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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
4章 【水と夜光の絢爛 サレイユ】
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◇見せかけの安寧(1)

 容赦なく照りつけていた日の光が、どことなく穏やかなものになっている。熱を孕んでいた空気から、まとわりつくような圧迫感も消えていた。涼しくて快適に感じるのは、夏が終わりかけているからというだけではないだろう。


 草を踏みしめる音だったそれが、いつの間にか土の上を歩く音になっている。更には、ブーツの踵が固い大地の上でコツコツと鳴りはじめる。草はヒトひとりが通れる程度に掻き分けられ、そこに石畳の道ができていたのだ。

 前方の草の中に、古びた柵が建てられていた。それを見てアスールが振り返る。


「ここがサレイユとギヘナの国境帯。あの柵の向こうがついにサレイユだ」

「冴えない国境だね」


 カイが断言する。確かに草原の中にぽつんと国を隔てる柵があるだけ。フローレンツとイーヴァンの国境など見事な関所があったものだから、あれと比べてしまえば少々寂しい。草原の獣たちが周辺の街を襲わないための防御柵かもしれないが、これではそう期待できそうにもない。古びているし、何より低すぎるのだ。


「本当のことを言うと、どこからがギヘナでどこからがサレイユなのか、明確に決められていないのだ。『なんとなく、このへん』というわけさ。地元の住民もここらには近付かないしな」

「い、いいのかなあ、そんなので……」


 イリーネが苦笑いを浮かべる目の前で、ひょいとアスールは柵を跨ぎ越した。一行はなんともあっさり、国境を越えたのである。


「さあ、もう少し川沿いに進もう。テビィの街はすぐそこだ」





 サレイユ三大河川のひとつ、イリヤ川。支流のひとつがラーリア湖に流れ込むが、本流はそのまま北の海へと注いでいる。その本流の東西にまたがって栄える街が、目指すテビィだった。

 道は次第にしっかり整備されたものになり、すぐ横にあった川も堤防のおかげで随分と距離が離れた。そんな穏やかな川を、数人乗りのボートが下っていく。アスールの言う通り、その光景は移動というより娯楽のようだった。ボートに座って、お茶をしていたのだ。楽しそうな昼下がりの姿だ。街の南の上流地点から、街までボートで下る、そういう催しらしい。わざわざ街から徒歩で上流まで来て、ボートで街へ戻る気が知れない、とカイは肩をすくめていた。


 ゆっくりなボートだったが、それでも徒歩より速い。少し先で、ボートが桟橋に接岸したのが見える。その周辺には多くの建物。あの集落がテビィの街だ。

 サレイユの街はイーヴァンと同じで、フローレンツのような城壁を持たない。民家や商店が集合している場所を『街』と呼んでいる。しかしサレイユでは戸籍というものが厳密に作成されているそうで、街を統治する役人は住民をきっちり把握しているのだという。これがイーヴァンと違うところだろうか。


「わあ、久しぶりの街です!」


 イリーネは思わず感動してしまう。何せ霊峰ヴェルンの麓にあったトンガという集落以来の人里だ。子どもからお年寄りまで、たくさんの人々で街はごったがえしている。

 テビィの北側は監察府と呼ばれる行政地区だった。監察府自体はどの街にもあるそうだが、テビィには大きな軍詰所も備わっている。というのも、ギヘナから近いこの街は、時折北の草原から来る獣に襲われることがあるというのだ。それを撃退し街を守るため、国の軍隊が派遣されてここに駐留している。さらに過去には、対フローレンツのための軍事拠点となった街でもある――もう二百年も前の話だ。


 ともかく、川下りを体験するために北へ向かう者はいても、北から街へ徒歩で来る者はそういない。言うなれば街の裏側に到着してしまったわけである。仕方がないので大きく迂回して、街の東側から観光客に紛れて入ることになった。


 随分と愛想のよい衛士に歓迎されて足を踏み入れたのは、賑やかな商店街だ。特に飲食店が多い。いまはまさに昼時だから、どこの店も客の呼び込みに必死だ。


「これがテビィのメインストリートだ。今いるここは、東部市場。見ての通り、飲食店が多い。橋を渡って対岸には西部市場。あちらは雑貨や衣服を売る店が多いな。ま、東部市場のほうがより観光客向けだ」


 早速アスールの解説が披露される。テビィはイリヤ川の東岸と西岸に分離され、いくつかの橋でつながれている。東岸には行政区や狩人協会の支部もあり、宿なども多いことから、観光客の集まる場所だ。西岸には住宅地が多く、地元住民の住む区域となっているそうだ。とはいえ地元住民しか知らない、テビィの楽しみというものもある。通な旅人は、それを探して居住区へ行くという。

 観光名所と呼べる場所はないけれど、それでもヒトでにぎわうのは美しいイリヤ川の恩恵だ。水が特に綺麗なことで有名で、それもギヘナの大自然を流れてきたということを考えれば納得がいく。その水や魚を使った料理が絶品なのだ。早くも、サレイユが水の都と呼ばれるゆえんを目の当たりにした気分だ。


 ともかく、街には到着し、時刻は昼時で、周りには美味しそうな匂いで客を呼び込む飲食店がたくさんある。そうなればやることはひとつ、「腹ごしらえ」だ。

 どの店も行列ができるほど混んでいたのだが、やはりアスールは自国の街に詳しかった。それほど混んでいない、しかし味の評判が良い、いわゆる『穴場』の店をたくさん知っていたのだ。おかげで空腹に悩むことなく、あっさりと食事の席に着くことができた。


 アスールは名物だという魚料理を注文してくれたが、カイは久方ぶりにサラダパスタと巡り合っていたため、魚そっちのけで好物を楽しんでいた。相変わらずちゅるちゅるとパスタをすすっているカイを見て、イリーネは苦笑する。


「カイ、本当にサラダパスタ好きですね」

「うん、肉も入ってないしね」


 旅の仲間の食生活管理を一任されているチェリンは、嘆かわしげに溜息をついた。


「あんたはなんで肉が嫌いなのよ。食べられないわけじゃないんでしょ?」

「そうだね、食べたくないだけだよ」

「どうして?」

「チェリー、フィリードの里での肉ってなんだったっけ」


 唐突に問い返され、チェリンは瞬きをした。それからおもむろに答える。


「ニムにいる野生の獣を狩ってたわね」

「草一本すら生えないオスヴィンにいた俺は、何をタンパク源にしていたと思う?」


 重ねて問われ、イリーネも考え込む。聞いたところ、イリーネと出会う前にカイが街で過ごしていたということはなかったと思える。街に行くことは彼にとって自殺行為だったし、食事をするお金を稼ぐ手段もなかったはずなのだ――自分を殺しに来るハンターたちから奪う以外は。

 殺しに来たハンターたちを、返り討ちにして――。


「お前、まさかとは思うが」

「嘘だよ。冗談だよ、真に受けないでよ」


 一番嫌な想像をしたらしいニキータが眉をひそめるが、カイが慌てて首を振った。


「本当のことを言うと、ニムにいたころは肉中心の食事ばっかりだったんだ。だから反動で嫌になった、それだけ」

「お前の冗談は冗談に聞こえないんだよ」


 ニキータは溜息交じりにそう呟く。いったいニキータが何の想像をしたのかは知らないが――まあ、考えないでおこう。良い話ではないのは間違いなさそうだ。


 久々に満腹になるまで食事をして、イリーネは大満足である。やはり旅の楽しさといえば、見知らぬ土地や見知らぬ人々と出会うことができることと、その土地特有の美味しい料理を食べられることだ。イリーネは食通ではないにしろ、美味しいものを食べられるのは嬉しい。日々の運動量は文句なしなので、太る心配もあまりない。ファルシェからもらった金銭のおかげで、ある程度の贅沢をしても余裕があるのもまた幸せだ。

 会計を終えて外に出たところで、ニキータが腕を空に突き上げて大きく伸びをする。


「そんで、これからどうするよ?」


 その問いを受けたカイが軽く首を傾げる。


「とりあえず王都グレイアースに行ってみるかな」

「そうじゃねぇよ。俺が聞いているのは、今日このあとどうするんだってことだ」


 なんだか似たようなやりとりをイーヴァン出発の時に聞いた気がするが、とにかくイリーネは思案をめぐらせる。時刻は午後を一時間ほど過ぎている。何をするにも時間は充分だ。


「まず食料とかの調達でしょうか」

「そうだな。だがやっとサレイユに入れたのだ、そう急ぐこともあるまい。今日はこれ以上進まず、ここで宿を取ってゆっくり休まないか?」


 アスールの提案に誰もが頷いた。テントを張って寝るのも嫌いではないが、やはりふかふかのベッドが恋しい。見張りの必要ない、のびのびと夜眠れる空間は素晴らしいものなのだと、心底思う。

 ニキータは一度クレイザを見てから一同を見渡した。


「よし分かった。それじゃ俺とクレイザは、明日お前らが出発するときに別れるとするわ」

「……え!?」


 何が『それじゃ』だったのかイリーネにはさっぱり分からない。突如として告げられた別れに、イリーネもチェリンもカイもぽかんとしてしまう。アスールだけは先刻承知だったのか、平然としていた。


「きゅ、急にどうして?」

「元々俺たちが一緒に行動していたのは、ヴェルンやギヘナを個別に踏破するのが危険だってことだったからな。サレイユに入れば、そう危険な目には遭わんだろう。大人数でぞろぞろ移動する理由もない」


 もしかして、共に旅するのが苦痛だったのだろうか――そう思ってしまうほど淡泊なニキータの言い方にイリーネは不安を覚えたが、クレイザが焦ったようにニキータを押しのける。


「ちょっとニキータ、誤解させちゃってるよ。イリーネさん、違うんです。『二手に別れよう』ってことなんですよ」

「二手に?」

「はい。ニキータはヘルカイヤの【目】と呼ばれた凄腕諜報員です。僕たちはファルシェと違う場所から、リーゼロッテの内情を探りたいと思っています」


 地を歩く者とは別の、空からの目線で。諜報でも戦闘でも驚異的な実力を持つニキータならば、並みの者が近付けない場所まで近付くことができる。何か起きても、大抵のことは対処できるのだ。

 ファルシェが王権を使ってリーゼロッテに忍び込むなら、ニキータは何者にも縛られない自由の身で忍び込む。責任は、ニキータとクレイザのみが負う。これもまたひとつの諜報活動だ。


「要するに、『付かず離れず』だ。お前らがどこにいようと、こっちはすぐに駆けつけられる。それに空の者同士、アーヴィンとエルケと連絡を取り合うには丁度いい。だからお前らは、サレイユ王家に接触してみろ」


 ニキータがふっと笑う。緋色の隻眼は楽しそうに輝いている。自信に満ち溢れた表情だった。


「自国の王子と、同盟国の姫だ。サレイユ王室は穏健すぎることで有名だし、邪険には扱わんだろう。俺やアーヴィンが持ってくる情報を元に、お前らはカーシェル奪還の策を練れ。それを実行に移す時は、また俺も共に行こう」


 目的は同じ、しばしの別行動だ。クレイザたちはとても身軽だし、情報収集に関してはエキスパートだ。イリーネたちと行動を共にするより、効率がいいのは確かなことである。

 カイは納得したように頷き、ニキータを見た。


「分かった。そっちは任せる」

「おう。んじゃ、さしあたって買い物だな。最後だし、荷物持ちは手伝うぜ」

「そんなの当然だよ」


 しれっとカイは断言して、踵を返す。目指す先はテビィの街の西岸にある市場だ。大通りの西側に目を向けると、イリヤ川に架かる石橋が見える。イリヤ大橋というらしい。


「イリーネとアスールは、どこか適当に宿の部屋を取っておいてくれる?」


 不意にチェリンが振り返り、そう頼んできた。数日分の食料を買い込むが、男三人もいれば荷物は充分持つことができる。チェリンたちが帰ってきたときすぐ休めるように宿を取るのは建設的だ。イリーネはそう思って素直に頷いた。

 橋を渡っていく仲間たちの後ろ姿を見送っていると、アスールが苦笑した。


「まったく……チェリンに気を遣わせてしまったな」

「え?」

「いや、なんでもない。それより宿探しと行こうか。六人で泊まれる宿があればいいんだが」


 踵を返したアスールのあとを追いかけて、イリーネは肩を並べて歩く。東部市場周辺には宿が多いから、探せば部屋も空いているはずだ。

 チェリンが何を気遣ってくれたのか聞きたいところだが、差し当たっていまそれより気になることが――。


「アスール、いつからチェリンと名前で呼び合っていたんですか?」

「……随分前からだが……気付いていなかったか?」

「だって、ふたりともお互いのこと呼んだことなかったじゃないですか。いつも『ねえ』とか『ちょっと』とか、そんな感じで」


 ただでさえ夫婦っぽかったのに、呼び方のせいでより熟年夫婦に見えてしまったのだ。本当に、イリーネはアスールとチェリンが名前で呼び合っているのを初めて聞いたのである。というより、あれほど頑なだったチェリンの対応が軟化したのが驚きだ。


「ははは。まあいいじゃないか、そういうのは」

「あっ、はぐらかすんですね。ということは何かあったんですね!」

「……女性はこの手の話が本当に好きなのだなあ」

「いいじゃないですか、教えてください」


 困ったように微笑むアスールの目線がなんだか優しい。はしゃぐ妹を見守っているような雰囲気だ。それに気づくとイリーネも恥ずかしくなって、尻すぼみに声は小さくなってしまう。

 多分――多分だけれど、記憶を失う前のイリーネとアスールの距離感は、こんな感じだったのではないだろうか。遠慮なく物が言えるような、そんな関係。


「たいしたことではないさ。ただ、公衆の面前で『変態紳士』と呼ばれるのは、さすがにお互い恥ずかしくなってきたからな」


 アスールはそう説明しながら、「この宿は良さそうだ」と建物を見上げている。


 恥ずかしくなってきた(・・・・・)ということは、前は恥ずかしくなかったのか。それもそれで妙な話だと思いながら、空き室を確認に宿の中へ入るアスールのあとを、小走りに追いかけるのだった。

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