◇血色の狼煙(3)
数十分も経つと、ぴりぴりした空気が徐々に緩んできたのが分かった。耳の良いカイが「終わったみたいだね」と呟いたので、アスールたちと監察官たちの交渉は成功したのだろう。次第に遠くの喧騒も聞こえなくなって、土煙も収まってきた。
すっかり静かになったころ、アスールとジョルジュが戻ってきた。怪我をした様子もない。一安心だ。
アスールが馬を降りてこちらへ歩み寄ってくる。その間にジョルジュは、部下たちにてきぱきと指示を出していった。
「全隊、撤退準備! 王都へ帰還するぞ、怪我人は丁重に扱うこと!」
その言葉を受けて、兵士たちは図書館の敷地からの撤退を開始した。ジョルジュは準備を指示したが、準備などとうの昔に済んでいた。整然と街から出ていく隊列を見送りながら、アスールがこちらを向く。
「私も先に行っている。すまないが兵が街を出た後で、追って来てくれ」
イリーネたちを関係者だと思われないようにするためだろう。クレールの街の住民の、サレイユ軍を見る目は、いまとても冷たい。そんな目に晒さないようにという、アスールの優しい配慮だ。
頷いて、イリーネはアスールが去るのを見送った。カイに促されて別の門から図書館を出て、遠回りをしながら街の入り口を目指す。カイやチェリンは何食わぬ顔で歩いているが、イリーネは散乱した商店の品々や破損した家屋を見て、痛ましさを感じてしまう。護衛団の兵士たちの怪我は相当のものだった。どれだけの乱闘が繰り広げられたのだろう。
デリア大橋へ合流する南の門ではなく、王都に向かう北の街道に合流する門からクレールを出る。少し離れた草原地帯に、巡視監の一団とジョルジュの騎士隊が待機していた。近づくと、警戒に当たっていた兵士が陣の中へと案内してくれる。
カイたちの到着を待っていたアスールとジョルジュが、ほっとしたように息を吐く。なんだかふたりともそっくりだ。
「何事もなかったか」
「うん、おかげさまで。そっちは?」
「こちらも問題はない。次のオーブの街まで騎士隊に同行するが、大丈夫か?」
「どうせ行き先は同じなんだ、構わないよ」
イリーネとチェリンも頷くので、アスールは微笑んだ。
「では少し歩きながら話そう。彼の紹介もせねばな」
そうして指差したのはジョルジュの方だ。イリーネと目が合ったジョルジュは、にっこりと笑みを浮かべる。先程までの緊迫感から解放された若い騎士は、アスールに負けず劣らずの優雅な男に見えた。
巡視監と護衛団は馬車で移動していたが、クレールでの乱闘の最中で失ってしまったという。オーブの街までは徒歩で移動するしかない。ジョルジュが率いてきた騎兵数名が先行してオーブへ連絡し、残りは巡視監やアスールたちの護衛のために周囲を固めて徐行する。こんなにも大人数で旅をするのは初めてのことで、イリーネは少々落ち着かない。
アスールのすぐ傍を馬を引きながらジョルジュが歩く。騎乗すればいいのにと思うが、主君のアスールが歩くならば自分も、ということらしい。
アスールは主にカイとチェリンへ向けて、ジョルジュを紹介した。
「この男はジョルジュ・フェレール。サレイユ王国中央軍騎士隊に所属し、小隊の隊長を務めている。こう見えてエリートだ」
『こう見えて』どころか、明らかにエリートだ。サレイユの軍隊は殆どが歩兵。その中でも騎兵は精鋭部隊で、騎士の叙任を受けているというだけで高位にいることが分かる。その騎士の中で部隊を率いているとなれば、ジョルジュは只者ではない。
「そんなエリートが、地方の暴動鎮圧に駆り出されたりするものなの?」
チェリンが素朴な質問をぶつけると、ジョルジュは苦く笑った。
「サレイユは戦争と縁遠い国ですから。騎兵は機動力があるので、遠方に派遣されることが多いのです。それに今回は身内の騒動でしたし、大事になる前にどうにかしなければならなかったので」
「ふうん。で、アスールとの関係は?」
カイもまた鋭く切り込む。アスールが説明を続けた。
「私の乳兄弟だ。フェレール家は古くからローディオン家と親しくてな。兄弟同然で育ってきたのだ」
ならばジョルジュがアスールに忠実なことが納得だ。異母兄弟のダグラスよりよほど兄弟らしく育ったのかもしれない。
サレイユにおける『貴族』とは、長年王都の議会に参加し、サレイユに貢献した家柄のことを指すのだという。貴族の称号を与えられた家は、その後も常に議会に出席して国政に参加する。その議会の決定に従い、数多くの役人が定められていく。これがサレイユの政治制度だという。
アスールの母の生家ローディオンも、ジョルジュの生家フェレールも、同じ貴族なのだそうだ。武官派とは、主にこのふたつの貴族の家によって構成されているといっても過言ではない。
しかしジョルジュは静かに首を振る。
「兄弟同然など、恐れ多いことです。フェレール家は貴族の中では新参、ローディオン家とは格が違いすぎます。加えて私は、フェレール家の中でも末席ですから」
「その末席の男が騎士の叙任を受けたのは、紛れもなく彼の実力だがな。一時期は貴族というだけで騎士の叙任を受けられるような時代があったが、ジョルジュはそうではないぞ」
どこか誇らしげにアスールは説明し、今度はジョルジュに向けてカイとチェリンを示す。
「こちらはカイ。フローレンツでは【氷撃】と呼ばれている化身族だ。古い友人だよ」
「どうもー」
カイは軽い調子で片手をあげて挨拶する。ジョルジュも丁寧に一礼を施す。
「そしてこちらは、チェリン嬢。共に旅をしている仲間だ」
「よろしく」
チェリンはまたそっけない。やっぱり彼女は人見知りなのだと思う。
そこでアスールは、今まで触れてこなかったイリーネのほうを振り返った。
「イリーネとジョルジュが会うのは、かれこれ三年ぶりほどになるのかな?」
「え……」
イリーネが固まったところで、アスールが何か促すように笑みを浮かべた。――ああ、そうか。アスールの乳兄弟なら、イリーネも面識があって当然。この場で記憶がないことなど話せるはずもなく、どうにか話を合わせろということだ。そのために必要な情報を、アスールはあらかじめイリーネに提供してくれた。丁寧にジョルジュの説明をしたのも、本当はイリーネに伝えるためなのだ。
「お久しぶりでございます、イリーネ姫様。先程は挨拶もなしに失礼しました。お元気そうで何よりです」
「は、はい。お久しぶりです」
これ以上余計なことを言うとボロが出そうだったので、手短にイリーネは挨拶を済ませた。記憶を失う前の自分がジョルジュにどんな言葉遣いをしていたのか、なんと呼んでいたのか、さっぱり分からない。ジョルジュは妙な顔をしていないから、多分いまは大丈夫だったのだろうけど。
それにしてもジョルジュは、これまでイリーネが出会った誰よりも丁寧で紳士だ。アスールはこれでいて大胆不敵なところがある。その点ジョルジュはアスールに忠実で、彼の意に反することは決してしない。言葉遣いも綺麗で、身分に相応しい立ち居振る舞いを見せている。これが文明国サレイユの貴族で騎士なのかと、イリーネは感動する。
「それにしてもイリーネ姫様はお美しくなられましたね」
「え? いえ、そんなこと……」
「謙遜なさいますな。最後にお会いした時は可愛らしい天使のようでしたが、今は美を司る神ネモラの加護を一身に授かったかのような神々しさ。本当に麗しい。たった三年で女性はこうも変わるものなのですね。イリーネ姫様の前では、サレイユの絶景も霞むようです」
「……は?」
――たったいま感じたはずの感動が、がらがらと音をたてて崩れた気がした。何かがジョルジュの中で起こったに違いない。
なんだこの、どこかで聞いたような、使い古された口説き文句は――?
「そしてチェリン嬢でいらっしゃいましたか。貴方もまた凛々しくてお美しい。艶やかな黒髪も実に見事、漆黒の瞳はまるで黒曜。夜闇を守護したもう女神アリューが現世に降臨なさったのかと思いました。先程の化身した姿も素敵でしたが、いやはや、化身族の女性もなかなかどうして」
「……」
「あ、美神ネモラも夜闇の神アリューも、サレイユに伝わる古い神なのです。創世の神話時代に登場する女神なのですが、これがまたどちらも美しくてですね。王都の博物館に絵画や彫刻が多く残っていますので、ぜひご覧いただければと。私個人としましては、ディールという画家の描いた絵が特に気に入っていまして」
「そんなことは聞いていないわよ! っていうか、あんた変態紳士第二号ね!?」
チェリンがそう叫んでジョルジュから距離を取った。そんな彼女の腕にぷつぷつと鳥肌が立っているのが見える。相当気味悪がっているらしい。イリーネのほうは驚きが強くて何とも言えない。
「おお、なんと華麗な身のこなし! チェリン嬢は本当に魅力的ですね」
「ちょ、ちょっとアスール! なに傍観しているのよ!」
チェリンの救援要請を受けたアスールは苦笑し、前のめりになっていたジョルジュの腕を引っ張って元に戻させる。カイも知らなかったのか、ぽかんとしていた。
「うむ……驚かせてすまない、イリーネ、チェリン。だがひとつ誤解しているぞ……この男こそ、『変態紳士第一号』なのだよ」
「は!?」
チェリンも唖然としているが、ジョルジュの方も瞬きを繰り返している。
「変態紳士って――アスール様のことですか? なぜまたそのような……」
「……ああ、そういうこと」
事情を察したらしいカイがにやりと笑った。ジョルジュに向けて説明する。
「つまりアスールは、旅先で正体を伏せるために、君の真似をしていたってわけだよ」
「カイ! お前は余計なことを……!」
アスールが鋭く叱責するも、カイはどこ吹く風である。カイの言葉の意味を理解したジョルジュはアスールをしげしげと見やり、そして――腹を抱えて笑い始めた。
「ははは、アスール様が私の真似を? 常日頃から口説き癖はやめろとおっしゃってくる貴方が? 生真面目すぎて恋愛もろくにしたことのない貴方が!? これは傑作……!」
「このっ、ジョルジュ! 笑うな! こら!」
大笑いしているジョルジュと、それに対して怒るアスールの様子を見ながら、イリーネたち三人はぽつんと取り残されてしまう。なんだか少年同士がどつきあっているようにしか見えない。
「えっと……つまり私たちがこれまで見てきた、アスールの軽薄な部分とか女性好きな部分とかって、全部ジョルジュさんを真似した演技だったんですね?」
「そうだと思うよ。演技だと堂々振る舞えるっていうのはあるだろうし」
「あれだけ立派な手本が傍にいたら、そりゃ演技もうまくなるわよね……」
「いや、でも俺はほっとしたな」
カイのその感想に、イリーネもチェリンも首を傾げる。カイは眉をひそめて腕を組んだ。
「俺の知るアスールはジョルジュの言う通り、生真面目で恋愛に奥手で弱気で臆病で消極的でカーシェルの後ろにくっついて回るような軟弱者だったからさ。いくら人間の十五年が長いと言っても、あそこまで性格変わってたら俺は本当に人間が信じられなくなってたよ」
「……少し、言い過ぎではないかね? カイ」
「おっと」
低いアスールの声を耳元に受けたカイが慌てて飛び退く。ジョルジュとの決着はついたらしい。アスールはわざとらしく咳払いをして、悪びれた様子のないジョルジュを示した。
「まあ、ジョルジュはこういう男なのだ。気が抜けるとあのような面を見せるが、それも信頼できる者の前だけでのこと。普段は仕事に忠実で有能な騎士だからな」
「よく分かったわ。とっても残念な男ってことよね」
チェリンに白い目を向けられたジョルジュは、にっこりと微笑む。
「それほどでも」
「褒めてないわよ!」
「いえ、貴方の冷たい言葉は私にとって最上の褒め言葉です。もっと罵ってください、さあ」
「チェリン、相手にするな……! こういう奴なのだ!」
「ぐ、さすがは元祖変態紳士……!」
チェリンがアスールに制されて呻く。イリーネとカイはもはや沈黙して見守っている。顔も仕草も身分も申し訳ないのに、あまりにジョルジュは残念すぎる。まるで出会った当初のアスールそのものだ。それを思うと、本当によくアスールはジョルジュを模倣していたのだろう。
「それはともかく、ジョルジュ。ダグラスはどうしている?」
アスールが半ば強引に話を変える。ジョルジュを真面目な騎士に戻すには、政治的な話をするのが良いらしい。ジョルジュは笑顔を引っ込めてアスールを振り返った。
「相変わらず忙しくしておいでです。つい先日も、陛下の代理でアンジュの街への視察へ赴かれたばかりですよ」
「代理?」
イリーネが呟くと、アスールが頷いて答えた。
「国王陛下――父は足が悪くてな。とても遠方への視察には行けないのだ」
「だからその代理を、アスール様とダグラス様がこなしておられるのです。フローレンツの首脳会議に出席したのはアスール様ですし、その間に国内での公務を行っていたのはダグラス様です」
状況はリーゼロッテと似ているが――違う。リーゼロッテの国王は一切の政を放棄し、全権はカーシェルに委ねられている。サレイユでは、国王の助言のもとでふたりの王子が政務をこなしている。そこには明らかな差があった。
「私はただのピンチヒッターだったが、ダグラスは違う。あいつは外交官として世界を相手取るのが夢らしいからな――で、ダグラスはいま王都に戻っているのか?」
「はい、しばらく時間が取れたとおっしゃっていましたから」
「それならゆっくり話ができそうだな」
ジョルジュは頷き、イリーネら全員を振り返った。
「とにかく、オーブの街まで行きましょう。今日は色々起こって、みな疲れていますから」
「ああ。クレールのすぐ北にある街だから、もう到着するはずだ」
アスールもそう続ける。イリーネは顔を上げ、行く先の街道を見つめた。デリア大橋を降りて、数日ぶりの大地だ。遠方に小さく集落が見えている。あれが目指すオーブの街。アスールやジョルジュが何も言わないから、おそらく安全な場所なのだろう。
もともとクレールで休むつもりだったのに、あの騒動だ。疲れは足にきている。じきに日も落ちてくることだし、早く落ち着きたい。そう思って、イリーネは地面を踏む足に今一度力を込めたのだった。




