◇血色の狼煙(4)
夕暮れ時に到着したオーブは、クレールから少ししか離れていないのに、不穏な空気など微塵も感じられない穏やかな街だった。王都グレイアースとデリア大橋の中継地点としてヒトの往来も盛んだ。すぐ傍の街で市街戦が起こったというのに、それを一切知らないような賑わいだった。
「オーブの街は、フェレール家の本領――つまりジョルジュの生まれ故郷だ。心配はいらぬよ」
「そうだったんですか?」
「うむ。フェレール家は元々オーブの監察官を務めていた家系でな。やがてこの地に土着し、国政に貢献して貴族の称号を得た――ということだ」
ジョルジュが手配してくれた宿のサロンで、仲間四人集まってそんな会話を交わす。通常のイリーネたちだったら絶対に泊まらないような高級宿をジョルジュがあっさり手配したので驚いていたが、そういうことなら納得だ。ついでに、クレールの暴動の鎮圧にジョルジュが凄まじい速さで到着したのも、そのことが関係しているだろう。この街で馬を変えるなり、休むなり、兵を増員するなりができたのなら、多少の強行軍も可能だったはずだ。
優雅に紅茶を飲みながら時間を潰しているところへ、ジョルジュがやってきた。相変わらず騎士の制服のままだが、軽鎧は脱いでいくらかさっぱりしている。
「すみません、お待たせしました」
「いや、いい。手続きは済んだのか」
「滞りなく。明日、巡視監はこちらが手配した馬車で王都へ戻られます。騎士隊も共に帰還する予定ですが、皆さんはいかがされますか?」
その言葉に、アスールはイリーネたちに目をやった。ぽりぽりと頭を掻いたカイが答える。
「馬車で楽々王都に到着ってのは、柄じゃないよね」
「そうよね。あんまり注目されたくないし」
「いや、それはこのヒトがいる時点で無理だと思うけど」
カイはアスールを指差してそう苦言を呈す。アスールは苦く笑い、イリーネを見た。
「どう思う、イリーネは?」
「えっと……王都はもうすぐそこなんですよね。だったら、歩いてみたい……かな」
「街もゆっくり見たいしね」
ねえ、と同意を求めるカイにイリーネは頷く。それを見てアスールがジョルジュを振り返って指示を出した。
「そういうことだからジョルジュ、お前は先に戻ってダグラスに話を通しておいてくれ」
「承知しました」
「あ、あの、アスールは大丈夫なんですか? 急ぎのご用とか……」
王族のアスールがのんびり観光などできないのではないかとイリーネは思っていた。折角戻ってきた王子を、ジョルジュも部下たちも放っておけはしないだろう。しかし予想に反してアスールは首を振って、同道を申し出る。
「ここまで来たのだ、今更みなを放っては行かないよ。大丈夫だ」
「自由な王子様ね」
「ま、普段から私は気軽に国内をぶらついていたからな。それこそ、今更だ」
ずっと立っていたジョルジュにアスールが座るよう促し、ジョルジュも一礼して椅子に腰かける。状況把握のために、ようやく腰を据えて話すことができる。ジョルジュはアスールの腹心だが、だからといってダグラスを邪険にしているという訳ではない。むしろダグラスのことも、アスールと同じように大切な主君として扱っている。そんな彼こそ、ダグラスへの繋ぎを頼むに最適な存在なのだ。――アスールが直接話しに行けば早いのだが、派閥争いのせいで気軽には会えないのだという。
「さて……」
おもむろに腕を組んだアスールは、改めてイリーネと向き合った。
「ジョルジュの強烈な人柄を見ても、イリーネの記憶は戻らなかったか」
「……え!?」
驚いてイリーネはジョルジュを見る。ジョルジュは相変わらず穏やかな笑みを湛えたままだ。カイが呆れたように溜息をつき、紅茶を一口すする。砂糖たっぷりミルクたっぷりの、カイ仕様の紅茶だ。
「いつの間に話してたの?」
「なに、先程ふたりきりになったときに、手短にな。込み入った話を兵たちに聞かせるわけにもいかなかったのだよ」
「兵たちには既に、イリーネ姫様の件について口外しないよう命じてあります。これ以上秘密事を増やして負担をかけるのは厳しいですから」
食えないふたりだ、とカイはぼそっと呟いた。本当に、一体いつそんな時間があったのだろう。
それにしても、自分は本当に、リーゼロッテ神国の王女で神姫なのだ。他人事のように感じていたそれが、目の前まで迫ってきている。だというのにやはりそれは、とても自分のことだとは思えない。ジョルジュが恭しく接してくるのも、むずがゆい。
「……しかし、まさか派閥争いが表面化するなんてね。水面下での牽制のしあいじゃなかったの?」
カイの問いにアスールは難しい表情で頷く。
「そう……思っていたのだがな。状況が変わったようだ」
「サレイユだけではありません。どこの国も情勢不安に陥っているのです。神国のカーシェル殿下の失踪に端を発し、イリーネ姫様の消息不明、首脳会議の不穏、イーヴァンでのテロ……妙なことが続いています。そのせいでみな、ピリピリしているのでしょう」
「大陸の覇権を握っていた神国がそんな様子じゃ、諸国が揺らぐのは当然か……」
チェリンはそう呟いて沈黙する。アスールが顔を上げた。
「国内で争っている場合ではない。今はどうにかして、メイナードに対抗しなければならないというのに……」
「ファルシェ様やニキータさんたちは、大丈夫でしょうか」
今もどこかでリーゼロッテを探っているはずの彼らの名を口に出す。特にファルシェのほうは、リーゼロッテから直接攻撃を受けたばかりだ。完全にイーヴァンはリーゼロッテの敵とみなされている。ヒューティアや大勢の兵たちがいるとはいえ、多数で攻められれば――。
「きっと大丈夫だ。リーゼロッテは一度手酷く失敗したし、ファルシェ王も警戒して防備を固めているはずだよ。神国のほうもあの山を行軍するのを避けたかったから、ああやって少数で攻め込もうとしたわけだしね」
「ああ。【黒翼王】殿とクレイザは、それこそ心配無用だろう。空に逃れた【黒翼王】殿と渡り合える者など、そういない」
カイとアスールが間髪入れずにそう宥めてくれる。そうだよな、とイリーネも思い直す。彼らに限って、滅多なことにはならないはずだ。
「……詳しいお話は、やはりダグラス様とされるのがよろしいかと。あの方は各国の情報に精通しておりますし、豊かな人脈もお持ちです。申し訳ありませんが、私では何もお役に立てそうになく……」
ジョルジュが深々と頭を下げる。アスールがゆっくり首を振った。
「そんなことはない。……ありがとう、ジョルジュ。色々便宜を図ってくれて」
「当然のことをしたまでです。礼を言われるほどでは」
「それでもだ」
「では、どういたしまして」
ソファに身を預けていたアスールは、勢いをつけて身体を起こした。そして一同を見渡す。
「今日はみな疲れたろう。姫君たちは、そろそろ湯でも浴びたい頃合いではないか?」
「確かにそう思ってはいたけど、あんたに指摘されるのは複雑よね」
チェリンの辛辣な言葉にイリーネは苦笑する。散々デリア大橋を歩いて汗をかいた上に、クレールで大量の砂塵を浴びたのだ。いい加減髪の毛もぱさぱさだし、服も取り替えたい。
ぱっとジョルジュが表情を輝かせる。……なんだって彼が嬉しそうな顔をするのだ。
「おお、では私が浴場までご案内しましょう」
「結構よ。あんた、なんか浴室まで入ってきそうだし」
「なんと……チェリン嬢、この短期間で私のことをよく分かっておいでだ! チェリン嬢が良ければ、ぜひそうしたいと思いますが」
「やっぱりか! 良いなんて言うわけないでしょッ!」
「着替えは必要ですか? なんなら私が調達して参りましょうか? あっ、お背中流して差し上げましょうか!」
「いらないってばこの変態!」
すかさずチェリンはジョルジュから距離を取った。本当に、このヒトの切り替えは前兆がなくて見抜くのが難しい。というより、さすがアスールの手本となったヒトなのか、アスールより発言がド直球のような気がする。
見かねたカイがひらひらと手を振った。
「この変態紳士一号二号は俺が見張っておくから、安心して行ってきていいよ」
「……カイ、コンビみたいに括られると非常にショックなのだが」
隣で項垂れるアスールにカイとチェリンが投げかけた言葉は、どちらも『自業自得だよ』であった。
★☆
極上の風呂のあとは、極上の夕食を頂いた。ジョルジュが遠慮するなと言ってくれたが、遠慮してしまうのがイリーネの性格である。せっかく出してもらった食事を残すのは勿体ないので、すべてきれいに平らげたけれど。
驚いたのはジョルジュがまめまめしく食事の世話を焼いてくれたことだ。酌や料理の説明など、給仕をそつなく丁寧にしてくれる。第一王子の乳兄弟で、自身も貴族出身、今は騎士であるジョルジュがだ。なんでもジョルジュは、フェレール家の中でも末席だったため、幼いころからアスールの世話係のように仕えてきたのだそうだ。だから一通り侍従の真似ごとができるという。食事の世話もそのひとつだ。アスール曰く、『ジョルジュは万能騎士』らしい。女性のエスコートもアスールに負けず劣らず優雅にできるし、そういうところは本当に紳士なのだけれど、いかんせん他の部分が残念すぎる。
食事も終えると、イリーネとチェリンはあてがわれた部屋へと引き取った。宿で休むとき、大体の場合食事を終えると男性陣と女性陣は完全別行動を取ってきた。イリーネやチェリンは一度部屋に入るとそのまま寝てしまうから、夜半に男性陣が何をしているかは知らない。お酒でも飲み直しているのかとも思ったけれど、カイやアスールが酒臭いことが一度としてなかったので、そういうわけでもないのかもしれない。
昼に大騒動を目の当たりにしたばかりだけれど、イリーネにはそれほど緊張も不安もなかった。ここはジョルジュの生まれ故郷で、隣の部屋にはカイとアスールがいる。街のあちこちに、ジョルジュの部下たちがいてくれる。むしろこれ以上ないほど安全な場所ではないだろうか。
そう思って寝る支度を始めたのだが、窓のカーテンを閉めようとしたチェリンがふと手を止めて外を見ていた。そしてイリーネを振り返る。
「イリーネ、あれ見て」
「なんです?」
チェリンに言われるがまま、窓から外を覗く。二階のこの部屋の真下は、宿のロビーだ。そこから今まさに大通りへ出て、どこかへ足早に歩いていく者がいる。全身黒装束で、頭もフードで隠している。腰のあたりの膨らみ、あれは長剣だ。あのシルエットは――。
「アスールよね?」
「そう見えましたけど……こんな時間にどこへ行くんでしょう」
「……なんか嫌な感じね。剣まで持ち出して、あんな急いで……それにあの格好」
食事のときは旅装を解いていたのに、なぜまたあのように正体を隠す服装をしているのだろう。しかも、街中で剣まで持って。
無言でチェリンは窓から離れた。さっさと上着を着込むチェリンを見て、イリーネは苦く笑う。
「チェリン、その……追いかけるんですか?」
「気になるじゃない!」
「それはそうですけど、ジョルジュさんと用があるだけかもしれないですし」
「あれはそんな穏やかな雰囲気じゃなかったわよ。密会とか暗殺とか、そういう類の何かよ」
「暗殺……」
何気なくチェリンが呟いた単語に、イリーネも嫌な予感を覚えてしまった。
――そういうことで、なぜかノリノリのチェリンに引きずられるようにして、イリーネは夜の街を歩いている。
アスールの姿はとっくに見失っているのだが、チェリンは契約を交わした者として、アスールの居場所がなんとなく分かるのだという。だから迷うことなくオーブの街を歩ける。むしろこれだけ距離があれば、いくらアスールでも尾行に気付けないだろう。
向かったのは街外れにある工業区域だ。オーブでは製糸が盛んだとジョルジュが説明してくれた。昼間は忙しく稼働している手工業主体の密集地だが、夜の今は死んだように静まり返っている。こんなところに、アスールは何の用で来たのだろう。いよいよ怪しくなってくる。
アスールは工場と工場の間の細い路地の真ん中に佇んでいた。遠くからその様子を覗ける位置に陣取り、イリーネとチェリンは息を殺す。
その時、背後から何者かがイリーネの口を手で塞いできた。驚いてもがくと、隣でチェリンも同じように呻いている。するとそっと声がかけられる。
「静かに、おてんば姫さまたち」
カイだった。イリーネとチェリンが落ちついたのを見計らって、カイはふたりの口を塞いでいた手を離す。あまりの驚きで上がってしまった呼吸を落ち着かせながら、イリーネはカイを見上げる。
「ど、どうして……?」
「イリーネが宿を出た気配がしたから。チェリーがアスールを追えるように、俺だって君を追えるの。駄目でしょー、こんな夜中に女の子だけで外に出ちゃ」
そういえばそうだった。そのおかげでイリーネは何度も助かっていたのだ。それを忘れてしまったことが恥ずかしくて、イリーネは顔を赤くする。
カイはイリーネらを咎めるでもなく、むしろ興味津々でアスールの姿を覗き見ている。というか、カイはアスールと同室なのだから、アスールが出かけたのは知っていただろう。放っておくつもりだったのか、ひとりでも追いかけるつもりだったのか。
アスールがゆっくりと剣を抜いたのが見える。月光に反射して、銀色の刃が鈍く光っている。不気味な色だ。
工場の屋根から、巨大な黒い物体が飛び降りてきた。アスールは剣を一閃させる。遠目にはどうなったのか分からなかったが――アスールが剣を収め、黒い物体が地面に落ちたきり動かなくなったのを見て、勝敗を知った。
「アスール様」
すると、別の場所からジョルジュが現れた。アスールは一度黒い物体を振り返り、溜息をつく。
「こうして狙われるのは久々だな。懲りないというか、なんというか」
「まあ……いまここでアスール様と私が消えてしまえば、文官派は万事うまく行きますからね。狙いたくなる気持ちも分かります。申し訳ありません、刺客の侵入を阻止できず、結局お手を煩わせることに」
「慣れたことだ。……しかしまあ、ジョルジュ。私は葉ばかりを刈り取って、根を残してしまったのかもしれないよ。やはり甘かったのかな」
「クレールの監察官ベイル……思っていた以上に執念深い相手のようですね」
アスールが斬ったのが、大きな化身族だったということに気付いて、イリーネを息を詰める。チェリンも険しい表情だ。カイはそんな二人の腕を引き、そっとその場を離れる。風に乗って、アスールとジョルジュの静かな会話がまだイリーネの耳にも届いた。
「この者の処理を頼む。ヒトには知られぬようにな」
「はっ、朝までに済ませておきます」
一見穏やかだけれど、アスールもジョルジュも、サレイユという国も、巨大な闇を抱えている――そう思わずにはいられなかった。




