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氷撃のカイ・フィリード  作者: 狼花
3章 【躍動する生命 ギヘナ】
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◇遊牧の民(5)

 賑やかな宴会は、案外早い時間に終了した。光源が確保しにくいうえに貴重なので、あまり夜遅くまで起きているわけにはいかないらしい。なんとも健全な時間にイリーネたちは眠りについた。チェリンと二人だけで広々とゲルを使えたので、非常に寝心地も良い。逆に男性陣は窮屈だったようで、カイがげっそりした顔で朝起きてきたのを見て、なんとなく事情を察したものだ。とはいえカイのその様子は、昨晩散々肉を食べさせられた影響もあるのかもしれない。


「おはよう。よく眠れたか?」


 朝食を摂っていたところへ、キョウがやってきた。服装は、昨日と同じように長衣を帯で締め、頭は布で巻いている。その帯に小さく花の刺繍があるのは、僅かばかりの彼女のお洒落だろうか。

 イリーネは持っていた茶碗を置いて微笑んだ。


「はい、おかげさまで」

「良かった。……そうだ、アスール殿。食事中にすまないのだが」

「うん?」


 アスールの目の前に、一振りの剣が差し出された。目を丸くしたアスールは、視線を剣からそれを持つキョウへ向ける。


「この剣は?」

「アスール殿の剣は、昨日の戦いで曲がってしまっただろう。なんの銘もない剣ではあるが、頑丈なことは保証できる。どうかお納めいただきたい」

「いや、しかし……」


 一度は断ろうとしたアスールだが、途中で口をつぐむ。それから目を閉じ、スプーンを置いて両手で剣を受け取ったのだ。

 曲がった剣では、いかにアスールとて戦いはきつい。遠慮している場合ではないと考えたのだろう。


「有難く受け取らせてもらおう」


 頷いたキョウは、それから視線をカイのほうへ向ける。食欲がないのがあまり食事が進んでいないカイへ、懐から取り出した何かをキョウは渡した。


「カイ殿、これが先程頼まれたものだ」

「ああ、ありがと」


 それは白い粉末だった。受け取ったカイに、イリーネが首を傾げる。


「なんですか、それ?」

「胃薬」

「え?」


 さらさらと粉薬を口に入れて、水で飲み下す。キョウはくすくすと笑っていた。どうやら朝食の前にキョウと会って、カイはそんなことを頼んでいたようだ。嘆かわしげにニキータが溜息をつく。


「なんて貧弱な胃袋だよ」

「繊細なの。ニキータみたいな鋼鉄の胃袋じゃないの」

「ふふ、すまない。昨日は料理も奮発してしまったからな。でもカイ殿も残さず食べてくれて、嬉しかったよ」


 胃薬を頼むなんて図々しいことはできるくせに、食事を残すことはできなかったのか。草原の遊牧民が飲む薬は強烈だったらしく、カイの顔は渋かった。





 朝食を終えて、イリーネたちはケル族のキャンプを出発した。ここからは、目の前にあるテール丘陵を越えていく。緩やかな斜面は歩くのに苦ではなく、また高低差も少ない。そういうことで、見送りがてらキョウとセンリが道案内をしてくれることになった。ふたりは馬を連れている。それを見るとイリーネは昨日失ってしまったキョウの馬を思い出してしまうのだが、キョウはその死をもう乗り越えているようだ。


 歩き出して数十分で、一行はテール丘陵の頂上に立った。草原の中では数少ない高所から、眼下を見下ろす。一面が草だ――当たり前だけれど。

 キョウが遠くに見える一点を指差した。そこには太い河川がある。


「あれがイリヤ川だ」


 ギナの谷の底を流れていたという川が、ついに地上に現れたのだ。近くに行ったら、かなりの規模だろう。イリヤ川は蛇行しながら、延々と続いている。


「イリヤ川沿いに進めばサレイユに着きます。道案内はこのあたりで大丈夫でしょう」


 センリの言葉でイリーネは振り返り、頭を下げた。


「ここまでありがとうございました、センリさん、キョウさん」

「いえ。皆さんにお会いできて、俺たちも嬉しかったです」


 微笑んだセンリだったが、ふとそこで表情を真剣なものにした。その視線はアスールだ。


「ところで……これは俺の勘に過ぎないのですが、アスールさんはサレイユの貴人でいらっしゃるのではありませんか」


 唐突に問いかけられたアスールは、焦りもせずににっこりと微笑む。貴人どころか王族なのだが、それは告げない。


「それに近いものではある。それが何か?」

「ここ数年、周辺諸国が頻繁に調査隊をギヘナに派遣してきています」


 アスールは頷く。未開のこの大地を攻略したいと思っているのは、どの国も同じなのだ。センリも何度かそういった連中と遭遇したことがあるのだろう。


「地図を作ろうとしている調査隊もあれば、強い化身族を狩ろうとする調査隊もある。中には、先住民である我々に接触する調査隊もありました。……彼らは我々に、従属と立ち退きを要求してきます」

「……」

「国の思惑もあるのでしょう。位置的にギヘナが重要だということも、俺は理解しているつもりです。ですが我々にも言い分はある。ギヘナは我らの故郷で、同胞の魂が眠る場所――離れるわけにはいきません。少なくとも俺は、ギヘナに骨を埋めるつもりでいます」


 キョウもまた、沈黙して兄を見つめている。


「話し合いには応じます。協力も、出来る限りしたい。けれど我々は、どこかの勢力に従属することはできません。ギヘナの生態系を崩すような行いを見過ごすこともできません。それだけ、お伝えしておきたかったのです」


 それを伝えるということは――そのような調査隊が存在したということだ。

 文明の発達した大国は、未開の地に住む先住民を下に扱ってしまう。誇りある草原の民はそれを受け入れられない。――難しい立場にいるのだろう。


 センリの話が終わったのを見計らって、アスールが顔をあげる。そしてゆっくり頷いた。


「お言葉、しかと受け止めた。今後サレイユが、ケル族の生活を脅かすことはないと誓おう」


 それをこの場で口にできるアスールの正体を、なんとなくセンリは察したのかもしれない。深々と頭を下げる。キョウも兄に倣っていた。

 荷物を肩に担ぎ直したニキータが、気を取り直したように明るい口調で別れを告げた。


「そろそろ行こうや。センリ、キョウ、世話になったな」

「はい。みなさんの旅の無事を祈っています」

「そっちこそ、キャンプに戻るまでにまた襲われるんじゃねぇぞ」


 心当たりが多すぎるキョウが苦笑し、それからイリーネとチェリンに向き直る。


「イリーネ殿、チェリン殿。その……いつか、何か力になれることがあったら、遠慮なく教えてほしい。いや、草原に来る用事などもうないとは思うのだが……もし、何かあったら」


 もごもごしている様子に、イリーネもチェリンも微笑む。チェリンがぽんぽんとキョウの肩を叩いた。


「ギヘナにはあんたがいるじゃない。あんたに会いに行くっていう、立派な用事があるわ」

「……また、会えるだろうか?」

「はい、きっと」


 イリーネの答えを聞いて嬉しそうにキョウははにかむ。すっかり仲良くなった女性陣を見て、アスールが感慨深げに腕を組む。


「やはり、女性の笑顔は華やかなものだな」

「アスールがそういうこと言うの久しぶりだね。軽薄女好きの仮面はとっくに取っ払ったと思っていたけど」

「ふふ、カイ、それは誤解というものだ。私は元々女性が好きだぞ」


 返す言葉がなくて、カイは呆れたように沈黙してしまう。


 別れを惜しんでいるとキリがないので、イリーネたちは丘陵を下り始めた。チェリンも言っていた通り、ギヘナにはキョウとセンリがいるのだ。会おうと思えば、会いに来られる。その時には、もっとたくさんのことをイリーネは経験しているだろう。またチェリンと三人で、尽きない話に花を咲かせたいものだ。

 途中で後ろを振り返る。丘陵の頂上地点から、キョウとセンリが見送ってくれている。キョウは大きくこちらに手を振ると、軽やかに馬に乗った。そのままセンリとともに、丘陵の向こう側へと馬を走らせていったのだった。





★☆





 左手に広大なイリヤ川を見ながら、草原を進む。道しるべができただけ、ずっと歩きやすく感じる。


 世界最大の河川は、南のリーゼロッテ神国とケクラコクマ王国の国境になっている、ヴェスタリーテ河というらしい。これは同じくギヘナ大草原にある湖を源泉としており、比較的ギヘナでも神国寄りにある場所だから、明確に河川の長さが測れたのだ。しかしもしかしたら、最長の河川はこのイリヤ川かもしれない。何せギヘナ東部から草原を横断し、サレイユの北の海へ注ぎ込んでいるのだ。何でも一番がいいというのは国同士の間ではよくあることらしく、これを知ればサレイユの高官たちはギヘナ攻略と地形の把握に躍起になるだろう、とアスールは肩をすくめていた。


「どこかでイリヤ川を渡る必要があるんじゃないですか?」


 クレイザが不意にそう口を開いた。イリーネたちの目的は、神国が手を出しにくいであろうサレイユ国内に入ることだ。このままいけば目的は達成されるだろうが、それにしても目的地は必要となる。とりあえずアスール先導のもと、王都グレイアースを目指すことで同意してはいるが、グレイアースはイリヤ川の遥か西にある。いまは川の東岸を歩いているため、確かにどこかで渡る必要があった。

 歩いて渡れるほど浅くもないし、川幅は広い。船や橋が必要だ。


「このまま行くと、中流域にテビィという街がある。そこから渡れるよ」


 アスールがそう説明する。この先の地理の心配は、まったくしなくて良さそうだ。


「サレイユには大型河川が多いんですよね。船旅になるんでしょうか?」


 サレイユの三大河川、というものがある。ひとつはサレイユ東部にある、このイリヤ川。残り二つはラーリア湖から流れる、中央のラシード川、西部のオレント川だ。国の中央部にはラーリア湖もあることだし、とことん水が多い国なのだ。

 そう思ってのイリーネの発言だったのだが、意外にもアスールは首を振った。


「船より橋が多いのだ。橋があれば馬車や徒歩で通れるからな。ラーリア湖を渡るときには船を使うが、他はもっぱら娯楽だ」

「サレイユの交通整備は大陸中でも群を抜いている。地方のどんな小さな街へも街道が伸びているしな。今までに比べりゃ、平地続きで歩きやすい国だぜ」


 サレイユは、いわゆる『先進国』だった。リーゼロッテ神国という大国と同盟を結んだことで得た安定と、豊富な水の恩恵で得た経済の活性化。これによってサレイユ王国は高い生活水準を誇る国になった。フローレンツやイーヴァンの奥地に存在したような、貧しい暮らしの人々はいない。その日の食事に困るような生活は、サレイユにはないのだ。温和なサレイユ王家と、その王家から監察官に任じられた役人たちが、サレイユ全土の安全を保障している。


「そうは言っても、テビィの街まではまだまだ川を下っていかねばならぬ。しばらくはひたすら北上あるのみだ」


 アスールの言葉は尤もだ。あとどのくらいで国境を越えてサレイユに入るのか分からないが、そろそろ人里が恋しい。サレイユまで、もうひと踏ん張りだ。

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