◆血色の狼煙(2)
ジョルジュという男はたいしたものだ、とカイは感心する。アスールの突然の登場に、驚きこそしたが動揺はしていない。聞きたいことはたくさんあるだろうにアスールを問い詰めることもなく、冷静だ。アスールが全幅の信頼を置いている相手――腹心だろう。十五年前にアスールと出会ったときはジョルジュなどいなかったから、カイは知らなかったけれども。
「エメネス巡視監が、ベイル監察官の不正を見抜いたのです。住民から徴収した税を、王都には納めずに少しずつ横領していたようです」
「それで監察官が逆上したか?」
「いえ。それがどうも、手を出したのは巡視監のほう――というより、護衛に就いていた兵士たちのほうで」
「先に手を出したというのか!?」
アスールの表情が険しくなる。兵士が街中で武器を抜くのは、軍規とやらで禁じられているのだろう。それでなくともこういう争いの時、先にどちらが手を出したかというのは極めて重要だ。それがアスールの一派だとすれば、アスールの立場が悪くなるだけだ。
ジョルジュも困ったように息を吐く。
「……はい。監察官からの挑発に乗ってしまったらしく」
「挑発……例の、私がイーヴァンで死んだという噂か」
「ご存知でしたか。その通りです」
イーヴァンの王都オストでのクーデターでは、アスールは非常に目立っていた。アスールの正体を知る者が王都にいて、見てしまったとしてもおかしくない。その目撃情報が伝言ゲームのようにヒトの間に広まり、気付けば『アスールがクーデターに巻き込まれ死亡した』という話にまで発展してしまったのだろう。それ以降、アスールが霊峰ヴェルン、ギヘナ大草原という人里離れた場所に行ってしまったのも原因のひとつだ。目撃情報がぱったり途絶えて、サレイユの民は噂を信じるしかなくなってしまったはずだ。アスールの生存を信じられるのは、よほど彼を知っているヒトでなければ無理だろう。
その点、ジョルジュという騎士は噂を信じなかった口のようだ。嘆かわしげなその様子に、異を唱えた者がいる。敷地内で傷の手当てを受けていた、護衛の兵士たちだ。
「か、監察府の者たちは、殿下を愚弄したのです」
「奴ら、我らが街中で手出しできないのを良いことに好き勝手なことばかり」
「止めに入ろうとしてくださった巡視監さまにまで無礼な口を利くから、我々は――」
「まんまと武器を抜いてしまった、相手の思う壺、というわけだね」
剣を抜いたはいいが、護衛団は戦力としてはいま一つ。大して監視官は、巡視監を撃退する大義名分を得て、戦力も十分だ。あっという間に護衛団は図書館の敷地に追い込まれて動きが取れなくなったということだろう。
カイがぽつりと呟くと、兵士たちは黙り込んでしまった。なんと愚弄されたのかは想像がつく――アスールがこの世にいないことを強調されたのだろう。そう言われてしまえば反論のしようがないし、「文官派がアスールを殺した」と考えてしまってもおかしくはない。これはアスールの失態だろう。
護衛団の長であろう中年の男が、深々とアスールに頭を下げる。
「申し訳ありません。部下を抑える立場でありながら、止めることができず」
「ノヴェール殿のせいではありません。彼らは私を守ろうとしてくれたのです。どうかアスール殿下、罰するなら私を……!」
次にそう申し出てきたのは、巡視監エメネスという男だ。巡視監は文官だ、兵士たちの中にいるとどこか頼りなく見えるが、王都から派遣されるのだからエリート役人に違いない。立場的には、監察官より上のはずだし。
アスールが肩をすくめる。
「罰の話など、あとにしよう。それより早く騒動を収めなければ」
ジョルジュも頷き、遠方に見える監察府の建物を見やった。随分立派な建物――クレールの監視官の財の象徴のようだ。
「ベイル監察官は、傭兵として多数のハンターを雇っています。その数は不明ですが、少なくとも十組以上。魔術を扱える者は四組ほど確認しました。さらに、監察府に味方する民衆たちも呼応して、我々に攻撃を加えてきます」
「民衆が望んで……?」
チェリンが驚いたように発した呟きに、アスールが振り返る。
「ベイルは長年監察官を務め、クレールの民との間に深い絆ができている。金の横領をしていても、ハンターを雇って私兵団を組織していても、民には良い監察官なのだと思うよ」
「民衆にしてみれば、監察府に武器を向けた我々こそが悪なのでしょう」
ジョルジュもまたそう付け加える。成程、だからなおさら軍人たちは手が出せないのだ。ただ単に軍と監察府のハンターが戦闘をしていれば、ジョルジュは問答無用で鎮圧できただろう。だがそこに民衆が加わっているとなると、軍人としてはなすすべがないのだ。
腕を組んだアスールが、再びジョルジュに向き直る。
「事情は分かった。これだけ包囲されていれば、退くに退けないわけだ。……監察府の要求はなんだ?」
「賠償金と、エメネス巡視監の処分です」
「ふむ。エメネス殿は文官の中における武官派の筆頭だ。彼を挫けば、武官派の勢いも弱まると考えたのだろう」
しかし、それにしても一地方都市の監察官が、巡視監の降格を要求できるものなのだろうか? いくらなんでも越権が過ぎる。巡視監は王都から派遣される、いわば国王の勅使なのだ。それができるということは、クレールの監察官ベイルは、文官派でも高い地位にいるということか。
「監察府の高圧的な態度は、この場にアスール殿下がおられなかったからできたもの。殿下の姿を見れば、監察官もこれ以上勝手な真似はできますまい」
ジョルジュの言葉にアスールも頷く。それからアスールは、巡視監エメネスの前に歩み寄った。何か決意を固めたような表情で、静かにエメネスに告げる。
「エメネス殿。貴方のしたことに、何の間違いもない。貴方は職務に忠実であっただけだ。……その誇りを汚す私を、許してほしい」
「殿下……私はアスール殿下に忠誠を捧げた身です。殿下のなされることに異を唱えることがありましょうか。どうぞご存分に」
「すまない」
アスールはエメネスに深く頭を下げた。そして次に、口を挟むこともできずに佇むカイらに向けて、「少し出かけてくる」と告げた。おそらく監察官との交渉に出向くのだろう。
「俺も行こうか? 威嚇にはなると思うけど」
「……いや、カイ。有難いがそれは遠慮しておく。これはサレイユの問題だ、お前たちの力を借りるわけにもいかない」
だろうな、とカイは頷く。文官派の戦力は大半が化身族――対立するアスールまでが化身族を引き連れて行けば、それは問題だ。
それを見たジョルジュが微笑み、自らの胸に手を当てる。
「私がついて行きます。どうぞ皆様はこの場にお留まり下さい。一応は安全なはずです」
ジョルジュの存在はアスールが王子であると証明するに足りるものだろう。カイが行くよりよほど効果があるはずだ。
イリーネを見たジョルジュが、こうも付け加える。
「イリーネ姫様も、ここでお待ちください。アスール殿下は私が命に代えてもお守りします」
「あ、ありがとうございます……あの、怪我人の方に治療をしても?」
「そこまでしていただくわけには――と言いたいところですが、お願いしてもよろしいですか。勿論、無理のない範囲で」
「はい! 任せてください」
イリーネが大きく頷く。イリーネの治癒術を見ても、ジョルジュの部下たちは驚かない。それどころか有難がるはずだ。イリーネの治癒の力は混血種の象徴ではなく、『神姫の奇跡の力』と思ってくれる。女神教教徒の前では、イリーネの力は異端に見られない。混血を認めるわけにはいかない教会が取った、苦肉の策。それが『奇跡の力』だ。混血だからではなく、神姫だからイリーネは特別な力を持っている、それだけ女神エラディーナに近い存在なのだと、教徒は教えられたのだ。
それに、彼女はイリーネ・R・スフォルステン。アスールの腹心であるジョルジュの部下たちが、彼女を無下に扱うはずがない。
馬に乗ったアスールとジョルジュ、以下数名の騎士たちが図書館の敷地を出て駆けていく。それを見送った後、イリーネはすぐに怪我をした兵士たちに治癒術を施しはじめた。民衆を傷つけられない兵士たちは、一方的に怪我を負いながら撤退するしか手がなかった。だからこれだけ傷ついている。それを神姫がじきじきに治癒してくれるなら、怪我の功名というものだろう。みな嬉しそうだ。
またイリーネが無理をしないように見張っておかないと――とカイが腕を組んだところで、チェリンがくいっとカイの服の袖を引っ張った。
「あんたは分かってるの? アスールが何をしに行ったか」
「……まあ、大体は想像ついてる」
聞きたそうなチェリンを見て、カイは腕組みを解いた。
「今回のことは武官派、文官派のどちらにとっても不利なことだよ。巡視監が民衆相手に剣を抜いてしまったのも、監察官がお金を横領して私兵団を組織していたのも、どっちもいけないことだ」
「そうね」
「だからジョルジュって騎士の部隊が暴動を鎮圧するのも、何もせずに街から撤退するのもできないってわけだ」
「鎮圧したら批判殺到だろうし、退けば負けを認めることになる。どちらにせよアスールの立場は悪くなるってことね」
「うん」
アスールならば、今すぐベイル監察官を司法の場に突き出すことができるだろう。それは監察官も避けたいはず。だがそれでは、巡視監や護衛団の罪は何ら問われないことになる。それではいけないのだ。クレールの民はベイルを信頼している。どんなに悪い男でも、民には優しい監察官なのだ。クレールの街は、ベイルがいなければ立ち行かなくなるかもしれない。
だからアスールが選んだ手段はひとつしかない。
「和解の取引だよ」
「和解?」
「妥協、譲歩と言ってもいい。今回の巡視で見つかった監察府の不正は、見なかったことにする。代わりに監察府は武器を収め、民衆を落ち着かせ、巡視監の撤退に手出しをしない。そして双方ともに、この騒動は他言無用、ってことだ」
それを告げたとき、チェリンの表情がこわばった。なかったことにする、揉み消す――そんなことが許されていいはずがない。それはカイだってそう思うし、アスールだって本当はこんな手は使いたくないのだろう。
「そうか……だからアスールは、巡視監にあんなことを」
チェリンが呟く。『貴方は間違っていない』、『誇りを汚すことを許してほしい』、アスールはそうエメネスに言った。不正を見逃すことは、巡視監にあってはいけないことだ――けれど、アスールはそれを強要する。エメネスもそれを承知で、頷いたのだ。
「アスールは権力者だ。優しいだけの王子じゃない。きっと俺たちの知らないところでたくさん嘘をついてきたし、手も汚してきたんだよ」
「……」
「――でも、本当にアスールが冷徹だったらね。監察官と巡視監、両方の首を刎ねて終わりだったんだと思うよ」
ぎょっとしてチェリンがカイを見上げる。騒動の責任を双方に負わせる、それが正しいやり方だ。そうしなければならない場面もたくさんある。今回もそうだったのかもしれない。
「今回アスールが取った打開策は、甘々なんだろう。責任は誰かが負わなくちゃいけないし、それを揉み消すのは一番悪いことだって、アスールは分かってる」
「責任、あいつが負うつもりなんだ。全部、ひとりで」
カイは頷いた。アスールは昔からそうしてきたに違いない。そのたびにひとりで苦しんできたのだ。
「――だから、放っておけないヒトがアスールの周りに集まるんだよ。こんな風にね」
見つめた先に、大勢のヒトがいる。巡視監エメネス、護衛団長ノヴェール、ジョルジュの部下たち。サレイユにはたくさん、こんなヒトがいるのだろう。冷徹になりきれない優しい王子様を慕う人々が。
自ら放浪王子と名を堕とすことで、その信頼を消し、派閥争いそのものをなくそうとしていたようだが――多分、もうそれも無理だ。アスールを慕う心は一切消えなかったようだし、アスールの名誉を傷つけられてこんな騒動を起こすまでになってしまったのだ。
きっともう、アスールは逃げられない。気ままな放浪者は、引退だろう。
「……あんたは、本当に良く分かってるのね」
「え?」
急にそんなことを言われて、カイは驚いて振り返る。チェリンはそっぽを向いて俯いていた。
「政治の話とか、あたしさっぱり分からないし。アスールやイリーネがどんな立場なのかも、正直あんまり分かってない」
「それは……チェリーはまだまだ若いんだし、アスールたちとの付き合いもそんなに長くないから……」
「それでもよ。何も分かってやれないし、何もしてあげられないのは、仲間としてどうなのかって――」
言ってから恥ずかしくなったのか、チェリンはかあっと赤面している。ああ、そうか、彼女も悩んでいるんだ。契約しておきながらアスールに対して何もできない自分に。打開策ひとつすら考え付けない自分に――。
「……チェリーってさ、ほんと時々しおらしいよね」
「はあ!? か、からかわないでよ、あたしは……!」
「いいんだよ、チェリーはチェリーのままで」
「へっ?」
ころころ表情が変わるのがおかしくて、カイはくすりと笑う。そして視線を、慌ただしく働いているイリーネへと戻す。
「前にイーヴァンでも言ったでしょ。君がいてくれて助かってる。学ぼうと思ってくれるのは嬉しいけど、チェリーにしか任せられないことがいっぱいあるから」
「う……」
「何もできないことはないよ。ここまでだって、俺たちみんなで笑ったり悩んだりしてきたじゃない」
顔を真っ赤にしたまま『よくそんなこと真顔で言えるわね』と呟いたチェリンだったが、軽く彼女は自分の頬を叩いた。そしてしっかり顔をあげる。
「なんか卑屈っぽかったわね! ごめん」
「いえいえ」
――何もできないのは、カイだって同じだ。イリーネたちの剣となり盾となることはできても、政治上の手伝いは一切できない。口では分かったふりをしているだけだ。化身族の立場が低いのはどうしようもない事実。カイはあれこれ考えることはできても、それを行使できる権力は持っていないのだ。
それでも、傍にいることはできるから――自分にできることをしなければ。
さしあたって今は、アスールとジョルジュが戻ってくるのを待つしかない。状況が落ちついたら、ゆっくりアスールらと話をしたいものだ。
(……いつまでも隠せるものじゃないよな)
――ここはサレイユ王国。
アスールが頑なに隠している事実も、いつばれてしまうか知れたものではない。




