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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
4章 【水と夜光の絢爛 サレイユ】
89/202

◇見せかけの安寧(5)

 ミーリャ発、シエル行き豪華客船「カプリス」号。白を基調として設計され、外装も内装も凝った意匠を施されている。乗客定員数は千五百人を超え、ラーリア湖を運行している客船では最も大きな規模だそうだ。

 船内にはおびただしい数の客室の他に、レストラン、舞踏会場、カジノ、病院、食品や雑貨、なんと衣服まで取り扱う売店など多くの施設が設置されている。船の中にいるというより、高級ホテルの中のようだ。船特有の揺れもほとんど感じないことだし、非常に快適だ。


 何より、船と言えばフローレンツのシャルム川で乗った渡し船だけだったイリーネにすれば、衝撃的な光景だったのである。


 予定通り四時四十五分に出航したカプリス号は、大きく汽笛を鳴らしてミーリャから遠ざかっていく。船のデッキにあがっていたイリーネたちは、少し強めの風を浴びながら娯楽都市に別れを告げた。

 視線を西へ向ければ、赤い太陽が沈んでいくのが見える。夏も終わって、日の入りは少しずつ早くなっていた。この季節の夕焼けは、実に綺麗だ。


「対岸のシエル港まで、およそ十五時間かかる。先を急ぐ旅行者はこの時間の船に乗って、寝ている間にラーリア湖を渡るのがテッパンだ。明日の朝にはシエルに到着するからな」

「船の中で一泊するなんて、なんだか不思議な気分」


 イリーネが微笑むと、アスールもまた同意するように頷いた。


「だがサレイユの客船はこんなものではないぞ。サレイユからリーゼロッテまで渡る船は、カプリス号よりも規模が大きいからな」

「サレイユから直接船で? すごい」

「リーゼロッテだけでなく、世界各国に直行便が出ている。ま、どこに行くにしても長い航海になるから、それだけ設備も充実しているというわけだ」

「うーむ、さすが水の国」


 隣でチェリンがそう唸っている。さらにその隣では、カイが欠伸をしていた。さすがに遊び疲れたかもしれない。


 夕食まで時間がある。またしばらく時間潰しだ。カイとアスールは気ままに時間を潰すと言っているので、イリーネとチェリンは船内で売店巡りを開始した。船の中の売店とは思えないほど充実した品ぞろえに、豊なのだなと実感する。今のところアスールが面倒に巻き込まれることもないし、見かけ上は平穏だ。逃げ場のない船の中だが、無事に対岸まで渡ることができそうだ。





 ――轟音が響いたのは、例のごとくイリーネがチェリンの着せ替え人形になっていた時のことだった。


 頭上から、鈍い振動が伝わってくる。直上は先程のデッキだ。ふたりして天井を見上げ、そして顔を見合わせる。


「なんの音?」

「誰かがその場でジャンプした……には、大きすぎる音ですよね」

「あはは、それはないわ」


 たいしたことではないだろうと買い物を再開しようとしたのだが、何やら店の外が慌ただしい。さすがに不思議に思ったチェリンが客を一人掴まえて事情を尋ねると、若いその男性は興奮したように早口でまくしたてた。


「デュエルだよ! なんでも特級クラスのケモノらしいぞ!」

「……す、すごい化身族と乗り合わせたものねぇ」

「ああ、見に行かなきゃ損だぜ!」


 チェリンが引き攣ったように微笑んで、男を解放する。カイとアスールはしばらくデッキに留まると言っていなかったか。それを思い出したイリーネは慌てて持っていた衣服を元の場所に戻す。


「チェリン、カイたちじゃ……!」

「十中八九そうよね、うん」


 ふたりは急いでデッキへ繋がる階段を駆け上がり、外に出た。既にそこには人だかりができていて、その輪を掻き分けながら最前列へ出る。輪の中心にいたのはやはりカイ、その傍にアスールだ。対面しているのは男のハンターと、トライブ・【フォックス()】である。


「俺、自分が賞金首だってことすっかり忘れてた」


 カイがぽつりと呟くと、アスールが苦く笑う。正体露見を防ぐため、目深に帽子をかぶっている。


「よくそんなことが忘れられるな。あれだけ堂々と昼寝をしていればばれるだろうよ」

「だって眠かったんだもん」


 人だかりの中にイリーネとチェリンを見つけたアスールは、目線だけこちらに向けた。何かの指示――『動くな』という意味だろう。カイの契約主がイリーネだと知れれば、この船の中でイリーネは注目に晒される。それを防ぐためだ。


「フローレンツの【氷撃】がなんだってこんなところにいるのかは知らないが、見つけたからには狩ってやる! 覚悟しろ!」


 血気盛んなハンターたちは、既に臨戦態勢だ。カイはぽりぽりと頭を掻く。


「デュエルはいつでも受けるけど、時と場所を考えたほうが良いんじゃない? ここだと他のお客さんに迷惑かけるし、下手したら船が沈むよ」

「その点は心配ない。この船はそう簡単に沈んだりせんからな」

「ちょっと、そこは止めるところでしょ。なんで嗾けるの」


 カイの口から至極真っ当な意見が出たのに、それを一蹴したのはアスールだ。アスールはころころと笑う。


「とにかく一度伸してやれ。見たところ魔術も使えぬようだし、ここで圧倒しておけば今後お前を狙おうなどという考えを他のハンターも持たなくなるだろう。快適な航海のための一仕事だ」


 思いの外好戦的なアスールの指示に、イリーネはぞくりとする。イリーネと出会う前のカイは、襲ってきたハンターは返り討ちにすることで有名だったという。だがイリーネがそれを好まないからか、はたまた面倒になったのか、カイは人命を奪うこと以前に戦いを避けがちになっている。なんというか、とても常識的な対応をするのだ。

 カイよりよほど常識的で良心的なアスールのほうが、こういう場面で実はより冷淡なのではないか――イリーネはそんな気がしてならない。


「仕方ない……」


 心底面倒臭そうに、カイは豹の姿へ化身した。美しいその姿に、見物人たちが息を呑む。


 狐は低く身構える。狐にしては巨大だが、豹に比べると小さい。アスールが言った通り魔術が使えないのなら、カイの敵ではない――。

 カイに向けて狐が飛び掛かる。喉を狙った的確な跳躍だったが、カイには届かない。ひょいと攻撃を避けたカイは、おもむろに行動に出た。


 あっ、とイリーネが声を漏らす。カイは狐の後ろ首を咥えて持ち上げてしまっていたのだ。よく母親の獣が仔どもを運ぶときにする動作なのだが、あまりに呆気ない。狐は両手足を丸めて大人しくなってしまう。本能だろうか。

 カイは首を振り、狐を遠くへ放り飛ばした。尻もちをついた狐は慌てて態勢を立て直す。――が、見物人の中でささやかながら失笑が漏れた。あまりに無様だった狐の様子がおかしかったのだろう。


 戦う気は満々だったようだが、静かな笑いに羞恥心が出たらしい。狐とその契約主は何も言わず、逃げるように退散してしまった。


「カイに挑むなど百年早かったな。湖に放り込まなかったカイの良識に感謝すべきだよ」

「百年後だと、俺おじいちゃんになってるんだけど」


 化身を解いたカイが、素っ頓狂なほど生真面目にそう答える。


 拍子抜けした見物人たちが散らばっていくのを見計らって、イリーネたちはカイとアスールと合流した。イリーネは不安げに尋ねる。


「カイ、大丈夫でした? 一度すごい音しましたけど……」

「ああ、平気。あれは俺じゃなくて……」

「寝込みを襲われて驚いたカイが咄嗟に狐を吹き飛ばして、地面に叩きつけたときの音だからな」

「それであの大振動って、どれだけの力でやったのよ」


 カイとアスールの説明に、チェリンが溜息をつく。いつも通りのその様子に、イリーネはくすくす笑った。

 さて、とカイは大きく伸びをした。


「俺は部屋で寝直そうかな」

「まだ寝るんですね……それじゃ、お夕飯のとき起こしに行きます」

「うん、よろしく」


 船内に戻っていくカイを見送ると、アスールが片手を腰に当てた。こちらもまた、先程の騒ぎも何のそのという涼しい表情だ。


「ところで、イリーネとチェリンは何をしていたのだね?」

「私たちは売店を見て回っていました」

「ふむ。やることもないし、邪魔でなければ私も行ってよいかな?」

「そうね、荷物持ちくらいにはしてあげるわ」


 チェリンが笑って踵を返す。なぜかアスールは嬉しそうに頷いていたので、ちょっと変わっているなあとイリーネは内心で思ってしまった。





★☆





 そのあとは騒動に巻き込まれることもなく、快適な航海が続いた。何やら他の客のカイを見る目がおっかなびっくりだったのだが、本人は気にした様子もない。

 乗組員たちのサービスも部屋も食事も、今までのどこよりも飛び抜けて質が良い。内心少し恐れていた船酔いとも無縁で、イリーネは大満足だ。夜はチェリンと一緒にデッキで星を眺めて、楽士の演奏を楽しむ。こんな豪華な体験をさせてもらえて、霊峰ヴェルンやギヘナ大草原を超えた疲れは吹っ飛ぶというものである。


 翌朝八時に、豪華客船カプリス号はラーリア湖北岸、シエル港に到着した。お世話になった乗組員たちに見送られて上陸する。港には船を降りたヒトや、それを出迎えるヒトで溢れかえっていた。人混みを避けるように四人は移動して、港に隣接するシエルの市街へと入る。


「さて、ようやくシエルの街だ。ここからはひたすら陸路での旅となる」

「ラシード川とオレント川は橋で渡れるの?」


 カイが街の様子に目を送りながら尋ねる。シエルはミーリャのような娯楽都市ではなく、湖のほとりに栄えたひとつの都市だった。商店街は賑わっているが、目につくのは観光客より住民が多い。


 サレイユ三大河川のうちのふたつ、ラシード川とオレント川。これらの河川はラーリア湖から、サレイユ北の海へ注いでいる。

 ところで、サレイユの北部にはふたつの半島がある。ほぼ同じような形と面積を持つ半島が寄り添うように存在することから、『双子半島』と呼ばれているそうだ。このうち東側の半島がフェレナ半島。西側の半島がカトレイア半島だ。前者にはラシード川、後者にはオレント川がそれぞれ流れている。


「王都グレイアースは、カトレイア半島の中央部に存在する。このシエルはフェレナ半島の付け根にあたるから、しばらく西へ移動することになるな」

「俺の問いの答えになってないよ」

「急くな急くな。……で、障害となるのが川だ。ラーリア湖北部からは、ふたつの大型河川以外にもいくつかの水の流れが発生していてな。ひとつひとつ橋を架けるには途方もない労力を要するのだ」

「じゃ、どうしたの?」


 アスールはふっと微笑む。


「すべての河川を跨ぐ、巨大な一本の橋を架けたのだ」


 シエルのメインストリートは割と急な上り坂に形成されていた。その賑やかな市場の大通りの端に到達すると、目の前にはシエルの街の出入り口である門が設けられている。

 門を境に、景色は一変していた。それまでイリーネが歩いてきたのは赤レンガを敷き詰めた道だったが、門の先はずっと重厚な石造りの道。歩道と車道が完全に区別された、安全で規則正しい交通が可能だ。それだけならサレイユの街道はどこもそうだったが、それが普通の街道でないことはすぐに分かる。何せ、この道からは地上が見下ろせる(・・・・・・・・)のだから。


 これは、空中に架けられた橋――。


「これが『デリア大橋』。このシエルの街から西へ数千キロ、ラシード川とオレント川を一度に跨ぐ世界最長にして最古の石橋だ」


 アスールの説明を背に受けて、イリーネは石橋の手すりから身を乗り出して下を覗いてみた。数十メートルほど下が地上になっているが、そこには畑や住宅が広がっている。先程船を降りたシエル港や、海かと見紛うほどのラーリア湖も良く見える。シエルは高低差のある街で、いつの間にか随分高い場所まで登っていたのだ。

 少し視線を先に向けると、ラーリア湖から水の流れが出ているのが見える。あれがラシード川だろうか。


 地上に向けていた目を、今度は橋の上へ戻してみる。橋がずっと向こうまで続いていて、もはや点のような小ささのヒトの姿も見ることができる。橋の終わりなど、当然イリーネの目には見ることができない。


「数千キロって――え? これ、歩いて渡るのに何日かかるのよ? っていうか、それじゃ王都を通り過ぎるんじゃないの?」


 混乱したようにチェリンが疑問を口にする。さっさと歩き出したアスールのあとを追って、イリーネたちも石橋を渡り始めた。いくら橋の幅が広いといっても、さすがに建物はない。今までのように、街道沿いに宿や飲食店があるわけではないのだ。どうやって休めばいいのだろう。


「心配するな。途中でいくつも橋は分岐していて、近くの街や街道へ降りることができる。この橋をすべて渡ってしまうと、チェリンの言う通り王都を通り過ぎてしまうからな。適当なところで地上へ降りて、進路を北へ向けるさ」

「な、なんだ、そうよね。吃驚したぁ」


 チェリンは胸をなでおろしている。橋の傍の地上にはたくさんの街があるのだ。地上を歩いて旅をすることも勿論できるだろうが、どうしても途中でいくつもの川にぶつかってしまう。天候などが悪ければ船を出すこともできない。その点、この橋は非常に便利だった。これだけ地表から高い場所に形成された橋ならば、川の増水などの影響は受けないでいつでも渡ることができる。旅人だけでなく、地元の住民にとっても貴重な移動手段だ。


 それにしても、このデリア大橋上の絶景。頭上は一面が青い空。地上を見下ろすと、そこにあるのはきらきらと水面が光るラーリア湖や大型河川、人々が生活する街。間近で見るとあれだけ大きかったそれらも、橋の上からでは小さく見えてしまうのだ。


「まるで空を歩いているみたいですね」


 イリーネが呟くと、カイがにやりと不敵な笑みを見せる。


「高所恐怖症のヒトには、地獄だろうけどね」


 意味ありげなカイの言葉に首を捻り、彼の視線の先を追ってみると――イリーネたちの前を歩いている旅行者らしき女性が、突然立ち止まってしゃがみこんでしまったではないか。同行者の男性が何かなだめているが、女性の口からは「怖い、もう無理」のふたつだけが繰り返し発せられている。橋の手すりは腰ほどの高さでしかないし、落下防止用の柵は網掛けになっていて地上が丸見えだ。普通の成人なら、立っているだけで地上の絶景が目に入ってしまう。

 確かに――このデリア大橋を渡る人々の気持ちは、密かに明暗が分かれるのかもしれなかった。

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