◆見せかけの安寧(4)
翌朝目が覚めたとき、イリーネもチェリンもまだ眠っていたが、アスールの姿だけが忽然と消えていた。随分早起きだなと思って時計を見てみると、時刻は七時を過ぎている。アスールが早起きなのではなく、カイたちが寝坊しただけだった。寝たのが遅かったせいだろう。
アスールが戻ってくるまで起きないでいようと決めて、カイは寝返りを打って再び毛布の中に潜り込む。冷たくて硬い地面で寝るのも嫌いではないが、このベッドのふかふか具合は反則だ。そんなことを思って二度寝しかけたところで、イリーネが起きた気配がした。続いて部屋の扉が開いて、アスールが戻ってきたようだ。
「おはよう、イリーネ。起きていたか」
「おはようございます。どこに行っていたんですか?」
「乗船券を買いに行っていたのだ。王都に行くにはラーリア湖を横断する必要があるからな」
小声ながらそんな会話が聞こえる。薄目を開けると、アスールが小さな紙きれをイリーネに手渡していた。それを見たイリーネが顔をあげる。
「出航は夕方なんですね」
「その時間帯しか席を取れなかったのだ。午前中はミーリャで時間を潰すしかないな」
申し訳なさそうにアスールは言っているが、嘘に決まっている。こんな上等な部屋を一言で用意させる権力を持つアスールが、夕方の船しか予約できなかったなどあり得ない。昨日の貴族の例があるのだから、船だっていくつか空きを用意しているはずなのだ。いや、専用の船を出そうと提案されることだってあるだろう。
多分、アスールがそれをすべて断り、午前中に時間を作ったのは――観光のため。娯楽都市ミーリャで遊ぶためだ。主にイリーネとチェリンのためだろうけど。
まあ、わざわざそんなことを指摘する趣味はない。もう二度寝はできそうにないなと諦めて、カイはやっと起床したのだった。
★☆
時間潰しという名目でアスールがカイたちを連れて行ったのは、ミーリャの中心部だった。
宿や飲食店で賑わっていたラーリア湖畔から少し離れると、そこは確かに『娯楽都市』だ。何やらたくさんの遊具――巨大滑り台や、プール、カルーセル、コースター、空中ブランコなど、子どもが楽しめるもので溢れていたのだ。パレードなども行われて、朝から賑やかだ。
大人向けにカジノやバーなどもあって、湖での釣りも可能。老若男女が楽しめる造りになっているらしい。これなら一日中遊べるはずだ。……疲れそうだけど。
「すごいすごい! あんな大きな仕掛け、どうやって動いているんですか!?」
イリーネがきらきらした表情で指さしたのは、木馬や馬車がくるくると回転しているカルーセルという乗り物だ。楽しいのだろうか。……楽しいのだろうな。
「あれを含め、ミーリャの遊具の殆どは水力によって動いているのだ。あの木馬も水の力で回っている」
「あっちの速い箱も?」
チェリンのいう『速い箱』はコースターだった。小舟に数人が乗って、決められたコースを進んでいる。ときおり急斜面を駆け下っていて、その楽しげな悲鳴がカイの耳にまで届いている。スリルはありそうだ。
「そうだよ。あの船は水の上に浮かんでいて、その水を一定方向に流し続けることで移動する。傾斜をつければスピードも出るのだ。ミーリャのメインアトラクションだな」
「へえ、面白そうじゃない」
なんだかんだチェリンもノリノリだ。カイとしては、時間を潰すなら宿の部屋でのんびり――というのが理想だったのだが、この様子では付き合わざるを得ない。アスールから、「諦めるのだな」みたいな一瞥をもらってしまったことだし、腹を括るしかないようだ。
カイはスリルに慣れている。不意を突かれてひやりとしたこともあるし、時々跳躍を失敗して予定外のところへ落ちてしまうこともある。敵に追われて、息を殺して隠れたこともあった。死ぬとまで思ったことはなくても、死ぬかもしれないとは思ったことが何度かある。そのために驚くことに慣れてはいるが、間違ってもその感覚は好きではなかった。
だからそんなスリルを人工物で体験したいなんて、カイにしてみれば正気の沙汰ではない。世界のあちこちで、戦いと殺しが起こっている。ハンターと賞金首、国境付近の小競り合い、強盗、略奪。大半の人間はそんなものと無縁でいたいはずなのに、ミーリャではそれを楽しんでいるのだ。それだけサレイユという国が平和で、争いがない場所だということだろう――国の安泰は、人々の心の安泰。「安全なスリル」が必要とされるのだ。
(ほんと、平和だなあ)
「わあああッ、い、いま、そこなんかいたわよ! ねえ!」
「いたなあ、ははは」
悲鳴をあげるチェリンと、笑っているアスールの声が後ろから響く。カイの隣を歩くイリーネは、言葉もないのか引き攣った表情のまま黙ってしまっていた。
メインアトラクションだというコースターには早くも行列ができていて、乗車の予約券を取ってからアスールは別のアトラクションに乗ることを勧めた。さすがアスールはミーリャを熟知している。カイたち素人では、予約券などまず考えもつかないだろう。
そういうわけで次にやってきたのは、「ゴーストハウス」とかいう名前の建物だった。薄暗い建物の中を歩き、幽霊や怪物に扮した人々がこちらを驚かせてくるというものだ。これこそ、スリルを求める平和な気風を表したものではないか。
アスールはここを体験し慣れているだろうし、カイはどこに脅かし役が隠れているかが些細な音や気配から分かってしまうのだ。それはチェリンだって同じはずなのだが、どういうわけか彼女は先に恐怖が来てしまい、すっかり感覚が鈍っているらしい。
ゴーストというくらいなのだから、ここのテーマは幽霊の類が多いようだ。特殊な化粧を施した顔はなかなかに不気味で、怖いと言うより驚く。この暗さも恐怖を煽るが、獣の目には十分明るい。
曲がり角の物陰に、誰かいる――そう思った途端、脅かし役が飛び出してきた。顔が白粉で真っ白になっている長い髪の女だった。一番近かったのはイリーネだ。
「きゃあああッ!?」
驚いたイリーネが悲鳴を上げてカイの腕に抱き着いた。無意識なんだろう、普段の彼女がそんなことをするわけがない。
これはこれで、ちょっと役得かもしれない――なんて思いつつ、震えているイリーネの頭を「よしよし」と撫でてやったのだった。
ゴーストハウスで女性陣が一気に憔悴してしまったため、少々休憩を挟んでアスールは次のアトラクションへ向かった。
「もう少し暑ければプールで泳いでも良かったのだがな。いくら温水とはいえ、姫君たちに風邪をひかれては困る。いや……しかし水着は見たいな」
「アスール、ほんとに変態だから、鼻の下伸ばすのやめてよ恥ずかしい」
アトラクションや飲食店の案内が書かれたミーリャのパンフレットで、カイはぱんっと隣を歩くアスールの顔面をはたく。何も堪えた様子のないアスールは、そのパンフレットを見て次の行き先を決めたようだ。
向かったのは屋内で行われる演劇団によるサーカスだった。なんとも肝の冷える空中ブランコに人間ピラミッド、道具を使ったアクロバティックな技の数々――すごいとは思ったが、よく見てみれば劇団員は全員化身族ではないか。身軽なあの動きは、【キャット】のようだ。
アスールがミーリャの街と親交深い理由が、なんとなく分かった気がした。ミーリャの街が娯楽都市として発展したのはここ数年のこと。多分アスールは、ミーリャに出資しているのだ。化身族が堂々と仕事に就けるように、職を斡旋する。人間にはできない動きでも、化身族にとっては生身でも容易い。それを仕事にするなど、なんと簡単な話だろう。おそらくミーリャで働くスタッフは、多くが化身族だ。
イリーネとチェリンに配慮したのか、アスールが選ぶのは穏やかなアトラクションが続いた。カルーセル、そしてラーリア湖に生息する生き物を展示する水族館を回る。昼のパレードを見ながら昼食を摂り、そしてついにメインのコースターの予約時間になった。
乗り場には長蛇の列ができていて、普通に並んだら二時間待ちだとか。正気の沙汰ではない。予約していたカイたちはそんな列を横目にすいすいと先頭まで進み、十分と掛からずにコースターに乗れるようになった。
コースターは一台四人乗り。前後にふたりずつだ。順当に行けばカイとイリーネ、アスールとチェリンというペアになるはずだったのだが、それでは面白くないとかアスールは言って、事前にくじでペア替えをしていた。
「……おかしいよ、なんでこんなことに」
「つべこべ言うでないよ」
「そんなこと言って、アスールだってペア替えしたの後悔しているくせに」
おかしなことに、カイとアスール、イリーネとチェリンというペアになってしまったのだ。がっかりである。
ゴーストハウスでは始終怖がっていた女性陣だが、こういうスリルは好きらしい。勇んで前列に乗ることを希望したため、引き立て役の男性陣は後列に座る。念のため前列のイリーネに「大丈夫?」と聞いてみたが、良い笑顔で頷いていたので大丈夫そうだ。……実は後列のほうが怖いというのを、彼女たちは知らないらしい。カイとて知らなかったが、さっきこっそりアスールに耳打ちされた。やめてほしい。
安全のためのバーが上から下りてきて、首がすっぽり固めのクッションで埋まる。少々息苦しいが仕方ないのだろう。落ちたくはないし。
コースターはレールの上を走るが、レール上には水が満ちている。さっきからかなりの勢いで水は流れ続けていて、スタッフが乗車のためにコースターを引き止めている状況だ。
四人全員の安全が確認されて、いざ出発である。ガクンと一度大きく揺れて、滑るように進み始める。薄暗い屋内を水の流れに沿って進んでいるせいか、妙に風が冷たい。
「なんか、ドキドキしますね!」
イリーネの楽しそうな声が聞こえる。アスールも微笑んだ。
「まったくだが、喋らないほうが良いぞ。舌を噛む」
やがて、緩い斜面を下る。そこで勢いをつけ、一気にコースターは上昇した。コースターの角度は直角に近い。そんな状況で停止されては、さすがにカイも恐ろしい。
視線を上げると、薄暗い屋内に一筋の光が見えている。屋外に出るらしい。ということはつまり、そこがこのコースターの頂点――。
一度水平になる。落ちるかと覚悟していただけに、一瞬期待が外れた。――そしてワンテンポ遅れて、コースターは猛然と落下を始めたのである。
落ちる感覚。慣れているはずなのに、安全バーで身体を押し付けられているせいか、妙にその感覚が強かった。身体が浮く。慌てて重心を移動させようと思っても、身体にかかる重力のために身体が動かない。逃げられないのだ。
端的に言おう。怖かった。
イリーネとチェリンは楽しそうに悲鳴をあげている。隣でアスールも愉快に笑っている。どうやら本気でびびっているのはカイだけのようだ。屋外を凄まじい速さで走っているのだが、生憎と景色を楽しむ余裕などない。今いる場所が地上何メートルの位置なのか、考えたくもない。
コースターはようやく落下を終えた。その瞬間、バシャンと大きく水が跳ねて顔にかかる。あまりの勢いでレール上の水が跳ねたのだ。……というか、これもアトラクションのうちなのだろう。
地獄はまだ続く。落下の次は回転だ。螺旋状になっているレールの上を、ぐるぐるとコースターは進んでいく。ここでも凄まじい遠心力と重力によって、脛骨が折れる勢いだ。
やっと終わって出発地点に戻ってきたとき、女性陣が生き生きと笑っている横で、カイはぐったりしていたのであった。ゴーストハウスの時とはまるで逆転してしまったではないか。
(ああ、もう……最悪……)
この情けない姿を見られるくらいなら、アスールが隣で本当に良かった。
気に入ったイリーネとチェリンが「もう一回乗りたいね」なんて話が聞こえた気がしたが、聞かなかったことにしたのだった。
★☆
ミーリャのコースターは、実はふたつある。規模も高さもそこまでではないが、コースターはコースター。最初に乗ったものより行列も短く、それほど待たずに乗れるため、イリーネとチェリンはこちらにも乗っていた。本当に気に入ったらしい。
カイとアスールは地上で留守番だ。女性同士で楽しんでくると良い、などとアスールは言っていたけれど、「どうして女性はああいうものが好きかな」とぽつりと呟いたところを見るに、どうもアスールもカイと五十歩百歩だったらしい。意外な弱点だ。
美味しいお菓子を食べて休憩しながら、カイはつと時計を見やる。時刻は午後三時十分前。よくまあこんな時間まで飽きずに遊んでいられたものだ。
「乗船開始時間、四時だったよね。どうする? 何をするにも微妙な時間だけど」
ミーリャ港から、対岸のシエル港まで向かう船は、四時四十五分の出港だ。大型客船だそうだから、手続きに時間がかかるかもしれない。早めの行動が必要だろう。
「そうだな、では最後にとっておきの場所へ行こう」
「とっておきの場所?」
イリーネが首を傾げる。アスールは微笑んで頷いた。
「私が好きな場所だ」
そうしてやってきたのはラーリア湖畔だった。ミーリャの中心部からも、港や宿からも離れている。ちょっとした公園のようになっていて、喧騒に疲れた人々が休憩できるような静かな場所だ。
アスールは公園を突っ切って、更に湖へと近づく。階段を下って湖面へ降りると、そこには何艘ものボートが浮かべられていた。手漕ぎボートの貸し出し所のようだ。
「ま、絶好の恋人スポットだな。私は湖から見るミーリャの街並みが好きなのだ」
「乗るの?」
カイが問うと、アスールは呆れたように溜息をついた。
「ここまで来て乗らないのか?」
「いや、俺は良いから三人で――」
乗ってくればいい、と言いかけた途端、ずいとアスールとチェリンが詰め寄ってきた。巧みにイリーネから距離を取り、彼女に聞かせないようにしている。さながら私刑のようで迫力が怖い。
「協調性のない奴め。お前とイリーネが共に乗るのは至極当然のことだろう」
「そうよ。このチャンスを逃すなんて、あんた男としてどうかしているわよ!」
「シチュエーションは最高だ。ふたりの仲がぐんと縮まるのは間違いなし」
「ここはびしっと、あんたがイリーネをエスコートして」
「え、なに、ふたりともグルなの?」
妙に息の合ったふたりに、ついついカイはたじろいでしまう。ふたりはカイとイリーネをくっつけるための同志らしい。くっつくとか、チャンスとか――そんなこと、カイは考えたこともないのに。
「どうかしました?」
不思議そうにイリーネが首を傾げて声をかけてくる。ぱっとアスールは鬼気迫った表情を捨て、笑顔で振り返る。
「いや、なんでもない。よし、ボートを二艘貸し出してもらおう」
問答無用で、カイはイリーネと共にラーリア湖へ放り出されたのであった。
慣れているアスールは、すいすいとオールを操って沖へ出ていく。カイは無論のこと初体験で、見様見真似で四苦八苦だ。
「案外難しいなあ、これ」
「でも、ちゃんと進んでます!」
イリーネはまずそこから感動しているので、カイは苦笑して頷く。とりあえず、早くオールの使い方を習得しなければ。転覆など洒落にならない。それこそアスールとチェリンに私刑に処せられる。
数分もすればすっかりカイも慣れ、方向転換も難なく行えるようになった。そこでようやく辺りの景色を見る余裕が生まれる。右手側に、午後の太陽に照らされるミーリャの宿泊街が見えた。そのさらに奥には、先程カイが撃沈したコースターのレール。何かショーをやっているのか、微かに楽器の音が聞こえる。クレイザが聞かせてくれたような竪琴ではなくて、陽気な吹奏楽だ。
「――カイ、疲れてないですか?」
「え?」
唐突に声をかけられて、カイは街並みから視線をイリーネに戻す。この季節の西日は、どうしてこう厳しいのだろう。イリーネの顔が逆光で良く見えない。
「ずっとあちこち引っ張り回しちゃったから。カイ、出歩くのそんなに好きじゃないでしょう?」
「ああ――そんなことないよ、俺も楽しかったし」
「本当に? 無理していませんか?」
「うん、本当に」
なんだか逆に気遣われてしまった。アスールとチェリンに聞かれたら大目玉だ。
「イリーネは楽しかった?」
「はい。みんなと一緒に、乗り物に乗ったり美味しいものを食べたり……なんだかちょっと、はしゃぎすぎたかも」
カーシェルの行方も分からず、アスールの立場も危ういこの状況で――不謹慎だったと、イリーネは考えているのだろうか。そうだろうな。この子はそういう子だ。
「そのくらいで丁度いいんだよ。ミーリャは娯楽都市で、遊ぶための場所なんだから」
カイは軽くオールを漕ぐ。あまり力を入れ過ぎず、浅く漕ぐのがコツのような気がする。
「色々考えなきゃいけないこともあって、不安なことも多いと思うんだけどさ。楽しむときは、目いっぱい楽しんだほうがいいんだよ。せっかく旅してるんだから……楽しみなこと、たくさんあったほうがいいじゃない?」
「――はい。私、今日とっても楽しかったです」
イリーネがにっこりと笑う。明るい笑顔だ。それを見て、カイもふっと微笑む。イリーネが笑ってくれると、カイも嬉しい。それだけ楽しんでくれているのだと、カイも思えるのだ。――今日は、アスールの功績だけれど。
「大丈夫。これから先、楽しいことはいっぱいあるよ」
その時、自分もイリーネと同じ場所に立っていられますように。
そんなことを思うのも、アスールの言う『最高のシチュエーション』の影響なのかもしれなかった。




