文書か?」
「はい。……しかし、連絡用に使っていた鳥を射落とされてしまいました」
「射落とされたって……まさかお前」
言いかけた途端、背後で多数のヒトの気配と声がした。――この密偵、既にリーゼロッテ側に嫌疑をかけられ、追われていたのだ。男は手紙を取り出し、何か一筆書き記すと、それを俺の手に握らせた。
「ここでニキータ様に出逢えて良かった。どうかこの文書を、我が王に届けていただけませんか」
「何を言っている、今ならまだ逃げられるだろう。俺に掴まれ」
「それではニキータ様の姿が奴らに見られてしまう。今度は貴方が動きにくくなってしまいます」
この男が何をするつもりか、俺は分かっている。だが男の懸念も分かる。俺がこの男を連れて空へ逃れれば、俺たちは助かるだろう。なんなら、追っ手を殲滅してもいい。
だが、そうなれば俺の姿は見られてしまう。俺がここ最近イーヴァンに身を寄せていたのは、リーゼロッテも知っているだろう。イーヴァンが密偵を放ったと知れれば、またあのメイナード王子は報復措置を取るかもしれない。
「私は失敗したのです。ここに私が存在した証は、すべて消し去らなければなりません」
「そりゃ、分かるけどなぁ……」
理解はできるが、化身族の俺には納得できない考えだ。敵に見つかったなら突破すればいい。今までだってそうしてきた。……それで戦にも負けたことがなかったから、俺はそうやって強気でいられたのだろう。
俺が現れなくとも、この男は最初からこの道を選んでいた。ただ、俺が現れたことで変わったことがある。
届ける術のなかった最後の文書を、ファルシェへ届けることができる。
「……それも俺の務めか」
頷いて見せると、男はほっとしたように笑った。こんな時だというのに、この密偵は穏やかに笑うんだ。まだ――二十年かそこそこしか、生きていないはずの若造が。親だってまだ生きているだろうし、兄弟や友人も、もしかしたら恋人もいたかもしれないのに。使命を果たして、こんなに満足げに死にに逝けるものなのか。
――ろくでもない世の中だ。
「あの塔――あそこに王太子カーシェルが捕らわれています。獣軍将も、その近くに」
男が指差したのは、城から少し離れた場所にあるひときわ目立つ塔だ。軟禁にはおあつらえだろう。
「分かった。……お前の覚悟、忘れないぜ。ちゃんとファルシェに届けるから、安心しな」
「ニキータ様も、どうかご無事で。……我が王に、よろしくお伝えください」
それだけ言い残して、男は物陰から駆け出して行った。俺はそれと別の方向へ移動し、茂みに身を隠す。俺のでかい図体を隠せるほど好き放題に伸びている、よほど手入れを怠っているのだろう。
ヒトの死は見慣れている。生まれて百六十年、俺の人生は戦いの歴史といっても過言ではないくらいだ。死を恐れないヒトは大勢見てきたし、実際に死んでいくヒトも数えきれないほどいた。なかには、口に出すのも惨いような方法で嬲り殺された者もいた。
だがそれは兵士だった。戦場に出て、命のかけひきを生業とした者たちだ。あの男は密偵であって、兵士じゃない。ナイフの構え方だって、せいぜい護身術の程度。あいつが扱ってきたのはナイフではなく、情報と紙とペンなのだ。
それなのに、気概は一人前の戦士だった。扱うものが違くとも、あいつにとってこの城は戦場で、命がけで戦ってきたのだ。国のため、ファルシェのために。そしてあいつはやり遂げた。カーシェルの無事を見事に伝えてくれたのだ。
俺は、そんな男の最期の言葉を預かった。――無駄にはしない。
視界の端で、眩い閃光が炸裂した。そして一瞬あとに、静かになる。俺はカイ坊ほど耳はよくないが、それでも分かる。あの空間だけ、生命が死に絶えたんだ。
自爆――イーヴァンでそれを目の当たりにしたときは、反吐が出るほど気分が悪かった。もう見たくないと思ったものに、また立ち会ってしまったわけだ。しかも今回は、味方の自爆を。
巻き込まれた兵士たちも無事ではないだろう。これで完全に、密偵の任務は完了だ。追っ手の口封じをし、そして自分自身もまた消える。顔や持ち物などから、身元を特定されないために。
(……遺品の一つでも預かりゃ良かったな)
今更なことを思ったが、本当に今更だ。
頃合いを見計らって、俺は化身して飛び立った。このまますぐにイーヴァンへ向かえば良かったのだが、正直俺はまだ何も探れていない。
背の高い木の中に隠れ、葉の隙間から塔の様子を窺う。一か所だけ、窓に格子が嵌められている部屋があった。……これじゃあ、カーシェルはここにいると教えているようなもんだろう。
と、にわかにその部屋の窓辺にヒトが立った。あまりのことに驚いて、俺は前のめりになる。
先程の閃光に気付き、外を確認したのだろう。騒ぎも火の手もないから、気のせいだと思ったようだ。部屋の奥へ引っ込もうとしたそのヒトが、急に顔を上げた。
深い緑の髪。同じ色の目。あの長身にあの体格――間違いない、王太子カーシェル。
(……って、俺に気付いているのか!?)
目の利く俺は、この位置からでもカーシェルを判別できる。だがカーシェルは普通の人間だ。優れた戦士だとは聞いているが、これだけ距離の離れた木の中に潜む俺を見つけるなんざ、常人にできることじゃない。
可能性があるとすれば、俺が『見ている』という視線を感じたか。
(絶対目が合ってるよな……噂通りの傑物ってことか。しかし、これはもしかして、このまま特攻すればカーシェルを助け出せるんじゃねぇか?)
格子なんざ、一撃で破壊できる。さっと侵入してさっとカーシェルを引っ掴んで来れば、案外簡単に――。
その時、カーシェルの表情が険しくなったように見えた。そして奴の口が動く。窓があるから声は聞こえないが、あの口の動きは。
――『にげろ』。
俺がそれを理解した途端、塔の壁面に妙な模様が浮き出た。黒く光ったその模様は、俺の真正面。
(闇属性の魔術……こりゃやべぇ!)
カーシェル救出は断念せざるを得なかった。木から飛び立って、空へ逃れる。そんな俺を、壁面の模様から放たれた黒い光が追撃する。
一直線の攻撃ではない、俺を追尾していやがる!
回避しきれず、右の翼の先端を黒い光が掠める。
それだけで強烈な痛みが全身を襲った。耐え切れず、俺は急降下して城外の森へ逃れる。地面が近付くと、勝手に化身が解けてしまった。
これが闇属性魔術の嫌なところだ。予想できない効力を秘めた魔術が多すぎる。全貌は俺も把握していないし、多分カイもそうだ。
「……直撃食らってたら死んでたな」
どうやら城外までは追ってこないようだ。さしずめ、自動防御魔術といったところだろう。あの場に、そんな強力な魔術を操れるような存在の気配はしなかった。獣軍将カヅキは風魔術の使い手だから、あいつの術でもない。
……メイナードは、それほどの強者を従えているということか。
森の奥へと歩きながら、ふと密偵から預かった文書を開いてみる。前半部分は丁寧な字だが、後半部分はメモ書きのような、非常に急いだ文字だ。あのとき急いで書き足したのだろう。
記されていたのは兵の配置や人数、詳しいカーシェルの居場所などだ。よくまあ調べたもんだと感心するほどの精密さだった。あの塔に施された闇属性魔術まで見抜いている。許可のない者が塔へ近づくと、ああやって攻撃されるらしい。ということはつまり、あの男は近づいて生き延びたということだ。俺ですら避けるのが精いっぱいだったあの攻撃を。……何者だったんだ?
そして後半部分は――。
『任務継続不能。申し訳ありません。
呪われた我が力が、少しでも王のお役に立てたのなら』
「……そうか。あいつは混血か」
しかも、扱う魔術は光属性。闇と相性の良い光の魔術ならば、あの術に対抗できただろう。塔の術を見抜けたことも納得だ。カイがいたなら、一発で見抜いていたかもしれない。生憎俺は魔術にあまり興味がないのだ。
ヘルカイヤには混血児などそこら中にいたから、俺には虐げられる混血児たちの姿が歪に見えてしまう。ヘルカイヤの外では、混血だとばれたら仕事どころか生きるのも大変なのだろう。そんな中でファルシェは、混血児たちを救済していた。仕事を与え、居場所を与え、生きる理由を与えたのだ。
あの密偵の男も、きっと救われていた。これだけファルシェに忠義を尽くすのだから。
――どうにも、ヘルカイヤの仲間たちと重なって、感情移入をしてしまう。
彼らの大半は戦場で死んだ。最後まで誇りと忠義を抱いたまま、ヘルカイヤの戦士として。彼らの顔を、俺は昨日見たように思い出すのだ。
(……とにかくまずは、イーヴァンに行ってファルシェに手紙を届けないとな。そのあとはクレイザを拾って、カイ坊を追いかける。あの塔の魔術を破る方法も、考えておかないといけねぇか)
やることはたくさんあった。とにかく今は、密偵の最後の報告書を預かれたことと、カーシェルの無事をこの目で確認できたことで満足しよう。
しばらく、翼を休める暇すらないかもしれない。