◇見せかけの安寧(2)
「それじゃ、また会おうぜ」
「道中気を付けてくださいね」
翌朝、テビィのイリヤ大橋の袂で、ニキータとクレイザと別れた。彼らはこのまま少しテビィに留まり、イリヤ川東岸の街を回ってみるという。フローレンツの国境も近いため、あちらからの情報も少しは入るかもしれない。いずれはイリーネたちと同じように王都グレイアースを目指すというから、そのうち再会できるだろう。
昨日は渡らなかったイリヤ大橋を歩く。石造りの重厚な橋で、幅は馬車が二台すれ違っても余裕があるほど広い。車線もしっかり整備されて、ありがちな馬車とヒトの事故も起きなさそうだ。対岸まで、やや盛り上がったアーチ状の石橋が続く。空も川も澄んだ青色で、気持ちが良い。秋の空だ。
「さて。次に我々が目指すのはミーリャの街だ」
また四人での旅が始まるのだ。随分と久々な気がしてしまう。歩きながらアスールが言うと、そんなアスールに、怪訝な目を送ったのはカイだ。
「……ていうか、その帽子はなんなの?」
「ん?」
季節はもう秋で、気候も穏やかなサレイユに到着した。イーヴァンで買いそろえた服では寒くなってきたので、昨日チェリンたちが全員分の新しい服を買い直してきてくれたのだ。サレイユは寒すぎず暑すぎず快適な気候だ。明るく開放的な国風だが、貴族的な文化も多いことから、服装は一貫して華やかである。イリーネたちは旅装ゆえにそこまでではないが、装飾は多く、色も鮮やかだ。充分派手なのだが、これでもリーゼロッテの貴族たちほど重たい服装ではないらしい。そう言われてみれば、イリーネが最初に着ていたのは動きにくいことこの上ない青いドレスだ。あれに比べればサレイユの服は軽くて動きやすい。
カイが指摘したのは、アスールがかぶっている帽子だ。確かフローレンツで買ったという黒のロングコートに合わせたように、鍔の広い黒の帽子を目深にかぶっていたのだ。綺麗な青い髪も殆ど見えなくて、黒一色の出で立ちはなんとも怪しい。
ちなみに、イリーネも同じような白い帽子をかぶっている。これは単にお洒落なのだとチェリンは言っていた。言われてみれば、サレイユの女性は帽子をかぶっていることが多いようだ。
アスールがふっと笑って鍔を持ち上げる。
「日よけ帽だ」
「絶対うそ」
「おっと、秋の紫外線を甘く見てはいけないぞ。日焼けは夏だけだと思ったら大間違いだ」
「顔が帽子でほとんど見えないから、ニキータより妙な雰囲気あるんだけど」
「そうだろう、どんな格好でも高貴なオーラは隠せないものなのだ」
「……クレイザとニキータがいなくなって、すっかり調子戻ったね」
カイが呆れて溜息をつく。そこでイリーネは首を捻る。イリーネが身につけているスカートは、リーゼロッテのドレスや、フローレンツのロングスカートより短い。ここに開放的な国風が表れているような気がする。行楽地の多いサレイユという楽園で、そう堅苦しい格好はしたくないものだ。
「……もしかして、身分を隠すためですか?」
黒のロングコートの内側には、キョウにもらったケル族の長剣が隠されている。鍔の広い帽子は、顔を隠すためのものではなかろうか。それを指摘すると、アスールはあっさり頷いた。
「あまり騒がれても困るからな。王都に着くまでは、極力正体がばれるのは避けたいのだ」
「それじゃ、私の帽子も……?」
「そういう意味もないわけではないが、何よりそのほうが可愛らしいからな。サレイユのご令嬢といった雰囲気で、実によく似合っているよ」
可愛らしいとはっきり言葉にされて、イリーネは耳まで赤くなる。チェリンが横で自慢げに胸を張る。彼女のほうはスカートなど性に合わないらしく、タイトなパンツを身につけている。
「そうでしょ、可愛いでしょ。絶対似合うと思ったのよ」
「チェリンのセンスが良いからですよ」
「何言ってんの、素材が良いからよ。あんたは何着ても似合うの」
ここに来るまで、チェリンはよくイリーネの髪の毛をいじってみたり、服装をコーディネイトしてみたりして楽しんでいたのだ。さながら着せ替え人形のようだった。日によって髪型も衣装もがらりと変わるから、男性陣には驚かれたものである。ちなみに今日は、帽子をかぶるので長い髪はそのままおろしている。
そこでカイが銀髪を掻き回した。
「イリーネが何着ても似合うのは当然だけど、ミーリャまで結構遠いの?」
さりげなく放たれた爆弾発言を聞いて、今度こそイリーネは真っ赤になって沈黙する。今のは世辞か。世辞なのだろうか。
アスールはしれっとして話を元に戻した。
「今から出発すれば夜には着けるだろう。サレイユは街が多いし、今までに比べれば歩きやすいはずだ」
「ミーリャって、あれよね。ラーリア湖畔の街でしょ?」
「おや、よくご存じで」
「ラーリア湖周辺の街はどこも一大観光地じゃない。ニムで聞いたわ」
チェリンの言葉にアスールは頷く。
「ミーリャから船に乗るのだ。ラーリア湖を横断して、王都のあるカトレイア半島に入る」
「よし。それじゃ行こう」
カイはさっさと歩き出す。イーヴァン入国後から悩まされていた暑さが和らいだおかげで、カイは機嫌がいいようだ。
大陸北西部、水の夜光の国サレイユ。話に聞いていただけの場所を実際にこれから見ることができる。イリーネも張り切って、カイのあとを追いかけた。
テビィの街の外には田畑が広がっていた。良質な水を持つサレイユでは、稲作ができるのだという。郊外にこのような風景が広がっているのはイーヴァンも同じだったからそこまで驚かなかったが、ぽつぽつと街道沿いに家屋や商店があるのは驚いた。フローレンツは治安のため、イーヴァンは狭い土地のため、一つのところに集まって暮らしていた。だがサレイユではそうではない。あくまでも「街」はその地域の拠点であって、住宅はどこにでもある。そしてそれらも戸籍のもと、政府にきちんと管理されているのだ。相当に治安が良く、安全なのだろう。少し感動だ。夜になれば家屋の灯りもあるし、成程『夜光の国』だ。
「案外、この国の歴史は古くてな。女神エラディーナの時代、大陸の覇権はア・ルーナ帝国とレイグラン同盟の二大国が争っていたが、当時北方には小国がいくつか存在した。そのうちのひとつがサレイユだ。神国は帝国時代の歴史をも自国のものとしているが、『リーゼロッテ』という国家が誕生したのはここ千年ほどの間のできごと。サレイユは三千年以上の歴史を持つ。歴史の古さではフローレンツに匹敵するのだ」
アスールがこうして行く場所の歴史や特徴を教えてくれるのは、もはや恒例のものとなってきた。しかも今回、解説するのは故郷だ。詳しくて当然である。
「それにしちゃ、サレイユはぱっとしないよね。フローレンツは軍国家として、少し前まで大陸でも強豪国だったっていうのに」
カイがずばりと指摘する。『少し前』などと言っているが、フローレンツが軍国家だったのは二百年ほど前のことだ。一時はギヘナのあたりまで勢力を伸ばしていたという。
「確かにぱっとしない。サレイユは昔から、大陸の北西部でちぢこまっているような国だった。一時期は国とすら呼べないような国土になったこともあったが、運が良かったのだろう――どの国からも侵略の対象とならず、サレイユ王家は細々と命を繋いできたのだ」
「価値がなかったってこと? こんなに水源があって、それはないわよね」
チェリンの疑問にアスールは微笑む。出来の良い生徒を見る顔だ。
「そう、水源は重要だ。今の時代でも、大陸の淡水の多くはサレイユに集中している。……ゆえに、サレイユ人は水の扱いに長けていた。ついでに知識人も多かった。造船技術、水上用兵、どれをとってもサレイユは他国を圧倒できたのだ。敵はまず、ラーリア湖を横断できなかっただろう。迂回したところで、そこかしこに川があるしな」
豊かな水を手に入れたくとも、その水が邪魔をするのだ。当時のリーゼロッテやフローレンツにすれば、もどかしかっただろう。
「そういうわけで、サレイユは『取引』をしたのだ。水を売る代わりに、サレイユを攻めないでください、と」
「それはまた……商魂逞しいというかなんというか」
今ではあちこちに水路が張り巡らされているから、水が手に入らないなどということはそうない。それを売り買いしていたとは、つくづく驚かされる。水源を奪おうと戦って痛い目を見るより、素直に最初から水を買うという選択をした他の国も賢明だったのだろう。
だが、サレイユが商魂逞しいのは分かる気がする。この国は世界有数の観光地。観光業で経済を回しているのは、その象徴かもしれない。
「サレイユが生き残れた理由はもうひとつある。大陸の情勢を見て、常に強い国に味方したのだ。これは今もまさにそうだがね」
「リーゼロッテとの同盟?」
イリーネの問いにアスールが頷く。
「フローレンツは軍国家として崩壊した。残る脅威はリーゼロッテとケクラコクマ……どちらにつくかは難しい判断だっただろう」
「で、サレイユはリーゼロッテを選んだんですよね。それはどうして? 隣国同士で同盟を組んだほうが、より強いものになったんじゃ……」
「うむ、それは私も思う。だがイリーネ、こう考えてみてくれ。これは『挟撃』なのだ」
挟撃。大陸北西のサレイユと南東のリーゼロッテが、南西のケクラコクマを北と東から挟む。ケクラコクマのもうひとつの国境はギヘナだ。確かに逃げ場はない。
「といっても、本当に挟撃して攻め込むつもりはサレイユにはない。リーゼロッテとケクラコクマの間では紛争が相次いでいるが、水面下ではどうあれ、ここ数年は国交も至って正常だからな。ただ、リーゼロッテとの間にひとつ国を挟んでいる『位置』が重要なのだ」
「牽制、だね」
カイがぽつりと呟く。牽制――どこに対して?
「その通り。リーゼロッテとケクラコクマ、両国への牽制だ」
今の状況で、もしケクラコクマがリーゼロッテに侵攻したら?
――同盟に従い、サレイユはケクラコクマの背後を突けばいい。
もしケクラコクマがサレイユに侵攻したら?
――同盟に従い、リーゼロッテが救援に来るだろう。
もしリーゼロッテがサレイユに侵攻するという野心を持っていたら?
――ケクラコクマやギヘナを通過しなければならないため、手は出しにくい。
もしサレイユがケクラコクマと同盟を結んでいたら?
――リーゼロッテはケクラコクマを滅ぼした後、正面からサレイユを潰しに来るだろう。
「リーゼロッテとケクラコクマは、歴史的な背景から永遠に敵国同士だ。元ア・ルーナと元レイグランだからな……彼らの争いに巻き込まれないために、サレイユはこういう立場を取ったのさ」
三、という数字は実に万能だ。リーゼロッテとケクラコクマ、サレイユは見事な均衡を保っている。ひとつでも欠ければ、あっという間に崩れるだろう。それでもこの均衡を、何十年も守ってきたのだ。ケクラコクマは挟撃の危険性から迂闊な行動は取れず、リーゼロッテも孤立状態。むしろイーヴァンとケクラコクマに、リーゼロッテこそ挟撃されているようなものだ。その反面、サレイユは安泰なのだ。
どこも信用せず、そのくせどこかの味方につかないと生き残れない。軍の力が弱くて小国だったサレイユがここまで存続してきたのは、その外交手腕――とも呼べないような処世術のおかげだったのだろう。
さすが頭が良いというか、ずる賢いというか――。
「ずる賢いわね」
イリーネがあえて口に出さなかった感想をあっさり口に出したのはチェリンだ。アスールが笑う。
「ははは。まったくだな」
「で、でも、良かったと思います!」
案外大きな声が出てしまって、三人の視線がイリーネに集中する。イリーネは帽子の鍔を両手で持って顔を隠す。
「サレイユがそういう立場を取ったから、アスールと私は出会えて、いまこうやって一緒にいてくれるんじゃないですか」
その言葉に一瞬虚を突かれたような顔をしたアスールは、ふっと目元を和らげた。
「ああ、その通りだな。リーゼロッテへ留学することがなければ、イリーネやカーシェルと親しくなることはなかっただろう」
「もし君たちが出会わなくて、俺のこと庇ってくれなかったら、俺もとっくに狩られて神国軍入りしてるよ」
カイもまたそう告げる。チェリンも短い黒髪を掻いた。
「あ、あたしだってあんたたちと出会ってなかったら、まだニムでくすぶってたわよ」
「過去がどうあれ、色々な偶然が重なって共にいられるのだ。そのことには感謝すべきだろうな」
アスールがそう結論付けたところで、カイが空を見上げる。アスールがしっかり時計を持っているのに、彼の時刻確認は相変わらず太陽の位置確認だ。
「綺麗にまとまったことだし、そろそろお昼にしない? お腹空いた」
「あんた、目の前に食堂があるの知っててそれ言ってるでしょ」
「まあ丁度いい、少し休むとしよう。イリーネもそれでいいか?」
「あ、はい」
街道のど真ん中で食堂に入れるなど、初めてだ。少々贅沢な気もするが、それがサレイユなのだ。
前方にある食堂からは、炊事の煙が窓から細くたなびいている。旅人で賑わっているようだ。そこへ向かって歩きながら、ふとイリーネは思う。
三カ国の均衡――牽制のし合いでそれは保たれてきたが、今後はどうなるのだろう。リーゼロッテをいま支配しているのは、イリーネの実の兄であるはずのメイナード王子だ。イーヴァンに刺客を送り込んで、ファルシェを殺そうとまでする人間なのだ。国同士の微妙な力関係など、無視してしまうのではないだろうか――。
だが、アスールが言ったように、リーゼロッテとサレイユの間にはケクラコクマがある。リーゼロッテが計画を実行してこなかったのは、ケクラコクマを攻略する術を持たなかったからに他ならない。ならば今すぐ行動を起こすこともないだろう――それまでに、イリーネたちはカーシェルを探し出さなければならないのだ。




